さてさて「オマケ編」(笑)。 銘菓「真田の太鼓」は買った事だし、松代にはこれまで何度も来てるから、いきなり宿泊してみてもコレと言って予定はナイ(^^ゞ。 ただ前回も言った通り、宿泊を決めたら出来たての「松代城」をゆっくり見学できる事になったので、あとは宿でチェックインして夕飯を食べに出掛け、また宿に戻ってゆっくり温泉に入って寝た(^^)。 というわけで、今回は泊まった「国民宿舎・松代荘」の翌朝から始まり始まり〜(^O^)。 <国民宿舎・松代荘> (↑この「松代荘」については……これかな。2002年「1月のたわごと」「2月のたわごと」「3月のたわごと」) 朝〜♪ 朝食前にやっぱ温泉(^。^)。 そういやこれまで、これも言葉でしか話した事が無かったが(^^ゞ、ここの温泉は以下の通りちょっと変わってる。
お湯は、出て来る時は透明なんだが、空気に触れて成分の鉄が酸化して赤くなる。この湯がかかる辺り一面、堆積された成分によって、どこも表面がギザギザしてるから、床に手やヒザをついたり、うっかり転んだり、不用意に体をかすったりすると、程度によっては怪我をする(笑)。 今は夜10時を過ぎると入れないが、改装前は24時間(掃除時間以外は)温泉に入れ、しかも真夜中とかは真っ暗だったので、戸を開けて入って来た途端、そぉ〜っと忍び足で確かめながら入浴したものだ(笑)。 その当時、開いている窓から、遠くの川のせせらぎだろうか……ゴォ〜ッという音が始終響き、真っ暗な中で湯に入っていると、ふと隣に傷だらけの武者がいるような錯角を催したものだ(^_^;)。ちょっと怖いんだが、いかにも「川中島に来た!」という雰囲気も濃厚だった。 湯については……味が「塩辛く、鉄っぽい(^_^;)」。塩分はかなり強い。 殺菌効果だろうか、元から切り傷など怪我をしてると、入って出て部屋に戻るまでに怪我が治っている、なんて事がよくあった。
この「松代荘」のすぐ後ろに控えているので、豪雨の時とか「山崩れしないかな」などとよく冗談で言う(笑)。 ついでに、ちょっとこの「松代荘」も紹介(^^ゞ。
風呂をあがって食堂に行くと、朝食はバイキングだった(#^.^#)。 この前日の上田でも、なかなか贅沢な朝食だったが、この朝はさらに欲張り、 「和食も洋食も食べるの〜(^O^)」 と、パンもご飯も、納豆も惣菜もサラダもお肉も、オレンジジュースもコーヒーも味噌汁もお茶も、モリモリと取り漁る(爆)。 さてさて、そろそろ出発せねばならぬ、とロビーに再びやって来る。
皆さん、ここが「松代荘」でおじゃるよっ♪(パノラマ2枚)
<松代巡り1(長明寺・梅田屋・松代駅・松代城)> さてさて、そろそろ出発〜。……その前に、ちょっと松代について(^^ゞ。 松代。ここを1日で見て廻るというのは無謀である(笑)。 まともにレポートしようと思ったら、この上州〜信州4回シリーズの全部かその倍ぐらいの量が必要な町だと私は思う。 しかし便利なのは、行くと松代駅や各宿舎などに松代マップが置いてあるので、まずはそれを貰って見て廻る順など検討できる。 で、その松代マップというのがコレ↓。
これらに取り囲まれた盆地が松代である。 以後、今回行った所だけ太字表示。 本来この松代のメインは、今回行った「松代城」「八幡原古戦場」の他には、「真田宝物館(博物館)」「真田邸」「文武学校」の3点セット(共通券で全て見られる)と、あとは代々真田家菩提寺「長国寺」あたりだと思う。 さらに川中島合戦関連なら、主に地図のピンクで埋めた上側にある「諸角豊後守の墓」「典厩寺(信玄弟の墓)」「山本勘助の墓」「山本勘助戦死の地」、左に「妻女山(謙信本陣跡)」、さらに左端に「原大隈の墓」、右下に飛んで「明徳寺(高坂弾正の墓)」がそれぞれ点在。 真田氏の城下町だっただけあって、真田氏関連の史跡も多いが、これは街なか或いは街に近い所にひしめいている。 北から、「大峰寺(真田初代・信之の墓)」「梅翁院(信之側室の祀った魚欄観音)」「大英寺(信之正室・小松殿霊屋)」「大林寺(信之生母・昌幸正室・山手殿の墓)」「林正寺(2代信政霊屋)」「恵明寺(3代幸道夫人の墓)」「西楽寺(信之3男・信重の霊屋)」「開善寺(真田家祈願所)」「白鳥神社(真田家の祖先を祀る)」など。 また他に、矢沢家、白井家、横田家などの武家屋敷跡も多くある。 佐久間象山に関わる史跡も重要で、どれも街なかにあり、「日本電信発祥の地」「蓮乗寺(墓)」「聚遠楼跡(蟄居跡)」「象山記念館」「象山神社」。 その他にも寺社の類はすごく多く、私が行った事ある所だけでも「万法寺」「荒神社」「長明寺」「西念寺」「真勝寺」「浄福寺」「祝神社」「願行寺」「離山神社」「竜泉寺(出浦氏の墓が発見されたと、前回の旅の後で報告を受けたお寺)」「風雲庵」「竹山稲荷」「乾徳寺」「法泉寺」「中村神社」「清水寺」「虫歌観音堂」「熊野出速雄神社(皆神山)」「清滝観音」「玉依比売神社」など。 ズラズラと並べたが、実はこれでも全部ではない(爆)。 その証拠とでも言おうか……日頃は実に静寂とした田舎町なのだが、大晦日の夜はそれが一変する。 日付が元旦に変わる頃、真っ暗闇の中をアチコチから、「ガンゴン」「カランカラン」「ゴォ〜ンゴォ〜ン」と鐘の音が聞こえて来る(笑)。 それぞれ鐘の音が違うし聞こえて来る方角も違う。 要するに、物凄く寺社の多い町なので、一つ一つあげてたらキリがない(^^;)。。 今回はこうした目玉になる史跡の細々した点より、ざっと松代の周囲の風景をお届けする。 というわけで、まずは「松代荘」→「長明寺」→「梅田屋」→「松代駅」→「松代城」。 街なかに出るには、ちょっと北(写真の道の方向)に出て左折していく。途中「長明寺」を通り過ぎる。
「長明寺」に見られる二段構えの屋根。この地域でよく見られるちょっと変わったスタイル(^^ゞ。これを見ると「松代に来たな〜」と感じる。
<松代城> 行く道々に「エコールド松代」の旗が靡き、町は何となく賑わっていた。 象山屋さんのメールにも触れられてたが、松代荘の風呂の中やフロントで、温泉に入りに来られた地元の方にも「お城にはもう行った?」とニコニコと声をかけられ、この城の完成を町じゅうが喜んでる様子が如実に伝わって来た。 完成した「松代城」正面
復元作業が開始されたのは1995年。そして来てから知ったのだが、ナント完成したのが2005年7月。この旅行が8月だから、ホントについ今しがた出来たばかり、というタイミングで訪れたわけだ。前回来た2000年も久々に来たわけだが、その前は確か1996年に来たと思う。そのとき既に発掘作業がされてた覚えがある。 また、この96年は松代で知り会った方が、親切にもおウチに招いて下さり、ご家族の方もこの復元作業に携わっておられて、「松代城の写真を手を尽くして探している」と言っておられた。 出来うる限り忠実な再現を目指して、地道な作業が進められた様子がうかがえた。 これが復元の松代城全図
案内板を読むと、元からある石垣を修復したり、追加など再現した様子が伺える。また地下の調査が丹念にされたようだ。
ここは本丸跡に位置し、この橋の架かる門を「太鼓門」と言い、時を告げる太鼓を備えていた。本丸の一番大きな門で城の正面・南側。 門の形式は「枡形」と言って、二層の櫓門と枡形門の2つの門によって本丸を厳重に守る構成。門は残っていた絵図面から、板葺で切妻屋根を復元している。 一方、橋は掘を調査して掛け直しが4回以上行われた事が確認され、災害の度に破損したという当時の史料の裏付けが取れた。
5枚パノラマ(ほぼ180度)なので、かなり魚眼的だが……
左から、先ほど松代荘で見た「尼飾山」は既に隠れてしまったが、その右横に続く「奇妙山」の峰がまず見える。続いてその右手前に「皆神山」、さらにその右にノロシ山の先鋒「白鳥神社」、中央に来て、橋の前方かなり手前に見える黒い影が「離山神社」、その奥にあるのが「象山」(いま象山の“鼻先”がこちらに向いている)。さらに右は「妻女山」に続く峰。 「象山の鼻先」と書いたが、この山はその名に相応しく(?:笑)、象が腹ばいに寝そべって、その鼻をペタと長々地につけてる様子に似ているので、そう書いた。ここからは正面すぎて、その様子が写せてないが(^^ゞ。 この象山(竹山と呼ばれていた)は背が高く、松代城を上から見下ろせる位置にあるので、江戸時代は象山に人が入るのを禁じられていたそうだ。
するとここが本丸跡・東側(パノラマ5枚・180度)。左に北不明門、右(南)に太鼓門。
内部の樹林は復元前の公園の面影を残している。周りを囲む石垣は前からあったが、今は復元に手が入っている。 今度は逆・西側(パノラマ5枚・180度)。左(南)に太鼓門、右に北不明門。
この「戌亥櫓跡」に登ってみる。
一方、逆がわ北の方(→)を見てみると……。 ニ方向から写したので変な写真だが(笑)、これが城の北東方面。二の丸。 二の丸には右に写る「北不明門」を超えて出る。出るとご覧の通り、だだっ広い敷地に井戸がポツンとあるのみ。 さらに遠景は左から右へ、金井山・松代ロイヤルホテル・寺尾山・尼飾山。 「金井山」は、麓から通りを隔てた所に真田信之の墓がある「大峰寺」が近く、また徒歩で行き来できる距離に「山本勘助の墓」もあるので、何度か行ったついでに金井山にも登った事がある(^^ゞ。観音様があった覚えがある。が、「金井氏の城」だった事しかわからなかった。 「松代ロイヤルホテル」は、長野オリンピックの前に出来た。松代では珍しく背の高い建物。 「寺尾山」は麓に六地蔵があり、途中の「愛宕社」まで階段で上がっていける。社には天狗面がかけられ、お堂が建っている。この階段を登る途中からの松代の眺めはなかなか絶景(^^)。 また社を超えた先の頂上には、「寺尾城跡」と目される「寺尾殿の墓」の石碑が建っている。前回「荒砥城」の項で触れた通り、この寺尾城の「寺尾氏」は武田に寝返った勢力。真田幸隆はこの寺尾氏の救援に駆けつけている。 一方、その隣の「尼飾山」城にいた「東条氏」は最後まで武田に靡かず、越後の謙信を頼ってこの地を出て行った。
その前後5回にわたる川中島合戦の経過から見ると、第三次合戦の1557年と、有名な第四次の激突にいたる1561年の間の時期となる。 海津城の前身として大英寺(松代の町なか)あたりに清野氏の館があったとも言われ、また高坂弾正がいた頃は「弾正曲輪」「香坂城」と呼ばれ、1557年謙信がそこを焼き払った跡が大英寺の土塁に確認される。 その後、海津城は本格的に着工となり、築いたのは山本勘助とも言われるが詳細は不明。が、三日月掘や馬出しなど、ここが後に甲州流と言われる築城の手本となった。 武田氏は北信濃は言うに及ばず、ここを拠点に越後への攻撃まで出来る態勢となり、元はこれが越後の上杉謙信にも脅威を与えた城であった。 北を千曲川、東・南・西の三方は、これまでに見た通り天然の要害山に囲まれているこの地域では、それまでは尼飾山が北の出口の押さえであったが、この海津城が出来てからは、こここそ甲越両軍の攻防の地と決した。 1561年、もっとも有名な第四次の激戦は、まさにこの海津城を撃つために謙信自ら出馬。信玄がこれを迎え撃つべく行われた。 謙信は海津城を悠然と見過ごして千曲川を渡り、妻女山に入った。信玄も到着してこの海津城に入り、その後両軍八幡原で激突する。 城将・高坂弾正についてはコチラを(^^ゞ。 20年近く海津城を守った弾正が1578年に没すると、春日信達が二代目の城将となる。 武田滅亡後(1582)は森長可が2ヶ月のみ在城。が、信長の急死(同年)により、芋川氏らの一揆に振り回され、京に逃げ帰らざるを得ず手放す。 よって再び春日信達(上杉方)がおさめたが、北条氏への内通のカドで上杉景勝に殺される。 景勝は村上義清の子、国清(景国)に任せた。が、これも1584年に、国清の副将屋代秀正が家康に内通して出奔したため罷免。 景勝の一族・上条宜春が入ったが、これも秀吉と通じて出奔。 1585年から入った須田満親は、1598年までと比較的長く、がこれも上杉氏とともに会津に行った後になぜか自殺。 その後、田丸直政、森忠政が入る。 忠政は2ヶ月だけいた森長可の弟で、「兄の長可は自分が来るのを待っていただろう」として「海津城」を「待つ城」と名乗り変えた。 その後に入った松平忠輝が松平の「松」に字を変え、「松城」へ。 土塁であった当初の作りは、1600年頃には石垣となり、東条・柴・皆神の石を使用。東条からは竹やぶの竹を取り、そりで運搬された。東寺尾と松代の間には、この時に動かなくなった石が今でも残るという。 また城下町は東条から移ったとも言われる。 その後も、松平忠昌、酒井忠勝と城主は変わり、1622年に真田信之が入り、1711〜1716年に「松代」となる。 以後、廃藩まで真田家の城下町として栄えた。 天守閣は無く、この「戌亥櫓」(北西)に二層の櫓があった。本丸の南に二の丸、三の丸、三の丸の西に「花の丸」があり、松代城は水害が続いたために、6代幸弘が1767年に造営して移り住んだ。(花の丸御殿) 明治になり1872年に廃城。城郭は取り壊され、1873年に花街の人に買い取られた花の丸御殿全焼(貸座敷となるのを恥辱に思った藩士の放火とも言われる)。石垣は一部を除いた本丸だけを真田家が買い取り、1904年に公園となって、ようやく今日(2004年)の復元を迎えるに至った。
二の丸(北側)から写した松代城・本丸。(右上「戌亥櫓跡」・右下「井戸」↓) この、かなりの影の濃さでおわかりの通り、この日はすんごく暑かったぁ〜( ̄∇ ̄;)。。 城内を廻りながら、「ど〜お(#^.^#)?」と感想を求めた所、亭主の答は「メチャクチャ真面目に復元した感じ!」と驚嘆の声であった(笑)。 こたつの感想は……正直、最初にここを復元すると聞いた時、「あ〜〜〜そういうのやらない方が良かったりするんだよね〜(^_^;)」と少し思ったんだが、見てみて一言。 「恐れ入りました〜!」(爆)。 復元とはかくあるべし!……の見本を見た思いである。m(__)m <松代巡り2(象山神社・竹山稲荷・恵明寺・法泉寺・乾徳寺・中村神社・西楽寺・開善寺・白鳥神社)> 松代城は午前中には見終わってしまったので、後はドライブ♪
だんだん象山が近付いて来る。見えて来るのは象の頭の部分(笑)。
今もあるかな。「知恵袋」というお守りがオリジナルだった(#^.^#)。 大晦日の賑わいは大層なもので、地元の高校生が「まずは象山」と言ってここに集結するものだ、とウンチクを言ってた覚えがある(笑)。 ちなみに地元の人は地名・人名ともに「ぞうざん」と呼ぶ。「しょうざん」と言う人はあまり居ない(^^ゞ。
4代藩主、真田信弘が松代城内に奉祀。1723年に現在地にうつる。 ちょっと信之の後の真田藩についても書くね(^^ゞ。 真田氏は嫡男が沼田を分家するならわしで、信之(1566〜1658)もはじめは沼田城主であった。信之の嫡男信吉も分家して沼田を相続していた。が、信吉が死去したため、1639年に次男信政(1597〜1658)が沼田藩主を相続した。 一方松代藩主となった信之は1656年に隠居(1658年に死去)。信政は沼田藩を信吉の次男に譲り、松代2代藩主となった。 信之自身は長寿で知られる(笑)。が、晩年まで彼は忙しかった。この後3代が決まるまでの過程で、継承に関してスッタモンダしたようで、信之の裁定が物を言ったとも聞く。まぁ、最後の最後まで……(^_^;)。。 しかし概ね信之の生存中は、松代にせよ沼田にせよ、それなり羽振が良かった感じがする。 それが、初代と2代が殆ど同時に死去すると形勢が変わってくる。 3代は信政の六男、幸道(1657〜1727)が二歳で就任。幕府の外様イジメや城下の大火などで苦労の時期で、1681年に沼田の真田信澄が幕府に咎められて追放され、事実上、真田家から沼田が召し上げられるのもこの時期。 4代は信政の長男信就の六男、信弘(1670〜1736)。藩の財政を立て直せず藩主10年で死去。でも一時期やや盛り返しはしたのか、この「竹山稲荷」のように、信弘による再建や建立という寺社をよく見る気がする。 5代は信弘の次男信安(1714〜1752)、千曲川河敷つけかえ工事、財政悪化に加え、天災・百姓一揆(田村騒動)など起こり、次々と難題や窮乏が真田藩を襲ったため、藩主の霊廟も初代の後は徐々にみすぼらしくなった、とよく聞く(^_^;)。 そして6代、幸弘(1740〜1815)が中興の祖として名が高い。窮乏の松代を救うべく、恩田木工民親を家老職&勝手掛として抜擢。 「日暮硯」に恩田木工の、奇跡と感動の税制建て直し物語が綴られる事となる。 この幸弘&恩田木工のコンビが出なければ、真田も大坂に入城し活躍した「真田幸村」の名しか残らなかったかも(^_^;)。。
ちなみにアンズの花は松代の見所の一つで、春、桜の時期にポンポンと風に揺れるカワイイ花が咲き揃う。こことは反対側の奇妙山の斜面に花畑が続く。 あとアンズジャムが美味しい。お土産にお薦め(#^.^#)。
「法泉寺」はつつじの名所として知られる。遠目から写したが、近付くと大層立派なお寺。起源は古く1564年、清野之安が開祖。
ここは筝曲八橋流、人間国宝の「真田志ん」の菩提寺でもある。 八橋流とは、「二代目小野お通」が真田家に伝えたと言われ、ここから、小野お通という伝説上の人物が解き明かされるキッカケにもなった。 真田家の末裔、真田淑子さんが、継承された関連資料から「小野お通」を書いている。 「中村神社」の方は、天児屋根命が祭神。1568年、西条裕直による社殿再建の棟札が残る。 さらに南下する。左側からはず〜っと「神田川」のせせらぎが聞こえる(#^.^#)。
この辺り、昔は自動車が無かったので、エンエン歩いたものだ(^^ゞ。 この時は真夏だったので変哲も無い風景だが、この辺りは寒暖の差がハッキリしてるので、紅葉の頃に訪れると息を飲むほど美しい。 やがて曲がりくねる道に入る。道の先にまた「六文銭」の……あれは交番?(笑)
途中に通った民家。夏なのでそう華々しい花も少ない時期だが、なんとも涼やかな朝顔(昼顔かな(^^ゞ?)に覆われていて見事だった。↓
東の方角に進む途中に、まず「開善寺」、そして「白鳥神社」と道なりに出会う。
「開善寺」は真田氏が遠祖とする滋野親王が海野の海善寺として創建したと伝えられるが、1624年に松代に来た真田信之が真っ先にここに移した寺。経蔵が残り、近くに山があって、そこに登ると経蔵堂があった。 「白鳥神社」も真田家の祖先と伝わる貞元・貞保親王に加え、初代信之が合祀されている。 この時は登らなかったが、この鳥居を越えると、わりとイキナリ急な坂(^_^;)。途中日が強く当たる箇所だけ真っ赤な紅葉になる秋もあり、周囲の緑とのバランスが絶妙で、ここも美しい山。 で、登った上に神社があり、神馬を祀った神厩があって、神馬は立川流二代和四郎富昌の傑作だそうだ。 「真田」において、真田は元は牧を経営してたフシがあると書いたが、神馬は或いはそれに由来するのだろうか。 <松代巡り3(明徳寺・皆神山・丸新・豆州庵)> 今度は松代の南側を廻り、一度街なかに戻って昼食を取るルート。
松代には「信濃33番札所」が三箇所あり、東の「清滝」がJ番、南(ノロシ山)の「虫歌」がF番、西の「風雲庵」がC番。 どれも見るからに風情たっぷりのお寺で山肌にある。 また「象山神社」で少し触れたが、大晦日の寺社参りコース。我々にとって欠かせない寺社に「玉依比売神社」がある(^^ゞ。他にも二年参りで思い出深い寺社は、街なかの「祝神社」「梅翁院」「西念寺」などがある。 おでんを煮込んで振る舞ったり、お神酒やキャンディーなど配ったり、籤引きをやってるお寺もある。 また単に地元の人が上がりこんで酒を酌み交わしてるだけ、という所もあって、このお正月を祝う雰囲気が実に良い。私みたいな観光客にも気軽に酒をついで下さったり、皆さんとても気さく(^^)。 もっとも私は、、なぜかここで観光客に見られないことも多い(爆)。 「このバスは〇〇病院を通りますかねぇ?」 「あらあら、消防車だねぇ。どこかしら。おたくの方は大丈夫?」 「おや、いつ帰って来たんだね。おウチにはもう顔見せたの?」 「ああ、旦那さんも一緒かい。たまには帰って来ないとねぇ」 道端とかお店で会った人に、こういう事をよく言われる(汗)。。 さて、これは前回の最後に触れたから繰り返さないが、白鳥神社から東の方にやってくると、「明徳寺」に至る前に「七面縁日」の看板がまた見られた。
そして「明徳寺」にやってくる。
他に「酒呑弥勒尊」「蝦蟇合戦」ともあり、どっちも一風変わった面白そうな(と言うと語弊があろうが)雰囲気が漂うお寺。 なもんで、どうも我々にとってこれが高坂弾正のイメージに結び付いている(^^ゞ。 あともう一つ、有名な「武田24将図」に描かれる高坂弾正が、わりと色白で、両手を手揉みでもするように合わせて、落語でも始めそうな雰囲気があるので、何となくこの「ガマカエル」や「酒呑み」って言葉とリンクしてしまい、どうも世間で幅広く言われる“美男子”のイメージから遠い印象を持ってるんだな(笑)。 いや〜高坂ファンの皆様、どうぞお許しを(^^ゞ。
この「天の岩戸」、いつ頃からそう伝わってるのかは判らない(^^ゞ。 しかしこの皆神山の麓に「蛭子川」があって、これが神話にあるヒルコだとか、先ほど話した「玉依比売神社」には古くから、ヒスイ・メノウ・水晶・壁石・ガラス滑石などの勾玉があるのだが、その数が、一番古い記録の1706年からドンドン増え続けてるとか、わりとミステリーな空間なのだ。 ちなみに「玉依比売神社」は起こりも古く、延喜式内に記されている。
ウチの車もかなり小型な方だが、それでもメリメリと周囲の枝なんかを引っ掛けながら登って行く。擦れ違いの空間が殆ど無いから、対向車が来ると、相当長くバックしないと互いにやり過ごせない(^^ゞ。 そして到着。ジャジャーン。ここが「皆神神社」。
満顕は「侍従天狗坊」と名乗り、皆神山の修験道を完成。和合院と称し、大勢の神が集う山として栄えた。
小丸山古墳は舒明天皇の皇子、古人大兄の墓地と伝えられ、大正時代は「天照大神御陵研究地」と立て札されて参拝者で賑わった。 祭事の名が面白い(^^)。 1月4日が「祢古於呂志(ねこおろし)神事」、12月23日が「祢古麻久利(ねこまくり)神事」。 また松代は群発地震で有名だが、その震源地として世界的に知られた。周囲の山脈とは独立し、又へこんだバケツを引っくり返したような形も異様で、ピラミッド説が騒がれた事もある。 このピラミッド説については、実はあまりちゃんと読んだ事が無い(^^ゞ。 今パッと読んだ限り、古文書にある「天の羅摩船」が関係するとか、世界4大文明より古いとか、ネアンデルタール人系のスサノオが作ったとか、宇宙に行ける四神(熊野出速雄・少名彦・泉津事解男神・速五男神)が本来の祭神とか、そういう事が書いてあった。
でも何もかも眉唾とも言いがたく、例えばサンショウウオの棲む池があるが、この生息が珍しいこと、水が枯れない事、善光寺平には8世紀より前は木が無かった事が古木の年輪でわかっており、それまでは水没してた可能性が示されていたが、群発地震の際の調査では、皆神山の下に湖底層が発見された。 さらに通産省の地質調査で、山の中心部に「低重力異常」が数値確認されている。 不思議を伝える民話が傍に看板され、1598年……と言うと、まだ真田が来る前の目まぐるしく領主が変わってた時期だが(^^ゞ、田丸の殿様が鷹狩をしていたら大天狗が現われ、皆神山での殺生を叱り付けた話、侍従坊の着物を無理に借用したら、城下が大火に見舞われた話、修行僧たちが野を荒らしたのをキツネの仕業にし、キツネの詫び証文を取った話があるそうだ。 この「民話」、皆神山だけでなく、この年の松代の各所で看板されていて、全部読んで廻るのも楽しそうに思えた(^^)。 さて、そろそろ街なかに入って来る(^^ゞ。 「この辺りだったっけ〜」とか言いながら、ちょっと道を探す。
ここは皆神山から藤沢川を渡って町に入って来る途中なんだが、実は前から「昔見た風景」を探している。 それは、街の中に同じ屋根が三つ続いて見える箇所があって、その屋根というのが恐らく「竜泉寺」「蓮乗寺」「願行寺」ではないかと思うんだが、ハッキリと判らない(^^ゞ。 で、この頃その風景が見えなくなった。背の高い建物でそうなったのか、屋根が無くなったのか道が変わったのか、と言いながらここまで来た所(^^ゞ。 松代は最初に来た頃、大正か昭和初期かと思うような、すごく古くて洒落た建物が沢山あった。 来るたびに「あれ無くなったね〜(>_<)」というのがあって、よく覚えてるのは昔の映画館。超〜レトロな西洋風の建物で、多分その頃(ったって20年以上も前だが)に来た事のある人なら覚えているだろう。 写真を撮っておくんだった、といつも悔やまれる。 ↑これが近くまで来て写した、左(奥)から「竜泉寺」「蓮乗寺」「願行寺」。 さてっ、お昼ご飯(^^)。
驚いた(^_^A)。とっても綺麗に改装されてる。 だいぶ前、長野オリンピックの前に訪れた時、やはり不況の影響か、観光も痛手を受けてるという話なんか聞いたが、この頃はやはりお城の復元で元気を取り戻したのか、ずいぶん街のあちこちの建物が改装されていた。 新装してもこの通り、それなりちょっとレトロな雰囲気の建物にする辺り、お洒落な町だな、と思う。 で、さっそく中に入って食事を注文し、新しいお店の中でキョロキョロしてたら、地元の広報誌を発見。実際にはここで初めて「松代城が先月に出来たばかり!」という事実を知ったのだ(^^ゞ。嬉しかったなぁ。
松代には他にも「真田宝物館」近くの「日暮庵(和食・とろろ定食など)」さんや、「公園のベンチ(洋食)」さん、「かヾい(うなぎ処)」さんなど、美味しいお食事屋さんが多い(^^)。 そして「丸新(正面)」の向かいがナント……「豆州庵」!(爆)
この左の「つたや」さんは前からあった(^^ゞ。何度か買い物もしてる。 が、この「豆州庵」は無かった。前はお弁当屋だった覚えが……。いやいや、そんな事はどうでもいい(笑)。何しろこれを見て「豆州ぅ〜、頼むゾォ〜」のセリフを言った人が何人いるだろう(爆)。 そう、この名は「真田信之」の官位名から来ている。伊豆守=すなわち「豆州」。 しかし恐らくこれに気付くのはNHKドラマ「真田太平記」ファンだけだろう( ̄∇ ̄;)。。 なぜなら、昌幸(丹波哲郎)が信之(渡瀬恒彦)をこの「ずしゅう」という音で連呼するからであるっ(笑)。 つまりこの看板を見て、ほんの僅かでも目を見張ったり顔を笑いで歪めかけたアナタは、オタクだという事になる。なぜなら一般的にはここはコーヒー専門の喫茶店であり、名前だけでは特におかしくも何とも無い風体を装っているからである。 さすがは真田だ。通り掛る人の僅かな表情から、そいつが何者かがたちどころに知れるよう町の配備までなしている。 きっとその角の影からアナタのオタク度をチェックしているのは、真田の「草の者」なのだ(笑)。 さぁっ、松代に行く覚悟は出来たかな?(笑) <八幡原古戦場> お昼が終わったので、最後のコース。 ここは前述の通り、松代からはかなり距離がある。バスか車での来訪をお薦めする。
ここに来て気付いたのだが、考えてみれば松代ゆかりの偉人はなぜか石坂浩二が演じるな〜という事(しみじみ)。 佐久間象山は「新選組!」で、そして「天と地と」では上杉謙信を演じてたもんなぁ(^^ゞ。
だいたい電車で来ても自動車で来ても、最後にここを通って帰る事が多いから、どうしても間に合わなかった土産をここで調達する事も多い。 この市場で売ってるのは、長野名産のリンゴ、そして山芋など。芋は細かく刻むか、摩り下ろしてトロロにして食べると美味しい(^。^)。 他に「龍虎売店」というのが、一番最初に来た時からある売店。 ここはかなりのグッズ類が揃ったものだ。旗やTシャツやキーホルダーは言うに及ばず、24将茶碗だとか川中島関連の名の入った菓子類、「川中島」という名の酒など定番だった。さらに「霧の川中島」という、杉良太郎の歌う曲が流れ、このカセットも買った事がある。途中に「鞭声粛々」の詩吟が入っているから、本物を聞いてみたければお薦めかも(笑)。
その名も八幡原。予定調和で恐縮だが、祭神は八幡すなわち誉田別尊(^^ゞ。 さて1561年、謙信は妻女山に入り、信玄も遅れて到着し海津城に入ったまでは「松代城」で述べた。 両軍じっと睨み合いの形勢の後、攻撃を仕掛けたのは信玄で、妻女山に別働隊をまわし、自らは大軍を率いて密かに海津城を出て八幡原に移動した。妻女山を突付いて降りて来る上杉謙信を迎え撃とうとしたわけだ。 この先は伝承やら講談やらで、史実としてはだいぶ脚色された筋立てなのだろうが、もっとも有名な川中島合戦として長く語られて来た逸話もまじえて八幡原古戦場の紹介(^^ゞ。
信玄は、ここ八幡原に到着すると、土塁を積み重ねて本陣を置いた。その時、土塁の土どめにこの槐の杭を根を上にして打ち込んだら、それが後に芽を出し、このように大きな木になった、というのがこの「逆さ槐」。 ちなみにこの八幡原古戦場の周囲には本当に低い土塁跡が残っているという。 満を持して勝負に出た信玄だったが、同時に謙信も密かに妻女山を離れ、夜陰に紛れて八幡原に布陣。別働隊の欠損のまま武田は上杉の攻撃を受け、妻女山に上杉軍がいないと知った別働隊が戻って来るまで苦戦を強いられる。 左から「三太刀七太刀の跡」、「執念の石」、「首塚」
武田「鶴翼」の陣、上杉「車懸」の陣で双方戦う中、謙信は小豆長光(太刀)で単身、武田本陣に切り込み信玄を襲った。このいわゆる「一騎討ち」を「三太刀七太刀」というのは、一太刀目を信玄が咄嗟に軍配で受け、二太刀目で腕を傷付けられ、三太刀目で兜の庇(額の上)にまで傷を負い、後で軍配を調べた所、七ヶ所の刀の跡がついていたからだと言う。 信玄が川中島で負傷した、という話は各地で「温泉に入った」という、いわゆる「隠し湯」伝承で有名(笑)。 またこの信玄を助けたのが原大隈で、咄嗟に信玄の傍らの槍を手に取り、謙信めがけて突き出したが、謙信の鎧の肩をそれ、二の槍で右上から叩き落としたがやはりそれて、謙信の馬を打った。馬は狂奔して謙信を乗せたまま走り去り、信玄は命を取り留めたものの、原大隈は謙信を討ち取れなかった悔しさから、思わず傍らにあった石に、持っていた槍を突き貫いたため、「執念の石」に開いてる穴にその跡が残ると伝わる。 で、まぁ、ここまでは作り話と言われているが(^^ゞ、この先が地元ならではの伝承らしく、合戦後、この地を手中におさめた武田は、高坂弾正に守らせた。弾正は敵味方の区別なく遺体を集め、手厚く葬ったと言う。 実際にどれほどの戦死者だったのか判然とはしないが、最近でもこの辺りを掘れば当時の人骨や武具類が出ると言われ、夥しい死体が地に満ちた事は想像できる。 結局最終的にこの地を治めたのは真田氏であるから、同じ武田の武将を悪く言うわけはないだろうが、高坂弾正は地元でも尊敬され、霊験を信じられて、先ほどの「明徳寺」の弾正の墓石を削って持っていく人が後を絶たなかった、と言うから、この生々しい遺体収容劇は、本当に伝えられた話という気はする。 後にこの義に感じ入った謙信が、武田に恩を覚えて「敵に塩を送る」となった根拠がここにある、と現地の案内板は書いている。 はじめて訪れた時は、周囲はわりと草ボウボウで(^_^;)、この首塚のあったトコなんかどことなく暗く、さらに先に胴塚もあると聞いたが、うっかり草を分け入ると沼に落ちてしまいそうな気もして探さなかった。。 それが今では綺麗に整備され、駐車場も完備され売店も数多く、隣接地には博物館も出来て明るい雰囲気になった。 両雄一騎討ちの像
この博物館で、「川中島の戦い」(07/25〜09/05限定・松代城整備完成記念展)をやってたので見学した。 「複製」と書いて並んでる展示物の中で、「朝嵐(謙信の琵琶)」と「馬上杯(謙信の盃)」には「(米沢の)上杉神社所蔵」としか書いてなかった(「複製」とは書いてなかった)ので、米沢から借りて来たのかな(^^ゞ。 入った時、この展示会のポスターが川中島合戦のだったのでホレボレと見ていたら、受付の方が「一枚持って行って下さい」と下さった(^O^)!
八幡原古戦場のすぐ近くに「おぎのや」が出来てる(笑)。 そろそろ帰るべぇ〜と、ここで釜飯を時間指定で注文し、後で取りに来て高速に乗った。「後でどっかのSAで、温かい内に食べようネ(^^)」と楽しみに♪ ところが高速に乗るや、行く先を間違えて松本方面に行ってしまった(汗)。 それを又、二人とも「前と風景が違うね(^^ゞ」と言いながらも、どういうわけかなかなか気付かず(笑)、だいぶ行ってから気付いて「石和周りで帰ろう」という話になった。 何しろ途中適当な所で車を止めて釜飯を食う。 翌日は早朝から忙しいハズの亭主、なぜかノンビリと心地良さそうに釜飯を食い、 「こっちの道も気に入ったなぁ。こんど松本に行こうか」 と全く過ちを気にする風でもないのには恐れ入った(笑)。 長らくの連載、お読み下さってありがとうござりまする。 これにて「上州〜信州・真田ロード」(最後はだいぶ川中島モードだったが:笑)は、お・し・ま・い(^^)。 2005年09月21日 |
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