「北栃木〜南福島」編の第4回(^^)。 前回(3回)から福島県に入った。前回は南福島を巡りながら北上して来た。 今回は、前回の最後「大内宿」の続きからスタートし、さらに北上して、会津とほぼ同北緯で、会津より西部の「新鶴温泉」で2泊目を迎える(^^)。 3日目は、この新鶴温泉の近く、「法用寺」を巡り、「中田観音」もちょっと拝んで、会津方面に向かい、「神指城跡」を見学。 会津若松から高速(磐越自動車道)に乗って、猪苗代湖の北部(磐梯山の南部)に向かって東進。……この後は、さらに次回に譲ろう(^_^A)。 <2日目・「大内宿」2(続き)> 地図A←ここね(^^ゞ。 大内宿は、両脇に整然と並ぶ各宿の最終に、(正面に向かって)左「叶屋分家」、右「加登屋」、そして正面に「浅沼食堂」(扇屋分家)」を見て終わる。 浅 ┬┬┬┬┬┬┬┬ 沼 ┴┴┴┴┴┴┴┴ 食 ┬┬┬┬┬┬┬┬ 堂 ┴┴┴┴┴┴┴┴ ↑蓋をするように宿道の正面を塞ぐ「浅沼食堂」だが、そのさらに背後の山には、「子安観音」のお堂が聳え、山の中腹には、「正法寺」が経由される。
右の写真では、「子安観音」に直接のぼっていく急な階段が見えるのみだが、この道をさらに左に向かうと、「正法寺」に向かう階段もある。 「正法寺」や「子安観音」は、たぶん村の鎮守的な位置・役割だったのだろうと思う。 特に説明版もなく、戊辰戦争で宿が官軍に占領された時、寺に軍部が駐屯した事ぐらいしか、詳しい事はわからなかった(^^ゞ。 もう終了時間で、片付けてしまったか、前回の「町並み展示館」が閉館する前に来れば、何か書いてあったのかもしれないが(^_^;)。
子安観音と同じ高さから、大内宿が一望(^O^)(パノラマ3枚ほぼ180度)
↑子安観音
↑この山に背を見せて、左右に並ぶ各宿を見てる大きな屋根が「浅沼食堂」ね(^^ゞ。明治を迎えると、江戸期に活躍した宿は廃れ、大内宿は山間に取り残された。 が、1798年以降、大火事などに見舞われることもなく、茅葺屋根の並ぶ群集落の景観がそのまま残っていたため、戦後の1969年、雑誌で紹介されたのを期に、人気が集まり、1981年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。 この宿場ごと保存を継続して行くに際し、どのような在り方を目指すべきか、地域で話し合いや運動などもあったようだ。 私らが目にした限り、外部の干渉(いわゆる外部資本(^_^;))を受けずに運営する方法が取りざたされていたような……。 つまりハゲタカ・ファンドなんか入ろうとしても、シャットアウトヽ(`Д´)ノ!するんだね(笑)。 確かに宿場街に入ると、全店舗が何かしら営業してる様子は圧巻で、店内には、それなりの商品が豊富に並べられていた。 <大内宿→大内ダム→新鶴温泉> 日も暮れかかって、そろそろ2日目のお宿に向かう(^^)。 再び地図A←ここからさらに北上し、目的地はここ(新鶴)ね→地図B 会津若松とほぼ同じ北緯で、今回の旅ではかなり最北に近い(^^ゞ。 まずは、大内宿(地図A)を出て、道路は131号線。次の名所は大内ダム(地図C)。 ダム湖の先にある、やや長めのトンネル(六石山あたり)を越えた途端、物凄い濃霧に包まれた(*o*)!!
トンネル出る直前から、トンネル内に薄くモヤが入って来ていて、出た途端、何も見えないぐらい真っ白だったから、山火事かと一瞬焦った(笑)。それぐらい猛烈な濃霧が突然起きていた。 標高差もあるだろうし、大内ダムで大量の水をせき止め、急な登りに差し掛かるから、「トンネルを越えるとそこは天国だった」という具合になるのかな(^_^;)。。 濃霧はその後も長く続き、地図で見る「氷玉」一帯(わりと広い範囲)を包み込んでいたように記憶する。
私らは霧が大好きなので、山道がこんなんだと、「手賀沼よりスゴイ……草津ほどじゃないか〜でも箱根は完璧に越えたね!」とか、もぉワケわからん事を叫んで大興奮(笑)。
やがて霧は、少し遠くの山に集中して篭るようになり、下界は晴れてる様子が伺い知れる内に、道は山から下り、秋の実り色づく田園の中を走る。
実は山中から、ナビ電波もスッカリ切れて、下界に降りてからは、道もだいぶ間違えながら行ったような気がする(^_^;)。 が、だいぶ北上した後は、何しろ西や北西に進路を取るのが正解(笑)。 大内宿から、会津若松は北東方面に位置するが、今回めざす新鶴は、会津若松の西に位置する。
<新鶴温泉で2泊目(=^m^=)> というわけで、途中ちょっと道に迷ったりしつつ、新鶴温泉に到着(^_^A)。再び→地図B
宿で夕飯の給仕をして下さった方に、どこを廻って来たのか聞かれたので、話の最後に、あの濃霧の事を話したら、「見に行きたい!」と言ってくれた。 会津の人って、聞き上手だよね(笑)。……それとも、日頃はあそこまでの霧は出ないのかな(゚.゚)?
↑左はゴージャスな大浴場(^^)。温泉は勿論、ジェット風呂や水風呂・露天など、色んな種類のお風呂が楽しめる。 右の小さい浴室は、民宿とかでも見掛ける家庭用サイズ。 ゴージャス大浴場が、地元の日帰り温泉も兼ねてて、9時過ぎは営業終了してしまうので、宿泊客にのみ提供してくれる、真夜中も入れるお風呂場。勿論こっちも温泉(^^)。 大浴場の方は、終了時間が迫っちゃって、露天は写せなかったけど、「時間(*o*)」と慌てて出たら、脱衣所のお客さん達が「まだ大丈夫だよ〜(^^)」と声をかけてくれた。 みんな親切〜(#^.^#)。 <3日目・新鶴温泉の朝(^O^)> おはよーございます(^O^)。朝は、宿泊した「新鶴温泉(ほっとぴあ新鶴)」の正面から。 夜は暗かったので、朝に撮影(パノラマ2枚)
研修旅行などに使われる施設のようで、この日もお仕事で来ている人が泊まっていた。 機能的でもあり、食堂などは家庭的な感じもあって、温泉はついてるし、居心地よいホテルだった(^^)。 夜は真っ暗で、荘厳な月夜と遠い夜景を眺めたが、明ければ屋外は、こんな豊かな緑に包まれていた↓ お部屋から見た朝の風景(^^)(パノラマ3枚ほぼ180度)
「新鶴」駅は、「会津若松」駅から6駅もあって、東山温泉に比べればかなりの距離だけど、6駅というのは、只見線が南側に大きく蛇行してるからで、距離的にはその半分区間ぐらいかと(^^ゞ。
ご馳走さま(^nn^)<フキフキ。では出発〜♪ ロビーに荷物を置きに来ると、ホテルの人が、ここの天然水でいれたドリップコーヒーを二人分、出発前に振舞って下さった。( ^o^)〃迴~~ 味・香りの引き立つ美味しいコーヒーで、二人とも殆ど一気に飲み干した。
会津若松より西寄りの、この新鶴に宿を取ったのは、「東山温泉の他にも温泉がある(゚.゚))」と知った事も興味の一つだが、前に会津若松に来た(2006年の)後に山形を旅行した時(2008年)、途中に「慧日寺」に寄って以来、会津以西には、広い地域で「徳一が創建したと伝わる寺院」が多いと知った事が大きい。 と言っても、それぞれが散らばってて、互いに距離がある。 さらに、「慧日(恵日)寺」が既に大規模で、全部は廻り切れなかったから(^_^;)、数ヶ寺をいっぺんに廻る計画など立てると、旅程が破綻するかも……とも思った(笑)。 雲と霧から現われる荘厳な山景色(パノラマ2枚)
↑田園地の先に見える村落と山肌の合間に「法用寺」がある。行ってみよう(^o^)。 <法用寺> 地図D←詳しくは拡大してね(^^)。出発した宿は→地図B 徒歩45分ぐらい。最寄りの駅は「根岸」駅かな(「新鶴」駅から一駅)。徒歩30分ぐらいかと。
実はこの「法用寺」の本堂は、ここよりずーっと右……三重塔をも超えて右にあり、山門もそこにあるのだが、みんな後で行く。山門も一番最後に行く事としよう(^^ゞ。 境内の端に佇む「子安地蔵堂」(パノラマ4枚180度以上)
←さらに端は庫裡かな(^^ゞ。「子安地蔵堂」↑の脇から出る道に↑「御氷餅搗址」の説明版があり、そこへ続く道が出ている。
次に古いのは、これより向かう先にある「意加美神社」の森だろう。縁起を「宝亀(770〜780)年間」とし、明治以後の合祀などによるのではなく、元から此の地にあった神社に思えた。 と言うのも、神社にまつわる「雀林」が、古代から地名として認知されてるようで、また、その「雀林」が、この寺を含む山一帯の広い森林を指す事から、この地域全体が、相当古くから神聖視された土地と見て良いように思った。 そして、その次あたりが、徳一となろうか……。 つまり、徳一自体が既に「中興」という事になる(^^ゞ。 徳一に関しては、大同三年(808)に、寺の本堂にあたる「観音堂」を建立したという伝承の他、「弁天石」や「虎の尾桜」などが、徳一ゆかりの名石・名木として境内にある。 本堂も石も桜も、後で見ようね(^^ゞ。
恐らく、このお社とも関係あるんだろう。「法用寺境内の二畝二十歩で、ここに倉庫三棟と曝(さらし)場、搗舎があった」と説明されていた。 寒の三十日間に、雀林村の人が輪番で餅をつき、氷らせて所謂「御氷餅」をつくった。 独得な製法で入梅期に白長持九櫃に入れ、法用寺街道をお城に運んだ。平安期は朝廷に、江戸期には歴代藩主・松平氏にも貢し、その一部は徳川将軍にも奉った。 雀林村はこの「御氷餅製造」のため、藩からの割当人足の一部を免除された記録も遣っている。 「御氷餅搗址」は現在、「町指定史跡」となっている。 新鶴温泉に向かう道で、濃霧にあった所も、確か「氷玉」だった(^^ゞ。「餅」のつく地名も多いし、奥玉、悪玉など、「玉」のつく名もよく見る。 一方、「こおり」で思い当たるのは、会津若松や猪苗代湖を越して東にある「郡山」で、「郡」の字は、古代、郡衙があった事に由来するそうだが、「こおり」と読むのは、古代より献上品の「氷餅」や、地名の「氷玉」と関係あるのかな(^^ゞ。
禅宗様と言えば、鎌倉時代以降であろう。建造物のみならず、鎌倉・室町の宝物類も寺には収められている。 まず、一番最初に書いた、開山「得道上人」。この人自身は養老四年(720)も法用寺を開基してるが、その像「伝・木造得道上人坐像」(県指定重要文化財)は、鎌倉時代末期の作である。 像高87.5センチ。肌部分に麻布を張り、上を黒漆で仕上げてある。寄木造。眼は玉眼で水晶製という。
↑三重塔から本堂(観音堂)に来るまでの間は、こんな深緑と池辺が広がってる↓。 思わず深呼吸したくなる朝の庭園\(^O^)/(パノラマ2枚)
この大きな池には、大きな赤鯉・黒鯉がたくさん泳いでた!
神社はさっきも話したもので、今は「意加美神社」となってるが、元は「龍像権現」として創祀されている。 つまりさっき、「明治以後の合祀などによるのではなく、元から此の地にあった神社に思えた」と書いた通りで、むしろ、明治4年(1871)の「神社法」によって、「意加美神社」とされ、伊佐須美神社(会津美里町)の境外末社に編入されたそうだ。 一方、元々の「龍像権現」は、「五龍王」を祭神とし、「龍」を祀るもので、この森と一体化していたと思われる。 宝亀(770〜780)年間、宮の周りには広大な大森林が取り巻き、小鳥が群れ住んでいたので、古書に「龍像権現の森を、雀林という村の名の起こり」とあるそうだ。 昭和55年(1980)になって、改めて神社の再建が行なわれると、祈りに応じて次々と縁結びのご利益が高かったので、今では遠方からも参拝者が来るという。 龍を祀るについては、「水の少ないこの村で、龍を祀った昔の人の考えが解らないでもない」と述べられている。 千葉県でも、700年代以前に由緒を持つ寺社に、似たような話をよく聞く。 龍角寺のように、龍に水乞いを祈る伝説もあれば、香取神社や麻賀多神社のように、亀などになぞらえて広大な森を有するものもある(^^ゞ。
通常はこの本堂が山門から入って来て(つまり正式参拝ルートで)、正面に当たる。 この本堂こそ、「観音堂」と呼ばれ、大同三年(808)に徳一(徳溢大師)が建立した、と伝わる物だろう。 ただ法用寺は近世になり衰退したそうで、建築物として、大同年間からの継承を確実に伝える文献は無く、現在の物は、三重塔より少し早い、明和五年(1768)の建立と推定されている。 これは、露盤の菊花紋・刻銘文と、明和三年(1766)「雀林村法用寺観音堂建立二付御役所預ヶ金返与願」からの判断という。 しかしこの本堂は、法用寺文化を知る上で貴重な遺構であり、特に規模の大きさが抜きん出ている。 方五間(約151u)、会津三十三観音霊場札所の中で最大級の建造物であり、近世の観音堂としては県内最大。
「木造十一面観音立像」は、桂と欅の二躯で、どちらも一木彫成。藤原前期の作。 桂の像は像高147.5センチ、台座33.5センチ。内刳はなく、瓔珞(ようらく)、胸飾りもすべて墨書る。裳、天衣の彫刻は深く●波の跡も見られる。 欅の像は像高154.5センチ、台座16センチ。後世に彩色がなされ、元の風貌はとらえ難い。 あと、「十一面観音板木」(県指定重要文化財)というのがあり、十一面観音像の左側に、「雷電山法用寺御正体」と書かれ、右側には、応永4年(1397)の日付が書かれてる物だ。 十一面観音は 「奈良長谷寺式」といわれ、同形式の十一面観音は現在、長谷寺や志渡寺で原像が失われているため、古来の原型をとどめる点で貴重。 本堂には各種の張り紙が多くされ、大きな古びた絵馬には、黒い馬と松の木と二人の武者の絵が書かれていたが、かなり色剥がひどくて、何の絵かわからなかった(^_^;)。 また、本堂の前は大きな銀杏の木があって、これが秋の紅葉で黄色い絨毯を作る様子が、額縁に入った写真に見てとれた(^^)。 この「観音堂」を建立した時、「徳一が植えた」と伝わる「虎の尾桜」が、堂の前に枝を広げている。
伝承では、観音堂を建立した大同三年(808)、徳一(徳溢大師)は、この「虎の尾桜」の木の下でうつうつと仮眠をしていた。 すると、妙なる楽の音と共に、美しい天女が舞い降りて来て、静かに傍立ち、にっこりと笑みをたたえて、「我は弁財天」と名乗り、徳一の力となって堂塔の助けとなろう、と誓った。 徳一が目覚めると、そこに石があったので、「弁天石」と名付け、北の川のほとりに祀った所、子のない女がこの石に抱きついて祈ると、子を授かる利益に恵まれた。 後に、洪水で流された事もあったが、又ここに復元されたそうだ(^_^A)。 徳一に関して、美しい天女と楽の音による祝福がなされる話は、筑波山神社にも同様のものがあり(2007年5月<筑波山神社>内)、また、石と女と妊娠に関わる伝承(石長姫伝承)もある。(2007年5月<筑波山・女体山コース>内) また、これの前に行った、茨城県の「月山寺」も徳一ゆかりの寺と伝承されているが、やはり綺麗な花の庭園となっていて、徳一に付き物の雰囲気なのかもしれない(^^ゞ。
また、「虎の尾桜」には、徳一の時代より下って、鎌倉時代の文永10年(1273)、根岸の地頭・富塚盛勝と、佐布川、江川長者の娘・常姫の間に、悲恋物語が残されているが、両者が出会ったのが、この桜の下であり、この近くの中田観音像を鋳造する機縁となったという。 ただ、この「地頭と長者の娘の悲恋」とか、「中田観音像の鋳造」というのが、どういう話か知らない(スイマセン(^_^;))。でも文永と言えば、元寇の頃だよね。。 その後、江戸時代となり、藩主と姫君(恐らく会津松平氏かと(^^ゞ)が、この桜見に訪れている記録が残る。 「虎の尾桜」は、淡紅色でパラパラした八重の、特殊な構造をもつ珍花で、「会津五桜」の一つに数えられており、現在、町指定天然記念物として大事にされている(^^)。 さて、今度はだんだん後ろに下がって行く感じで恐縮だが、いよいよ山門の方に向かう。 まずは、本堂を見ながら後方に下がると、「鐘楼」と「鼻取り地蔵」に出会う。 中央から右に向かって「本堂」「鐘楼」「鼻取り地蔵」(パノラマ3枚ほぼ180度)
向かって右「鼻取り地蔵」から行こう(^O^)。 近江国の高島郡田中に住んでいた武家・「田中新兵衛光貞」は、大永二年(1522)に、この雀林に住むようになった。 以後、田中家は、里正(村長)や神官も勤めた事が墓碑銘に記されている。 新兵衛が住み始めた頃は、村の戸数も少なく粗農で、田の代掻をしようにも夫婦ともに多忙で、しかも妻は妊娠中。鼻取りの人を頼むこともできず困っていた。 すると、見掛けぬ童が来て手伝いを申し出たので、これはありがたいと、ともに水田に入ると、いつもは気の荒い馬もこの日に限っておとなしく働き、一日楽しく働いて日も暮れた。 家に戻ってご馳走しようと、妻と二人で夕飯の支度をしたが、童が来ないので、近所を探し歩くと、小さな泥足跡が見つかった。 その足跡を追って行くと、足跡は地蔵尊像の所で止まり、その地蔵の両足が泥に汚れている。 お地蔵さんが農作業を手伝ってくれたのだと悟り、新兵衛は合掌して拝み、お地蔵さんに夕飯を捧げ、その後も毎朝お供えをして拝んだ。 やがて毎年6月24日を、村の祭りの日と定め、地蔵の評判も聞こえて、村じゅうの人が「鼻取地蔵尊」の祭りに参加し、永く続けた。 昭和50年(1975)の祭りの日に、この法用寺の観音堂のそばに移し、広く信者の信仰を集める事になった。
「石川啄木の記念碑」は、住職さんの中野寅吉氏が、北海道小樽の日報社に勤務していた時、啄木が同社の記者であった誼から、ここに会津にちなんだ啄木の歌を、碑として建てたそうだ。 「離として憎みし友と やや長く手をば握りき わかれといふた 啄木」
「木造金剛力士立像」(国指定重要文化財)は、先にも少し述べた通り、平安後期の作で、特徴ある欅の一木作り。 仁王とも言い、伽藍を守護する仏像で、同時代のものは近江(滋賀県)善水寺にある以外には、全国にも例がない。 以上。 「法用寺」では発掘調査の話を見なかったが、慧日寺のように、平安期の遺構が出て来る見込みはないのだろうか。 徳一に関する事と限らずとも、平泉周辺の寺院遺跡のように、発掘によって遺構が次々と見付かったり、羽黒山神社のように、やはり祭祀物資が数多く出土するなど、平安期の痕跡を探る余地はあるように思えたが……。 <会津若松方面に向かう> ↑あくまで「方面」(^^ゞ。 今いる新鶴温泉から東に向かうと、やがて会津若松に到達するが、これより行く「神指城跡」は、その途中にある。つまり、「会津若松」までは行かない。 まず「法用寺」から、ちょっと北上して、「中田観音」に寄って行く。 「中田観音」は、宿泊した新鶴温泉より、ちょっと南にある。法用寺→地図D、中田観世音→地図E。
「中田観音」(弘安寺)は、西会津地方の多くの寺が、由緒を平安初期に遡る中、寺名の通り、鎌倉時代の弘安2年(1279)の建立。 本尊は十一面観音。脇侍の不動明王・地蔵の三体あわせて、国の重要文化財。 が、この寺は何と言っても、野口英世の母シカが信仰した事で有名(^^ゞ。
「中田観音」の写真はこれだけ(^^ゞ。街中の小さいお寺で、敷地もそう広くなかった。 車でちょっと寄って、これよりは東(会津若松方面)に向かって進む。 子供の頃の会津旅行で、白虎隊と野口英世は強く印象に残っている。 英世に充てるため、頑張って字を覚えたシカが書いた手紙(句読点が異様に大きいんだよね(^^ゞ)と言い、この老母をおぶさって、英世が神社の長い階段を登った絵とか見た覚えがある。 でも子供だったから、業績の偉大さや、歴史への傾倒より、囲炉裏で大火傷をして、指が全部くっついてしまった野口英世の子供時代の話や、割腹自殺から救助されたり、蘇生した白虎隊士の話など、痛そうな光景(笑)ばかり記憶に焼き付いて、「会津ってスゴイ所だ(・・;)」と思った(爆)。 「会津士魂」て言葉は、どこ行ってもよく聞くんで、大きくは違ってないと思うけどね(^^ゞ。 再来年は、「新島八重」が大河の主役で、郷里も同じだし(距離はあるのかもしれないが)、白虎隊はもとより、野口英世とも生きた時代がそっくり重なるので、もしかしたら、地元の風景シリーズみたいので出て来るかも。 八重の生年は、英世より31歳ほど上だが、没年は3年後になるかなφ(。。)m。 ちなみに、野口英世に関する名所は、何と言っても「野口英世記念館」だろう。 会津若松を越えてさらに東の猪苗代北岸にある。今回は行かなかったけど(^^ゞ、これより向かう方向である。 我が子を世界に名を残す人物に育てたい人は、シカにあやかるよう、この「中田観音」にも、ぜひ参拝しよう(^O^)! ……というわけで、これより、東(会津若松)方面に向かって進む!
(左端を拡大)磐梯山だろうか黒々とした山脈が見えて来る
この「阿賀川」が、これより行く「神指城(跡)」の守りの川に当たる。地図F←阿賀川を渡る地点 <神指城跡> この「神指城跡」に来たのは、前夜、新鶴温泉でこたつ亭主が強く要望したからだ☆ミ と言うのも、前回、会津若松に来たのは、2006年9月で、鶴ヶ城や御薬園、他・各寺など廻った後、米沢に向かう前に日が暮れて来たので、神指城を見るのを断念したのだ。(2007年3月<夜道を一路、山形県「白布温泉」へ>) 亭主はこれを大層残念がって、未だにそれを覚えてて、「今度こそ行こう!」と、新鶴温泉に泊まった夜から、何やら丹念にここの行き方を調べていたのだ! もっとも私の組む旅程って、時間が余る事を考えて常に多めに見繕うので、そのたび亭主は「全部行き切れなかった!」と残念がるんだけどね(^_^;)ゞ。 というわけで、いよいよ神指城跡に到着(^^)! すごく広くて、何の建物もない、素晴らしく見晴らしのイイ平野だった! 地図G
さらに行くと、絵図面があるので、先にそれを出そう(^^ゞ。
中央部に移って、真ん中の緑は「本丸」。切りこみは「本丸北口」「本丸西口」、南には無く、東が「本丸大手口」。 これより、「二ノ丸南口」から入り、「本丸」に達して、「本丸大手口」(東口)の脇を通り抜けて、「本丸北口」に達したら、道路を右折して、全体の右上、「二ノ丸」の北東のカドに行く。この最終地点を、「高瀬の大木」と呼んでいる。
この先を行くと、本丸の北側に出る。行ってみよう。 左・ジャングルみたいな繁みが続く(パノラマ4枚180度以上)
↑から反対側(右)を見ると↓(パノラマ4枚180度以上)
今になると、ちょっと思い出しにくいが、↑このゴッホの描いた風景(笑)みたいな向こうにある繁みが、二ノ丸・北東の「高瀬の大木」がある辺りだったかと。 今イチ全体図が頭に入らずに廻ってたせいもあるが、何しろ広すぎて、ちょっと進むと、遠い所に見えるのがどの遺構か、ワケ分からなくなる(^_^;)。。磁石が必要(爆)。 本丸の敷地を過ぎた先は、また真っすぐ道路が続いてた↓ 確か、真っすぐ行かず、左方向の野原に少し分け入って、本丸北口あたりを撮影したような覚えが……。(ウロ)
この辺りには、「神指城を守る会」の旗と、「売却予定」と書かれた看板の両方が建てられてて、「どうなるの(^_^;)」と、ちょっと心配になった。 【社名・電話番号・住所】は伏せるが、ちょっと書いておくね(^^ゞ。 「国有地 売払予定(22年度)/所在地【住所】/最低売却価格 非公表/土地面積 516.85u(約156坪)/他にも売却予定物件がありますので、お気軽にお問い合わせ下さい。/問い合わせ先 財務省 福島財務事務所 管財課/【電話番号】/【URL】/この土地は、国から委託を受けて当社が管理しています。/管理会社【社名】/【電話番号】」
二ノ丸の北東「高瀬の大木」のある土塁だ(パノラマ2枚)
地図I←さっきの拡大サイズのまま位置を移した。 南側(本丸)から来ると、土塁の裏側(というか内側)に先に着くので、↑この道歩いて正面に向かおう。 そろそろ、お城の説明もしたい(=^m^=)。 会津と上杉氏と東北の関ヶ原については→(2007年2月<鶴ヶ城、1>内・2007年4月<米沢「上杉神社・松岬神社」「上杉博物館(伝国の社)」など>内以降・2007年12月<白石城>内) 神指城は上杉氏の城である。 上杉氏がこの会津に居たのは僅か2年だったのに、ここに「上杉氏の城跡」(それも建築途中の(^_^;))が、洪水にまみえながらも、こうして広々と残っているのを見渡すと、何か不思議な感じがする。
ただ、会津盆地の東南・会津若松城(今の鶴ヶ城)に対し、この神指城のある位置を、「盆地中央で平坦だったから」とする記述と、「はじめ盆地中央に建てる予定だったが、平坦で川との落差のない神指ヶ原に定めた」とする記述があって、どっちが正しいのかな(^_^;)。 ちなみに、二つの城の位置関係は、神指城が北西、鶴ヶ城(会津若松城)が南東、神指城のさらに西に流れるのが阿賀川、二つの城の間に流れるのが湯川。 いずれにせよ高瀬村の立地は、西に阿賀川、東に湯川に囲まれ、見ての通りだだっ広く平坦である。こうした地の利を生かした城であっただろう。 (個人的には、船舶および倉庫など、水運を利用する大掛かりな前線拠点だったように思う) これが正面。なだらかな斜面は花壇にも(パノラマ4枚180度以上)
↑左奥のカドを曲がって、斜面前の道路(パノラマなんで魚眼だが)に入って来る。↑右奥に一台分のみ駐車場があるにはある(^^ゞ。 現在残る「縄張り」から察する限りでも、面積は、本丸だけで約56000u、全体では、約55ヘクタール(約155400坪)。若松城(鶴ヶ城)の2倍と、日本でも有数の規模をもつ平城である。 この神指城の建設により、京・大坂を中心として、西に広島、東に会津が政治経済の拠点となるべく、川や運河を利用して築こうとしたんだって(゚.゚)。
案内板によると、「この巨石は、ここより南方三百mの本丸に、慶山村「現・東山町」の山中から運んだといわれる石垣の基礎石で、昭和58年(1983)にここに移し、保存するものである」。 本丸は、さっき通った地域ね(^^ゞ。 慶山村「現・東山町」は、保科氏(会津松平氏)が来てから後に、松平家墓所が出来た辺りだと思う。 地図J←墓所を指してる。少し拡大して貰うと、周囲あちこちに「慶山」「東山」などの地名が出て来る。その北西に、今いる「高瀬の大木」(神指城・北東部)も見える。
一度だけパンフで見た事があるが、「会津村」(会津若松市河東町)という、仏教系テーマパーク(大庭園)らしい(^_^A)。そこでこしらえた慈母大観音という事だった。
大木の脇からの道は、土塁中央の東屋に導く(パノラマ4枚180度以上)
兼続は神指13ヵ村を強制的に移住させ、この「高瀬のケヤキ」(城の北東)の位置を、北極星の基点として縄張り(設計)した。 築城に当たっては、領内から12万人を動員。 石材は、さっき言った、東山町慶山から運び、本丸に石垣を築き、堀と三方の門まで作った。二ノ丸には四方の土塁と堀まで完成させ、6月には全体の形が一応整ったと言われる。 兼続は、その後の町割まで計画していたが、天守閣に着工する前に、徳川家康の上杉討伐令が出されたという報を受けたため、6月10日をもって工事は中止となった。 以後、関ヶ原合戦を迎え、敗れた側となった上杉氏は、慶長六年(1601)、米沢30万石へ転封となった。 城は破城され、寛永16年(1639)領主加藤氏が、石垣を総て若松城(鶴ヶ城)に運び去り、神指城は廃城となった。 東屋の中で休憩(^_^A)。前方を撮影(パノラマ4枚180度以上)
続けて後方も撮影 ( ^^)σ只 <カシャッ (パノラマ4枚180度以上)
「神指城」が、これまで見た城跡と大きく違うのは、「建設途中で築城が中止された」という点だ(^_^;)。 これまで見て来た城にも、構造的に謎があったりで、それ臭い雰囲気の漂う所は無くは無かったが、ここほどハッキリと「中止」の事実、時期、事情が知られてる城は無かったよね(笑)。 それゆえ、こうして来てみるまでは、正直、そんなに興味のある城跡じゃなかった(^^ゞ。 会津は東北の中では近距離で、又いつでも来れそうな所というのも動機して、亭主が来たいと言わなければ、「又そのうち(^^ゞ」と見送った可能性が高い(笑)。 その理由も、「作り掛けたものの、完成しなかった城」という点にあった。史跡や名所の多い会津若松より距離がある点も少々加わるが。
こうして目の当たりに見て、歩いて、登って、まぁ実体験後の心境の変化という奴なんだろうが、かなり図々しい大きさ広さだと思った(笑)。 空気嫁とかいって済む規模だろうか(^_^;)。せめて呼び出して、何のために必要なのか、顔見て聞きたい気がするのも、家康が爪噛んでイライラするのも無理はない(爆)。 そして、会津を追い払われ、どうにも狭い米沢(狭いんだわマジ(^_^;))に押し込められて、それでもヒョウヒョウ、どこ吹く風で、街づくりとか始めちゃって、それなり全うできちゃう上杉主従の図太さもスゴイ、と改めて感心した(爆)。 <磐越高速で猪苗代北岸に向かう> 次に行くのは、これまた前に行きそびれた亀ヶ城跡(^^)。こっちは私のリクエスト♪ 高速は磐越自動車道だが、新鶴よりは、次の会津若松ICが近くなってる。磐梯河東、磐梯山SAと過ぎて、猪苗代磐梯高原で降りる。 鉄道だと磐越西線、「会津若松」駅から5駅で「猪苗代」駅だろう。 でも、今回はこの辺りで、そろそろ終わりにしよう。高速からの風景を最後にお届け!
今回は、わりと長々、北関東・南福島にいて、ようやく会津の北緯に達したので、いつも以上に磐梯山を見るのが楽しみに感じて、何枚も写真を撮った(笑)。
前回の南会津北上の旅で、「塔のへつり」に向かう道々、切り立った山と厚い雲のバリエーションに、亭主がいたく感動していた(笑)。 この磐梯山も、覆われてる時は、かなり近くても丸きり見えない事がよくある。 猪苗代湖などが発生させる水蒸気の量と、標高の高い磐梯山の組み合わせが、変転極まりない空模様を作るんだねぇ(^^)。 さてさて次回は、いよいよ最終回に入りたい!……行けそうに思うが、どうなるかっ(笑)。 行く所は、磐越(会津)方面は「亀ヶ城」「土津神社」「猪苗代湖」、白河方面に出て「白河小峰城」「南湖公園」「白河の関跡」……う〜ん全部行けるかビミョー!!!(≧▽≦;)。。<ガンバル 以上、関連事項は(だいたいね(^^ゞ)、 2007年2月<東山温泉の朝>内以降 2007年3月<鶴ヶ城、2(続き)>内および<夜道を一路、山形県「白布温泉」へ> 2007年4月<白布温泉に戻る>内および<米沢「上杉神社・松岬神社」「上杉博物館(伝国の社)」など>内以降 2007年5月<筑波山神社>内および<筑波山・女体山コース>内 2007年12月<白石城>内 2009年1月<恵日寺> 2009年3月<山形城(霞城公園)>内 2011年6月A<奥会津博物館(旧・奥会津地方歴史民俗資料館)>内および<大内宿>以降 <つづく> 2011年07月28日 |
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