<2011年・城主のたわごと7月>




2010年9月「北栃木〜南福島編」第4弾。「大内宿」をさらに北上♪

2泊目は「新鶴温泉」。3日目は「法用寺」「神指城跡」など(^^)。




     
  「北栃木〜南福島」編の第4回(^^)。
前回(3回)から福島県に入った。前回は南福島を巡りながら北上して来た。
今回は、前回の最後「大内宿」の続きからスタートし、さらに北上して、会津とほぼ同北緯で、会津より西部の「新鶴温泉」で2泊目を迎える(^^)。

3日目は、この新鶴温泉の近く、「法用寺」を巡り、「中田観音」もちょっと拝んで、会津方面に向かい、「神指城跡」を見学。
会津若松から高速(磐越自動車道)に乗って、猪苗代湖の北部(磐梯山の南部)に向かって東進。……この後は、さらに次回に譲ろう(^_^A)。



<2日目・「大内宿」2(続き)>

地図A←ここね(^^ゞ。
大内宿は、両脇に整然と並ぶ各宿の最終に、(正面に向かって)左「叶屋分家」、右「加登屋」、そして正面に「浅沼食堂」(扇屋分家)」を見て終わる。

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↑蓋をするように宿道の正面を塞ぐ「浅沼食堂」だが、そのさらに背後の山には、「子安観音」のお堂が聳え、山の中腹には、「正法寺」が経由される。

大内宿も端まで来たo(^^)o
左「叶屋分家」中央「子安観音」右「浅沼食堂」

右の写真では、「子安観音」に直接のぼっていく急な階段が見えるのみだが、この道をさらに左に向かうと、「正法寺」に向かう階段もある。

「正法寺」や「子安観音」は、たぶん村の鎮守的な位置・役割だったのだろうと思う。
特に説明版もなく、戊辰戦争で宿が官軍に占領された時、寺に軍部が駐屯した事ぐらいしか、詳しい事はわからなかった(^^ゞ。
もう終了時間で、片付けてしまったか、前回の「町並み展示館」が閉館する前に来れば、何か書いてあったのかもしれないが(^_^;)。

←「正法寺」に続く階段。「子安観音」に直接向かう階段より、ずっと緩やか(^_^A)。
↑「正法寺」境内に到着。奥に聳える山脈に並んで、大内宿の屋根が連綿と続いている。

←「正法寺」から、さらに階段がついて、「子安観音」へと行ける。
↑「子安観音」到着(^_^A)。この右→に、散策コースが伸びているので行ってみると↓

子安観音と同じ高さから、大内宿が一望(^O^)(パノラマ3枚ほぼ180度)
↑子安観音
↑この山に背を見せて、左右に並ぶ各宿を見てる大きな屋根が「浅沼食堂」ね(^^ゞ。

明治を迎えると、江戸期に活躍した宿は廃れ、大内宿は山間に取り残された。
が、1798年以降、大火事などに見舞われることもなく、茅葺屋根の並ぶ群集落の景観がそのまま残っていたため、戦後の1969年、雑誌で紹介されたのを期に、人気が集まり、1981年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。

この宿場ごと保存を継続して行くに際し、どのような在り方を目指すべきか、地域で話し合いや運動などもあったようだ。
私らが目にした限り、外部の干渉(いわゆる外部資本(^_^;))を受けずに運営する方法が取りざたされていたような……。

つまりハゲタカ・ファンドなんか入ろうとしても、シャットアウトヽ(`Д´)ノ!するんだね(笑)。
確かに宿場街に入ると、全店舗が何かしら営業してる様子は圧巻で、店内には、それなりの商品が豊富に並べられていた。



<大内宿→大内ダム→新鶴温泉>

日も暮れかかって、そろそろ2日目のお宿に向かう(^^)。
再び地図A←ここからさらに北上し、目的地はここ(新鶴)ね→地図B
会津若松とほぼ同じ北緯で、今回の旅ではかなり最北に近い(^^ゞ。

まずは、大内宿(地図A)を出て、道路は131号線。次の名所は大内ダム(地図C)。
ダム湖の先にある、やや長めのトンネル(六石山あたり)を越えた途端、物凄い濃霧に包まれた(*o*)!!

←大内ダム。吸い込まれそうな湖面ブルー。
↑トンネル出た途端スゴイ濃霧!!

トンネル出る直前から、トンネル内に薄くモヤが入って来ていて、出た途端、何も見えないぐらい真っ白だったから、山火事かと一瞬焦った(笑)。それぐらい猛烈な濃霧が突然起きていた。

標高差もあるだろうし、大内ダムで大量の水をせき止め、急な登りに差し掛かるから、「トンネルを越えるとそこは天国だった」という具合になるのかな(^_^;)。。
濃霧はその後も長く続き、地図で見る「氷玉」一帯(わりと広い範囲)を包み込んでいたように記憶する。

スグ霧散するかと思いきや……
結構長い距離、濃霧が続いた

私らは霧が大好きなので、山道がこんなんだと、「手賀沼よりスゴイ……草津ほどじゃないか〜でも箱根は完璧に越えたね!」とか、もぉワケわからん事を叫んで大興奮(笑)。

前面ライトを反射する濃霧(笑)
道は晴れ、霧(雲)立ち上る山が現われ

やがて霧は、少し遠くの山に集中して篭るようになり、下界は晴れてる様子が伺い知れる内に、道は山から下り、秋の実り色づく田園の中を走る。

←山は相変わらず濃霧に包まれている。
↑下界は深々と夕闇が迫る。

実は山中から、ナビ電波もスッカリ切れて、下界に降りてからは、道もだいぶ間違えながら行ったような気がする(^_^;)。
が、だいぶ北上した後は、何しろ西や北西に進路を取るのが正解(笑)。

大内宿から、会津若松は北東方面に位置するが、今回めざす新鶴は、会津若松の西に位置する。

だいぶ北上してから進路を西に
豊かな田園風景に迫る夕闇

←遠くの山脈を見渡す広い平野
↑街中に入った。温泉も近い



<新鶴温泉で2泊目(=^m^=)>


というわけで、途中ちょっと道に迷ったりしつつ、新鶴温泉に到着(^_^A)。再び→地図B

もう暗くなってて、近くの風景はあまり見えなかったけど、通されたホテルの部屋の窓から見た月夜(^^)。
雲間の月が照らし出す夜空のバリエーションと、地平線にまぶされるネオンの夜景が、神秘的で壮観(#^.^#)。

そして!毎度楽しみな夕ご飯〜(^O^)!<お腹空いた!
↑右側の一品を拡大。多分「こづゆ」じゃないかな(^^ゞ。この辺りはすっかり会津圏だし。

「こづゆ」は、干した貝柱を旨みに使う、会津特有の汁物料理。
正月の雑煮としても食されている(2007年2月<鶴ヶ城、1>内

あと、前回の南会津博物館では、「つゆじ」とも呼ばれてたよ(^^)(2011年6月A<奥会津博物館(旧・奥会津地方歴史民俗資料館)>内)。
←これはタジン鍋(゚.゚)?鍋料理の蓋。食前はこうなってた♪
↑食後はあったかいプディング(^^)。美味しかったよー!

宿で夕飯の給仕をして下さった方に、どこを廻って来たのか聞かれたので、話の最後に、あの濃霧の事を話したら、「見に行きたい!」と言ってくれた。
会津の人って、聞き上手だよね(笑)。……それとも、日頃はあそこまでの霧は出ないのかな(゚.゚)?

←そして、ご飯と同じく楽しみの……温泉ーー!(≧▽≦)
(パノラマ2枚)
↑深夜の小さめ風呂(^^)

↑左はゴージャスな大浴場(^^)。温泉は勿論、ジェット風呂や水風呂・露天など、色んな種類のお風呂が楽しめる。

右の小さい浴室は、民宿とかでも見掛ける家庭用サイズ。
ゴージャス大浴場が、地元の日帰り温泉も兼ねてて、9時過ぎは営業終了してしまうので、宿泊客にのみ提供してくれる、真夜中も入れるお風呂場。勿論こっちも温泉(^^)。

大浴場の方は、終了時間が迫っちゃって、露天は写せなかったけど、「時間(*o*)」と慌てて出たら、脱衣所のお客さん達が「まだ大丈夫だよ〜(^^)」と声をかけてくれた。
みんな親切〜(#^.^#)。



<3日目・新鶴温泉の朝(^O^)>

おはよーございます(^O^)。朝は、宿泊した「新鶴温泉(ほっとぴあ新鶴)」の正面から。

夜は暗かったので、朝に撮影(パノラマ2枚)

研修旅行などに使われる施設のようで、この日もお仕事で来ている人が泊まっていた。
機能的でもあり、食堂などは家庭的な感じもあって、温泉はついてるし、居心地よいホテルだった(^^)。

夜は真っ暗で、荘厳な月夜と遠い夜景を眺めたが、明ければ屋外は、こんな豊かな緑に包まれていた↓

お部屋から見た朝の風景(^^)(パノラマ3枚ほぼ180度)

←1部拡大。地平線を覆う、濃い白雲の上に山々のシルエットが見えるのがわかるかな(^^ゞ。

温泉は、前に会津若松に来た時は、鶴ヶ城に近い、東部の「東山温泉」に泊まったが(近いと言っても、歩けば30分以上かかりそうだが(^_^;))、ここ「新鶴温泉」は、会津若松からは西に奥まった場所にある。

高速道路だと、最寄と言えるのは「新鶴スマートチェンジIC」だね(^^ゞ。「会津若松IC」まで一区間。
鉄道では「新鶴」駅から、歩くと20〜30分ぐらいかな。(三度→地図B

「新鶴」駅は、「会津若松」駅から6駅もあって、東山温泉に比べればかなりの距離だけど、6駅というのは、只見線が南側に大きく蛇行してるからで、距離的にはその半分区間ぐらいかと(^^ゞ。

←亭主、↓こたつ 朝ごはんσ(^Q^)<パクパク

ご馳走さま(^nn^)<フキフキ。では出発〜♪

ロビーに荷物を置きに来ると、ホテルの人が、ここの天然水でいれたドリップコーヒーを二人分、出発前に振舞って下さった。( ^o^)〃迴~~
味・香りの引き立つ美味しいコーヒーで、二人とも殆ど一気に飲み干した。

宿を出て、新鶴駅とは逆(南)に向かう。
広い田園の中を突っ切ると、前にも横にもモクモクと朝霧に覆われた山々が見える(^^)。

会津若松より西寄りの、この新鶴に宿を取ったのは、「東山温泉の他にも温泉がある(゚.゚))」と知った事も興味の一つだが、前に会津若松に来た(2006年の)後に山形を旅行した時(2008年)、途中に「慧日寺」に寄って以来、会津以西には、広い地域で「徳一が創建したと伝わる寺院」が多いと知った事が大きい。

と言っても、それぞれが散らばってて、互いに距離がある。
さらに、「慧日(恵日)寺」が既に大規模で、全部は廻り切れなかったから(^_^;)、数ヶ寺をいっぺんに廻る計画など立てると、旅程が破綻するかも……とも思った(笑)。

雲と霧から現われる荘厳な山景色(パノラマ2枚)

↑田園地の先に見える村落と山肌の合間に「法用寺」がある。行ってみよう(^o^)。



<法用寺>


地図D←詳しくは拡大してね(^^)。出発した宿は→地図B
徒歩45分ぐらい。最寄りの駅は「根岸」駅かな(「新鶴」駅から一駅)。徒歩30分ぐらいかと。

古風な村に到達。お邪魔しま〜す(^^ゞ。
蔵のある路地から見える三重塔→

三重塔を目指して、山の斜面に近寄っていくが、途中から道は、塔より(向かって)左のお堂へと導く。

お堂へは、鬱蒼と茂る杉木立の合間を登る石段が設けられている。
登ってみよう(^^)。

実はこの「法用寺」の本堂は、ここよりずーっと右……三重塔をも超えて右にあり、山門もそこにあるのだが、みんな後で行く。山門も一番最後に行く事としよう(^^ゞ。

境内の端に佇む「子安地蔵堂(パノラマ4枚180度以上)

←さらに端は庫裡かな(^^ゞ。「子安地蔵堂」↑の脇から出る道に↑「御氷餅搗址」の説明版があり、そこへ続く道が出ている。

←「子安地蔵堂」。立派な彫り物で、彩色が飛んでる様子が、一層古い感じに思えたけど、由緒は書いてなかった(^^ゞ。

この法用寺で一番古い縁起は、寺の創建を語る、養老四年(720)、開基は「得道上人」。
その坐像「伝・木造得道上人坐像」が、「木造十一面観音立像(二躯)」とともに、県指定重要文化財となっている。
この「得道上人」の他に創建に関わる詳細は見ないが、その後も、古代を示す縁起は続く。

次に古いのは、これより向かう先にある「意加美神社」の森だろう。縁起を「宝亀(770〜780)年間」とし、明治以後の合祀などによるのではなく、元から此の地にあった神社に思えた。
と言うのも、神社にまつわる「雀林」が、古代から地名として認知されてるようで、また、その「雀林」が、この寺を含む山一帯の広い森林を指す事から、この地域全体が、相当古くから神聖視された土地と見て良いように思った。

そして、その次あたりが、徳一となろうか……。
つまり、徳一自体が既に「中興」という事になる(^^ゞ。

徳一に関しては、大同三年(808)に、寺の本堂にあたる「観音堂」を建立したという伝承の他、「弁天石」や「虎の尾桜」などが、徳一ゆかりの名石・名木として境内にある。
本堂も石も桜も、後で見ようね(^^ゞ。

そして次に当たる時代が、「子安地蔵堂」の次に控える、「御氷(おこおり)餅搗(もちつき)」↓
こちらは通り過ぎて、歩道を振り返る→
案内板によると、ここで搗かれた餅は、古くは平安時代から朝廷に献上されていたという(゚.゚)。

恐らく、このお社とも関係あるんだろう。「法用寺境内の二畝二十歩で、ここに倉庫三棟と曝(さらし)場、搗舎があった」と説明されていた。

寒の三十日間に、雀林村の人が輪番で餅をつき、氷らせて所謂「御氷餅」をつくった。
独得な製法で入梅期に白長持九櫃に入れ、法用寺街道をお城に運んだ。平安期は朝廷に、江戸期には歴代藩主・松平氏にも貢し、その一部は徳川将軍にも奉った。

雀林村はこの「御氷餅製造」のため、藩からの割当人足の一部を免除された記録も遣っている。
「御氷餅搗址」は現在、「町指定史跡」となっている。

新鶴温泉に向かう道で、濃霧にあった所も、確か「氷玉」だった(^^ゞ。「餅」のつく地名も多いし、奥玉、悪玉など、「玉」のつく名もよく見る。

一方、「こおり」で思い当たるのは、会津若松や猪苗代湖を越して東にある「郡山」で、「郡」の字は、古代、郡衙があった事に由来するそうだが、「こおり」と読むのは、古代より献上品の「氷餅」や、地名の「氷玉」と関係あるのかな(^^ゞ。

寺の古さを示すのは由緒や伝説のみならず、山門両脇の「木造金剛力士立像」が平安後期の作、本堂内部の「三間厨子」(禅宗様)と「仏壇」が、鎌倉期の正和三年(1314)銘と古く、どちらも「国指定重要文化財」。

さらに右に進むと、次に見えて来るのが……。
さっき村の道からも見えた三重塔(^^)。今回「法用寺」に来たのは、取りあえずの所は、これを見るため(^^ゞ。

木造・三層宝形造・方三間・銅板葺。この「銅板」だが、元は「こけら板」で葺かれていたそうだ(^^ゞ。

建築は、禅宗様の末期的手法が用いられ、一階の内陣には祭壇が組まれ、釈迦三尊が祀ってある。

さっき外から見た三重塔(拡大)→

この三重塔、現在の物が「再々建」とあるのみで、最初に建立された時期や由来はわからない(^_^;)。
最後の再建記録は、安永元年(1772)に起工、同九年(1780)に竣工。
これは『新編会津風土記』や、寺社奉行に提出した調書の写しが、「常光寺」(会津若松市)所蔵の、天台宗「寺縁起」にあるそうだ。
その前については、二層に、明和五年(1768)の、「飛騨高山の二右衛門」と「越国仙七」の描いた設計図板がある。

会津地方では、唯一の現存「塔遺構」。県指定重要文化財(建造物)。

禅宗様と言えば、鎌倉時代以降であろう。建造物のみならず、鎌倉・室町の宝物類も寺には収められている。

まず、一番最初に書いた、開山「得道上人」。この人自身は養老四年(720)も法用寺を開基してるが、その像「伝・木造得道上人坐像」(県指定重要文化財)は、鎌倉時代末期の作である。
像高87.5センチ。肌部分に麻布を張り、上を黒漆で仕上げてある。寄木造。眼は玉眼で水晶製という。

禅宗様の形式
さらに先に進んで、本堂(観音堂)から振り返る

↑三重塔から本堂(観音堂)に来るまでの間は、こんな深緑と池辺が広がってる↓。

思わず深呼吸したくなる朝の庭園\(^O^)/(パノラマ2枚)

この大きな池には、大きな赤鯉・黒鯉がたくさん泳いでた!

池に渡される木橋
池向こう「意加美神社
←(拡大)↓
↑池の向こうにも庭園が広がっているが、さらに奥に向かって神社の階段が登り、古代より「雀林」と呼ばれた山に入って行ける。→

神社はさっきも話したもので、今は「意加美神社」となってるが、元は「龍像権現」として創祀されている。
つまりさっき、「明治以後の合祀などによるのではなく、元から此の地にあった神社に思えた」と書いた通りで、むしろ、明治4年(1871)の「神社法」によって、「意加美神社」とされ、伊佐須美神社(会津美里町)の境外末社に編入されたそうだ。

一方、元々の「龍像権現」は、「五龍王」を祭神とし、「」を祀るもので、この森と一体化していたと思われる。
宝亀(770〜780)年間、宮の周りには広大な大森林が取り巻き、小鳥が群れ住んでいたので、古書に「龍像権現の森を、雀林という村の名の起こり」とあるそうだ。

昭和55年(1980)になって、改めて神社の再建が行なわれると、祈りに応じて次々と縁結びのご利益が高かったので、今では遠方からも参拝者が来るという。

龍を祀るについては、「水の少ないこの村で、龍を祀った昔の人の考えが解らないでもない」と述べられている。

千葉県でも、700年代以前に由緒を持つ寺社に、似たような話をよく聞く。
龍角寺のように、龍に水乞いを祈る伝説もあれば、香取神社や麻賀多神社のように、亀などになぞらえて広大な森を有するものもある(^^ゞ。

そして神社の前を堂々塞ぐのが……
ドーン! 「観音堂」(ここの本堂)

通常はこの本堂が山門から入って来て(つまり正式参拝ルートで)、正面に当たる。

この本堂こそ、「観音堂」と呼ばれ、大同三年(808)に徳一徳溢大師)が建立した、と伝わる物だろう。

ただ法用寺は近世になり衰退したそうで、建築物として、大同年間からの継承を確実に伝える文献は無く、現在の物は、三重塔より少し早い、明和五年(1768)の建立と推定されている。
これは、露盤の菊花紋・刻銘文と、明和三年(1766)「雀林村法用寺観音堂建立二付御役所預ヶ金返与願」からの判断という。

しかしこの本堂は、法用寺文化を知る上で貴重な遺構であり、特に規模の大きさが抜きん出ている。
方五間(約151u)、会津三十三観音霊場札所の中で最大級の建造物であり、近世の観音堂としては県内最大。

宝形造りの屋根には、箱棟に宝珠を載せた頂上を配し、外陣の柱間装置や銅板葺に改造が行われているが、全体的にはほぼ原形が維持されている。

また、先にも触れた通り、建造物以上に宝物類が貴重で、この本堂の内部には、「木造十一面観音立像(二躯・県指定重要文化財)」(本尊かな(^^ゞ)と、平安後期の「木造金剛力士立像」、正和三年(1314)銘の「三間厨子」(禅宗様)および「仏壇」(以上全て、国指定重要文化財)などが安置されている。
特に「仏壇」(厨子の下にあるそうだ)には、欄間のコウモリ狭間というのが珍しいそうだ(゚.゚)。

「木造十一面観音立像」は、桂と欅の二躯で、どちらも一木彫成。藤原前期の作。
桂の像は像高147.5センチ、台座33.5センチ。内刳はなく、瓔珞(ようらく)、胸飾りもすべて墨書る。裳、天衣の彫刻は深く●波の跡も見られる。
 欅の像は像高154.5センチ、台座16センチ。後世に彩色がなされ、元の風貌はとらえ難い。

あと、「十一面観音板木」(県指定重要文化財)というのがあり、十一面観音像の左側に、「雷電山法用寺御正体」と書かれ、右側には、応永4年(1397)の日付が書かれてる物だ。

十一面観音は 「奈良長谷寺式」といわれ、同形式の十一面観音は現在、長谷寺や志渡寺で原像が失われているため、古来の原型をとどめる点で貴重。

本堂には各種の張り紙が多くされ、大きな古びた絵馬には、黒い馬と松の木と二人の武者の絵が書かれていたが、かなり色剥がひどくて、何の絵かわからなかった(^_^;)。
また、本堂の前は大きな銀杏の木があって、これが秋の紅葉で黄色い絨毯を作る様子が、額縁に入った写真に見てとれた(^^)。

この「観音堂」を建立した時、「徳一が植えた」と伝わる「虎の尾桜」が、堂の前に枝を広げている。

徳一お手植えと伝わる「虎の尾桜
桜の向こう(本堂の端)には「弁天石

伝承では、観音堂を建立した大同三年(808)、徳一(徳溢大師)は、この「虎の尾桜」の木の下でうつうつと仮眠をしていた。
すると、妙なる楽の音と共に、美しい天女が舞い降りて来て、静かに傍立ち、にっこりと笑みをたたえて、「我は弁財天」と名乗り、徳一の力となって堂塔の助けとなろう、と誓った。

徳一が目覚めると、そこに石があったので、「弁天石」と名付け、北の川のほとりに祀った所、子のない女がこの石に抱きついて祈ると、子を授かる利益に恵まれた。
後に、洪水で流された事もあったが、又ここに復元されたそうだ(^_^A)。

徳一に関して、美しい天女と楽の音による祝福がなされる話は、筑波山神社にも同様のものがあり(2007年5月<筑波山神社>内、また、石と女と妊娠に関わる伝承(石長姫伝承)もある。(2007年5月<筑波山・女体山コース>内
また、これの前に行った、茨城県の「月山寺」も徳一ゆかりの寺と伝承されているが、やはり綺麗な花の庭園となっていて、徳一に付き物の雰囲気なのかもしれない(^^ゞ。

これがその「弁天石
本堂を守る狛犬
「虎の尾桜」の前の一体

また、「虎の尾桜」には、徳一の時代より下って、鎌倉時代の文永10年(1273)、根岸の地頭・富塚盛勝と、佐布川、江川長者の娘・常姫の間に、悲恋物語が残されているが、両者が出会ったのが、この桜の下であり、この近くの中田観音像を鋳造する機縁となったという。

ただ、この「地頭と長者の娘の悲恋」とか、「中田観音像の鋳造」というのが、どういう話か知らない(スイマセン(^_^;))。でも文永と言えば、元寇の頃だよね。。

その後、江戸時代となり、藩主と姫君(恐らく会津松平氏かと(^^ゞ)が、この桜見に訪れている記録が残る。

「虎の尾桜」は、淡紅色でパラパラした八重の、特殊な構造をもつ珍花で、「会津五桜」の一つに数えられており、現在、町指定天然記念物として大事にされている(^^)。

さて、今度はだんだん後ろに下がって行く感じで恐縮だが、いよいよ山門の方に向かう。
まずは、本堂を見ながら後方に下がると、「鐘楼」と「鼻取り地蔵」に出会う。

中央から右に向かって「本堂」「鐘楼」「鼻取り地蔵(パノラマ3枚ほぼ180度)

向かって右「鼻取り地蔵」から行こう(^O^)。

近江国の高島郡田中に住んでいた武家・「田中新兵衛光貞」は、大永二年(1522)に、この雀林に住むようになった。
以後、田中家は、里正(村長)や神官も勤めた事が墓碑銘に記されている。

新兵衛が住み始めた頃は、村の戸数も少なく粗農で、田の代掻をしようにも夫婦ともに多忙で、しかも妻は妊娠中。鼻取りの人を頼むこともできず困っていた。

すると、見掛けぬ童が来て手伝いを申し出たので、これはありがたいと、ともに水田に入ると、いつもは気の荒い馬もこの日に限っておとなしく働き、一日楽しく働いて日も暮れた。

家に戻ってご馳走しようと、妻と二人で夕飯の支度をしたが、童が来ないので、近所を探し歩くと、小さな泥足跡が見つかった。
その足跡を追って行くと、足跡は地蔵尊像の所で止まり、その地蔵の両足が泥に汚れている。

お地蔵さんが農作業を手伝ってくれたのだと悟り、新兵衛は合掌して拝み、お地蔵さんに夕飯を捧げ、その後も毎朝お供えをして拝んだ。
やがて毎年6月24日を、村の祭りの日と定め、地蔵の評判も聞こえて、村じゅうの人が「鼻取地蔵尊」の祭りに参加し、永く続けた。
昭和50年(1975)の祭りの日に、この法用寺の観音堂のそばに移し、広く信者の信仰を集める事になった。

←「鼻取地蔵尊」。小さいながら立派な建物が(゚.゚)!
↑法用寺の境内には、緑多い中、これらの他にも「湯殿山」や「金剛」と大書された石碑や祠が並び、「石川啄木の記念碑」もあった。

「石川啄木の記念碑」は、住職さんの中野寅吉氏が、北海道小樽の日報社に勤務していた時、啄木が同社の記者であった誼から、ここに会津にちなんだ啄木の歌を、碑として建てたそうだ。
「離として憎みし友と やや長く手をば握りき わかれといふた 啄木」

さらに下がっても見える「鐘楼
そのままさらに下がると山門(^^)

鐘楼は、銅鐘で、総高104.53センチ、口径75.75センチと大きい。県指定重要文化財。

文明6年(1474)の銘があり、その後に「平朝臣盛●」とあるが、一字見えにくい(^_^;)。。
会津で1400年代と言えば、芦名氏かな? 平氏だし、「盛」を通字に用いる事が多いし。

他には、法用寺の別当「儼海」、「本願長岡頼円」の名があるそうだ。あと越後国「妙実」と「火玉」(会津本郷町)、大工の合力で鋳造した事が書かれていた。

山門すでに出ちゃったが(笑)、階段の上に見える立派な山門が、いわゆる「仁王門」だろう。→
現在、門を守護する仏像「木造金剛力士立像」は、先ほど書いた通り、本堂(観音堂)に安置されているので、ここでは、実物大と思われるパネル写真が出迎えてくれる。↓

山門・両脇に「金剛力士立像」のパネル
吽形
阿吽

木造金剛力士立像」(国指定重要文化財)は、先にも少し述べた通り、平安後期の作で、特徴ある欅の一木作り。
仁王とも言い、伽藍を守護する仏像で、同時代のものは近江(滋賀県)善水寺にある以外には、全国にも例がない。

以上。
「法用寺」では発掘調査の話を見なかったが、慧日寺のように、平安期の遺構が出て来る見込みはないのだろうか。
徳一に関する事と限らずとも、平泉周辺の寺院遺跡のように、発掘によって遺構が次々と見付かったり、羽黒山神社のように、やはり祭祀物資が数多く出土するなど、平安期の痕跡を探る余地はあるように思えたが……。



<会津若松方面に向かう>

↑あくまで「方面」(^^ゞ。
今いる新鶴温泉から東に向かうと、やがて会津若松に到達するが、これより行く「神指城跡」は、その途中にある。つまり、「会津若松」までは行かない。

まず「法用寺」から、ちょっと北上して、「中田観音」に寄って行く。
「中田観音」は、宿泊した新鶴温泉より、ちょっと南にある。法用寺→地図D、中田観世音→地図E

↓北上。さっき来た道を戻る。
途中から右折、「中田観音」の看板→

「中田観音」(弘安寺)は、西会津地方の多くの寺が、由緒を平安初期に遡る中、寺名の通り、鎌倉時代の弘安2年(1279)の建立。
本尊は十一面観音。脇侍の不動明王・地蔵の三体あわせて、国の重要文化財。

が、この寺は何と言っても、野口英世の母シカが信仰した事で有名(^^ゞ。

←ほどなく「中田観音」に到着(^_^A)。
↑近くの踏切(根岸駅・只見線)には、「野口英世ゆかりの地」と看板され、野口英世が御礼詣に来て、手を合わせてる写真が貼られていた(^^)。

「中田観音」の写真はこれだけ(^^ゞ。街中の小さいお寺で、敷地もそう広くなかった。
車でちょっと寄って、これよりは東(会津若松方面)に向かって進む。

子供の頃の会津旅行で、白虎隊と野口英世は強く印象に残っている。
英世に充てるため、頑張って字を覚えたシカが書いた手紙(句読点が異様に大きいんだよね(^^ゞ)と言い、この老母をおぶさって、英世が神社の長い階段を登った絵とか見た覚えがある。

でも子供だったから、業績の偉大さや、歴史への傾倒より、囲炉裏で大火傷をして、指が全部くっついてしまった野口英世の子供時代の話や、割腹自殺から救助されたり、蘇生した白虎隊士の話など、痛そうな光景(笑)ばかり記憶に焼き付いて、「会津ってスゴイ所だ(・・;)」と思った(爆)。

「会津士魂」て言葉は、どこ行ってもよく聞くんで、大きくは違ってないと思うけどね(^^ゞ。

再来年は、「新島八重」が大河の主役で、郷里も同じだし(距離はあるのかもしれないが)、白虎隊はもとより、野口英世とも生きた時代がそっくり重なるので、もしかしたら、地元の風景シリーズみたいので出て来るかも。
八重の生年は、英世より31歳ほど上だが、没年は3年後になるかなφ(。。)m。

ちなみに、野口英世に関する名所は、何と言っても「野口英世記念館」だろう。
会津若松を越えてさらに東の猪苗代北岸にある。今回は行かなかったけど(^^ゞ、これより向かう方向である。
我が子を世界に名を残す人物に育てたい人は、シカにあやかるよう、この「中田観音」にも、ぜひ参拝しよう(^O^)!

……というわけで、これより、東(会津若松)方面に向かって進む!

何度か川を渡った。これは宮川かな?
さらに進む。広大な平野の地平線に……

(左端を拡大)磐梯山だろうか黒々とした山脈が見えて来る

さらに先には阿賀川を渡る橋↓
欄干から阿賀川の流れが見れた(^^)→

この「阿賀川」が、これより行く「神指城(跡)」の守りの川に当たる。地図F←阿賀川を渡る地点



<神指城跡>

この「神指城跡」に来たのは、前夜、新鶴温泉でこたつ亭主が強く要望したからだ☆ミ
と言うのも、前回、会津若松に来たのは、2006年9月で、鶴ヶ城や御薬園、他・各寺など廻った後、米沢に向かう前に日が暮れて来たので、神指城を見るのを断念したのだ。(2007年3月<夜道を一路、山形県「白布温泉」へ>

亭主はこれを大層残念がって、未だにそれを覚えてて、「今度こそ行こう!」と、新鶴温泉に泊まった夜から、何やら丹念にここの行き方を調べていたのだ!

もっとも私の組む旅程って、時間が余る事を考えて常に多めに見繕うので、そのたび亭主は「全部行き切れなかった!」と残念がるんだけどね(^_^;)ゞ。

というわけで、いよいよ神指城跡に到着(^^)!
すごく広くて、何の建物もない、素晴らしく見晴らしのイイ平野だった! 地図G

道の行く手、右にポツと丘↓がある
近寄る。土塁の一部のようだ

さらに行くと、絵図面があるので、先にそれを出そう(^^ゞ。

←灰色の碁盤目状に惹かれた灰色のマスが、だいたい今も通ってる道のあるトコと見て、今、右から二番目の道にいる。

最初の外枠(下)を割って入る所で、右を見ると、外枠の土塁が見れる。図で言うなら、右下端の土塁を見ている。

この図面では、洪水で失われた左下以外は、わかりやすいよう、元の遺構が書かれているが、特に残って目に見えるのは、黒く塗りつぶされた部分ね(^^ゞ。

全体の説明をしておくと、北が上。左が阿賀川。
外枠の水色が「二ノ丸」。それぞれ空いてる切りこみが、「二ノ丸北口」「二ノ丸東口」「二ノ丸南口」。西口もあったハズだが、洪水で無くなった。
左下(南)には、「如来堂」跡がある(新撰組殉難の地)。

中央部に移って、真ん中の緑は「本丸」。切りこみは「本丸北口」「本丸西口」、南には無く、東が「本丸大手口」。

これより、「二ノ丸南口」から入り、「本丸」に達して、「本丸大手口」(東口)の脇を通り抜けて、「本丸北口」に達したら、道路を右折して、全体の右上、「二ノ丸」の北東のカドに行く。この最終地点を、「高瀬の大木」と呼んでいる。

では、スタート。
まずココ「本丸大手口(東口)」→

神指城を守る会」という旗が立って、出迎えてくれる。

上の絵図は、ここの案内板にあるのを拝借した(^^ゞ。
ただ、絵図ではマスの目状に真っすぐ線が引かれてるが、地図で見ると→地図H(かなり拡大)

この先を行くと、本丸の北側に出る。行ってみよう。

左・ジャングルみたいな繁みが続く(パノラマ4枚180度以上)

↑から反対側(右)を見ると↓(パノラマ4枚180度以上)

今になると、ちょっと思い出しにくいが、↑このゴッホの描いた風景(笑)みたいな向こうにある繁みが、二ノ丸・北東の「高瀬の大木」がある辺りだったかと。

今イチ全体図が頭に入らずに廻ってたせいもあるが、何しろ広すぎて、ちょっと進むと、遠い所に見えるのがどの遺構か、ワケ分からなくなる(^_^;)。。磁石が必要(爆)。

本丸の敷地を過ぎた先は、また真っすぐ道路が続いてた↓


確か、真っすぐ行かず、左方向の野原に少し分け入って、本丸北口あたりを撮影したような覚えが……。(ウロ)

それがこの繁み。殆どジャングル(^_^;)
ぬかるみと言うか水溜まり過ぎ(^_^;)

この辺りには、「神指城を守る会」の旗と、「売却予定」と書かれた看板の両方が建てられてて、「どうなるの(^_^;)」と、ちょっと心配になった。
【社名・電話番号・住所】は伏せるが、ちょっと書いておくね(^^ゞ。

「国有地 売払予定(22年度)/所在地【住所】/最低売却価格 非公表/土地面積 516.85u(約156坪)/他にも売却予定物件がありますので、お気軽にお問い合わせ下さい。/問い合わせ先 財務省 福島財務事務所 管財課/【電話番号】/【URL】/この土地は、国から委託を受けて当社が管理しています。/管理会社【社名】/【電話番号】」

本丸の北側を離れる
だいぶ離れた。この対岸側が……

二ノ丸の北東「高瀬の大木」のある土塁だ(パノラマ2枚)

地図I←さっきの拡大サイズのまま位置を移した。
南側(本丸)から来ると、土塁の裏側(というか内側)に先に着くので、↑この道歩いて正面に向かおう。

そろそろ、お城の説明もしたい(=^m^=)。
会津と上杉氏と東北の関ヶ原については→(2007年2月<鶴ヶ城、1>内・2007年4月<米沢「上杉神社・松岬神社」「上杉博物館(伝国の社)」など>内以降・2007年12月<白石城>内

神指城は上杉氏の城である。
上杉氏がこの会津に居たのは僅か2年だったのに、ここに「上杉氏の城跡」(それも建築途中の(^_^;))が、洪水にまみえながらも、こうして広々と残っているのを見渡すと、何か不思議な感じがする。

会津に領した蒲生秀行が、宇都宮に移封となった後、慶長3年(1598)、上杉景勝は、旧来の地・越後から、会津へ120万石で移封されて来た。

神指城の築城は、2年後の慶長5年(1600)。鶴ヶ城(会津若松城)のみでは不備があったからだろう。現地の案内板でも、「会津若松城のある会津盆地の東南地域では、城や城下町の拡張が難しかった」としているから、狭かったと考えられる。

ただ、会津盆地の東南・会津若松城(今の鶴ヶ城)に対し、この神指城のある位置を、「盆地中央で平坦だったから」とする記述と、「はじめ盆地中央に建てる予定だったが、平坦で川との落差のない神指ヶ原に定めた」とする記述があって、どっちが正しいのかな(^_^;)。

ちなみに、二つの城の位置関係は、神指城が北西、鶴ヶ城(会津若松城)が南東、神指城のさらに西に流れるのが阿賀川、二つの城の間に流れるのが湯川。

いずれにせよ高瀬村の立地は、西に阿賀川、東に湯川に囲まれ、見ての通りだだっ広く平坦である。こうした地の利を生かした城であっただろう。
(個人的には、船舶および倉庫など、水運を利用する大掛かりな前線拠点だったように思う)

これが正面。なだらかな斜面は花壇にも(パノラマ4枚180度以上)

↑左奥のカドを曲がって、斜面前の道路(パノラマなんで魚眼だが)に入って来る。↑右奥に一台分のみ駐車場があるにはある(^^ゞ。

現在残る「縄張り」から察する限りでも、面積は、本丸だけで約56000u、全体では、約55ヘクタール(約155400坪)。若松城(鶴ヶ城)の2倍と、日本でも有数の規模をもつ平城である。

この神指城の建設により、京・大坂を中心として、西に広島、東に会津が政治経済の拠点となるべく、川や運河を利用して築こうとしたんだって(゚.゚)。

畑を挟んで遠くからも見てみる
逆に今度は拡大。斜面に大石

案内板によると、「この巨石は、ここより南方三百mの本丸に、慶山村「現・東山町」の山中から運んだといわれる石垣の基礎石で、昭和58年(1983)にここに移し、保存するものである」。

本丸は、さっき通った地域ね(^^ゞ。
慶山村「現・東山町」は、保科氏会津松平氏)が来てから後に、松平家墓所が出来た辺りだと思う。
地図J←墓所を指してる。少し拡大して貰うと、周囲あちこちに「慶山」「東山」などの地名が出て来る。その北西に、今いる「高瀬の大木」(神指城・北東部)も見える。

←そしてこれが「高瀬の大木」!デカッ!(笑)
脇の小路から登る。樹木の腹に祠↑があるのが見えるかな(^^ゞ。スゴイ小さく見えるけど、あれで普通サイズ(笑)。ちなみに、ここから見る向こう(河東町)の山肌には……↓

白い物が浮かんで見える
(拡大)観音像のようだ
(さらに拡大)

一度だけパンフで見た事があるが、「会津村」(会津若松市河東町)という、仏教系テーマパーク(大庭園)らしい(^_^A)。そこでこしらえた慈母大観音という事だった。

この「高瀬の大木(ケヤキ)」は、神指城を築城するより前に、既にあった大木だった事がわかってるそうだ(゚.゚)。直江兼続も「これはスゴイ!」と、切らずに残したのかな!だだっ広い平坦地では、強力な目印だっただろうね(^^)。
根元の周囲12.55m、目通りの幹囲10.45m、樹高24.64m。国指定天然記念物。
これまでに枝の折損が相次ぎ、幹部には亀裂が生じて、梯子かと思ったら、枝をの支えが施されてるんだね。登って行って周りを見回すと、アチコチから支えてるのがわかる。

←ね(^^ゞ。木の中に仙人でも住んでそうでしょ(笑)。

神指城の話を続けよう。
築城は慶長5年(1600)3月から開始。上杉景勝の命を受け、築城総指揮に当たったのは、執政の直江兼続である。

全体の縄張りは、曲輪の敷地を濠と土塁が取り囲む輪郭式、本丸と二ノ丸から成る回字型の構造。同じ作りの城は、近くでは米沢城(山形県)、遠くは広島城も似た縄張りだとか。

大木の脇からの道は、土塁中央の東屋に導く(パノラマ4枚180度以上)

兼続は神指13ヵ村を強制的に移住させ、この「高瀬のケヤキ」(城の北東)の位置を、北極星の基点として縄張り(設計)した。

築城に当たっては、領内から12万人を動員。
石材は、さっき言った、東山町慶山から運び、本丸に石垣を築き、堀と三方の門まで作った。二ノ丸には四方の土塁と堀まで完成させ、6月には全体の形が一応整ったと言われる。

兼続は、その後の町割まで計画していたが、天守閣に着工する前に、徳川家康上杉討伐令が出されたという報を受けたため、6月10日をもって工事は中止となった。

以後、関ヶ原合戦を迎え、敗れた側となった上杉氏は、慶長六年(1601)、米沢30万石へ転封となった。
城は破城され、寛永16年(1639)領主加藤氏が、石垣を総て若松城(鶴ヶ城)に運び去り、神指城は廃城となった。

東屋の中で休憩(^_^A)。前方を撮影(パノラマ4枚180度以上)

続けて後方も撮影 ( ^^)σ只 <カシャッ (パノラマ4枚180度以上)

「神指城」が、これまで見た城跡と大きく違うのは、「建設途中で築城が中止された」という点だ(^_^;)。
これまで見て来た城にも、構造的に謎があったりで、それ臭い雰囲気の漂う所は無くは無かったが、ここほどハッキリと「中止」の事実、時期、事情が知られてる城は無かったよね(笑)。

それゆえ、こうして来てみるまでは、正直、そんなに興味のある城跡じゃなかった(^^ゞ。
会津は東北の中では近距離で、又いつでも来れそうな所というのも動機して、亭主が来たいと言わなければ、「又そのうち(^^ゞ」と見送った可能性が高い(笑)。

その理由も、「作り掛けたものの、完成しなかった城」という点にあった。史跡や名所の多い会津若松より距離がある点も少々加わるが。

しかし、こうして来てみると、「何故これほど大規模な城を、こうまで堂々と作ろうとしたんだろう(゚.゚)」とも思い、「それが見過ごされると思ってたんだろう」とも思った。

城の普請をしたとか工事を加えただけで、次々断絶に追いこまれた時代は、も少し後で、まだそんなに悪い事と思ってないし、そもそも所詮イチャモンじゃん……と、こう考えて来たし、納得して来たハズなんだが……。

こうして目の当たりに見て、歩いて、登って、まぁ実体験後の心境の変化という奴なんだろうが、かなり図々しい大きさ広さだと思った(笑)。
空気嫁とかいって済む規模だろうか(^_^;)。せめて呼び出して、何のために必要なのか、顔見て聞きたい気がするのも、家康が爪噛んでイライラするのも無理はない(爆)。

そして、会津を追い払われ、どうにも狭い米沢(狭いんだわマジ(^_^;))に押し込められて、それでもヒョウヒョウ、どこ吹く風で、街づくりとか始めちゃって、それなり全うできちゃう上杉主従の図太さもスゴイ、と改めて感心した(爆)。



<磐越高速で猪苗代北岸に向かう>

次に行くのは、これまた前に行きそびれた亀ヶ城跡(^^)。こっちは私のリクエスト♪
高速は磐越自動車道だが、新鶴よりは、次の会津若松ICが近くなってる。磐梯河東、磐梯山SAと過ぎて、猪苗代磐梯高原で降りる。
鉄道だと磐越西線、「会津若松」駅から5駅で「猪苗代」駅だろう。

でも、今回はこの辺りで、そろそろ終わりにしよう。高速からの風景を最後にお届け!

と言っても、磐梯山ばっかりだけど!(笑)
わりと全身現われたトコ

今回は、わりと長々、北関東・南福島にいて、ようやく会津の北緯に達したので、いつも以上に磐梯山を見るのが楽しみに感じて、何枚も写真を撮った(笑)。

高速降りる!猪苗代磐梯高原
雲モクモク被ったり除けたり(笑)

前回の南会津北上の旅で、「塔のへつり」に向かう道々、切り立った山と厚い雲のバリエーションに、亭主がいたく感動していた(笑)。

この磐梯山も、覆われてる時は、かなり近くても丸きり見えない事がよくある。
猪苗代湖などが発生させる水蒸気の量と、標高の高い磐梯山の組み合わせが、変転極まりない空模様を作るんだねぇ(^^)。

さてさて次回は、いよいよ最終回に入りたい!……行けそうに思うが、どうなるかっ(笑)。
行く所は、磐越(会津)方面は「亀ヶ城」「土津神社」「猪苗代湖」、白河方面に出て「白河小峰城」「南湖公園」「白河の関跡」……う〜ん全部行けるかビミョー!!!(≧▽≦;)。。<ガンバル

以上、関連事項は(だいたいね(^^ゞ)、
2007年2月<東山温泉の朝>内以降
2007年3月<鶴ヶ城、2(続き)>内および<夜道を一路、山形県「白布温泉」へ>
2007年4月<白布温泉に戻る>内および<米沢「上杉神社・松岬神社」「上杉博物館(伝国の社)」など>内以降
2007年5月<筑波山神社>内および<筑波山・女体山コース>内
2007年12月<白石城>内
2009年1月<恵日寺>
2009年3月<山形城(霞城公園)>内
2011年6月A<奥会津博物館(旧・奥会津地方歴史民俗資料館)>内および<大内宿>以降


<つづく>

2011年07月28日
 
     




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