<2005年・城主のたわごと8月>




2004年8月上州〜信州「真田ロード」ツアー・第三弾(^^)。

2日目午後は塩田平〜別所。そして荒砥城。至る松代。




     
  さてさて「真田ロード」の3回目。前回までに上州(群馬)から信州(長野)に入っている。
旅程的には旅の2日目、午後からこの日の最後まで。



<塩田平>

これまで「真田ロード」と称して、沼田から岩櫃・真田・上田・生島足島神社と、ひたすら南西にやってきた。この南西方面に進むルートは、この先の「別所」が最終地点となる。

これより、生島足島神社を出て、いわゆる塩田平周辺の寺社巡り開始。まずは順路説明〜。

又々例によって、北が下、南が上な地図(^^ゞ。↓

上田(地図より外れて左下)から南(上)に「生島足島神社」↑まで来た。これよりさらに南(上)に行き、そこから西(右)に向かって行く。

地図の順路の通り、「前山寺」→「塩田城址」→「龍光院」→「中禅寺」まで行くと、あとは地図の紫色の線上を「別所温泉」まで向かい、「安楽寺」→「常楽寺」。
そして今度は赤い道路を東(左斜め下)に折り返し(生島足島神社を通り過ぎ)上田方面にまた戻って来る。

まずは生島足島神社から前山寺に向かう。車窓から見える周囲の山々。

↑パノラマ(これは3枚)で無理やり一直線に繋いでみたが、実際にはドンドン進んで周囲の風景が変わって行く(^^ゞ。だから実際に繋がってるのは、遠くの山の風景のみ。

広い道路から、ちょっと奥まった道に入って行く。
さて、この辺りの実史としての痕跡となると、どれを一番古い時代と指していいのかよく判らない(^^ゞ。縄文弥生・古墳の遺跡は、ま、ちょっとおいといて(笑)、取りあえずは鎌倉時代という事になろうか。

真田氏の前は武田氏、武田氏の前は村上氏の重臣、福沢氏が領したが、まずもってこの辺りを開いたと言えるのは、何と言っても、その前の領主・塩田北条氏で、これが鎌倉時代だからである。

皆さんご存知ですよね(^^ゞ。鎌倉時代の始まりは1192年。「いい国作ろう鎌倉幕府」。覚えてますか?(笑)

この塩田北条氏の時代、この辺りは文化と学問の花を開かせた。中禅寺などに残る建築様式は平安期の名残をとどめるそうだが、それらは鎌倉時代に入ってから作られた物ではないかと言われている。

が、その前の平安期にも、この辺りの神社にはさらに古い痕跡が残る。

有名な生島足島神社の他に、実はこの塩田平にある塩野神社、青木村の小檀嶺(こまゆみ)神社、そして前回「真田」で既出の「山家神社」のあわせて四社が延喜式内に記される。

ええっと延喜式は900年代だからぁ(笑)。

が、伝承レベルだとさらに古く、この塩田平の寺社は全て、さらに南にそびえる「独鈷(とっこ)山」に由来する。
弘法大師が寺を建てるため、日本全国にその場を探し歩き、この独鈷山に建てようとしたが、谷が99個しか無かったため、ここに建てるのはやめ、谷が100個あった高野山に決めた、という伝承が残っている。

弘法大師が高野山に入る前と言うと……ええっと800年代初頭だからぁ(笑)。

皆さんご存知(^^ゞ。平安時代の始まりは794年。「泣くよ坊さん」。いいですか?(笑)

が、実はその前を遡ると塩田平には、例えば「条里」という奈良時代の耕地様式に沿った水田区画の形跡が伺われ、そのための水路開発の跡も見えるという。
が、それに当たった一定の権力者の名はわかってない(^^ゞ。

建築様式や土地区画については、「後で遅れた遣り方をやっただけ」と言われりゃそれまでなので(^^;)、これでただちに時代が確定できるわけじゃないが、古式ゆかしい手法をとどめたにせよ、それなら尚更「古い伝統の息づいた土地」という「別の後光」が差して来るのは言うまでもない。

そしてさらに……実は奈良時代より前にも行ける。前回で過ぎてしまったが「真田」がそれだ。

真田氏は、一般的には戦国時代、初代幸隆が海野氏の婿という説で名が出るが、ほじくり返せば国府のあった1300年前と言うから……ええっと大宝律令(701年)の頃ですかっ(笑)。真田一帯は「牧」(牧場)を司り、真田氏はその領主筋とも言われ、その名残で馬頭観音を祀ったとか、白山信仰の色濃い「山家神社」もその頃からの名残とも見られている。

さらに古く大和朝廷の頃に遡れば、この塩田平のある辺りより北側、真田から上田を通ってその先のルート上(青木村)までに、朝廷勢力によって道が作られ「駅」が置かれた。
「牧」経営はこの辺りの影響かな(^^ゞ、と思う。

ええっと駅伝制が647年だからぁ……(汗)。

さて時代は下って平安末期、1100年代後半。牧のあったこの地域は馬にも(馬に乗る)武者にも恵まれ、木曽義仲に従った武者が有数この地域から輩出している。塩田氏がその一人で居館跡が残る。「塩田」の地名はこの辺りからだろう。

鎌倉時代は頼朝の配下、後の島津氏がここの領主となった事が、後に九州にいった島津氏の保管する「頼朝からの補任状」に記されている。
その後、源氏三代を引き継いだ北条氏の北条重時がこの地の担当となり、後にいわゆる塩田北条氏とされる北条義政がやってきて築城。それが塩田城。

南北朝を迎える時代、塩田北条氏は鎌倉の北条氏とともに滅んだので、塩田城は近接地元の豪族、村上氏の支配を受け、村上氏の配下、福沢氏によって管理。
戦国期は信玄侵攻で塩田城が落とされ、村上義清が武田信玄に追われると、武田氏の配下にあった飯富氏の支配、武田が滅んだ後は真田氏の支配……という具合ね(^^ゞ。いいかな?(笑)



<前山寺>

↑に到着〜♪ お寺の右隣の駐車場からまず一枚。↓

前面に広がる信州の山々。寺から見える風景とほぼ同じっ。

この前の道路を左に歩き、さらに左に振り向いて「前山寺」がある。

前山寺「黒門」
欅・松・桜の参道
やがて山門

山門をくぐると
すぐ見える三重の塔
「未完成の完成塔」

この「未完成の完成塔」というのは、この前山寺の三重塔につけられた異名で、「未完成でありながら返ってすっきりして見栄えが良い」という意味。
未完成というのは、二階と三階に扉や窓が無く(一階にはある)、縁も無く、つける用意(貫や切り込み)はあるのに、勾欄(手すり)・長押(なげし)が無い、という点だそうだ。
他にも前山寺だけでなく全国的に見られる欠損として、上からの重みに耐えるよう、屋根を支える組み物の四角い穴に「束」を差し込む設計がされるのだが、設計だけあって、肝心の「束」が無い。

三重塔から下りて茅葺の本堂(右)に向かう
本堂向かいの深緑

三重塔が建てられたと推定されるのは室町初期だが、寺自身の歴史は古く、812年に弘法大師が開創したと伝えられ、当初は古義真言宗で法相三輪両宗を兼ね、法蔵坊・花蔵坊・地蔵院と称した。

が、1331年、四国讃岐(香川県)善通寺という、弘法大師の生まれた所から長秀上人が訪れて正法院を移し、規模を拡張のうえ伽藍を建立。弘法大師が独鈷を埋めたとして、寺の西南を弘法山と称して奥の院とし、岩屋堂に弘法大師を祀る事となる。ゆえに独鈷山を護摩修行の霊場として「独鈷山前山寺」と命名。ここから新義真言宗となり、本尊は大日如来。

以来「信濃四談林」という真言宗の四つの学問所の一つとして隆盛。塩田城が一番の檀家となっていた事、塩田城の鬼門に位置する事から、塩田城の祈願所だったと見られる。

36世つづく名僧の内でも二世祐俊上人は学僧として知られ、七堂伽藍を整備、興教大師に習い、20巻写経が残る。

戦国期には武田氏も土地を寄進。11世真海僧正は武田氏の信頼篤く、1580年勝頼から10貫490文の朱印安堵状を受ける。

江戸期には「小県郡常法談林所」として、末寺を40箇所以上(現在は11箇所が残る)も持つ大寺に成長し、西国33観音を勧進。35世中島栄智大僧正は華厳経を習い、晩年は新義真言宗総本山の紀州根来寺の座主に就任。
信州七草寺霊場「萩の寺」とも呼ばれる。

本堂前の蓮池
本堂入り口
入ると生け花がお出迎え

さてさて、図々しく本堂にまで入って来たのは、ここで「くるみおはぎ」を頂くからなのだっ(^^)。
これって何年越しの夢だったかなぁ(笑)。一番最初にこの辺りに来たのは就職してわりとスグ。友達と一緒だった。次が亭主と二人で。まだ結婚前だった(^^ゞ。
どちらも「くるみおはぎ」を営業してない時で食べられなかった(TOT)。。
その後、亭主と一緒に別所までは来たのが前回2000年。前山寺には来なかった。

というわけで、今回が初! ワクワク〜(#^.^#)♪

座敷廊下を通される
途中のお部屋っ
さぁさぁ、さらに奥へ〜

そして「くるみおはぎ」の出される広間に到着(^^)。

背中には飾り窓
前には素敵な庭園が……(^^)

外は暑いけど広間には風もそよいで来て、なかなか気持ち良かった(^^)。そしてお寺の女の方が「くるみおはぎ」を運んで来て下さった。

ジャジャーン、これが「くるみおはぎ」♪
帰りにまた別の部屋を撮影

風味がバツグンで味は甘すぎず、お菓子と言うより意外とちょっとした軽食にしていい味だった(゚.゚)。
でも量は多くないから、これを昼食代わりにアテ込むと、後でお腹空くと思う(^^ゞ。
ついてるのは甘く漬けた梅の実だったが、季節によって出し物が違うと説明を頂いたっ☆ミ



<塩田城址>

前山寺で「くるみおはぎ」が長年の念願だったので(笑)、ここでちょっと時間を取られて、この先の行程はやや足早(^^ゞ。

「史蹟・塩田城跡」の標識版
塩田城跡に近付いて来る

上で書いて来た通り、前山寺は独鈷山の鬼門(東北)に位置する寺だが、山と寺の間と言っていいかな(^^ゞ、割り込むように位置するのが、この塩田城。よって前山寺は塩田城にとっても鬼門に位置する。

←「塩田城跡」の石碑。

昔はここを登ったものだ(笑)。

↓左右の遊歩道。

かれこれ19年前(^^ゞ。亭主と二人で大晦日に訪れた。
その前の夜、私らは小諸に泊まったのだが、私が高熱を出してしまった。
風邪薬を飲んだので「そのうち下がるよ」と私だけ寝て、亭主は一人で周辺を散策してたが、帰って来てもいっこうに熱が下がらないので、亭主は近くの病院にかけあってくれ、看護婦さんが来て注射をしてくれた。

すると瞬く間に熱が下がり、すぐに食欲も出て(←おい(-_-;))、その日の夕飯に出された鯉の刺身もペロリと平らげた(笑)。

しかしかなりの高熱を出したので、次の日に引き続き旅行をしていいのか、二人とも(正確には亭主だけが:笑)不安だった。
さらにこの日は雪が積もり、ここ塩田城などは全面真っ白だった(爆)。

しかし目の前に城山がある!
「こういう時は思い切り汗を掻くと治るんだ」
もぉワケわかんない(^^;)。。「そこに山があるからだ」と言った方がまだ理屈が通ってる気もする。
何しろ城山があると、そこで死にたくなるらしい(爆)。私は登った。亭主はオロオロしながら必死についてくる(笑)。

そして望み通りタップリと汗を掻き、見事に全快した(核爆)。
(懸命なる皆様はくれぐれも真似しませんように〜〜〜:笑)

まぁ、ここはそんな思い出のある山なのだ(笑)。

←「この地図のどこまで登ったのかな」
と私らはしみじみ見入った。あまり覚えてない(^_^;)。
何しろ周囲は雪・雪・雪で、ちょっと登るとすぐ雪崩れに遭うのだ(ヤベェ)。

さて、塩田城は1277年、鎌倉幕府の重職、北条義政がこの地に移り館を構えたことに始まる。
北条義政と言うと、2001年のNHK大河ドラマ「北条時宗」に渡辺徹さんが扮した役なんだよな(^^ゞ。

まずざっと、北条氏は三代泰時の弟に、重時・政村・実泰の四人兄弟。

長男・泰時の子が時頼(渡辺謙)。さらにその子が時宗(和泉元彌)。
次男・重時の子が、長時・時茂・義政・安達泰盛室。(各役者名は後述)
三男・政村(伊東四郎)は「自分の子は女の子ばかりだった」と確か嘆いていた(笑)。
四男・実泰の子が実時(池畑慎之介=ピーター)。

この中で、次男重時のファミリーだけがさんざんな目に遭う(笑)。

まず重時(平幹二郎)は「極楽寺どの」と呼ばれ、六波羅探題を務めていたが、鎌倉に戻ってからは連署に就任。一族の重鎮として活躍。
ために長男の長時(川崎麻世)が推されて6代執権の地位につく。

が、ドラマでは、あからさまに時頼(渡辺謙)の傀儡だったんだな、これが(^^;)。。
時頼がまだ幼い時宗と二人で旅行に出てしまってる間に、路上で通行人にバカにされ、怒って抜刀、人を斬ってしまう。さらに、時頼の意を受けた安達泰盛(柳葉敏郎)の雇った平頼綱(北村一輝)に暗殺されてしまうんだなぁ(^^ゞ。

次に安達泰盛(柳葉敏郎)の妻(牧瀬里穂)(^_^;)。
安達泰盛は妻の兄を暗殺しておきながら妻には嘘をつき、妻は薄々とそれを知り恨みつつも夫に従う、といった役だった。

さらにその弟、時茂(羽賀研二)。この人は「常葉」という家を興している。やはり父の後を継いで京で六波羅探題を務めるが、ちょうど蒙古襲来の時期にあたり、朝廷と幕府の摂政に骨身を削り、心労の果てに死亡(^^;)。。

こうした悲劇の一家が出ては消えていく中、ひょっこり現われるのが、さらに弟の義政(渡辺徹)。
これが見るからに温和で人の良さそう〜〜な雰囲気で登場して、父や兄達の背負った悲壮感を思い出させるんだな(笑)。

が、彼は「兄、長時の死を不審に思っている」と時宗に真相究明を迫る。
ビクリとする北村一輝の平頼綱(笑)。
ところが時宗(和泉元彌)、「はい、それは私が殺りました」と、イケシャアシャア告白(笑)。
義政は「そうだったのか。それが判ればいいんだ」と、あっけなく和解(^^ゞ。
その後も、この「極楽寺ファミリー(笑)」の中でただ一人、その名の通り平和でハッピーな人生を歩む人として描かれていた。

さて塩田城だが、義政が1277年に塩田に館を構えて以来、その子、国時、さらにその子俊時と三代で約60年支配。
国時と俊時の墓として、この城跡に供養塔がある。

1333年、鎌倉幕府は新田義貞に攻められ、塩田北条氏も一族をあげて駆けつけたが奮戦空しく幕府とともに滅亡。
その後は村上氏の領有となり、その重臣、福沢氏が統治。さらにその後1553年に武田信玄によって落城させられ、信玄は自らもしばしば滞在し、また飯富氏をおいて拠点とした。勝頼の代もそれを継続したが、1582年に武田氏が滅亡すると、真田氏が上田城を築くまでの約30年間ここを拠点とした。

上田市では1975年から発掘調査を開始。3年かけて遺構や遺物を発見。北条氏の館は集落の入り口(小字竹の内)にあったらしく、村上・武田時代に山腹から頂上に城を拡張した事がわかった。



<龍光院>

順路がちょっと戻るが、前山寺から塩田城に向かう途中「おたや」という案内板を見かけた。
「塩田城にいてこの地方を治めた福沢氏は、ここにお伊勢とお坂木(さかき)様を祭った。この地方では大切な史蹟である」
と書いてあった。

これだけだと何の事だかわからないが(^^ゞ、塩田北条氏の後、この辺りは坂城の豪族・村上氏の領地となった。
「福沢氏」は村上氏の配下に属し、この辺りをおさめていた領主なので、つまり「お伊勢」「お坂木」ともに、村上氏の祀っていた神様に相当すると考えてもいいだろう。

念のため「おたや」で検索すると、「上田」と、ここよりかなり南の「長門」に「おたや祭り」が出て来た。「伊勢旅屋屋敷」(いせおたややしき)に由来するという。祭りの起源は1828年の文書が初だそうだが、もっと古くから祭りの存在はあると書かれていた。

さて塩田城から一本道を来ると、ここ「龍光院」に着く。

←山門   入って坂を上り奥の門↓
扉の開いていたお堂
ここは義政の子、国時が父義政を弔うために建てた寺で、「義政の墓」と伝えられる石塔があるという。

義政は1277年に出家。ここ塩田に閉居の後4年経った1281年に40歳で没した。

又この本堂には北条氏の家紋、三鱗紋が配されている。

龍光院は1601年に曹洞宗の禅寺として再興された。



<中禅寺>

そしてやはり一本道を「中禅寺」にやって来る。が、だんだん時間が無くなって来たのと、実はこの頃から雨がポツポツ来てしまった(^_^;)。。

中禅寺に至る道(正面)
入ってパチリと撮っただけ

ここは「薬師堂」と「薬師如来」「十二神将」が有名。薬師堂は「方三間・阿弥陀堂形式」と言い、岩手県平泉の中尊寺金色堂と同じ形式。県下でも最も古い形式の物ばかりで、非常に貴重である事、薬師如来の功徳について、買った本にも懇切丁寧に説明されていた。

このように見てないし写真も無いので、それらの説明はまたの機会に譲るとして(^^ゞ、それより薬師如来の功徳に匹敵するこのお寺の思い出を記しておきたい。

前述の通り、前にここに来た19年前、病み上がりで雪山登山をした私達は(←こう書くと、我ながら物凄い奴だという気がする:汗)、前山寺の「くるみおはぎ」にもフラれ(TOT)、腹ペコで実に寒々しい思いをしてこの辺りを通った。

そしてこの中禅寺の門前で、ヨレヨレになりながら「この辺りで食べ物を買える場所は無いですか」と、お寺から出て来たお婆さんに尋ねたのだ(笑)。

お婆さんは気の毒そうに「今日は大晦日でどこも準備に忙しいし……」と答えて去って行った。
私達は「せめてちょっと休憩して行こう」と、ここに座って二人で話し込んでいた。

「さて、いつまでこうしていても仕方ない。別所まで我慢、夕飯まで我慢」と立ち上がりかけた時である。
(この時もうちょっと早く立ち去ってしまってたら、お婆さんに気の毒した(^_^;))
お婆さんがまた門を開き、「こんな物しか無いんだがね」と、牛乳とキンピラ牛蒡とパンを持って来て下さったのだ!

あちらもたぶん「行ってしまっては」と、ホントに急いで台所からありあわせの食べ物を持って来て下さったのだと思う。
パンだけでも(もぉこの時は(TOT))有難かったのだけど、ちゃんと飲み物と味のついた食べ物ぐらい、と気を配って下さったのだろう。

我ら夫婦は、今でもこの話を何度もする(笑)。
その後、やはり忙しかったのか(スイマセン(^^;))、お婆さんの姿が見付からず、あるいはあちらも気兼ねして出て来なくなってしまったのか(スイマセン(^^;))、頂いた時に御礼を言ったきりになってしまったのが心残りだった。

そういうわけで、我々にとっては「薬師如来像のあるお寺」ではなく、ここは「生きた薬師如来がいるお寺」なのだ。

お婆さん、本当にありがとうございましたm(__)m。<19年も経った今

その後、今は一軒二軒ぐらい何か出来たかもしれないが、今回車でパ〜ッと通り過ぎた限りでは、この辺りにはそういうお店はあまり見当たらなかった。
前山寺を出た時に、チラと何か看板を見たような気もするが……。

確か「龍光院」には「山菜料理」の看板があった。確かめてないが前予約ではなかったかな……。

出掛ける際にはお寺に料理の予約などするか、食料品を携帯して歩いた方が無難な所かもしれない(^^ゞ。

さてさて、さらにポツポツと雨脚は増す中を、一路、別所に向かっている。→
この辺りもいい風景なんだな〜(笑)。



<別所>

19年前、前山寺まではバスだったが、その先は全行程が徒歩だった。
だいぶ距離があるんだが、この時は若かったのかな〜(笑)。

途中「温泉マーク」入りの「別所→」という書き文字がガードレールにあった覚えがある。そこで道を間違えてしまいそうな箇所だった。
当時、疲れてヨレヨレになりながらも笑った(笑)。いかにもそこでよく道を尋ねられる地元の人が、マジックで書いた、という感じの「標識」だった。

「今でもあれが残ってたらいいね(^^)」なんて言いながら、今回は車だからスイスイ〜。別所駅までやって来た。

で、ここからが「2000年、8月のたわごと」だな、この辺りは(^^ゞ。

これが「上田交通別所線」
別所駅の待合喫茶店

この電車の丸窓が懐かしい(^^)。
そして喫茶店はその名もズバリ「丸窓」。ここまで来れば何か食べられるヨ〜ン(笑)。

ちなみに別所は終点。道路も上田方面から線路とほぼ平行にやって来て、駅を通り過ぎてさらに奥(市街)に入って行く。

アーケードを左に入る。
温泉街で最初に出会う「旅館花屋」

19年前の遭難ギリギリの旅(笑)では、この「花屋」に泊まった(^^ゞ。
当時の料金としても決して安くはなかったが、別所でもっとも有名な旅館で、一度は泊まってみたかったんだな。
内部の渡り廊下がいたく風情があり、温泉もいい。よく「湯の花殺人事件」みたいなミステリードラマなんかに出て来る(笑)。料理が食べ切れない程次々と出て来て、凄かった覚えがある。

まず温泉街をゆく
右が2000年の時の宿
宿の向かいが「大湯(葵の湯)」

この「葵の湯」は源義仲にちなんでそう別名されてるようだ↑。2000年8月は翌朝に入りに来た(^^)。

他に、真田幸村の隠し湯と言われる「石湯」、「大師湯」「玄斉湯」「久我湯」など、別所温泉は古く平安時代の和歌集にも「七久里の湯」として名が知られ、温泉の効き目と信仰が結び付いて、仏教の霊場になっていった事が伺われる。

「別所」という地名じたいは鎌倉期ごろからのようで、塩田北条氏の「別荘」の意味合いがあった、とも言われている。

「大師湯」2000年夏の朝入った
看板だけ拡大
そして「安楽寺

真ん中の写真にも案内板があるが、「大師湯」と「安楽寺」「常楽寺」は歩いて行ける距離ね(^^ゞ。



<安楽寺>

ここも2000年夏は翌朝、湯巡りのついでにお散歩した♪ 今回は残念ながら、この辺りに来てかなりの豪雨に見舞われ、車の中から撮影するにとどまったが、車で行ける限りの所まで行ってみた。 ↓

参道。左にアジサイ・右は蓮池
山門に続く杉並木
←拡大。階段と「黒門」

こたつ的には、この安楽寺の鬱蒼と茂る杉木立と門前の長い石段を見ると、「真田忍者が木の間を飛び交う様子が目に浮かぶ」とか思うのだが(笑)、それは「真田太平記」で草の者たちがよく出入りしてたからであって、これがこの寺の由緒ではない(当たり前っ:笑)。

実際には、境内の裏手に長い坂道を上がった所にある「国宝三重塔」が有名。
「八角三重塔」。長野県下でも第一に国宝として指定され(他に長野には4箇所の国宝がある)。八角形の塔は日本ではここだけ。中国でも木造のとなると、西省の仏宮寺にのみ現存。

安楽寺は824〜834年創建と伝えられるが、開山は鎌倉時代。開山の惟仙は修行で中国にいき、中国の高僧、道隆に巡り合った。惟仙の案内で禅宗を広めに来日した道隆は、1253年、鎌倉の建長寺を始めた。
が、折悪しく蒙古襲来に遭遇し、二人が苦難の時期を支え合ったやりとりが手紙に見られ、道隆が惟仙に「早く建長寺に来て、首座(座禅の首位)を務めて欲しい」と頼んだ物もある。
また道隆は「建長寺は鎌倉で、安楽寺は塩田で、それぞれ100人、50人の僧が修行し、仏教の中心となっている」と書き残している。



<常楽寺>

白いサルスベリの咲き群れる道を行き→
まず「別所神社」に

2000年8月は電車でいきなり別所に到着し、一度宿に入った後で「北向観音堂」に出掛けた。
この「北向観音」は観音堂にあり、「常楽寺」がお守りしている。が、今回は常楽寺も通るだけ(^_^;)。

元は「別所三楽寺」と呼ばれ、安楽寺・常楽寺の他に長楽寺があった。

いずれも、やはり824〜834に慈覚大師が開いたと言われ、有名な「北向観音」は長楽寺にあったが、長楽寺は廃絶したものと見られ、1694年から常楽寺に属した。常楽寺↓→

この「北向観音」は、鬼女紅葉を退治するのに平維茂が北向観音の加護を受けた、とする「鬼女紅葉退治の伝説」で江戸期の歌舞伎や芝居でも多いに持て囃され、当時の絵馬が奉納されている。
「北向」とは長野の善光寺を指し、一方の善光寺はここ別所の北向観音を向いている事から、この両方を対で参詣しないと霊験を得られない、とされている。

常楽寺は、全国でも珍しい石塔(多宝塔・多層塔)で知られ、安楽寺と同じく学問所として名をなし、前述の安楽寺開山の惟仙もここ常楽寺で学問を修めた。

この常楽寺の駐車場で、いきなり雹に見舞われた(^_^;)。。でも私ら夫婦は安穏(笑)。
「出て来る時、梵天丸さまがハレルヤを歌ってくれたから、すぐ晴れるの(^^)」
そして言ったことは現実のものとなった。これより別所を出て上田方面を目指し、さらに北上して坂城に向かう内、空はだんだんと晴れて行った!

まずは別所から上田へ
途中から北上して坂城へ
山頂に軍事要塞のような物が

そう! この軍事要塞のような影(笑)こそ、まさしく「戸倉上山田温泉」、荒砥城跡の山なのでぃす!



<荒砥城跡>

写真ではサラッと流したが、実際には別所から荒砥城までの行程はちょっとした距離(^^ゞ。

ルートは別所から東へ進み神畑を左折、65号線に入り東北へ。上田原古戦場を通ったら、上田まで到達せず、その手前で77号線に行き会い左折、北に向かう。この77号線が結構長い(笑)。

ちなみに上田原古戦場とは、上田城下を西に出た広い地域で、村上義清と武田信玄が戦い、村上方が圧勝した戦い。
武田方は、板垣・甘利といった最重臣が戦死。周辺に墓がある。昔はわかりにくい史跡で、エンエンと歩いた覚えがあるが、今では道路にデカデカと「古戦場」の看板が見える(^^ゞ。
この上田原古戦場跡を超えてからが、「まだかな〜もう過ぎちゃってるかな〜」と言いながら、ずいぶん走らされる。

すなわち77号線がそれで、この道は新幹線と在来線の西側をほぼ平行に走っている。距離はあるが、ひたすら北上して行けば上の写真にあった山がずーっと前に見え続けるので、非常にわかりやすい(^^ゞ。

これまでずっと、上田、坂城と簡略して書いて来たが、これはかなり縮小された地図でもまず確認できる地名なのでそう書いた。
実際に細かく見れば、南から北へ「上田」「西上田」「テクノ坂城」「坂城」、そして正確にはもう一つ先の「戸倉」という駅が、もよりの駅に相当する。

ただ戸倉駅の方がさらに北にあるので、車の場合は、坂城を通り越した辺りから山に注目した方がいい(^^ゞ。

荒砥城跡のある山は、戸倉駅から南西に開けた「戸倉上山田温泉」街を、さらに西側から囲む山々の一画。
77号線を北上していく道路からは山しか見えないが、逆に戸倉駅から行く場合は、戸倉上山田の町の背景として、山腹に「戸倉上山田温泉」という、どでかいネオンを配しているから、物凄〜くわかりやすい(笑)。駅からなら、タクシーを拾う方がいい(^^ゞ。
戸倉上山田がわから見てみる(帰りに撮影)。↑

で、ここからは「2000年、9月のたわごと10月のたわごと」の通り。
特に荒砥城そのものについては、詳細を載せてる親切なサイトも今はある(^^)が、「10月のたわごと(2000年)」の通り、村上氏の一族山田氏の城であったというだけで、遺構が残ってるといった場所じゃない(^^ゞ。

まずは城跡の麓(山の入り口)に到着

この写真パネル入りの看板は、城跡に到達するまでに、途中「日本歴史館」「奥津神社」といった施設が見えるのだが、そのうちの「日本歴史館」の紹介(入った事無い(^^ゞ)。

で、この道から上がるや否や、わりと急な坂の連続(^_^;)。亭主は松代の妻女山や皆神山と並んで、「ここの坂を登るのが俺の課題」と長年言っていた(笑)。

奥津神社の看板
坂は揺れるので平地で撮影
まず見える金の観音像

左の写真には「善光寺大本願別院・男女和合の神・奥(サンズイがつく)津神社」と書いてある。金の観音像はどこの敷地の物かわからない(^^ゞ。

↑「日本歴史館」はデカイ看板が途中に出てたと思う。歴代天皇の肖像画があるらしい。あと確かマッカーサーの像とかあった気が(笑)。

さらにちょっと登ると「奥津神社」→
こちらは「和合の神はここ!」と階段に書いてある(笑)。前回(2000年)は地元の人に促されて途中までちょっと登った覚えがある。

この「日本歴史館」か「奥津神社」のどちらかの建物が、下を走る道路から見えた「軍事要塞」みたいな建物じゃないかな〜、と思う(^^ゞ。 テッペンにチョコとあった影は荒砥城跡の施設に間違いない。

そして! いよいよテッペンの荒砥城跡に到着〜!!(^O^)
車はここまで。下の地図「現在地」の所に駐車してあとは徒歩っ。じゃ出発〜っ!!

光っちゃって見えにくいけど城内の地図(^^ゞ
駐車場の隣からスタート!

じゃ、まずは最初のウネリを一巡。↓

わりと登りやすいよ(^^ゞ
見えて来るのは管理塔の一郭(これはトイレね)。

そして「四の郭」に到着。その手前に料金所。一人300円ね(^^ゞ。↓

左は正門と管理塔・手前に「荒砥城」の石碑・右はトイレ
では入城(正門)

正門に入ってから、さらにウネリをもう二巡。↓案内図では二巡めに「三の郭」を示す。

こんな坂道と折り返しを抜けて
見えて来るのは物見塔

そして「二の郭」から建物が建っている。↓

まずは門。上に物見台を備えている、という作りね

ちょっと西部劇か何かみたいな感じ(^^ゞ。テーマパークと称するサイトもあったが、この表現は「当たってる」と思ったな(笑)。

素材については、時代考証より耐久性や補充・修繕のしやすさ優先だろう(笑)。戦闘も無いのに人を住まわせて常時繕わせるなんて、まず経済的に無理。(ヽ(^^;)<戦闘?)

それより何より、これほど高い山の上に築いた苦労を思えば、「よく作ったよなぁ」が実感だな(^^ゞ。

さて中に入る
入って右に登り坂
登って門を振り返る

真ん中の写真は、登ってすぐ見えて来る物見塔↑。これ登れるんで、ここからも門付近を振り返り撮影してみた(^^ゞ。↓

それがこれ。真ん中の道を行って振り返ると→
こんな具合に門からの坂道が見える

実は上の右の写真、もう1個上の段に作られた「本郭」で撮影した物。だから物見塔が下の方に見える。でも「二の郭」と「本郭」は殆ど同じ作りなんで(^^ゞ。

門の上の物見台(背中は亭主:笑)
じゃ今度は物見塔に登ってみよう(^O^)!

るる・るんるんるん〜♪
と階段は登れちゃうが、途中は足元ちょっと恐いから撮影は断念ね(^^ゞ。登ってからの展望をご覧あれっ。

3枚パノラマ。まずは南〜西〜北西方面の山々。

後で、さらに高い「本郭」から写した山の下側斜面

↑西に聳える山々はいわゆる天然の要害で敵もまず攻め込めない箇所(^^ゞ。そういった西や北西方面には、麓に館跡とか武家屋敷とか、そういった建物や集落が存在してたようである。

3枚パノラマ。南方面。山の途切れたさらに奥に「上田」

後で「本郭」から写した、戸倉上山田の町並みと千曲川

↑ざっとした説明になるが(^^ゞ、向かって左側の山並(五里ヶ峰)が、村上義清の葛尾城があった山を含む。右の山もほぼ村上氏の勢力範囲。
一方、中央の霞んでる山々の奥に、大須賀・出浦などの勢力が割拠した地域があり、そのさらに奥に上田がある。

4枚パノラマ。北西〜北〜東方面。山の途切れる奥に「松代〜善光寺平」

後で「本郭」から写した町並み(東がわ)

↑一方、北東方面。横に長い山(五里ヶ峰)の左に「屋代城跡」。その名の通り屋代氏が割拠した。
その裏側あたりに松代があり、真田氏は江戸期に入ると上田から松代に移された。ここから見える風景を一足飛びに、南から北に乗り越えていった事になる。

4枚パノラマなのでかなり小さくなったが(^^ゞ、北西方面に軽く写ってるのは、この城の「本郭」として、一段高い所に設置された城郭風施設。各二枚目の写真は、それぞれ「本郭」まで行って撮影。

この塔から見える「二の郭」と「本郭」施設を合わせて真下を写すと……。↓

こんな感じ。この手前の小屋は→
塔から下りて撮影。内部は資料館になっている。

中に入ってみると、↓

左が上映室(テレビで説明)
右が資料展示室(パネルや模型・年表)

2000年「10月のたわごと」に出て来た「アラト君(笑)」は、まさにこのテレビ画面から出て来たのだが、残念なことに今は「アラト君」は出て来なくなっちゃった(;_;)。。何でぇ〜〜〜?!
右の部屋には、だいたい前に書いた史実が書いてあったが、わりと好きなのは写真右にある箱入りの模型(^^)。
この山の裏手の武家屋敷とか集落のミニチュア再現があったと記憶する。

いよいよ「本郭」に入る!

左脇の門から
進んでから「二の郭」を振り返る

←さらに遠ざかる。

登っていくと、やがて、さっき物見塔から見えた本郭の小屋が見えて来る↓
こっちの中は、ただのガラン堂だった(^^ゞ。くたびれて休むには丁度いい感じっ♪

ってわけでここが頂上〜♪
小屋から見下ろす風景はこんな感じ

ここに遺構が残ってなかったり、当時の城の規模が明確に判らないのは、戦後、遊園地を作ったために破壊されたからで、発掘調査は行われたが検出できなかったという。

が、森庄蔵という人の「村上持下山田」という絵図が残ってはいて(これまた史料的に確実とは言いがたいかもしれないが(^^ゞ)、入り口で見た案内図など見ると、この絵図をモデルに設計したのかもしれない。
その絵図によると、千曲川の水運を意識してか、川までの距離が示されているという。

本郭から見下ろして見る風景。
長野県は今や財政悪化の代名詞となり、有名なアノ知事(笑)も出たりしてるが、世の中、破壊された遺跡なんて腐るほどあるだろうし、財政もいろいろある中、それでも本来あるべき姿に少しでも近づける努力をした点は見上げたものだ。

とか何とか言いながら、結局の所ここに来る大きな理由としては、「武田(真田)×村上」攻防戦の各戦略拠点を、周囲の山々に見に来たわけだ(笑)。
って事は、周りが遊園地でも登ったかもしれないね(爆)。
(まぁ遊園地じゃブチ壊しだったとは思うけどな(^^;))

と言うのも、この村上王国攻略に際しては、村上氏の麾下とか一族とか家臣って連中の寝返り劇が、かなりイケる(爆)。

前回と今回に渡って書いたが、1548年、信玄は上田原で村上義清に敗北したものの、1553年には、最後まで頑強に抵抗していた塩田城を落とし(今回)、生島足島神社に乗り込んで、上州〜信州の武将から忠誠を誓う起請文を差し出させた(前回)。

実はこの二度の契機に挟まって、まず1550年、砥石城の合戦という、これも「武田×村上」の戦いが行われている。この時、ここより北東に位置する松代とその近辺では、早くも武田氏による懐柔工作が始まっていた。

何故この坂城でなく、それより北が先なのか。一つには、この坂城一帯は村上氏が強い勢力を持っていたからだろう。
もう一つは、大河「武田信玄」では、この懐柔(あるいは霍乱)工作に真田幸隆が関わっていた(笑)。それでいくと真田氏は、信州最東端の真田に勢力を張っていたから、南東方面から触手を伸ばして今の松代あたりに到達した、という見方も出来なくない(^^ゞ。

現に、松代を囲む東側の山に寺尾城跡があるが、ここの寺尾氏、さらに松代の西側にあった鞍骨城の清野氏などは、この頃から村上氏を見限って武田方につき、怒った高梨(北)と村上(南)は寺尾を挟み撃ちしたが、この寺尾の救援には、確かに真田幸隆が駆けつけている(^^ゞ。

寺尾山と近接した尼飾山(尼飾城)の東条氏なども何度も信玄から誘いかけられたが、これに応じず、いよいよ村上義清がその本拠、葛尾城を飛び出した1553年、これが二度目の契機と言えるが、東条氏も真田幸隆に攻められて敗れ、義清と同様に上杉謙信を頼って越後に落ち延びている(^^ゞ。

また、やや南の狐楽城の大須賀氏、和合城の出浦氏、北東で松代より近い屋代城の屋代氏も、この時までには武田の傘下に服し、前後を挟まれたこの荒砥城などは、葛尾城が落ちれば「以下同様」にならざるを得ないから、恐らくこの時に武田方に支配されたと見られる。

そして同年に塩田城が落ち、東信濃は完全に信玄の手中に……とこんな具合かと(^^ゞ。

そして1553年に第一次、1555年に第二次、1557年に第三次、1561年に有名な第四次、1564年に第五次と川中島合戦が戦われた。
その際に武田方の最重要拠点として松代に築城された海津城の城将は高坂弾正であった。
が、1563年に岩櫃、1580年に沼田・名胡桃といった上州の城々を物にし、上田にまで進出して1583年から城を築いたのは真田氏である。

出ては消えていく信州の土豪の中で、真田氏は確かに「出世株」であったと思う。

そんな事をツラツラ夢想しながら時を過ごすと、ここの価値はつくづく周囲の展望にあるとは思った(^^ゞ。
そう苦労せず、たった300円で、北から南まで信州の山々を一望しつつ静かに過ごせる高所としては秀逸と言えよう。

山頂にあった山・地形パノラマ図

さてこれより旅の最終地点、松代に向かう。



<雨宮の渡し>

松代へは、先々月に書いた通り、「象山屋」さんに会いに行くのが目的だった。
それが終わったら夜間でも車を走らせて帰る予定でいたのだが、車中亭主の気が変わる(爆)。
「せっかく松代に行くんだから、もう一泊しよう」
鶴の一声で松代宿泊が決定(笑)。

ここはまだ戸倉。標識は「戸倉駅」と書かれている。→

そして戸倉を出て屋代を通る頃、車の中から携帯で宿に予約。夕飯の材料が間に合わないとの事で素泊まりに決まる。

屋代まで北上したら、右折して東に向かえば松代。
この辺りは長野電鉄の沿線。「屋代」を始発として北東に「東屋代」「雨宮」「岩野」「象山口」「松代」。松代のあとは7駅で「須坂」に至る。

途中、「雨宮の渡し」に寄る

松代には一時期は毎年来ていたし、今でも三年に一度ぐらいは来るかな(^^ゞ。これで17回目の訪問だったと記憶するが、実は「雨宮の渡し」に来るのは初めて。
駅で言えば「雨宮」を降りてスグ。

ここは川中島合戦関連の史跡でも最西端に当たるので、電車&徒歩でよく来ていた私らは、ここまで足を伸ばす事が無かったのと、この頃では「全部行っちゃうと行く所無くなるよね(^^ゞ」みたいな感じで、「取っておいた」というのもある(笑)。

周囲は田園&住宅街
石碑が建つ公園

見ての通り、整頓された緑の公園の中に石碑が建っているだけ。

荒砥城で最後に書いた通り、川中島合戦は1553〜1564年までに通説5回行われた。
特に有名な1561年の激戦では、謙信が信玄の策略を事前に察知し、攻撃をかわすべく闇夜を移動。武田軍の本営、八幡原に全軍を集結させ、先制攻撃に成功した。

その際、闇夜を徹して音もなく行軍した様子が、後世「鞭声粛々」と歌われて知られたが、その渡河地点がここ「雨の宮の渡し」である。

千曲川の流れは当時からだいぶ変わたっため、当時の場所を示すべく、今では碑を建てて場所の保存に当たっている。
赤いマークが「現在地(雨宮渡)」、青い矢印が「上杉軍」、茶色い矢印が「武田軍」の動き。それぞれの出発地点が「妻女山」。ぶつかりあってる地点が「八幡原古戦場」。
そして、間を縫うように横に伸びる水色の線が「現在の千曲川」。ずいぶん北に行っちゃったんだね(^^ゞ。



<松代へ(象山屋)>

あとは一路松代に向かう。夏だったがさすがに日も暮れて来た。

見慣れた山並が見えて来る(笑)
途中「七面さん祭り」の提灯が

だいたい秋に来る事が多いので、この「七面さん祭り」の賑わいを見るのは初めて。
これは街の「蓮乗寺」で毎月9・19・29日に縁日が行われるのだが、毎年夏には露天も出て特に賑わう。災いを除き幸福をもたらす仏さまとして地元では信仰が篤い。

さて町に入ると、グングン「象山屋」を目指すのである!(笑)

この辺りは「2002年・6月のたわごと」でもちょっと書いた(^^ゞ。

お店に入って「こたつ城主です〜」と名乗る怪しげな自分を実感。。
改めて……ちょっと恥ずかしいゾ、この名乗りはっ、オフ会でもないのにっ(^^;)。。
特に松代で知り合う人に何らか名乗る場合、だいたいは本名を言うもんだから、尚更であった(汗)。。

でも若奥様が「すぐ判りました〜」と応じて下さった(爆)。
結構長居してベチャベチャ喋った覚えがある(^^ゞ。お姑さんを呼んで下さり、お二人で注文の品を次々と包んで下さった。
毎度恐縮するんだが、「真田の太鼓」ファンの我らは、「これでもかっ」というぐらい大量に買うのだっ!
するとお店の方はいつもテンテコマイしながら、ドンドン箱に詰め1個1個包装して下さる。

左が「真田の太鼓」。クッキーとケーキの間っぽい生地で杏子ジャムとバタークリームを挟み、上からシロップを塗ってある。
右のピンク「くるみクッキー」も美味しい(^^)。

象山屋さんでも言われ、この後、松代の各所に寄るたびに地元の方に言われたのは、
「お城にもう行った?(^^)」
↑これである。

街にはあちこちで「エコールド松代」の看板が見られ、その賑わいにちょっとビックリ(゚.゚)!
つまりこの賑わいは、全てこの年(2004年)の7月、つまり殆ど「今出来たばかり」の「松代城」の完成を祝ってなのだっ。
「明日はぜひ見よう(^^)」
と二人で頷きながら、この日はようやく宿に向かう。

暮色たちこめる中、松代に到着。宿に急ぐ〜〜!

↑町外れの宿を目指す途中から撮影。左が皆神山、中央がノロシ山。

次回で最終回(^_^A)。
旅程としては「オマケ」だったんだが、松代でも写真をたくさん撮ったので、次回もやろう!(笑)

<つづく>

2005年08月28日
 
     




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