2004年。この年は4月から、スカパー時代劇専門チャンネルで「真田太平記」の再放送が始まった。 本放送の1985年以降、信州(長野)にはよく出掛けたものだが、上州(群馬)に点在する真田の城々は、鉄道の旅で見て廻るのは大変に思え、ついぞ行かなかった事など再放送を見るにつけ思い出された。 今は車もある事だし、又ちょうどその前年、所用ついでに沼田に行ったのを初めとし、年が明けて日光に行った帰りに寄った時も、とても好印象だったので、今度はいっちょ真田ツアーをやってみよう(^^)、と我々夫婦は乗り出した。 5月、GWに上州〜信州ツアーは敢行された。 なのに、この時に写した写真は全部パーになってしまったっ!\(>o<)/<エーン というわけで、さらに3ヵ月後の夏休み、もう一回上州〜信州ツアーを試みた。 それがこの2004年8月。写真もたっぷり撮ったので、4回ぐらいに渡ってお届けしたいと思う。 最初にざっとコースを言う。 1日目は、関越自動車道を沼田に出る。沼田〜岩櫃までが上州(群馬県)。そこから信州(長野県)に入って上田で一泊。 5月のGWに行ったコースはここまで(^^ゞ。 その後のコースは、これまで行った事のある所を懐かしがって辿ってみた。 2日目は、上田から別所に出る途中を寺社巡り。別所からは北上して坂城まで。あとはさらに北上して松代に一泊。 この8月の旅行は、一つだけ、この松代にちょっとした用事があった。 それは、この「城主のたわごと」2002年5月〜6月の回で、長野県松代のお菓子「真田の太鼓」を紹介した事があったのだが、このお店の方がネット検索でこたつ城を見付けて下さり、わざわざメールで御礼を言って下さったことがあった(^^)。 象山屋さんという。 メールには「又お越しの際には、ぜひお立ち寄り下さい」とあったので、行く前に電話してみた所、またメールを下さって「お城が出来たばかりなので、ぜひ見て行って下さい」とご案内頂いたので、「じゃ出来るだけ松代にも立ち寄ってみよう(^^)」と話はまとまり、それで松代まで足を伸ばした。 というわけで、3日目は松代で過ごし、あとは帰路に着いた。 では、始まり始まり〜(^O^)! <沼田・沼田城> 家を出たのは朝5〜6時ごろで、沼田で高速を降りたのが9時ごろだったように思う。 沼田の町に入って来ると、お城(公園)のある辺りまでの道路もずいぶん写真を撮った。 町並みが小じんまりとして城下町っぽい風情もあり、個人的には好きなんだが、写真だけ見ると他の町と変わりないように思えたので割愛(^^ゞ。 そして沼田城(城址公園)に入って来る。 ここについては、2004年12月<沼田城跡(城址公園)、1>で既にレポしたので、説明は省略するが、写真はもう一度ざっとだけ(^^ゞ。
進むと広場がある。 広場の左側が通路、通路の果てに「鐘楼」。
通路の右側は花壇。花壇の奥に「利根英霊殿」、動物園(笑)、「西櫓」堀の跡、という配置。
このコンモリとした緑がGWには見事なオレンジ色のツツジで、これが夢のように綺麗だった。写真がダメになったのが悔やまれるが、この8月もそれなり色とりどりの花が咲いていて目を楽しませて貰った(^^)。
この「御殿桜」。樹齢400年を超えると言われ、この城の形見の桜とも言われている。 この前の前、2004年4月に来た時(「たわごと」2月)は夜だったが見事に咲いていて、写真を撮ったつもりだったが写ってなかった(TOT)。。 沼田城もこれで4回目なのね〜としみじみ思いながら(笑)、広場を通り過ぎさらに奥に。橋を渡る。
この「天狗堂」(上右)について、前回(2004年12月〜2005年1月)のには書かなかった。 実は5月、GWにここに来た時、この沼田公園の園内食堂で、私は天狗のお守りを買った(^^)。 その時は、一緒に食堂に置いてあったパンフレットに目を奪われ、どうして天狗なのか気にしなかったのだが、後になって地元の謂れを知った次第(^^ゞ。 「天狗面」と案内板にはあった。 その案内が字が読みにくかったので、家に帰って調べた所では、沼田の祭り「天狗みこし」と関連するように思う。 同市の迦葉山(上発知町)という霊山は、山岳信仰の名残をとどめて「日本一大きな天狗面」で知られるそうだが、沼田のまつりに登場する「天狗みこし」はこれに由来するもので、天狗面を神輿仕立てにし、祭りの時にはこの神輿を担いで練り歩くという。 そのお面がここに安置されてるのでは、と思う。 迦葉山という所にもいつか行ってみたい(^^)。
この時も綺麗な田園風景が拝めた。↓ 城下の街なみとお城の敷地をパノラマ5枚で繋げてみた(^^)。↓ <沼田〜名胡桃へ> さて、ここからがこれまでにもお届けした事のない風景たっぷり(^^)。 まずは沼田城からそう遠くない(車なら(^^ゞ)名胡桃(なくるみ)城跡に向かう。 ここは初めて。GWにも来た事が無かった。 場所は沼田より一つ北のインター「月夜野」の方が近い。駅では上越線「沼田」の一つ北「後閑(ごかん)」が近い。 ウチらは沼田公園(城跡)より西側の沼田駅(というか上越線の線路)を超えて行った。 写真は上越線を西に超えて下り坂。沼田駅周辺は殆ど山(笑)。
坂を下りると、カーブ上でグア〜っと展望が拓けて来て、そりゃ爽快じゃっ(笑) 線路を山越えしたら17号線に合流し、上越線に沿って北上。「湯舟橋」という橋を渡るとスグ「名胡桃城址」はある。
この周辺、何度も行き来した(^_^A)。 何しろ名胡桃城址は山をなしてるわけでも建物でも勿論無く、この一本の目印がポツッと立ってるだけなので、意外と目に付きにくい(と私らは思ったな)。 それよか車で行かれる方は、上右の写真「名胡桃倶楽部」を目印にした方がいいかも(^^ゞ。 トイレ休憩のため、殆ど無理やり店を開けて貰って入った(笑)。 パッと見と言い、看板の「炭王」とか「炭倶楽部」の字で、一瞬「ああ、焼肉屋か」と思えてしまう(トイレでも貸して貰わなければ気付かなかった)が、中は意外とペンション風の綺麗な喫茶店で、クラシック音楽などかけてて、ケーキがすこぶる美味い( ̄∇ ̄)<エヘ。 これがなぜ「炭」かと言うと、喫茶店とともに備長炭を展示販売してるからのようだ(爆)。 焼肉屋ではありませんよ(笑)。 で、この喫茶店と城跡の位置関係は、城址が手前、喫茶店の方が奥にある。 だからこの店で気付いても遅いわけだが(^^ゞ、我々はこの店でケーキセットを食った後、ここでこの周辺の案内地図入りパンフレットなど頂き、さらにここに駐車させて貰い、隣の名胡桃城址もゆっくり見れたので、「ここが目印だよね」って話になっている(笑)。 <名胡桃城跡> というわけで、やってきた道からは、正確にはこう目に入って来る。↓ 手前が「名胡桃城址」、奥に喫茶店「名胡桃倶楽部」
正面から入って行く。↓やはりどう見ても、だだっ広い「ただの野原」(爆)。 早起きして寝不足ぎみだったのと、さすがに8月の暑い日ざしに当てられて、この野原に入った最初は、クローバーの密生する地面を見てる内に軽い眩暈に見舞われた(笑)。
南には富士山(天狗山)と呼ばれる高い山があり、のろし台とされていたとも言う。 また北条氏の文献に「百姓屋敷」とあるそうで、これは戦国期の砦などに多い粗末な掘っ立て小屋の事、と案内板では推定されていた。 私としてはこの「北条氏の文献」ってのは、やっぱ取られた時に調べられたのかな〜(^^ゞ、とか思った(笑)。 ↑この風景から見える山(右端の遠景)が「のろし台」かどうかは不明。単に順路に沿って写真を出してるだけ(爆)。 ただ、広い野原だった区域より奥に入って行くにつれて、「おおっ、やっぱり山にいる!」とだんだん実感していく作りではあったな(^^ゞ。 で、最初の野原を行き過ぎると、上の写真、中央付近の高台に入って行くわけだが、ちょっとした広場があり、その奥に城址石碑が立っていた。
1492年ごろ、沼田城主、沼田景久は、その子息を名胡桃・小川・川田・石墨の各地に配し、領地拡大を図ったが、まだこの地に城郭は築かれていなかった。 16世紀半ば、利根沼田地方は戦乱の渦中にあって上杉や北条などが入り乱れ、1578年、沼田城を落として手に入れた北条氏の勢力圏となった。 これに対して上杉・武田方の真田昌幸は、渡河点警護と沼田城奪取の前線基地として、利根川右岸に諸城を築城、名胡桃城もこの頃に作られ、城代には鈴木主水重則が入った。
1579年、北条は二度この城等を攻めたが敗退。逆に翌1580年、真田はここから攻め出し、沼田城を攻略。これ以来、この地域は真田領となり、岩櫃と沼田両城の中継地となった。 1586〜1588年には、南側山頂の北条の城、権現山(榛名峠)城と対立して戦闘が絶えなくなる。 そして運命の1589年、豊臣秀吉は北条に上洛を要請し、その条件として、真田には替地を与え、沼田城と周辺の領地を北条氏に与える処置をしたが、名胡桃城だけはなぜか真田の所領として残された。北条の武将、猪俣那憲らはこれを不満として11月に名胡桃城を攻略。たばかられた鈴木主水は沼田で自害。秀吉はこの事件を宣戦布告の口実として、翌1590年、小田原に北条氏を攻め滅ぼした。 この、いわゆる「名胡桃事件」については、2005年1月の<沼田・正覚寺>にわりと書いたので、今回は省略ね(^^ゞ。
意外と奥の奥がまだあって、最初に感じた眩暈もすっかり退散(笑)。上左のウネウネした地形を撮影した後、細くて坂の急な道を降りたが、手すりもユラユラしてるし、ハッキリ言って結構恐かった(^_^;)。。
さて、沼田から名胡桃に来た行程を改めて振り返ると……思ってた以上に近いなっ!(笑) この距離で片や北条(沼田)、片や殆ど敵地に孤立した真田側の鈴木(名胡桃)というのは、「結構ストレスばりばりだっただろうな〜(^^ゞ」などと思ったものである。 お互いイライラしながらも、秀吉の手前、不自然にご挨拶なんか交わしてたのかも(笑)。 <如意寺> 「名胡桃倶楽部」で貰った、絵地図入りの観光案内を見たら、「上杉謙信の供養塔」というのが載っていた(゚.゚)。 この8月は、渋滞に巻き込まれたGWと違って時間に余裕も感じられ、また2度目のコースというのもあって、行く先々に不案内感も薄かったので、寄り道してみよう、という事になった(^^)。 どうやらお寺らしく、絵地図を頼りに近くまで来てから、どうしても見付からないので、小さな村の雑貨屋さんに行き方を尋ねたら親切に教えて下さったので、やっと辿り着いた(^^)。
社伝によると、名胡桃城主、三郎景冬の姉、如意姫が開祖とされる。 「景冬(゚.゚)」 と、この時は誰の事だか判ってなかったが(笑)、後で調べたら、最初に名胡桃を領地にしていた沼田景久(↑上記・名胡桃城参照)の子とか、真田氏の前の築城者、とか説明されてる記述に出会ったから、いずれ沼田氏の時代である。
涼しげで、しばらく居たくなるような風情だった(^^)。 さて、如意姫だが、この女性は才智と美貌に恵まれ、特に和歌を好んだので、文明年間(1469〜86)、召し出されて京にのぼり、右大臣の妻となり、宮中に奉仕し、後花園帝の寵愛を受けたため、他の宮女の嫉妬を浴び、宮中におられず、1458年に名胡桃に戻って来た。 翌1459年、若宮が誕生。 つー事は、これは右大臣の子ではなく、後花園帝の子、という事なのだろう(^^ゞ。つまりは不倫だ(爆)。 しかし皇子は3歳で亡くなり、如意姫は出家して尼となり庵を結んで如意観音を安置し、以来これがこの寺の創始となった。 1531年、下牧の玉泉寺6世、継善和尚が曹洞宗として中興、1575年に現在地に移り、1617年には11世長薫和尚が寺格をあらため、鳥越山宝珠院如意寺となった。 穿ってみれば、美貌と和歌の才をもって京の右大臣家にまで嫁いだものの、懐妊した途端「自分の子ではない」と撥ね付けられて追い出された、とも思えなくはない。 沼田・名胡桃と聞くと、当然のように「真田」しか連想できなかったが(^^ゞ、真田にまんまと領地を取られる前の沼田氏にも、京の勢力に通じ、和歌をたしなむ姫君がいたり、その後も平八郎(2005年1月<沼田城跡(城址公園)、2>「平八石」)なる剛勇の武士が出たり、と逸話が沢山ありそうで面白く感じた。
ただでさえ解決してないのだから、国主不在でこの土地問題が片付くわけもなく(笑)、下平は独断で上田に入城するわ、驚いた上野家成は大熊がそそのかしたと騒ぐわ、家成に訴えられた本庄は本庄で、今こそライバル大熊朝秀を取り除こうと策動するわ、窮地に陥った大熊は、甲斐の武田信玄の元に転がり込んで謀反を起こすわ、謙信の不在に乗じてめいめい勝手な事をして収拾がつかなくなった(^_^;)。 ついにはこの騒動に東北の勢力まで相乗りするわで、謙信には従兄弟にあたる長尾政景は、どうにかこうにか口説いて謙信を帰国させ、謙信も(今さらながら)やっと武田信玄対策に乗り出した。 これが川中島合戦にいたる「信玄×謙信」の伏線の一つになった。 ……な〜んて事があった(笑)。 謙信を出奔させるほど悩ませた「困った家臣」として知られるが、その後責任を感じてか、特に大熊朝秀討伐などに尽力し、その後も長く上杉陣営において功績を買われた武将だったようだ。 越後から遠い上州において、こうして謙信の死を聞くや供養塔を建てた所を見ても、よほど「申し訳ない」と思ってたんだな〜(^^ゞ、なんて微笑ましく思ったなぁ(笑)。 ちなみに謙信も川中島合戦より後だが、関東を平定しに来て、沼田城にも入った事がある。 <真田ロード1、沼田→岩櫃> 沼田・月夜野を離れ、いよいよ岩櫃に向かう。 いちど沼田に戻り、145号線、いわゆる「日本ロマンチック街道」と呼ばれるルートを使う。 この道路、はじめて沼田方面に来た2003年9月、沼田を挟んで反対方面の日光(栃木・北東方面)に向かった時も使ったが、今回は逆に南西方面を目指す。 特に沼田から岩櫃に向かうルートの風景が素晴らしく、GWには花も多く咲いていたし、道々の空に泳ぐ鯉幟りもたいそう美しく、めちゃくちゃお気に入りのルートなのだが、今回はシャッターチャンスが悪かったのか、あまり良い写真が撮れてない(^^ゞ。 岩櫃に行く途中、「扇屋」さんという定食屋さんを通る。GWはここで昼食を取った。 結構メニューが豊富で、海老ピラフを頼んだら、ちょっとスパイシーでシソの香りも効いて美味しかった(^^)。
シャッターチャンスは今イチだったが、夏は夏らしい風情が道々に広がり、なかなかのどかな風景(^^)。 ↓GWには沿道じゅうの空に泳いだ鯉のぼり。この時期には空竿のみになってた(^^ゞ。 真田の統治下の時代、こんな道を通りながら、沼田(や名胡桃)と岩櫃の間を行き来したんだな〜、なんて思いながら岩櫃に向かって行くのだった(むろん国道145号線なんてのは当時は無いよ?:笑)。 <岩櫃温泉> 岩櫃に着いたのは午後2時ごろだったか……。 GWに来た時、一度道を間違えて来てしまったここ、「岩櫃温泉」(笑)。 本物の岩櫃城跡がある山はすぐ近く(^^ゞ。 「岩櫃ふれあいの郷」と呼ばれる、公共温泉場。 時間が無いから温泉には入らなかったが(^^ゞ、昼間っから結構な客入りで、この日は日曜日だからというのもあっただろうが、やはりイイ温泉だからではないかと思う。 温泉に入りもしないのに今回また立ち寄った理由は、写真撮影もあったが、実はこれ!
白・緑・ピンクの三色、味はどれも同じだが、真ん中で噛むと白いハッカが出て来るのは↑の通り。 「うさぎ玉」で検索してみたが、仙台と盛岡で駄菓子として売られてるらしい。が、中にハッカ粉が入ってる物は見付からなかった(^^ゞ。 このハッカ入り「うさぎ玉」は、群馬県吾妻郡吾妻町矢倉の「金加屋」というお店で出している(^^)。 この「岩櫃ふれあいの郷」では売店で売られていた。 あと、この施設には食堂もあって、今回はここで昼食タイム(^^ゞ。
<岩櫃城跡> さてさて、いよいよ岩櫃城に向かう。 地図で見ると、ここは山じたいが「岩櫃山」という名になっている。 岩櫃山は吾妻八景を代表する標高802mの山で、城は中腹東面にある。 城については、吾妻記、加沢記という史料に城史の詳細があるという。 年代は定かでなく、鎌倉時代初期ごろ、吾妻太郎助エ亮により築城されたといわれ、城郭の規模は1.4キロ平方メートルと上州最大を誇り、後に甲斐の岩殿城、駿河の久能城と並び、武田領内の三名城と称された。 登り口からいきなり「山」っちゅう風情(^^ゞ。
途中「コニファー岩櫃」という看板がよく出て来る。この付近の公営施設なのだが、そっちに城跡は無いから、城跡を目指す場合は行ってはならない(笑)。 やがて中腹の拓けた一帯に出る↓
このいったん拓けた所に駐車場があり、車はここまでしか入れない。 パノラマ5枚(中央がせり出す構図)。中央部左斜め奥に進入する道が入城ルート
同じく5枚。↑の向かい側。
左から駐車場(手前)、天狗丸(奥)、中央に降り口。右は岩櫃城跡の山 1個上の写真にある「入城ルート」から入る。
永禄年間には斉藤氏が支配・築城。 斉藤基国(または憲広)が城主であったといわれる1563年、武田信玄が上州攻略のため真田幸隆に岩櫃城攻略を命じ、斉藤氏は堅城を利して奮戦したが落城。 以後、武田氏の手中に落ち、幸隆は信玄の命で吾妻郡の守護についた。 頂上・本丸までの距離はそう遠くないし、傾斜もキツイ部分には全て階段が設けられているので、登山ってほど重装備の必要はない。 その一方、入るといきなり「ずっぽり山の中にいる」という実感アリアリで、この城山に行った人が、必ず「あそこはいいよ〜」と言う気持ちが凄くよくわかる(笑)。
この緑の一本道ふきんが「中城」と書いてあったかな。周囲は桑の木が生い茂り、最初のいかにも山中の急な坂に比べると、ちょっとした農園の中にでも入った風情。 ちょっと残念なのは、これだけよく整備されて、しかもすこぶる絶好のハイキングルートなのに、「いま城全体のどういう所にいるか」が把握しづらい所かな(^^ゞ。 案内版によると、この城は、本城、天狗の丸、柳沢支城、平沢の根小屋から成す複合城郭で、類例のない特殊な構造を示す、とある。 (ちなみに天狗の丸については次回に廻す(^^ゞ) でも八王子城とか山中城といった、広いけどガチンガチンに整備されつくされ公園よりは、道は狭いし緑も濃く、いかにも地形を利用して作られた「天然の要塞」って感じはバッチリ!! で、思うにこの緑の散策ルート(いま命名:笑)付近なら、多少勾配もゆるやかなので、屋敷ぐらいは建てられただろうって感じはした(^^ゞ。
ここからが「心臓破りの階段」!(大袈裟(^_^;))
この階段、一番低い所から、物凄い藪蚊の大群が飛び交っている(^_^;)。 「さすがは真田! 人は絶えても蚊が忍者の群れと化して攻撃を加える」の様相。。 というわけで、登山用の靴は要らないかもしれないが、虫除けスピレーは必須、って感じ(笑)。
ここが二の丸だったかな(^^ゞ。城郭専門のサイトで見ると、そう書いてある感じも……。 案内板には、中央に指揮中枢の本丸、作戦拠点の二の丸を配置、二の丸から放射する数条の堅堀は、敵の横方向の行動を妨ぐとともに、城兵の出撃路にもなる。柳沢城の重複梯郭構造、平沢集落を縦横に走る堀跡も、中世城郭研究者の注意をひく、とあった。 二の丸から出ているという堅堀はじめ、その他の遺構には廻らなかった気がする(^^ゞ。 ここでやっと「ちょっと休憩〜(^_^A)」。ベンチに座って一休み。 が、ここが頂上ではない(爆)。このベンチの向かい側に、さらにまた階段が……(笑)。↓
これって昔も城内には階段がついてたんでしょうね(^_^;)。 いや、無かったらこりゃスゴイ事だわ(汗)。これホントに城かっ?(笑)
しつこいかもしれないが、あまり平らな面が無いような……(^_^;)。。ここにホントに城が?(再び:笑)
本丸まで入ると、凸凹しつつもさすがにやや平たいと言うか、まぁ広い空間が周囲を取り囲んではいた。 が、日頃から運動してる亭主は、頂上に辿り着くと喜んで、遠くの山に向かってワンワン吠えていたが、運動不足なあたしゃ、もぉバテバテで、すぐには案内板を見る気にすらなれない(^_^;)。。 帰って来てから、どこが良かったかで真っ先に思い出すのは、決まってこの岩櫃城なのだが、こうしてじっくり当時の写真を見ながら書くとなると、何か苦しさばかりが思い出されるのはまことに残念な限り(笑)。
上の写真は降りて行きながら撮影。 城山全体がウネウネとした曲線に囲まれ、局所はいちいち狭く、勾配の急さは前述の通り「階段が無ければ上り下りは無理」という感じで、それまで沼田・名胡桃といった平坦な地のある城跡ばかりで「真田と言っても、やはり武士階級はお殿様(^^ゞ」と思ったものだが、この岩櫃に来ると、「さすがは真田、お殿様からして忍者(^_^;)」と感じてしまった(笑)。 そういや、ここの城代を務めたという出浦対馬守というのは、今では「忍者の統領」とも目されている人。 ちなみに冒頭に書いた「真田太平記」には、「岩櫃の御方様」といって、昌幸の正室、山手殿がここに住んでたように出て来るが、この女性、京の公家、菊亭大納言晴季の娘とも言われる。 「公家のお姫様がこんな所に、ね(^_^;)」と思ったなぁ。 むろん平素、特に女性はもうちょっと平坦な武家屋敷に住まいしていただろう。 が、岩櫃は山としても広大だし、今回は撮らなかったものの、外側からこの城を映した写真には、岩崖が剥き出しの肌が露出しておって、岩櫃全体がとんでもなく急峻な山には違いない(笑)。 <つづく> 2005年06月30日 |
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