<2000年・城主のたわごと11月>




ここまで引き伸ばした甲斐あって(^_^;)、

やっと写真の現像が追い付いたのでぃす!



     
 

7月から始まって、まだやってる信州旅行編である。

しかし、ここまで引き伸ばした甲斐があった。……と言うのも、この旅行で撮った写真のフィルムが、ずぅ〜っとカメラに残っていて、これが、ようやく最近、近場の寺巡りなどして撮影し尽くし、消化されたのである。

おかげで、晴れて私はフィルムを現像に出せた(^^)。

この残存フィルムの中の何をアテにしていたか……というと、それは、地元に立ってる説明版である。これを私は写真に収めた。

時々、こういう説明版や石碑などに記述された内容を、写真を撮るだけ撮ってメモせずに帰ったりすると、日頃の行いが反映してか、何も映ってなかったり、映っていても字が不鮮明で、結局何が書いてあったのかわからなかったりする。

そうなると、何のために……というより、場所によっては、どこに何をしに行ったのかすらわからなくなる事がある(-_-;)。

それは、この時もそうだったが、こういう史跡というのは、村人に「この辺に、確か、昔から言い伝えがある何かがあるらしい」ゲな、きわめて曖昧な案内を受け、ほとんどその場の勢いで訪ねるパターンが多いからである。

だいたい土地の人の記憶というのは正しい。行くと何らかの説明版とか、まあ、石碑がチョコと立ってるだけにせよ、とにかく何かがあるのである。

しかし「あんたの知りたがってる何かがある」という案内だから、何があったのかは、行かないとわからない。

そして辿り付いた所で、立っている説明版の内容を全て記憶できるわけでもないし、メモを取るほどの時間もない、というのも、これまた日程の定まった旅行である限りやむを得ない。

そこで写真撮影で補うのだが、今回は運良く撮影も成功だったし、場所も大当たりだった(^^)。

ホテルで聞いた話によると、坂城の町外れに村上義清の「何かが」立っている、というだった。この「何か」とは「どうも供養塔らしい」という案内で(^_^;)、行ってみたら果たして、「村上義清公墓所」なる案内板が立っていた。

前も書いた通り、義清の墓所は直江津にある。義清は生涯信濃には帰れず、越後にその生涯を閉じたからである。

だいたいこの手の記念碑となると、史跡というより、下手すると、大河ドラマ「武田信玄」で(少しは)有名になったので、町で慌てて立てたりした可能性があったりもする(^_^;)。

むろん、町で立てた墓や供養塔というのも、それなり有り難いとは思う。それは今も土地の人々が、私の訪ねる史跡を守り、大事に思ってくれている証拠だからである。

しかし、それが「おしんの銅像」みたいな現代物である限り、写真で見れば充分かなぁ(^_^;)……などと思ってしまう自分が、心のどこかにいることも否定しきれない。

ましてや、「村上義清公墓所」は、坂城駅から結構歩く。地理などハッキリと知りようもないから、かなり無駄な歩きもしでかして、やっと到達したのである。これで「おしんの銅像」ごとき物体を確認して帰るだけとは、ちょっと「あんまりだ」という気もしなくはない(^_^;)。

しかし、どうやらその先に立つ慰霊塔(か墓か知らんが)のそばにあった説明版によると、もっといわくありげな物であるらしく、私は胸を撫で下ろした(^_^;)。

説明版に曰く(ここから現像した写真の活躍である(^_^;))、

「村上義清公墓所

この墓所は、第三代坂木代官長谷川安左衛門利次が、名家遺跡の忘失を憂え、戦国の雄将村上義清公の墓所建設を思いたち、明暦三年(1657)義清公の玄孫義豊や村上氏の臣出浦氏の子孫、正左衛門清重らにはかり、自ら施主となって出浦氏所有の墓地に、義清公供養のための墓碑「坂木府君正四位少将兼兵部小輔源朝臣村上義清公神位」を寄進によって設立したものである。その後、寛保二年(1742)清重の子清平が玉垣を築き、寛政三年(1791)清平の子清命が、石柱、「御墓所村上義清公敬白」を建てた。昭和45年以来諸整備補修が行なわれ、昭和47年墓碑の上屋と鉄柵が設置された。平成8年には全面的改修となり、現在の諸施設になった。

平成8年3月 坂城町教育委員会」

当然のことながら、私は「義清公の玄孫義豊(゚.゚)?」と思った。私の知る限り義清には、男の子は国清しかおらず、この家系は前に調べた限りでは、海津城代に失敗して以来、泣かず飛ばずで、上杉家が会津に行くに従って越後を出払ったものの、その後”山浦”と姓を改め、江戸時代には商人となった、と記憶している。

するってーと、この義豊って人は、義清の子孫ではあっても、場所から言っても国清の子孫ではないわけよね。義清の兄弟から? あるいは義清には女子が4名ほど居たようだから、女系ってコト? なんて思っている内に、早、日暮れ時は迫りつつある。

「こういう時は、地元の人に聞くのが一番よね(^^)♪」

そう思った私は、一路、町役場へ……。もう閉まる寸前という時間にすべりこみ、職員を一人掴まえるや、

「あの〜、義清の子孫って人が供養塔を立てたという事なんですけどぉ、これって義清の女の子の家系なんですかぁ? それとぉ、出浦氏ってのは武田についたんだと思ってたんですけどぉ、江戸時代には村上氏と仲良くやってたんですかぁ?」

という、およそ「町民」ならしそうもない、いかにも突飛な質問をしでかす。

職員は明らかに困惑し、「そういう人、時々来るんですけど、インターネットで検索すると、わりと義清の情報も出て来ますよ」なんて事を言う。

ネットってこたぁねーだろう。せっかくゆかりの土地に来たのに。しかも私は当初、「主人の慰安旅行」と心に定めて来たので(つまり、この時点では、もうその目的はイビツな変化を遂げている)、ネットで調べ物など一切して来なかった。

出たトコ勝負! 何と言っても旅の醍醐味は、行かなきゃわからない、という所にあるのである。それに、観光を推奨すべく役割を担っているはずの地元の役所が、家に帰ればすぐさま情報に預かれるネットごときを推奨してどうするっちゅうねん。

と言うようなコトをグダグダと匂わせはじめると、職員さんは「それもそうだ」と思ってくれたらしく、「じゃ、来月、そういうコトに詳しい先生が来られて講演をするそうだから、その時に来て下さい」とヤンワリ私をあしらった。

ションボリしながら、私は町役場を出る。

来月また来るなんて、貧乏な私に出来るワケがない。いや、そーゆー問題以前に、ここでこの旅は終わるわけで、謎が究明できない無念よりも、どちらかと言うと、もう帰らなきゃいけない時間になっているコトへの切なさの方がまさっている。町役場を振り返りながら、ポツリ。

「死んじゃおうかなぁ……」

これは、旅の最後における私の決まりセリフで、主人はこんな私を見慣れているから屁とも思わず、早くも駅に向かう道を探し始める。

その時、役場から出て来た人こそ、今思えば観音様の再来であったのかもしれない!

いい所で(^_^;)<つづく>

2000年11月28日

 
     



熊より怖い村上氏の祟り!(爆)

許せ! 義清! いつかその名を復活させてやる!




     
 

いつ果てるとも尽きぬ、信州旅行編(の思い出編)である。

熊の脅威を逃れた私と友人は、その後、無事に頂上に到着し、あらためて「ずいぶん登ったね(^_^;)」と、山頂からの眺めに驚いた。

麓はビルでさえ、もう点状態。熊ぐらい出るワケだなぁ……。 *しみじみ*

いつも信越本線で坂城を通りすぎる時、トンネルをくぐるんだが、私達は、このトンネルの上付近一帯が葛尾城跡、と認識していた。

しかし登ってる内に、こんな所はとっくに通り越して、それより遥かに上まで来ていたようで、これをダラダラ坂なんかで登って来てたら、到着はいつになったことやら……。匍匐前進は無駄ではなかった!(爆)

でも葛尾城の本拠跡は、間違いなくこの高い方の山であり、山頂にはチョコンと「葛尾城跡」という碑が立っている。

さて問題は下り坂である。友人は怯えきってしまい、小さな物音でも「熊かな?!」と言いだす始末。

実は私はカセットテープとラジカセを持っていた。偶然である。行きに葛尾城に登るつもりで家を出たんで、他の荷物はあらかじめ宿泊地に送っておいたのだが、列車の中でこの友人に聞かせてやろうと思って、編集したカセットテープを持ち込んでいたのだ。

ところが列車に乗り込むと、周囲の客の迷惑になる気がして、「やっぱり宿に着いてから聞こう」ということになり、また、坂城の駅で荷物を預け忘れてしまったので、これらをリュックに入れたまま山登りを始めたのだ。

山登りの最中、「山の上なら人も居ないし、山頂ででも聞かせてやろうか」などと思っていたんだが、思わぬ熊出現でそれが役立った♪

要は人が多いような演出である。また音の出る物を持って歩くと良い、とどこかで聞いた覚えもあった。

しかし……である(-_-;)。

元々ここで聞くつもりで持ち込んだテープではない。だから山を下る長い時間、私がエンエン流すハメになったのは……。

「それがし、こたびは内府殿に盾をつきまする」
「冶部殿、私のこたびの出陣は何のためかご存知か」
「内府の命令ゆえの、やむなくの出陣でござろう」
「まさにそれよ。されど、上杉と徳川の間に立ち、何としても戦を止めさせたく働いてみるつもりで敦賀を出て参った。亡き太閤殿下が辛苦の末に統一なされた天下に、再び戦乱を起こしてはなりますまい。内府殿のこたびの上杉攻めは冶部殿の決起を誘うのも狙い。それに乗せられては……」
「わかっておりまする。はい。わかっておりまする。わかっておりまするゆえ、敢えて誘いに乗ぜられてみようと存ずる」
「それは無謀でござる! 冶部殿には挙兵の名目がござらぬ! 内府殿は豊臣家の大老として上杉を討とうとしておりまする」
「いや! それは……」
「朝廷の許しも得ておりまする! しかも! 秀頼様
より宝刀と黄金二万両の餞別をも受けておりまする。冶部殿が内府殿に盾をつくとなれば、上杉家同様、豊臣家に弓引く謀反人と相なりまする」
「……」
「今、冶部殿が豊臣家のためと称して兵を挙げられても、誰が味方になりまする? そこもとには敵が多すぎる。おのれの才を頼むあまり、ともすれば人を見下すような所がござる。高慢に見えまする。主計頭や清洲侍従らの怒りや反発はその辺りに始まったのではござるまいか」
「おのれの短所は、よくわきまえておりまする。誰よりも、よう知っておりまする。……刑部殿、お手間を取らせ申した。陣に戻られよ」
「心変わりは無いと見えまするな」
「これまでの長きにわたる刑部殿のご厚情、改めてお礼申し上げる」
「それほどまでの堅いご決意ならば、それがし、冶部殿と生死をともに致しましょう」
「……」
「私の今日あるのは、太閤殿下にお引き合わせ下されたあなた様のおかげ」

「かたじけない!」

上記、関ヶ原前の、大谷刑部石田三成の会話(in美濃垂井)。

鄙びた片田舎に聳え立つ大自然に囲まれた山中、それはエンエンと勝ち誇るが如く、周囲にまでこだましつつ一人流れ続けるのだ(-_-;)。恐ろしいほどの違和感……。熊もさぞかし恐れ入ったことだろう。(爆)

しかし、問題は違和感だけにとどまらない。まあここまでは、熊に聞かせるだけなら、そんなに恥ずかしくもない。問題はこの後である(-_-;)。

「豆州、冶部少輔が決起したことは存じておろうな。伏見城も落ちた! 石田冶部から味方につけと申して来おったわ」
「お断りなされませ。恐れながら、冶部殿にては先行きが危のうございます。さらに、冶部殿に対して真田家は何の恩義も……」
「豆州! 家康が勝てば大ごとじゃぞ」
「大ごととは」
「大坂が揉み潰されてしまうわ。家康の餌食よ」
「まさかに」
「本気でまさかにと申すか! このたびの戦はの、豊臣家を討ち滅ぼすがために内府が仕掛けた戦ではなかったか!」
「いいえ、父上……」
「言うておくがの、豆州、わしはな、冶部少輔に組するのではないぞ。上杉弾正殿に組みするのじゃ。冶部にではない!」
「ならば父上、父上は、上杉弾正様に豊臣家の行く末をお頼みになるおつもりでしょうや」
「いかにも」
「なれど、その折は、また争いが起こりましょうな」
「じゃがな! 今この時! 今この時に家康を残すのと、石田を残すのとでは、どちらが豊臣家の御為になる!」
「父上! 豊臣家の御為と申すより、どちらが天下の為に相成りましょうや!」
「天下じゃと?!」
「父上はこれより先、再び天下盗りの戦乱があい続く事をお望みでしょうや。父上は……父上は、その戦乱に乗じて世に踊り出ようと……!」
「豆州!」
「父上!」

そ(-_-;)。知る人ぞ知るNHKドラマ「真田太平記」の真田昌幸信幸親子(in犬伏の陣)。

何が問題かって、そりゃあなた、この山城の持ち主、村上義清は、武田家に滅ぼされたとはいえ、その調略のほとんどを買って出たのは、この昌幸の父、真田幸隆なんざんすよ。(爆)

しかしテープは流れる。私はこれが、ここの元城主の霊魂に障るなどとは全く思いも至らず(っつーか、それどころじゃなかった)、とにかく命からがら山を降りるのだった。

熊の思い出につれて、こんな事を思い出した私は、実に10ウン年ぶりで、己の暴挙のいかに罰当たりであったかにようやく思いが至った。

「義清の霊を慰めねばならぬ」
いかにも思いつきだが、私はそう思うや、義清の鎮魂碑が立っている、と昨日ホテルで聞き出した、町外れの一角を目指すことにした。熊と山登りの脅威から逃れた主人は、ホッとした様子でついてくる。

<つづく>

2000年11月07日

 
     





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