7月から始まって、まだやってる信州旅行編である。
しかし、ここまで引き伸ばした甲斐があった。……と言うのも、この旅行で撮った写真のフィルムが、ずぅ〜っとカメラに残っていて、これが、ようやく最近、近場の寺巡りなどして撮影し尽くし、消化されたのである。
おかげで、晴れて私はフィルムを現像に出せた(^^)。
この残存フィルムの中の何をアテにしていたか……というと、それは、地元に立ってる説明版である。これを私は写真に収めた。
時々、こういう説明版や石碑などに記述された内容を、写真を撮るだけ撮ってメモせずに帰ったりすると、日頃の行いが反映してか、何も映ってなかったり、映っていても字が不鮮明で、結局何が書いてあったのかわからなかったりする。
そうなると、何のために……というより、場所によっては、どこに何をしに行ったのかすらわからなくなる事がある(-_-;)。
それは、この時もそうだったが、こういう史跡というのは、村人に「この辺に、確か、昔から言い伝えがある何かがあるらしい」ゲな、きわめて曖昧な案内を受け、ほとんどその場の勢いで訪ねるパターンが多いからである。
だいたい土地の人の記憶というのは正しい。行くと何らかの説明版とか、まあ、石碑がチョコと立ってるだけにせよ、とにかく何かがあるのである。
しかし「あんたの知りたがってる何かがある」という案内だから、何があったのかは、行かないとわからない。
そして辿り付いた所で、立っている説明版の内容を全て記憶できるわけでもないし、メモを取るほどの時間もない、というのも、これまた日程の定まった旅行である限りやむを得ない。
そこで写真撮影で補うのだが、今回は運良く撮影も成功だったし、場所も大当たりだった(^^)。
ホテルで聞いた話によると、坂城の町外れに村上義清の「何かが」立っている、という噂だった。この「何か」とは「どうも供養塔らしい」という案内で(^_^;)、行ってみたら果たして、「村上義清公墓所」なる案内板が立っていた。
前も書いた通り、義清の墓所は直江津にある。義清は生涯信濃には帰れず、越後にその生涯を閉じたからである。
だいたいこの手の記念碑となると、史跡というより、下手すると、大河ドラマ「武田信玄」で(少しは)有名になったので、町で慌てて立てたりした可能性があったりもする(^_^;)。
むろん、町で立てた墓や供養塔というのも、それなり有り難いとは思う。それは今も土地の人々が、私の訪ねる史跡を守り、大事に思ってくれている証拠だからである。
しかし、それが「おしんの銅像」みたいな現代物である限り、写真で見れば充分かなぁ(^_^;)……などと思ってしまう自分が、心のどこかにいることも否定しきれない。
ましてや、「村上義清公墓所」は、坂城駅から結構歩く。地理などハッキリと知りようもないから、かなり無駄な歩きもしでかして、やっと到達したのである。これで「おしんの銅像」ごとき物体を確認して帰るだけとは、ちょっと「あんまりだ」という気もしなくはない(^_^;)。
しかし、どうやらその先に立つ慰霊塔(か墓か知らんが)のそばにあった説明版によると、もっといわくありげな物であるらしく、私は胸を撫で下ろした(^_^;)。
説明版に曰く(ここから現像した写真の活躍である(^_^;))、
「村上義清公墓所
この墓所は、第三代坂木代官長谷川安左衛門利次が、名家遺跡の忘失を憂え、戦国の雄将村上義清公の墓所建設を思いたち、明暦三年(1657)義清公の玄孫義豊や村上氏の臣出浦氏の子孫、正左衛門清重らにはかり、自ら施主となって出浦氏所有の墓地に、義清公供養のための墓碑「坂木府君正四位少将兼兵部小輔源朝臣村上義清公神位」を寄進によって設立したものである。その後、寛保二年(1742)清重の子清平が玉垣を築き、寛政三年(1791)清平の子清命が、石柱、「御墓所村上義清公敬白」を建てた。昭和45年以来諸整備補修が行なわれ、昭和47年墓碑の上屋と鉄柵が設置された。平成8年には全面的改修となり、現在の諸施設になった。
平成8年3月 坂城町教育委員会」
当然のことながら、私は「義清公の玄孫義豊(゚.゚)?」と思った。私の知る限り義清には、男の子は国清しかおらず、この家系は前に調べた限りでは、海津城代に失敗して以来、泣かず飛ばずで、上杉家が会津に行くに従って越後を出払ったものの、その後”山浦”と姓を改め、江戸時代には商人となった、と記憶している。
するってーと、この義豊って人は、義清の子孫ではあっても、場所から言っても国清の子孫ではないわけよね。義清の兄弟から? あるいは義清には女子が4名ほど居たようだから、女系ってコト? なんて思っている内に、早、日暮れ時は迫りつつある。
「こういう時は、地元の人に聞くのが一番よね(^^)♪」
そう思った私は、一路、町役場へ……。もう閉まる寸前という時間にすべりこみ、職員を一人掴まえるや、
「あの〜、義清の子孫って人が供養塔を立てたという事なんですけどぉ、これって義清の女の子の家系なんですかぁ? それとぉ、出浦氏ってのは武田についたんだと思ってたんですけどぉ、江戸時代には村上氏と仲良くやってたんですかぁ?」
という、およそ「町民」ならしそうもない、いかにも突飛な質問をしでかす。
職員は明らかに困惑し、「そういう人、時々来るんですけど、インターネットで検索すると、わりと義清の情報も出て来ますよ」なんて事を言う。
ネットってこたぁねーだろう。せっかくゆかりの土地に来たのに。しかも私は当初、「主人の慰安旅行」と心に定めて来たので(つまり、この時点では、もうその目的はイビツな変化を遂げている)、ネットで調べ物など一切して来なかった。
出たトコ勝負! 何と言っても旅の醍醐味は、行かなきゃわからない、という所にあるのである。それに、観光を推奨すべく役割を担っているはずの地元の役所が、家に帰ればすぐさま情報に預かれるネットごときを推奨してどうするっちゅうねん。
と言うようなコトをグダグダと匂わせはじめると、職員さんは「それもそうだ」と思ってくれたらしく、「じゃ、来月、そういうコトに詳しい先生が来られて講演をするそうだから、その時に来て下さい」とヤンワリ私をあしらった。
ションボリしながら、私は町役場を出る。
来月また来るなんて、貧乏な私に出来るワケがない。いや、そーゆー問題以前に、ここでこの旅は終わるわけで、謎が究明できない無念よりも、どちらかと言うと、もう帰らなきゃいけない時間になっているコトへの切なさの方がまさっている。町役場を振り返りながら、ポツリ。
「死んじゃおうかなぁ……」
これは、旅の最後における私の決まりセリフで、主人はこんな私を見慣れているから屁とも思わず、早くも駅に向かう道を探し始める。
その時、役場から出て来た人こそ、今思えば観音様の再来であったのかもしれない!
いい所で(^_^;)<つづく>
2000年11月28日
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