<2012年・城主のたわごと11月>




2012年5月GW、下妻ミニツアーレポ続き、完結編(^^)。

親鸞の小島草庵跡・光明寺、多賀谷城跡と砂沼の夜景♪




     
  「春をお届け」の3回目(^^)。
前回の最後に、5月GWの下妻ミニミニ半日ツアーに突入。今回はその続きを、何とか完結編とする事が出来た(^_^A)。

今回は、まずは「下妻ふるさと博物館」で、現地の歴史をチェック(^o^)v。
そして、親鸞が寄ったと伝わる、「小島草庵跡」と「光明寺」に行った後、博物館でチェックした「多賀谷城跡」(戦国期)の公園に寄る。

日暮れは「砂沼広域公園」の湖面と湖上に浮かぶ、筑波山→夕暮れ→月→ネオンをご覧に入れたい!
最後は「ビアスパーク下妻」で日帰り温泉と夕飯にありついた(^O^)

全体のお話しとしては、「親鸞」と「浄土宗」「浄土真宗」に挑戦してみたい!



<下妻を目指す、2(続き)>

前回は、高速(常磐道)を「谷和原(やわら)」で降り、前方に筑波山を見ながら294号線を北上。
「地域交流センター豊田城」の見えて来る、常総市に入った所までお届けした。今回はその先に進み、目的地点、下妻まで行く。

石下に点在する城郭風の建物群(笑)を通り過ぎる。
これらの本拠は「地域交流センター豊田城」(地図A)↓で、鉄道だと、関東鉄道常総線の「石下(いしげ)」駅が近い。

平原に点在する城郭郡
(拡大)一番左の豊田城
(拡大)右の二つ
←↑拡大画像同志の三つは、比較サイズ忠実。つまり建物の大きさが各々かなり違う。

真中の大きいのが「地域交流センター豊田城」なんだが、こことは別に、元の「豊田城跡」というのも川の方にあるらしいし、平将門の城跡「豊田館跡(将門公苑)」というのも公園になっている。(2008年8月<常総市「将門公苑(豊田館跡)」>)2008年11月<茨城県常総市「豊田城」(石下町地域交流センター)>

■石下、謎の城郭郡(笑)
2008年9月<常総市「将門寿司(爆)」>
2008年11月<茨城県常総市「豊田城」(石下町地域交流センター)>
2010年9月<まずは下妻を目指して>以降
2011年10月<下妻を目指す、1(常総市まで)>


↑周囲の城郭風建物は、なぜこうも点在してるのかよく判らないが(笑)、そのうちの一つは、前に水害のための備品倉庫っぽい役割だったのを確認した事がある。

間もなく石下を通り過ぎ、今度は宗道に向かう→
294号線の西側に平行する道路に入り、「宗道十字路」(地図B)を北上↓

宗道十字路
鰻やお酒の看板も見えて来た(#^.^#)

やがて「総社宗任神社」が脇に見える
(拡大)鳥居がチラと覗く

地図C←「総社宗任神社」。
2008年の将門ツアーの時も話したが、この神社に実際に行ったのは、2010年つまり一昨年の5月(レポは2010年9月<総社宗任神社>



■2012年5月・茨城県下妻市
<下妻市ふるさと博物館>


さらに北上すると下妻エリアに入って来る。
上の「総社宗任神社」からちょっと北上した地点に、親鸞の伝承史跡「小島草庵跡」と「光明寺」があるが、博物館の方が時間が早く終わるので、後回しにして通り過ぎ、まずはさらに北上。

途中「県道15 下妻市長塚」とあり、道は「結城下妻線」というようだ。
こちらから行く車線はスイスイだったが、反対車線(東京方面)はビッシリ渋滞、ノロノロ運転の列が続いていた(^_^;)。
この日はGWも最終日の前日、確か土曜日の「子供の日」だったと思う。

そして、砂沼左岸にあるここ、「下妻ふるさと博物館」に入って来る。地図D
鉄道だと〜〜関東鉄道「大宝」駅か、「下妻」駅が近いかな?

短い森林道の行く手に……
下妻ふるさと博物館」(^^)

この博物館は、戦国時代、この地を治めていた多賀谷氏の居城(館)をイメージして設計されたそうだ(^^ゞ。

正面(^^)。なかなか大きい。建物の入口に行ってみよう(パノラマ3枚ほぼ180度)

入口は、緑と建物の間の通路の先だった(^^ゞ(パノラマ4枚180度以上)

通路に入ると程なく、途中にある東屋のような建物の前に「箱庭石棺」と書かれた石組が見られた(゚.゚)。↓

(下妻)市内、高道祖地区の千草B古墳群から昭和60年(1985)に出土した石棺で、今ここにあるのは、古墳時代の地方豪族の遺骸を収めた石棺の様子を想定、復元したもの、だそうだ。

石棺の内部には朱塗りの跡があり、2体の人骨が埋葬されていた。石材は筑波山麓の平沢地区から産出する雲母片岩と思われるという。

こういうの中身は盗掘されてて……という話が多いけど、ちゃんと人骨が入ってたんだ! スゴイ(゚.゚)

さらに通路を進もう……↓

↓この左の門構えっぽいトコが入口ね(^^)(パノラマ5枚180度以上)

門を潜ると、内庭風の広場(^^)(パノラマ4枚180度以上)

↑の反対側、芝生と植木と壁向こうの緑↓(パノラマ4枚180度以上)

↑の門から出ると、まぁ今来た通路に出るわけだが、出た瞬間……↓

ドーン!と背の高い木々の聳える森(パノラマ縦横6枚ほぼ180度)

この博物館は、下妻市の西部に広い場所を占める砂沼と鬼怒川に挟まれた雑木林の中にある。
特に砂沼の風光明媚な雰囲気から、こうした溢れる緑の空間と屋形風の建物にしたんだろうね(^^)。
砂沼には、夕方(今回の最後)に寄るよっ♪

で、館内に入ると、まず目にはいるのは……↓

ドーン! 多賀谷城(下妻城)の模型!(パノラマ2枚)

後で、本物の城跡に行くので、そちらでも説明するけど、跡地は今、殆ど遺構が市街と化して無くなってるので、この場で、ざっとした地理だけ言うと、東西が沼、南が湿地、北に土塁や濠で7重の防備を施している、という作り。

館内これより以後は、撮影禁止〜( ^^)×
なので文字だけで説明させて貰うと、施設は、常設展示室、企画展示室、講座室、体験学習室等がある。

常設展示室では、「歴史」「水とのたたかい」「農家のくらし」 「くらしの道具」「ゆかりの人々」等のコーナーに分け、実物資料、パネル、映像等。
歴史については、大まか茨城県の特にこの辺りの古代〜近現代までの歴史を、パネルや展示物で説明してて、わかりやすく、見所も多すぎず少なすぎず(^^)。

↑の多賀谷城の再現模型の他で、一番印象に残ったのは、2階の各展示品が保管されてる戸棚だらけの倉庫室、その一隅に、ナント、明治〜昭和初期の女囚牢が置かれてた事(・・;)。。全国的にも珍しい展示物という事だ。

むろん写真は撮らなかったが、ネット上にも紹介されてるページがあった↓
http://www.joyoliving.co.jp/special/heritage/00070/
(「現代に残る“座敷牢”女囚の苦悩にじむ〜下妻監倉の獄舎−下妻市」@茨城県地域情報誌「常陽リビング」より)

古くて黒光りした木の獄舎(^_^;)。。戸に鍵はかけられておらず、開けて中に入れる。
中は暗く、地面に埋め込み式の便器があるのみで、壁は一部格子戸だから、鳥かごのように外気と接してるのに、中に入ると急にヒンヤリして、ヒッソリ静か。四方から古い木材のようなヤニのような匂いがする。
壁には女囚が爪で書いた、無念の怨念めいた呟きが残り、何とも言えないコワイ感じ(^^;)。。

……以上、博物内容は、全体的に下妻の歴史が先史から近現代まで、長大な時代の多岐に渡ってて、焦点を絞るのも大変な感じがするが……。
どうも多賀谷氏に力を入れて行こうとしてるかなぁ〜と思った(^^)。

ちょっと残念なのは、石下の豊田城とかもそうだったんだが、こういう公的学習施設に来ても、書籍類があんまり無い事かなぁ……。
まぁ、多賀谷氏とか豊田氏なんて、殆ど不明な感じもするんで無理も無いのかもしれんけどね(^_^;)。

さて、そろそろ次の場に移ろう。
園内の出入口近くにあった付近絵地図(^^)→
見やすいように、例によって、上から大きい文字を打っておいたよ!(それでも、まだ字が小さいけど)

今左の真ん中「ふるさと博物館」にいる。
これより、「小島草庵跡」「光明寺」「砂沼広域公園」「ビアスパークしもつま」に行く予定だが、この地図で「多賀谷城跡」に公園がある事を知り、「大宝城跡」に行く予定を変えて、急遽、行って見る事にした(^^ゞ。



<親鸞聖人「小島草庵跡」>

↑に向かおう(^^)。今いた「ふるさと博物館」(地図D)は砂沼の傍。無事に見終わったので、これよりユルユル南下。

「小島草庵跡」は、下妻エリアに入ったばかりの位置にあるが、さっき通った「総社宗任神社」(地図C)までは戻らない。
これまで行った事のある所では、2010年の5月に行った「宗任神社」(地図E)が比較的近い。(2010年9月<宗道神社・宗任神社>

←下妻の街なかに出て車を走らせ……。
↑やがて民家の並び立つカドを入り……。

↓広がる水田地帯。筑波山も一望(^^)→

ロングで見てみよう(^O^)! 広大でしょ?(パノラマ4枚180度以上)

この位置からの筑波山は、ピッタシ真東に見える(^^)。そして、クルッと後ろを振り返ると

駐車場を挟んで、真西の大銀杏(二本)が「小島草庵跡(パノラマ4枚180度以上)

地図F←だいたいこのへん。さすが浄土教、キチッと真西を向いてる(^^ゞ。
大銀杏の下に五輪塔があるが、これもピッタリあの筑波山を背に建てられているというわけ。

じゃ、行ってみよう(^^)(拡大)
(さらに拡大)

浄土真宗
は、浄土系の宗派の中でも、特に室町末期〜戦国期に一向一揆を起こした事で知られ、後に信長包囲網に半ば主導的に関わった本願寺とともに、親鸞を開祖とする。

「〜とともに」と言うと、浄土真宗と本願寺が“別物”のようで変かもしれないが、私の手持ちの系図では、親鸞を初代として、10代目に当たる蓮如までの本願寺は、厳密に言えば、浄土真宗の一部に過ぎない
つまり蓮如に至るまでは、本願寺自体が社会騒動の中核だった事は無い(^_^;)。

蓮如も騒動者を戒めたり叱ったり破門しており、「主犯」だったわけではない(笑)が、蓮如以降は、後継を名乗り分裂していた各派(いわゆる「異端派」)が、本願寺の下にある程度統合されたので、「本願寺=浄土真宗」とまで言い切れずとも、本願寺を主体と見なしていいように思う。
……少なくても、信長包囲網において、本願寺は「共犯」である(爆)。


来た(^^)。筑波山もよく見えるが、隣の水田が何かスゴイ(パノラマ4枚180度以上)

この日は洪水に注意報が出ていて、ここに来るまで空は晴れてるし、利根川など水嵩がそれほどと思わなかったから、安心して来たんだが、この水田が道路ギリギリまで水位が来て、しかも風が吹くたび、辺り一面さざ波が行き来するので、湖の真ん中にいるような気分になった(^_^;)。

そう言えば本願寺は、戦国期、ずいぶん水軍に強いツテがあったよぁ……。

(パノラマ3枚ほぼ180度)

仏教が何らか騒動を起こすのは浄土系宗派(浄土宗・浄土真宗・時宗など)に限らないが、浄土系以外の宗から起こる騒動沙汰は、つまるところ力自慢で気の荒い連中が、山や寺に入り込んで起こるに過ぎない。

対して、一向一揆も含めて、他宗との揉め事などに顕れる浄土真宗の反社会性は、思想的な背景による所が濃厚である。

一向一揆については、一揆が武力闘争的に行なわれる「時代」(土一揆や国一揆など)と関連づけて見るべきではあるが、それでも同時代の他宗において、一向一揆に匹敵する闘争集団が営まれたわけではない。

遡れば、母体の浄土宗も、枝分かれと言える浄土真宗および時宗も、ともに悶着が多い点において、およそ浄土系宗派は騒動の根が深い。
法然〜親鸞〜蓮如(平安〜戦国)と、いずれの時代にも、法話を極端に曲解し、世間に流布して廻る信者が後を絶たなかった事が原因である。

曲解者は浄土系に限らず、どの宗にもいたのかもしれないが、他宗派は出家が基本だから、一般社会から一線を画しているため、問題が起こり(広がり)にくい。
そこが法然浄土宗の祖、1133〜1212年)以後の浄土系宗派に問題が続出したのは、無知蒙昧な庶民を布教相手に選び、一般社会(いわゆる在家)に持ち込んだ事も一因する。
(もっとも、かなり古くより念仏にはそういう事が多かったらしいが。。。)

市指定史跡「小島草庵跡」の「稲田恋しの銀杏
(拡大)樹下の石碑

このデカイ銀杏の木は、下妻市によって管理されており、樹高約15m、胸高幹周535pと、市内第一位だそうだ。大きいよねっ(≧▽≦)。

(さらに拡大)「親鸞聖人御舊跡
後方に「四体仏」の五輪塔

この「四体仏」は案内板によると、「欽明」「用明」の両天皇と「聖徳太子」、そして「親鸞」の四仏とするそうだが、いつの時代の墓石か記されてない所を見ると、判明してないのだろう。

親鸞の墓が入ってる所を見ると、これらは「聖徳太子」をメインと見るべき物のように思える。用明天皇はその父、欽明天皇はその祖父という事かと……(^^ゞ。
なぜ、親鸞に「聖徳太子」が絡むのかについては、次に行く「光明寺」で書こう。

一応(拡大)しておくね
(さらに拡大)(^_^;)ゞ

親鸞は長じてより後は、法然を師とし、祖としている。
だから思想の元も、法然の浄土宗が根本にあり、この浄土宗自体、発足時から他宗との揉め事が多かった(笑)。

しかし真宗や時宗が浄土宗から別れたのは、互いに喧嘩をしたからでも、思想信条の違いでもなく、浄土宗が他宗派や後鳥羽上皇などから迫害を受けて、各地に散らばっていた事も要因するように思われる。
つまり、それぞれが、それぞれの立場で念仏を広めるしか無かったからだと思う。

それと親鸞は、独り法然の教えを広めるべく、学識の補強をつけて改めて社会に身を晒した人だった。
それは、法然の教えがせっかく庶民全般に根付く要素が高いにも関わらず、曲解者の暴言が原因で、宗派全体が社会から迫害を受ける事がわかったため、浄土宗も他の出家宗派と同様に、結局は社会から隔絶する傾向を帯び始めたからだった。

独り布教の道を歩んだ親鸞が、最初の定住地に選んだのが、常陸国の笠間稲田であり、この下妻には、その前の僅かな期間ながら居したと伝えられる。


小島草庵(茨城県知事 岩上二郎書)
権力闘争に明け暮れる支配者の下、人間いかに生きるべきか、真実を求めてやまない親鸞は、愚劣な政治権力に追われて京から越後へ、茨の道を踏みわけて幾山河、やがて妻・恵信尼と息・信蓮を伴い、初めて常総の地を踏み、小島の荘に入られたのは、建保2年(1214)聖人42歳のときである。
煩悩を断ずることなく、他力本願の念仏布教に徹する聖人の姿は、慈愛と活力に満ち溢れた純粋崇高な仏の姿であった。
小島草庵は、恵信尼が「二幅の御影」を夢みられたところ、聖人はこの地に留まること三年、草庵を門弟の蓮位房に譲って、稲田に移られ、常総在住20年、衆生と共に苦しみ悲しみ逞しく生きぬく他力本願の立教開宗の偉業を完成されたのである。

この「恵信尼の夢」というのも、また後に書くわね(^^ゞ。
それから、「三年滞在」というのは、私の知る限り、あまりハッキリした滞在日数は判明してない感じなので、この下妻における伝説なのかな〜と……。
下妻に滞在した事は、恵信尼が娘に充てた書状にあるので間違いないと思う。

苛烈な圧政と極度の貧困に喘ぐ人びとの心に、浄土欣求の灯を点じ、荒廃しゆく常総の天地に弥陀の光明を輝かせた不滅の聖業は、日本人の胸底に深く刻みこまれ、永遠に生きつづけている。
新いばらぎタイムス社は、聖人生誕800年、立教開宗750年を記念し、数多くの県民の方々と聖人の高弟・小川の豪族、幡谷二郎信勝唯信房の後衛、幡谷仙三郎氏の篤志に依り、この地に遺徳顕彰碑を建立するものである。
1973年11月吉日 大津平八郎誌
親鸞聖人遺徳碑建立委員会(名称略)

帰り道も澄みきった青空の下、真正面に筑波山(^^)。左の生垣に咲くのは……
↑ドウダンツツジだね(^^ゞ。可愛い♪

最後に、この小島草庵跡について、下妻市教育委員会の案内板記述から(^^ゞ。↓

市指定史跡 小島(おじま)草庵跡
  指定年月日 昭和52年3月22日
 親鸞は、その生い立ちから、配流、妻帯、東国移住の動機、小島居住説をはじめ、その生涯について、いろいろな論がなされており、親鸞伝の決定版はまだ見られないが、当地には次のような伝承が残されている。
 越後流罪と滞留7年の後、親鸞は建保2年(1214)妻子を伴って上野国佐貫を経て、常陸国に入り、最初に居住したのが、ここ小島草庵である。小島郡司の武弘が親鸞の徳を慕い、この地に草庵を設けて迎えた。ここに3年間滞留し、越後で果たせなかった真宗念仏の伝道に積極的に乗り出した。いわばこの草庵(三月寺)こそ真宗開祖の親鸞が関東において真価を発揮した最初の土地である。
 親鸞の高弟・蓮位坊当地出身といわれ、子孫は下間氏と称して、鎌倉時代から現代に至るまで、東・西本願寺坊官を勤めている。
 草庵跡には「親鸞聖人御旧跡」、「三歳御住居」とした古碑、欽明天皇用明天皇聖徳太子の墓に、後に親鸞の墓を加えて「四体仏」と呼ぶ五輪塔と、親鸞を慕ったという「稲田恋しの銀杏」の大樹がある。
 平成14年3月 下妻市教育委員会

まず、「生涯については、未だに議論が多く決定版が無い」という事は、親鸞に関するどんな記述を見ても出て来る決まり文句で、ちょっと詳しい本でも、「誰々がこういう説を唱えている」という紹介だらけになるのをよく見る(笑)。

それぐらい不明な人物である点を、それゆえその後の真宗教団の事もわかりづらい、という点とともに、まず断わっておきたい(^_^;)。

ただ、この「下間氏」は、戦国期の本願寺関連で何度か目にした気がする。ただ、これが「しもつま」と読まれ、この下妻の土地と関係してるとは知らなかった(^^ゞ。

で、その不明点の多い親鸞の生涯については、今回の一番最後に述べようと思う!



<「光明寺」(伝・親鸞お手植えの菩提樹)>

お次は↑(^^)。地図G←わりと近い。ちょっとだけ北上ね。
住所は、下妻市大字下妻字栗山。

光明寺」門前。右手前の樹木が菩提樹(パノラマ3枚ほぼ180度)

これが「親鸞御手植の菩提樹」→

大幹の樹高、2.73m、小幹の樹高、2.42m、大幹と小幹の共幹周囲、1.5m、推定樹齢は700年以上。

建保年間(1213〜18)親鸞が小島草庵に三年間滞在・伝導に努め、稲田に去る際、記念植樹したと伝わり、遺跡巡拝者の間で有名な老樹。

常総の歌人・長塚節もしばしば当地を訪れ、菩提樹を詠んだ一首が傍の歌碑に書かれている。

「うつそみの人のためにと菩提樹を ここに植ゑけむ人の尊とさ」

←菩提樹と歌碑の裏、壁に寄り添うようにある三墓。傍らの碑文で、幕末の1864年に起きた、あの「天狗党の乱」のため戦死した、三名の墓と知れる。

天狗騒動
右碑
信楽院釈慈常居士 陣屋 大野権次 源敬忠
 元治元 甲子年7月9日
本人者井上伊予守家中ニシテ水戸ノ浪士追討ノ為幕府ノ目付永見貞之丈 坂本多宝院ニ陣ス 本月7日 早暁飯田軍蔵ヲ先鋒トシテ浪士等位100余人本陣多宝院ニ乱入ス本人事其際坂本見張ニテ戦死ス
中碑
誓願院釈智海居士 陣屋 酒井玄八郎 源義頭
 元治元 甲子年 7月9日
本人ハ同藩人ニテ同ク戦死ス
左碑
法○釈徳音信士 佐々木運八家来 弥吉
(○=左が「号」右が「刷」の左側の字に似た字)
 元治元 甲子年7月11日
弥吉ナル者同様同所ニ於テ戦死ス
以上 光明寺過去帳より抄出

では山門から入ろう(パノラマ5枚180度以上)

左の建物が境内で目立つ
聖徳太子立像
そして、右にあるのが「明空御手植の柊」→
左が柊の木で右の石碑は歌碑(パノラマ2枚)

木造・聖徳太子立像」は中央の本堂の前の案内板にあった写真を撮らせて貰った。
木造彫刻、ヒノキ材、寄木造り、白土下地彩色、玉眼嵌入、像高65p。
製作年代は室町時代初期、14世紀末頃までさかのぼると思われる。県指定文化財(昭和59年(1984)3月指定)。
付・黒漆厨子、1基。像を安置する黒漆箱形厨子の框(かまち)裏に、天正9年(1581)の墨書銘がある。

聖徳太子の像というと、3歳の「南無太子像」・16歳の「孝養像」・壮年期の「摂政太子像」「衣冠束帯像」「馬上太子像」など様々な姿がある中、ここにあるのは「衣冠束帯摂政太子像」で、茨城県内には浄土真宗寺院に多くの太子像が残されているが、その殆どが「孝養像」で、このような摂政太子像は県内は無論、全国的にも数少なく、その内でも優れた作品といわれる。

親鸞にゆかりの光明寺に、聖徳太子像がある理由は判らなかったが、親鸞は生涯、太子信仰者であったと言うから、親鸞との関係づけが意識されて、聖徳太子の像がこの寺に齎されたのかと思う。

聖徳太子と親鸞の関係については、話が長くなるので、次の「明空御手植の柊」の説明を先に(^^ゞ。
樹高5.87m、幹周 2.90m、指定樹齢700年以上。市指定文化財、天然記念物(指定は昭和52年(1977)3月)。

明空は光明寺の開基。寺伝によれば、俗名を三浦荒次郎義忠といい、親鸞の弟子となった。
明空はヒイラギを好み、境内に多く植えたので、光明寺は「柊道場」とも呼ばれた。
この老樹は当時から続くものと言われる。一緒に立つ歌碑は、明空が謳ったもので、
「われもまた心に造る罪科を名にあらわして植うる一本 明空」

この寺は、山門の柱に「大谷学場下妻支所」と書かれ、当然ながら真宗である事がわかる。
何々寺と言わず、「道場」という言い方は、親鸞の布教でよく行なわれた方法。
また、「罪」の意識に目を向けた点も、親鸞によく見られる布教ポイント。

左は庫裡かな(^^ゞ。右はさっき中央に見た本堂(パノラマ3枚ほぼ180度)

じゃ、親鸞と聖徳太子の繋がりについて話すね(^^ゞ。
法然も親鸞も、元は比叡山の出身なのだが、親鸞が法然の弟子となるのには、比叡山を出てこもった六角堂において、夢で法然に師事する啓示を得たからだという。

その夢には、満願を前に、まず聖徳太子が顕れたという。

以後、親鸞は弥陀信仰の他に、太子信仰(観音信仰)を持つわけだが、親鸞がここで聖徳太子を持ち出すのは、妻帯を意識した事も原因するのではないかと思う。

聖徳太子は仏道を日本に持ち込んだ人でありながら、自身は多くの妻や子を持った。
妻帯しながら浄土への道を歩もうとする親鸞にとっても、聖徳太子の存在は一種の励みであったのではなかろうか。

そして同じく聖徳太子を崇拝した同時代の人物として、私が歴史とともに思い出すのは、慈円である。
比叡山に上り、出家してからの親鸞が最初に門下に入り、師としたのが、この慈円であった。

だから法然門下に入る前の、若い頃の親鸞には、慈円の影響があると思う。

慈円は九条兼実の同母弟で、この兄弟は大変に仲が良く、聖俗を越えた協力関係にあったが、実は九条兼実は、法然に深く帰依し、専修念仏と法然を熱狂的に支援した人だ。
そこだけは、天台座主として法然一派に苦言を言う立場だった慈円が、兄の兼実を愚痴ってる点である(笑)。


←本堂から見える、中央の書院。右に見える門は、入って来た門とは違う裏門。
↑庫裡の前は、春の花々が凄く綺麗に咲き揃っていた(^^)。いいね〜♪

九条兼実と慈円の時代、摂関家はすっかり院政下の朝廷において勢いを失っていた。
兄弟が目指したのは、彼らの摂関家がもう一度、朝廷内で昔の威勢を取り戻す事であっただろう。

そこで兄弟は、新たに勃興した武士が、皇族および貴族や宗教社会が相容れない存在であるにも関わらず、逸早く頼朝の鎌倉幕府に親近感を持った。
これには、院政に対する摂関家の存在感を政界に復活させるためもあろうし、院近臣が跋扈する院政に対し、幕府という組織が、強力な横車として頼もしかったからでもあろう(笑)。

しかし反面で、ただ高見に立つのみの摂関家から、反省すべき事に思いを致したのが慈円の生涯だったようにも思われる。
新たに勃興した武力によって保元・平治の乱が興り、やがて平家・義仲・義経と次々に戦いを起こし、それらの争乱に巻き込まれて、実に多くの人命が失われた。

そんな時、皇室の出であり、初代の摂政にして、仏教を初めに日本に根付かせた聖徳太子を振り返る事で、国の礎として、摂関家出身の自分が、仏教や政治を通して、何を根本とすべきか考えたのだ。

慈円が聖徳太子を持ち出すのも、全て頼朝の鎌倉幕府と関東の武力を、朝廷の下に認めようとする、いわゆる公武合体の考えゆえである。
太子はその若き日、自ら馬上の人となって、仏敵・物部氏との戦闘に及んで勝利した。大陸には遣隋使を使わして、仏法の招来を絶やさぬ努力をした。

こうした事は、朝廷の摂政を行なう摂関家の模範であり、仏法の頂点たる天台座主の理想の姿でもあった。

そして、慈円の人生に置いて一番苦しかった事は、公武を合体させんがための努力の日々であったのに、人生の最後になって、承久の乱が起き、公武が敵味方となって争い合うのを制止できなかった事だった。

本堂と親鸞像、裏門、そして青々と樹木の繁る庭園(パノラマ3枚ほぼ180度)

慈円が愚管抄に言うのは、「蘇我馬子が崇峻天皇を殺害に及んだ時、太子はこれを傍観した(引き止めなかった)」という論である。

今日振り返っても、臣下が天皇を殺害する例は、これの他に無い、と言うぐらいの悪行・暴挙だと思う(^_^;)。

しかし馬子は仏教崇拝者であり、崇峻天皇は馬子を妨げる存在だった。
馬子が崇峻天皇を滅亡させた事によって、聖徳太子の摂政政治が訪れた。全てが上手く運んで、天皇もその後続の欠員も起こったわけではなかった。

このように動乱は起こりながらも、最終的には万々歳の結果を迎えた古代を、理想の歴史とし、仏教の礎になった聖徳太子を仰ぎ見る事によって、藤原氏出身の慈円は、皇室や藤原氏が祖神を信仰する土壌を造り、世の秩序を安寧に導く模範となり、日本の歴史を続けていこうとした。
この感覚は、親鸞から始まる本願寺の血脈主義に通じるものがある。

しかし摂関家の出身で、しかも天台座主の地位に就いた慈円は、純粋に仏道に専念するような日常は許されなかった。
末世における比叡山の在り方は無論、世の動乱、朝廷政治の混乱、実家たる摂関家や、摂関家から出した鎌倉幕府4代将軍の行く末など、始終俗世の事に悩まされる人生だった。

栄西や道元、法然が比叡山を後にしたのも、当時の比叡山が世俗化し、さらに争乱まで持ち込まれ、修行を果たせる場でないと見捨てたからだ。
後に、あれだけギャアギャア禅や念仏を批難した日蓮すら、比叡山に留まったわけではない(^_^;)。
そして親鸞も1201年、29歳で法然の弟子となり、比叡山を出て行った。


←本堂の廊下、脇に展示されている古逸品。
手前は古い柏の大樹。2002年に朽ちてしまったそうだ。。
奥の古鐘は天和2年(1682)の物で、県内三古鐘の一つ。「大戦を免れる」とあったのは、供出の事だろう(^_^;)。。

親鸞が比叡山を出るにも、法然に師事する啓示を得るにも、夢に聖徳太子が顕れるのは、慈円の恩を振りきって、ただ自ら決別していくのではなく、むしろ薦めによって行くのである、といった気分を感じるのは私だけだろうか。

親鸞がその師と仰いだ法然の晩年にも、京には戻らず、越後から真っすぐに坂東へやって来た理由にも、やはり関東武士の存在感があった。

京を追われた親鸞が、許されても京に戻らずに布教するのに対し、初めは寛容な姿勢だった鎌倉幕府(執権・北条泰時)も、著しい風紀の乱れに対処すべく、やがては専修念仏を取り締まる令を発するようになった。1235年の事である。

ところが、その若き流刑の日々には、京の朝廷の処罰の仕方に憤慨し、承久の乱が、そのために起きたとまで、後鳥羽上皇を痛烈に批判したのに比べると、幕府の取り締まりに対しては、それらしい言葉が見当たず、坂東生活20年にして、1232〜37年頃、親鸞は京に戻っている。
一気に帰ったのか、何度か行き来する内に、最終的に京に居を定めたのか判然としない。

この事はやがて、1256年に、我が子の善鸞も義絶に至るなど、親鸞の生涯の内から既に、後の宗門内の内輪揉めの芽が起きた事と関係する、という見方もある。


本堂の横に「親鸞さま」の像
(拡大)
傘に隠れてるけど御顔

↑菰の羽織に傘、竹製の杖に草鞋と、素朴な身なりで人々に教えを広めた様子が再現されている(^∧^)。
浄土真宗は本来、権門貴族の建てる華美な伽藍など持たないが、これは単に庶民を相手に、素朴な単位でも教えを始められるからなのだろう。

しかし親鸞が弟子や信者を「同朋」「同行」などと呼んで、ひたすら謙遜の姿勢を取ったのは、弟子を自称する者らが、素朴に暮らす坂東の人々に、過酷な体罰を与えたり、布施や労働を強要・搾取するなど、威張った態度に出る事への牽制からだった。

こういう暴走信者の態度は、やがて異端派を産むようになった。
親鸞の子・善鸞も、常陸国に派遣されている内に、この異端教義に染まった事が原因で、父・親鸞から義絶されるのである。

つまり幕府の取り締まりを、親鸞はある程度、納得していたのかもしれない。

善鸞への義絶を解いた形跡も無いまま、親鸞は1262年に死去する。
これら異端派との対決は、戦国初期の蓮如の時代まで継続されるのである。

教団維持の保身のためにせよ、鎌倉幕府に対し、親鸞は「念仏はまずは自分の往生のためにすべきだが、決定(けつじょう)の後は、世の安穏・仏法の広まり・朝家と国と民のためにすべき」といった「護国論」を提示する点、どことなく慈円の「公武合体論」に沿う感じもしなくない。


親鸞については、さっきも言った通り、最後の砂沼広域公園でも述べよう(^^)。



<多賀谷城跡公園>

光明寺を見終わって車に戻ると、亭主は「さっきの絵地図にあったから」と、一人ハンドルを切り始める。
「もしかして、多賀谷城(^^)?」
「ワンワン▼o・ェ・o▼」

亭主の言う「絵地図」とは、最初の「下妻ふるさと博物館」で見た案内板の事。
当初は、大宝城跡(現在はたぶん神社)にも行ってみようかと思ってたんだけど、私もさっきの博物館で、この多賀谷城があるのを見て、「こっちの方が近そう」と思ってたんで……、

「じゃ行ってみよう(^O^)/」
「ワンワン▼o・ェ・o▼」

ところが、意外な事にわりと探した(笑)
結構ウロウロと市内を廻る▼o・ェ・o▼

到着。正面は後続車が迫ってたので、裏手の運動場↓に駐車(パノラマ2枚)

ってわけで、正面の写真撮れなくてゴメン(^^ゞ。一応「城跡公園」的な表札が出てはいた。地図H←本城町と現地の案内板に書かれていた。
かなり住宅地の奥深く、道路なんかも狭い中にある公園で、最初はあまり広くなさそうに思ったんだが、中に入ると、↑こんな運動場があったり、この隣(←方向)には、

こんな遊具が揃った遊び場がエンエン続いてる(パノラマ4枚180度以上)

ただ、↑こっちの方には行かず、最初に着いた運動場から、道の向かい側を見ると…、→

隣の緑地に、何やら大きな石碑群があり、そのさらに向こうに、盛り上がった地面が見える。

この奥の高台の上がり口に「多賀谷城(下妻城)」の碑と説明版があって、城跡である事を示す一帯になってたので、この辺りに遺構が残ってる……という事だと思う(^^ゞ。
行ってみよう。

まず超えて行くこの一帯の石碑群だが、中央に「平和塔」、右に「戦後五十周年」という記念碑があって、戦没者遺族連合会の名があるので、戦没者慰霊塔だろう。

この右(→)方向に……↓

土盛りの一帯「多賀谷(下妻)城跡」案内板と「本丸跡」碑(パノラマ3枚ほぼ180度)

城の名の通り、ここは「多賀谷氏」の本城で、この「城主のたわごと」でも、これまで茨城南部のミニ旅行の折々、多賀谷氏の名を出した事があった(^^ゞ。戦国時代は……、

古河公方+後北条+高城氏+豊田など北上攻略グループに対して……、
×
上杉(謙信)+里見+佐竹+多賀谷+(小田原征伐で豊臣)

こんな感じね(^^ゞ。今日はもうちょっと詳しく書くけど。

階段を上ると、上にはこんな石碑が立っている→

この多賀谷城が築城されたのは康生元年(1455)、多賀谷氏の初代・多賀谷氏家によって開始、6年後の寛正2年(1461)に完成したといわれている。

多賀谷氏は隣国豪族を攻めて、その勢力下に置くほか、小田原北条氏が攻勢の頃、再三の来襲を撃退するなど、七代にわたり、147年間、下妻城主として常総地方に栄えた。

先ほど「下妻ふるさと博物館」でも述べた通り、東西に沼、南方に湿地帯、そして北には土塁・濠など七重の防備を敷いた。↓

さっき「ふるさと博物館」の多賀谷城(下妻城)模型(パノラマ2枚)

↑この模型は、江戸時代に描かれた「常陸国下妻城図」をもとに作製したそうで、城の中心部(東西約1km、南北約1.5km)を再現したそうだ。

今いる公園は、本丸の跡地のようで、この本丸を中心として、北から東に、北城、虚空蔵曲輪、帯曲輪、三の丸などが配置され、さらに周囲に本宿、平沼曲輪、南館が配置し、家臣を集めて住まわせ、防備を整えていた。

隣の敷地は、今通って来た緑地(パノラマ5枚180度以上)

北に防衛機能が集中している理由は、敵対勢力であった結城氏水谷(みずのや)が北方にいたからのようだ。

だいぶ前ながら、この多賀谷氏については、「牛久城跡」で、「結城氏と関わりが深い」と書いた。
牛久城で述べた通り、結城合戦で鎌倉公方・足利持氏の子・春王丸・安王丸を庇った結城氏が敗れた折、結城氏の遺児を救い出して匿い、結城氏の再興に繋げたのが多賀谷氏だ。
(2008年6月「千葉県の動乱」vol2<永亨の乱〜結城合戦(1435〜1440)>以降/2008年7月<牛久城跡、2>内

これはこれで間違いではないんだけど、これまで、どちらかと言うと、戦国期に多賀谷氏の敵対勢力(豊田・岡見・高城など、古河公方+後北条方)の側から見る事が多かったんで、その多賀谷氏(管領上杉+佐竹方)が、元主君筋の結城氏に対し防備に追われているとは、書いた事が無かったと思う。

しかし、どうも結城氏と多賀谷氏の主従は何度か敵対関係に陥ったようだ。
古河公方の内部が分裂したり、古河公方×関東管領上杉の構図の中でも、多賀谷氏と結城氏は、最終的には後北条氏方から上杉方に転向したようだが、そのタイミングのズレによって、互いが敵対陣営に別れる状態が幾度か起こったようだ。

一昨年、「総社宗任神社」や「宗任神社」を書いた折にも、多賀谷氏に従うのを嫌って、場所を移した神社もあるらしい事を書いたが、そういう事情によるのかもしれない。(2010年9月<宗道神社・宗任神社>内

最終的に結城氏も多賀谷氏も、後北条氏とは敵対関係のまま秀吉の小田原征伐の時を迎えたので、後北条氏とともに滅びはしなかったが、多賀谷氏の下妻城は、そういうわけで、結城氏などのいる北方への固めに厳重な態勢だったのだろう。

端まで近付くと、今通った戦没慰霊碑群が見える(パノラマ3枚ほぼ180度)

慶長5年、関ヶ原の戦が起き、七代・重経佐竹氏とともに西軍に心を寄せ、徳川家康の再三の誘いにも出陣しなかった。
よって、家康に憎まれ、石田三成にくみした理由で、慶長六年(1601)2月、城主は追放の上、城も破却となり、当地を去った。

城主追放の時、奥方始め、姫奥女中達は行末を案じて、ある者は懐剣でのどを突き、ある者は館沼に身を投げた。
領民はこれを哀れみ遺体を集めて、三の丸の一画に合葬した。
それが今に伝えらる美女塚といい、これより北東の法泉寺にあるという。

こっちは階段を上って来た側。わりと広い公園だ(パノラマ4枚180度以上)

現在は「多賀谷城」と呼んでいるが、旧名は「下妻城」であったそうだ。

現在本丸跡にある多賀谷氏遺跡碑は、旧主をしたう家臣子孫が明治23年12月に建立したものである。
城郭の土塁や濠は一部現存し、当時を知る貴重な遺構となっている。
市指定文化財に、昭和52年(1977)に指定された。

■多賀谷氏(茨城南部の戦国期)
2008年7月<牛久城跡、2>内
2009年7月<北部「禅福寺」と「筒戸城跡」>内以降

2010年9月<宗道神社・宗任神社>内
■他
2008年6月「千葉県の動乱」vol2<永亨の乱〜結城合戦(1435〜1440)>以降
2008年8月<常総市「将門公苑(豊田館跡)」>




<「砂沼」遊歩道と「砂沼大橋」>

↑一昨年、夜に来て、「日のある内に来てみたいね(^^)」と言ってた湖の周遊歩道。
去年も来たかったけど、大震災になっちゃったので、二年ぶり。

地図I←砂沼は広いので、これより入る所にポイントを置いてみた。確かこの辺だったと思う。違ってたらゴメン(^_^;)。 1/6250ぐらい拡大して貰うと、やや全体がわかると思う。
これより遊歩道に入って、湖の周りを歩きながら南に向かい、湖の中央の「砂沼大橋」を東岸に渡る。

←湖に向かう小道。既に月が浮かんでた
菖蒲(か花菖蒲かあやめか杜若か:笑)

砂沼に達した。これより周遊道を歩く
わりとすぐ向こう岸に筑波山が見える

この砂沼も、さっきの多賀谷城から見れば西に位置するから、多賀谷城を取り囲んだ東西の沼に含まれるわけだろうが、江戸期のここは溜め池であったような記述も見掛けるので、天然の水系が残ってると言うよりは、旱魃などに備えた用水の名残りと見るべきなんだろう(^_^;)。

ただ、多賀谷城は戦国期の佳境を迎えるより、少し前から造られた城だったようだから、何もかも人工的に区割りしたと言うよりは、恐らく天然の地形を利用して築城したんだろう。
多賀谷氏の居た頃も、親鸞が来た頃も、こうした沼や湿原の多い土地ではあったと思う(^^ゞ。

では、約束通り、湖を見ながら、また親鸞と浄土真宗(浄土系宗派)の話を再開(^^)。

湾に沿って巡らされる遊歩道(パノラマ4枚180度以上)

日本の仏教史は、国家が民間に関わって行く過程と度合に対応しているのであって、インド原始仏教との違いなんか、幾ら論じても意味が無い。

ただ浄土教が出て来るについては、少し海外との関係を言う必要があるだろうか……。
法然(1133〜1212年)の浄土宗の祖は、中国の善導という事になっているものの、法然より前にも、浄土信仰は平安国教たる天台宗にあった。

日本における浄土仏教の祖は、源信でいいのではないか、と個人的には思う(^^ゞ。
源信の時代(942〜1017年)は、平将門の乱の直後で、そもそも空也が市井において念仏慰霊を行なっていたのだが、空也自身には著作物が無いので、大抵の浄土教の歴史本には源信があらわれる。

湖上に浮かぶ筑波山と月(パノラマ3枚ほぼ180度)

源信は天台宗つまり比叡山の高僧だった。
法然も親鸞も、同じ天台宗・比叡山の出身である(^_^;)。
そこんとこ、何のかんの言っても、比叡山での修行経験のある源信も法然も親鸞も、仏教者の常識があったと思う(笑)。

源信は己の顕した『往生要集』を宋に送り、然るべく批評を得たいと、生涯にわたって望み続けたが、それらしき返信が寄せられた形跡はない。
少なくても日本の浄土教には、最澄・空海・円仁・栄西・道元のように、唐や宋に渡って伝授を受けた、といった系譜はない。

それが新宗を起こして、自論のように浄土教を展開されるのでは、比叡山側から異論が出るのも当然という事になってしまうから、イキナリ「観経疏」が出て来て、中国の「善導」が祖、という事になってる感じもしなくはない(^_^;)。

↓ワンちゃんもお散歩♪ 湖畔のコデマリ→

もちろん新宗を起こす意義が無かったわけではない。
初めは称名念仏を補助的に用いた源信も、その晩年には、かなり専修念仏に比重をおいたようだし、天台宗の基本方針は社会貢献的なトコも含めて現世利益に求められ、浄土や成仏のための修行に専念しづらかったのだろう。

ただ、法然と栄西(臨済宗)が、浄土宗と禅宗という、鎌倉仏教の二代宗派となって、天台宗の比叡山を出たのは、思想上の決定的な違いと言うより、比叡山が世俗化し、争乱にまみれた事が直接の原因だったような感じがする(^_^;)。

森の合間から顔を出す筑波山
月光を宿す水面上に橋が現れる

それと、浄土系仏教の背景に常につきまとう、念仏に対する批判的な土壌と言うか、淫祠邪教みたいな見方は、源信の時代に既に感じられる(^_^;)。

念仏ではないが、遡れば道鏡(〜772年)の出て来る背景にも、呪術的な古代仏教の修行法が伺える。
平安中期ごろの念仏も、呪術的なものと区別がつかなかったので、国教的な地位にあった天台宗から、源信が『往生要集』を著して、念仏仏教(浄土教)を正しい位置に押し上げたのだ。

鎌倉中期、時宗の祖・一遍(1239〜1289年)が率いる時衆踊念仏も、その前身には、既に空也念仏という流れが存在してた事が伺える。

一遍にも予言・幻覚・符呪など、呪術傾向が伺え、時衆も往生を急いだ入水や焼身など自殺行為が見られるし、親鸞の専修念仏にも、信者に夏は灸をすえ、冬には冷水を浴びせるなどの暴行を働く者がいたようだ。


←砂沼の中央「砂沼大橋」が近付いて来る。水上の筑波山に月に、多賀谷城の浮かぶ沼も、こんな風景だったのでは、と思わされる(#^.^#)。

奈良時代の道鏡の背景にも、高山に入り、山林で断食したり、滝に打たれ、毒虫に害されるなどによって、風雨を招き、人の病を治せる呪力(験力)を身に付け、「看病禅師」と呼ばれて宮廷医療に従事し、栄達を極めた話が出て来るので、一種の苦行なんだろう(^_^;)。。


「禅」と名しても、この手の修行法は、鎌倉仏教が宋から伝来した「禅宗」とは全く違い、相当古い時代からあった、原始宗教の色彩が濃厚で、後に密教(真言宗)や修験に集約されたようだが、元来は神道系に属すると見られる。
あるいは、こうした物の一部が、源信や法然の頃までに「念仏行」に入り込んで、残ったのかもしれない。

では「砂沼大橋」を渡ろう(^^)……と、ふと振り返ると(笑)
↑「待って待って、一緒に渡ろう!」と駆けて来る、お散歩ワンちゃん♪

「またこれ結縁なり。われもし道を得ば、願くは彼を引摂せん。彼もし道を得ば、願くはわれを引摂せよ。ないし菩提まで、たがいに師弟とならん (^∧^) o▼・ェ・▼o」 −『往生要集』

華麗なる日没。渡り始め(写真左)が西だね(^^ゞ(パノラマ4枚180度以上)

↓橋の左側は深い沼だが……
右にはもう一本橋が伸びている→

この右から伸びている橋は、さっきの遊歩道をもうちょっと先に行った「砂沼広域公園」および「砂沼サンビーチ」から出ていて、これより向かう橋の中央付近で合わさる。都合、三方向に橋が渡されてるという事。(地図J←拡大版)

さらに先に進むと……
橋の中央、三方向の接点に到達

進行方向は左の歩道、右は広域公園から伸びて来てる橋(パノラマ4枚180度以上)

↑の反対側↓、来た方向の橋(パノラマ4枚180度以上)

進行方向にさらに行き、向こう岸まで行ってみよう(^^ゞ。

小島草庵跡でも話した通り、親鸞に関しては後世史料が殆どで、不明点が多く、一時は実在すら議論された事があったが、どうやら1173〜1262年の人で、日野氏の出身と見られている。

この日野氏は、後には室町幕府の将軍各代に正室(日野富子など)を送りこむ貴族として名をはせたが、親鸞の幼少期には、同じ藤原氏でも、摂関家や院近臣などより低位置に甘んじていた。

さらに、この日野氏には「経尹」という人物の「放埓」が貴族達の間で、かなり問題視されていたようだ。
この「経尹」が、親鸞の祖父という説が有力視されてるが、親鸞に繋がる系譜は現在の所……、


有国− 資業−実綱−有信−有範−範宴(親鸞)

↑こう言われている。親鸞は有信の子という伝えもあるが、そうなると、有信が135歳の時の子になって計算がおかしいので、有信の孫か曾孫だろうと見られている。

これらの内、「経尹」はどれにあたるのかよくわからないが(^_^;)、一説に「親鸞の祖父」ともいう。

←中央のブロンズ像。輝く金色の鳥。
↑正面の森の頭上にのぞく筑波山。

何しろ親鸞には、この「経尹」の放埓が原因で、宮廷における立身はもとより、出仕すら危うかった所に、「経尹」の妻で、親鸞の祖母が源義親の孫娘であったというのだ。

義親−為義−義朝−頼朝 ←こうね(^^ゞ

義親が叛逆罪に問われ、討伐されたからと言って、孫娘のさらに孫に影響があるとも思えないが、親鸞の母も何らかの源氏の一族という伝説もあり、さらに親鸞の父「有範」の弟、つまり親鸞の叔父「宗業」も、以仁王の学問の師で、親鸞が出家した1181年に、この以仁王と源頼政の挙兵があった事が、親鸞が宮廷生活を断念した原因と見る説もある。

というのも、以仁王が討たれた時、その顔を見知ってる者が居なかったので、叔父「宗業」が呼ばれて、首実検に立ち合わされたという(^_^;)。。

ところが関東では、その後も以仁王の生存が流布(操作)されたから、親鸞の父も叔父もすっかり立場を無くして、一族そろって出家か遁世の憂き目にあったというのだ(^_^;)。

日没の残照。西方浄土の方角だ(^^)(パノラマ3枚ほぼ180度)

大抵の有名な僧侶の話が、「幼い頃から俗世には目もくれず、自ら仏道を目指した」と、生まれつきの偉さを誇るのに対して、親鸞が仏道に入った由来が、このように俗世の挫折である点は、もしかしたら、浄土真宗が他宗と異なる点、すなわち親鸞が「在家」としての修行の在り方にこだわった点と、全く無関係ではないのかもしれない。

そして1201年、29歳の親鸞は、先ほど「光明寺」でも話した通り、比叡山を離れ、六角堂にこもって祈念する内、聖徳太子の姿を拝し、夢の啓示によって法然に弟子入りする事を決意した


法然に会った親鸞は、そもそも比叡山を降りた理由とも見られる、妻帯による破戒女犯)について相談した。

法然は、「畳があるから破れているかどうかの議論になる。末法には破戒も持戒もない。弥陀は凡夫のために本願を起こしたのだから、急ぎ名号(念仏)を唱えよ」と言った。
これは「聖(ひじり)だから念仏できないなら妻帯し、妻帯して念仏できないなら聖になれ」という説法にも通じる。


↓橋の渡り始めを振り返る
一方、進んだ先、右手には明々と湖を照らす月光→

弟子入りした親鸞は、法然より「綽空」の法名を与えられた。
ところが、それから3年後の1204年、延暦寺が専修念仏の停止を天台座主に訴え出て、法然はその矢面に立たされた。

浄土宗教団は、法然が専修念仏を説き始めた1175年から20年ほどは無事だったが、1195年ごろから10年は、極端な曲解者無法者がはびこるようになっていた。

そこで法然は、七ヶ条の制誡(戒め)を門弟たちに示して、自粛自戒を促した。
主に、他宗や他(阿弥陀以外)の仏を批難・排他・否定・議論口論、信者に破戒・酒飲肉食など悪行を薦めるのを始め、曲解した教えを広める事を禁止している。
もちろん法然の門弟となっていた親鸞も、「綽空」の署名で、法然(源空)を筆頭とする190人の連署のうち、87人目に名を連ねている。

東岸に渡って振り返る。橋のライトが綺麗(パノラマ5枚180度以上)

通常モードで写すと、だいぶ暗くなってる(^_^A)(パノラマ4枚180度以上)

案内には「砂沼広域公園・観桜苑」とあったが……
だいぶ暗くなってたので引き返す事にした(^^ゞ→

東岸(地図K)から見る「砂沼大橋」の灯り(パノラマ2枚)

西岸に戻ろう(^^ゞ。砂沼大橋もドップリと夜。
月はますます湖を彩かに冴え渡る→

延暦寺は法然の取った処置と、提示した誓詞に納得して鎮まった。
ところが、法然門下の暴走信者は反発して禁止事項を続行したので、翌1205年、今度は興福寺が朝廷に、専修念仏の停止を要求した。

この同じ1205年に親鸞は、法然を訪ねて来た折の「善信」の名乗りを法然に認められ、その事によって、「妻帯の許可を与えられた」……と解釈できるそうだ。
そして、恐らくその年の内に親鸞は、京の下級官人・三善為教の娘(と伝えられる)・恵信尼と結婚したと見られる。

親鸞の実在は、この恵信尼の書状が発見される事によって裏付けられたので、恵信尼の存在は、不明事項の多い親鸞の研究には欠かせないのだが、同時にこの結婚が、浄土宗全体の運命に影響した可能性も否定できない。


と言うのも、興福寺の示した「罪状」というのが、「勅許によらず新宗を起こした事」に始まり、「専修念仏以外の信仰者には弥陀の光明が当たらない図を作成して広め、釈尊など弥陀以外の神仏に無礼を働き、法華経は地獄に落ちるなど、念仏以外のあらゆる仏教を誹謗し、囲碁・双六・女犯・肉食をし、他宗との同座を嫌うために将来、専修念仏が広まると、国土の安寧を祈願する法会が行われなくなる恐れがある」というのだ。

今度は西岸から東岸方向を見る
「砂沼大橋」を遠ざかって見る

結婚の時期にもよるが、親鸞にはこのうち、「女犯」が該当する。
法然が妻帯を許可したのだから、法然が責任を問われる事になろう。

これらの抗議が、八宗を代表して発表されたというから、天台・真言・法相(興福寺)に限らず、仏教界全体から批難されたに等しい(^_^;)。。
(八宗=奈良仏教六宗+平安仏教二宗)


この興福寺の奏状は、「八宗の中にも破戒を公然と行なう者があるし、専修念仏でも法然のように戒を厳しく守っている者もいる」と、八宗がわにも厳しい論調を示し、法然ら専修念仏がわを擁護する立場もとるなど、実に公正な態度を取っているだけに、尚更、意見の正統性が際立つ(^_^;)。


途中の東屋に寄る(^^)→

法然の支援者・九条兼実は一時、政界を追われたが、この時は復帰して、息子の良経の時代となっていた。
父子ともに法然を深く贔屓していたし、専修念仏は貴族社会にも影響があったから、全体的に穏便な対処となり、それが返って反発を招く内に、1206年、良経は急死。

さらに追い打ちをかける事態が、翌1207年に起こる。

後鳥羽上皇の熊野御幸の間に、宮中の女房らが、名指しで罪を上げられている専修念仏信者が主催する集会に出て外泊した事から、上皇の怒りを買って、1207年、専修念仏は停止に追い込まれ、信者の一部が逮捕・拷問・斬罪、法然や親鸞は流罪となった。

この時、僧侶を斬罪に処した事に親鸞は鋭く激昂し、この後、承久の乱で後鳥羽上皇の側が破れて流罪となったのは、この罪によるものといった論に繋がるわけだが、実は、親鸞にも初めは死罪が命じられていたと伝える書物もあり、初めは付随罪に過ぎなかった「女犯」が、後鳥羽後宮における罪状によって、第一等の罪に押し上げられた感がある。

後に専修念仏を徹底的に否定した日蓮も、承久の乱後の三上皇の流罪については、幼い日に仏道に入った理由を、「なぜそのような事になったかの疑問を解決するため」としており、当時の人の衝撃の強さが感じられる。


風流な眺めじゃのぅ(^^)(パノラマ2枚)

1211年、法然の勅免と同時期に赦免されるまで、親鸞が「藤井善信」と還俗名になり、流罪の身を置いたのは越後であった。
越後で子が出来た事から、恵信尼とともにあった事が伺える。

妻の実家・三善氏が越後に受領した事もあり、恵信尼が晩年を越後で暮らしているので、恵信尼との結婚は越後という説もあるようだが、三善氏も京の官人だったので、恐らく京から連れて行ったのだろう。妻の実家筋に、何か援助が得られたという事はあったかもしれない。


ただ、師の法然が流刑地に向かう道々に、様々な伝承・逸話を残すのに対し、親鸞には、越後では弟子を一人得た他には、目立った宗教的足跡は見当たらない。

東側沿岸に並ぶ街灯(パノラマ4枚180度以上)

法然は帰京後、二ヶ月で病のため亡くなるが、親鸞は帰京せず、関東に向かう。

法然より40歳も年下の親鸞は、必ずしも第一第二の弟子とまではいかないだろうが、叔父の宗業が学者であった親鸞は、多くの書物に触れる機会に恵まれた背景が伺え、多くの仏典経典の研究に加え、善導の『観経疏』も深く研究するなど、その学業の熱心さが認められ、法然から『選択集』(法然の事績)の書写を許された、6人の高弟(降寛・弁長・幸西・親鸞・証空・長西)の一人となっている。

法然┬親鸞
   └証空−聖達−一遍


関東への旅は、まず信濃北方を通じて上野国の佐貫(現在の館林市あたり)に着いた。
ここで親鸞は、人々が極楽に生まれる事を願って、浄土三部経の千部読経を開始した。

が、4〜5日して、法然が、五種の正行(読誦・観察・礼拝・称名・讃嘆供養)の内、称名いがいは「助業」(二の次)と位置づけた事に気づき、「称名念仏の他に、何の不足があって読経をするのか」と反省して読経を辞めた。

よって、親鸞が他力に任せきる信についたのは、この佐貫の千部読経より以後と解釈される。
迫害から逃れ、妻帯もしながら称名の道を極め、法然の教えも広げる、という立ち位置の特殊さ、複雑さに耐えうる教義を確立するまで日数がかかったのだろう。

そして、上野国から武蔵の北端をかすり、下総国の猿島・結城を経て、常陸国の笠間稲田に向かう前、ここ下妻を経たようで、妻・恵信尼が娘にあてた書状に、「常陸国の下妻・境郷に親鸞とともに住んだ時に、見た夢」の話を聞かせる段があって、ここ下妻の地に草庵を結んだ事が伝えられている。

その後、笠間稲田に赴いて、約20年の歳月を送るのである。



親鸞が関東に向かった理由はハッキリしないが、関東滞在の20年間で親鸞が行なった事は、『教行信証』の著述である。
『教行信証』は今日、浄土真宗の根本聖典とされている。

関東には鎌倉幕府がまだ芽生えたばかりだったが、藤原定家と姻戚関係にあった宇都宮頼綱が、既に際立った文化土壌を形成しており、執筆の上でも、また親鸞の目指す他力本願の実践のためにも、是非必要だった『一切経』(宋版)の閲覧が目的であった、と見られている。

これは、後に北畠親房が、やはり常陸に引きこもって『神皇正統記』を書いた事とも通じる所があるように思う。
当時の常陸国には、親鸞が執筆するに相応しく、鎌倉に匹敵する程の蔵書があったと推測され、専修念仏者として日に何万と唱えた法然に対し、在家の身に甘んじた親鸞は、多くの書物を読みこなし、『教行信証』を顕したのだろう。



<ビアスパーク下妻>

地図L←帰りは(例によって)日帰り温泉(^^)。ここには一昨年(2010年)のGWにも、帰りに寄った。

前に来た時は、時間ギリギリで、ささっと風呂に入ったのみだったが、今回はレストラン営業時間に間に合い、夕食を食べてから入浴できた♪

最初に入った「下妻ふるさと博物館」の隣にあるレジャー施設で、一般の日帰り温泉と違うのは、宿泊場もついてるトコ(゚.゚)。
公式サイト「ビアスパーク下妻」。一昨年のレポはこれね→2010年12月<下妻温泉と砂沼広域公園>

レストランは確か、和食・洋食の二つほどあって、そのうちの時間が長めにやってる方に入ったと思う(^^ゞ。

←これが下妻特産の葱をふんだんに使った、地元の方のアイディア料理「ねぎカツ定食」。
私も亭主もこれを頼んだ(笑)。

カツの肉の中に挟みこまれた葱がジューシーに仕上がって、タレやレモン汁とも合って、美味しかった(^O^)!
亭主も「思いつきそうで思いつかない、いいアイディアだね、これ!」と喜んで、パクパクすぐ食べてしまった(笑)。

帰りの道々、暗い中ながら、すっかり暖かいので窓を開けると、ケロケロ・コココと、盛んに蛙の鳴き声が聞こえ、「やっぱ茨城はカエルだねっ(≧▽≦)!」と、もう最高の気分で帰路。

豊田城もウッスラと白い影が闇に浮かび、南茨城もそろそろ馴染みの場所になったな〜なんて、改めて認識した♪

以上、関連事項は、
■多賀谷氏(茨城南部の戦国期)
2008年7月<牛久城跡、2>内
2009年7月<北部「禅福寺」と「筒戸城跡」>内以降
2010年9月<宗道神社・宗任神社>内
■石下、謎の城郭郡(笑)
2008年9月<常総市「将門寿司(爆)」>
2008年11月<茨城県常総市「豊田城」(石下町地域交流センター)>
2010年9月<まずは下妻を目指して>以降
2011年10月<下妻を目指す、1(常総市まで)>
■浄土仏教・聖徳太子、砂沼公園など、他
2008年6月「千葉県の動乱」vol2<永亨の乱〜結城合戦(1435〜1440)>以降
2008年8月<常総市「将門公苑(豊田館跡)」>

2009年7月<北部「永泉寺」>
2009年12月<ひじり塚(河野通信の墓所)>内
2010年12月<下妻温泉と砂沼広域公園>
2012年6月<宇都宮二荒山神社>内以降




以上、今回までちょっと立ち止まって、春景色をユッタリとお届けさせて貰った(^^)。
次回から又ちょいと駆け足モードに切り替え(^^ゞ、まず次回は、夏の日常編(5〜8月ごろ)をお届けしたい。
その後、いよいよ今月(11月)に行ったばかりの秋旅行レポに取り掛かりたい!!

<つづく>

2012年11月25日
 
     




ホーム