相変わらず「信州旅行編」の続きである。
この辺りで、少々現地の事情(歴史)について触れておいても良いような気がしている。
というのは、実はこの日、狂気の城郭跡地侵略ほどの行為に及んだのには、私なりにワケがある(と思っている)からである。
だいたい普通、中世の城跡という所には、この荒砥城のごとく、門があり門番が居る、という事はまず無い。何の事はない草深い山奥の地がほとんどであり、そこへ、一介の旅行客ごときに、侵入されようが凍死されようが、熊に遭って食い殺されようが、どっかから落下して全身打撲で死なれようが、地元の人間としては痛くも痒くもない。
そして、いくらバカでも、普通はそういうことにならぬよう、気を付けながら旅をするのが〇タクの常識と言ってよい。
しかし、荒砥城には門がある。その奥には、下手をすれば、そこで一晩ぐらい夜明かしできそうな施設があるのである。
これは平成6年(1995)、ふるさと創生事業(何じゃ、そりゃ)の一環として、城山史跡公園なるものが出来たためである。
元々、荒砥城とは、前にも述べた通り、信州の豪族として有名な(と、私一人が勝手に思っている)村上義清の一族、山田氏の城があった。
この山田氏自体については、戦国期は砥石城の城代であった、という程度以上は、詳細があまりわかっていない。この山田氏の要害の地として、史料にこの城が登場するのであるらしい。
天文22年(1553)、本拠葛尾城を自落した村上氏に泣きつかれ、当時まだ長尾氏であった上杉謙信が救援をつかわし、ここを自落させた。また、信玄の武田氏からは、室賀氏が夜討ちをかけた。永禄2年(1559)、信玄が、屋代政国隠居の折は当地を与える、と約束したため、屋代城からここに移った屋代氏の持ち城ともなった。
こうした事情と前後し、この地を巡って、かの有名な川中島合戦は行われたわけだが、やがて信玄も謙信も死に、前後して義清も、結局信濃を取り戻せないまま、上杉家重臣の立場のままこの世を去った。
上杉景勝の時代になり、川中島の海津城に村上義清の息子、国清が信州で初めて返り咲き、義清以来の悲願を一時達成させた。屋代氏は海津城の副将となり、荒砥城は、清野、寺尾、西条、大室、保科、綱島、綿内らが10日づつの交替で守った。
ところが屋代氏が徳川に内通し、副将の内通を見逃したかどで、せっかく父以来の旧領復帰の第一歩を踏み出した村上国清は、上杉景勝によって城代を解かれ、以後は没落。
このように荒砥城は、あっちこっちの物となった城である。むろん江戸期には山城は全て廃止された。ここに今更何らかの施設が建てられる、といって、歴史的意義があるわけがない。
麓の温泉地から、この山は大きく目の前にのぞめるのであるが、その山腹にはデッカイ「戸倉上山田温泉」というネオンが灯っている。
このように戸倉上山田は、旅行客が芸者を上げて遊興する、いわゆる温泉街にすぎない。この荒砥城跡にも、城跡公園が出来る前は遊園地があったらしい。
それが儲からなくなったのか、「いや、こんな事ではいけない」というノリになったのか、その辺の事はよく知らないが、何しろ遊園地が廃止され、かわりにここは城山史跡公園になった。
しかし、元々遊園地にした時点で、ここに残されていた何らかの遺構は破壊されたし、発掘調査でも何も出て来なかった、という。
そんな所に作られた城跡公園であるからして、当初、私はそんなに期待していたわけではない。
「おい、ちょっと待て。あの騒ぎようで、期待してなかったって?」
とここを読まれる方は、さぞかし訝しく思われるであろうが、およそ城山を前にしてあの程度騒ぐのは、私としては常の事であって、それがそのまま門番押しどけ行為に繋がった、とまで思われるのは、甚だ心外である。うむ。
まあ、戦国期の山城をかなり本格的な考証の元で再現した、と当地の案内にも書いてはあるから、多少はスゴイのだろうな、とは思ったものの、そんなものは、たとえば博物館とかNHKの大河ドラマ用のセットだとかでも、この世に無いわけではない。
私が常軌を逸してしまったその理由は、門の中に建っていた「そんなに期待してなかった建物」が、パノラマ状に広がる信州の景色……それも高所に上らねば見渡せられぬ、他の山々という背景との見事な融和を成していたからである。
実は私は、この景色が見たかった。信州の城跡地図(という物がこの世にあるワケではない。すべて自分で作る(^_^;))が、そのまま立体となって眼下に広がる、この迫力。これは整備された城山公園でないと見られないのである。
しかも、それらの景色は当時を再現した建物とセットで見ると、やはりただの山の景色ではなくなる。
いや、景色と書くと視覚的要素しか伝わらないだろうが、山という物には、何とも言えぬ匂いがある。独特の音がある。麓から立ち上ってくる何らかの煙や、取り巻く風や霧からさえ、日本の匂い、日本の音が醸し出される。日本の城は日本の山とともにあって、初めて存在する意味がある。私は、この光景を見た瞬間、確信した。
日本に存在するありとあらゆる城は、実は城ではない。この世のありとあらゆる山城が平城に置き換えられた時点において、日本という国は終わり、日本人という民族は完全に滅亡した。
侵しがたいほどの神々しさ美しさをともなうこの光景あればこそ、命をかけて祖国を守ろうとする気概が初めて生まれて来るのであって、その後の日本は何かのついで、言ってしまえば惰性の産物に他なるまい。うむ。
ここまで崇高な感動に胸討たれた私の耳に聞こえてきたのは、建物の中で盛んに喋りまくる、耳うるさいパソコン仕掛けの声であった。
「こんにちはー。僕は、これからこの城の案内をする”アラト君”でぇ〜す」
何じゃ、そりゃ(-_-;)。
城内には、二段構えに門と砦が築かれているが、その下の方には小屋があり、その中で上映ビデオ……と思いきや、Macだったりするのだが(^_^;)、とにかく機械操作による「城の説明」というのが流されている。そこに登場するCDアニメの案内役が「アラト君」なのである。
私としては、この感動を、もう少しゆとりのある時に、もう一度味わい直したい、という欲求があるにはあったが、この”荒砥君”の説明が、またエラク長く、聞いている内に、門番のオジサンが追い付いて来て、もう帰ってほしいと言い始めてしまった。
こうして、私の信州旅行の三日目は、”荒砥クンよ、もう一度ツアー”に決定してしまったのである。
2000年10月17日
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