<2000年・城主のたわごと10月>




やっと旅行の三日目に着手!(爆)

今年じゅうに終わるのか、信州旅行編(^_^;)。





     
 

幸運なことに、この「城主のたわごと、信州旅行編」は、わりとウケがいいようである(^_^;)。

これでも内心、「早く終わらせねば……」と焦っているのである。が、しかし、終わらない(-_-;)。そういうワケで、今回も続き。

戸倉上山田温泉に戻って来た私は、豪華な温泉に入り高級な膳を味わいながら、頭の中は……。

「明日で終わる。明日は東京に帰らねばならぬ。明日の内に、目標を達成しなくては」
という、何か切羽詰った思いの中に閉じ込められていた。

目標……。

そもそも、この旅の目標は、日頃疲れを溜め込んでいる主人の慰労ではなかったのだろうか。いや、主人だけに限らず、通常、温泉旅行とは、昔はともかく、文明の発達した現代において、心身の疲労回復以外の、何らかの目標を達成するために行われるものだろうか。

しかし、やはり私はロビーに降りていって、手当たり次第に職員など捕まえ、現地の人も知らない史跡情報など聞き出そうと躍起になる(-_-;)。

そして翌朝、だいたい行き先が定まった所で、嬉しく温泉に入る(^^)。

露天風呂がある♪ 室内には黄色い湯、外には淡い白い湯、二種の湯がこのホテルの売りである。効能も若干ちがうと聞く。やれやれ、これで(少しは)温泉旅行の最後を締めくくれるというもの(^_^;)。

のどかな温泉街の早朝である。鳥が囀り、草や木は青々と葉を広げ、まさに夏休みの良き風情であった。

しかし、私が露天風呂に入ったとたんである。見る見るうちに空に雲がかかり、ザァ〜ッと風が吹き、風にそよがれつつ小雨さえ鋭くまじる。さらに夏だと言うのに、目の前に流転を演出するがごとく、枯れた木の葉が一枚舞い降りたりする。

ザバッ! 「うぬ! 出陣じゃっ!」(爆)

以下は強行軍。荒砥城→戸倉上山田→坂城→満泉寺

荒砥城は前回わりと書いたので省略。

さて、満泉寺とは、義清の村上氏の菩提寺であるとも聞く。別に義清やその子孫の墓があるわけでもない、ただの寂れた寺である(ちなみに義清の墓は、越後直江津にある)。寺内には、当時の武士が信仰した北斗七星を象った「七星の絹旗指物」があるらしいが、ひと気もなく声をかけるのも憚られる。

これより他には、義清の居城、葛尾城の跡が、高い山のてっぺんにあるにはある。

「登ってもいいよ」と私。
「いや、いいよ登らなくても。前に登ったんでしょ?」と主人。
「私はね……」
「俺ならいいよ(^_^;)」
「そんな、遠慮しなくても(^_^;)」

そこで主人は、ついに本音を吐く。
「そこって、前、熊に遭ったってトコでしょ?(^_^;;;;)」

その通りだっ(>O<)!!(爆)
それがどうしたっ! 城山で死ぬのが日本人の本懐であるっ!

ついでに、この熊遭遇事件について今回は書いてしまおう。

それは遥か13年ぐらい前だったような気がする。いつの事かハッキリ覚えていない。

葛尾城跡は、荒砥城とは違い、何一つ施設を整えていない、天然の山そのものである。

むろん登山客などほとんど来ない。それほど急峻な高山というワケでもなく、しかし通常の城山ていどの高さを予定していくと、登るほどに期待を裏切られるぐらいには激しくも長い登山ルートになりうる。

私はそこに友人(女性)と二人で登った。そして、途中から道が無くなり(ホントは他にあったのかもしれないが)、岩肌にほとんど四つん這いでしがみつきながら登った。

背の高い草をかき分けながらの内はまだいい。掴める草さえ乏しくなり、砂が落ちて目に入る。足場が崩れてすべり落ちる。こんな所で怪我でもすれば、二度と降りられなくなるかもしれない。それゆえ、匍匐前進の体で慎重に行かざるを得なかった。

私達は、いい加減疲れ切っていた。頭も朦朧としていたし、喋るのも体力に障るから、この頃にはほとんど無言状態だった。それでも嬉しさをどこか隠し切れず、激しい息の合間に、思いつく限りのギャグを飛ばしあっては、お互いを励ましあい、そして再び黙るのを繰り返した。

そんな時だった。そろそろ頂上付近と睨み上げた森林の草地から、ゴソッと音をたて、ドスドスッと尻を向けて遠のいた黒い物が目に入る。

「あっ、熊だぁ〜♪」
「ホントだぁ〜☆ミ」

まずは、このように無責任な第一声を持って受け入れてしまうほど、それは何の気なしに出現したのであった。

そして言ってからすぐ……である。

ゾオオォォォ〜ッ(・・;;;;;)!!

二人とも同時に青ざめた。そう、彼(か彼女か知らないが)と私達の間には、動物園でよく見かけるような柵とか檻とかガラス張りの境界など、何一つ無いのである。

逃げたいが逃げられない。今しがみついている小さな草一つ離しても、落ちて行ってしまうほどの岩壁なのである。

熊はわずか10メートルほど先の茂みの中に入ったきり、身動き一つしなかった。しかしその荒い息遣いと、しきりに立てる、かすかな唸り声をして、すぐ目の前に隠れているのはハッキリと伝わって来た。

「火を、ライター持ってる?」と友人。
「何するの?」と私。二人とも”死んだフリ”ってのは通用しないぐらいの知識はある。
「この辺に火をつければ」
「山火事になっちゃうよ」

こんなトチ狂った会話をした後は、熊と私達は、お互い、茂みの向こうとこっちで睨み合いの姿勢で対峙しつづけた。恐ろしいぐらいの沈黙……。

その時である。

麓から……そう、それはもう人家など、手許の砂粒と同じぐらい、まさに点のように小さく見えるほどの遠い麓であるにも関わらず、それは、あまりにもハッキリ立ち上って聞こえてきた。

「え〜、毎度ぉ〜、お馴染みぃ〜、古新聞古雑誌ぃ〜、ボロきれなどぉ〜、ございましたらぁ〜」

ブブッ(^_^;)!

「これが最期に聞く人類の声って奴かね」と私。
「笑ってる場合じゃないよ」と言いながら、一緒に吹き出す友人。
「歌を歌おう」

女って、何を考えるかわからない。何しろ二人は、何をトチ狂ったか、声を合わせて歌いだす。

歌った歌を今でも思い出せない。本当に命がけでやった事というのは、そういうものかもしれない。

安心したのか、心を打たれたのか(爆)、熊はやがてゴソッと音を立て、ドスッドスッとやや歩を進めた気配で一度止まり、あとは……。

「ドカドカドカ、ドドドドドドォォォ〜〜〜ッッッ!!!」


私たちのすぐ横の茂みを突っ切って、駆け下りて行った。

ほとんど転がって行った、というカンジ(^_^;;;;)。熊だから出来る芸当であって、人間がこんな駆け下り方したら、全身骨折の憂き目に遭いかねない。いや、あるいはこの熊も、多少どっか怪我ぐらいしたかもしれないが(爆)。

つまり私はこの信州において、地元の人間さまだけでなく、熊にまでご迷惑をおかけしてしてしまった記録を残しているのである。

<つづく>

2000年10月31日

 
     




日本よ、なぜ滅びた。

崇高なる感動に胸焦がす私の耳に聞こえてきた、謎の声、

それは……。





     
 

相変わらず「信州旅行編」の続きである。

この辺りで、少々現地の事情(歴史)について触れておいても良いような気がしている。

というのは、実はこの日、狂気の城郭跡地侵略ほどの行為に及んだのには、私なりにワケがある(と思っている)からである。

だいたい普通、中世の城跡という所には、この荒砥城のごとく、門があり門番が居る、という事はまず無い。何の事はない草深い山奥の地がほとんどであり、そこへ、一介の旅行客ごときに、侵入されようが凍死されようが、熊に遭って食い殺されようが、どっかから落下して全身打撲で死なれようが、地元の人間としては痛くも痒くもない。

そして、いくらバカでも、普通はそういうことにならぬよう、気を付けながら旅をするのが〇タクの常識と言ってよい。

しかし、荒砥城には門がある。その奥には、下手をすれば、そこで一晩ぐらい夜明かしできそうな施設があるのである。

これは平成6年(1995)、ふるさと創生事業(何じゃ、そりゃ)の一環として、城山史跡公園なるものが出来たためである。

元々、荒砥城とは、前にも述べた通り、信州の豪族として有名な(と、私一人が勝手に思っている)村上義清の一族、山田氏の城があった。

この山田氏自体については、戦国期は砥石城の城代であった、という程度以上は、詳細があまりわかっていない。この山田氏の要害の地として、史料にこの城が登場するのであるらしい。

天文22年(1553)、本拠葛尾城を自落した村上氏に泣きつかれ、当時まだ長尾氏であった上杉謙信が救援をつかわし、ここを自落させた。また、信玄の武田氏からは、室賀氏が夜討ちをかけた。永禄2年(1559)、信玄が、屋代政国隠居の折は当地を与える、と約束したため、屋代城からここに移った屋代氏の持ち城ともなった。

こうした事情と前後し、この地を巡って、かの有名な川中島合戦は行われたわけだが、やがて信玄も謙信も死に、前後して義清も、結局信濃を取り戻せないまま、上杉家重臣の立場のままこの世を去った。

上杉景勝の時代になり、川中島の海津城に村上義清の息子、国清が信州で初めて返り咲き、義清以来の悲願を一時達成させた。屋代氏は海津城の副将となり、荒砥城は、清野、寺尾、西条、大室、保科、綱島、綿内らが10日づつの交替で守った。

ところが屋代氏が徳川に内通し、副将の内通を見逃したかどで、せっかく父以来の旧領復帰の第一歩を踏み出した村上国清は、上杉景勝によって城代を解かれ、以後は没落。

このように荒砥城は、あっちこっちの物となった城である。むろん江戸期には山城は全て廃止された。ここに今更何らかの施設が建てられる、といって、歴史的意義があるわけがない。

麓の温泉地から、この山は大きく目の前にのぞめるのであるが、その山腹にはデッカイ「戸倉上山田温泉」というネオンが灯っている。

このように戸倉上山田は、旅行客が芸者を上げて遊興する、いわゆる温泉街にすぎない。この荒砥城跡にも、城跡公園が出来る前は遊園地があったらしい。

それが儲からなくなったのか、「いや、こんな事ではいけない」というノリになったのか、その辺の事はよく知らないが、何しろ遊園地が廃止され、かわりにここは城山史跡公園になった。

しかし、元々遊園地にした時点で、ここに残されていた何らかの遺構は破壊されたし、発掘調査でも何も出て来なかった、という。

そんな所に作られた城跡公園であるからして、当初、私はそんなに期待していたわけではない。

「おい、ちょっと待て。あの騒ぎようで、期待してなかったって?」
とここを読まれる方は、さぞかし訝しく思われるであろうが、およそ城山を前にしてあの程度騒ぐのは、私としては常の事であって、それがそのまま門番押しどけ行為に繋がった、とまで思われるのは、甚だ心外である。うむ。

まあ、戦国期の山城をかなり本格的な考証の元で再現した、と当地の案内にも書いてはあるから、多少はスゴイのだろうな、とは思ったものの、そんなものは、たとえば博物館とかNHKの大河ドラマ用のセットだとかでも、この世に無いわけではない。

私が常軌を逸してしまったその理由は、門の中に建っていた「そんなに期待してなかった建物」が、パノラマ状に広がる信州の景色……それも高所に上らねば見渡せられぬ、他の山々という背景との見事な融和を成していたからである。

実は私は、この景色が見たかった。信州の城跡地図(という物がこの世にあるワケではない。すべて自分で作る(^_^;))が、そのまま立体となって眼下に広がる、この迫力。これは整備された城山公園でないと見られないのである。

しかも、それらの景色は当時を再現した建物とセットで見ると、やはりただの山の景色ではなくなる。

いや、景色と書くと視覚的要素しか伝わらないだろうが、山という物には、何とも言えぬ匂いがある。独特の音がある。麓から立ち上ってくる何らかの煙や、取り巻く風や霧からさえ、日本の匂い、日本の音が醸し出される。日本の城は日本の山とともにあって、初めて存在する意味がある。私は、この光景を見た瞬間、確信した。

日本に存在するありとあらゆる城は、実は城ではない。この世のありとあらゆる山城が平城に置き換えられた時点において、日本という国は終わり、日本人という民族は完全に滅亡した。

侵しがたいほどの神々しさ美しさをともなうこの光景あればこそ、命をかけて祖国を守ろうとする気概が初めて生まれて来るのであって、その後の日本は何かのついで、言ってしまえば惰性の産物に他なるまい。うむ。

ここまで崇高な感動に胸討たれた私の耳に聞こえてきたのは、建物の中で盛んに喋りまくる、耳うるさいパソコン仕掛けの声であった。

「こんにちはー。僕は、これからこの城の案内をする”アラト君”でぇ〜す」

何じゃ、そりゃ(-_-;)。

城内には、二段構えに門と砦が築かれているが、その下の方には小屋があり、その中で上映ビデオ……と思いきや、Macだったりするのだが(^_^;)、とにかく機械操作による「城の説明」というのが流されている。そこに登場するCDアニメの案内役が「アラト君」なのである。

私としては、この感動を、もう少しゆとりのある時に、もう一度味わい直したい、という欲求があるにはあったが、この”荒砥君”の説明が、またエラク長く、聞いている内に、門番のオジサンが追い付いて来て、もう帰ってほしいと言い始めてしまった。

こうして、私の信州旅行の三日目は、”荒砥クンよ、もう一度ツアー”に決定してしまったのである。

2000年10月17日

 
     





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