<2005年・城主のたわごと1月>
さてさて「沼田〜日光編」の第二弾。
沼田(正覚寺)、片品温泉、金精峠、そして上野から下野へ……。
おほほ〜新年明けちゃいましたっ(^。^)。
そしてついにこのサイトも、5年目に突入しちゃったですぅ〜。はぁ〜年取った感じ(汗)。。
さてさて、去年暮れ
ギリギリに
アップした、2003年9月の「沼田〜日光編」の続き再開。
<沼田城跡(城址公園)、2>
前回ダダッと沼田城の歴史を語らせて貰った。
今度は城跡の西北部、ちょっと独立した曲輪にやって来る。ここに来て、初めて城下の風景が木々の間から見渡せる。
市街の風景はこんな感じ。
こちらは、街中をやや外れた田園地域。
折しも秋まっさかり。
よく「黄金色(こがねいろ)」と称されるごとく、まさに刈り入れ時の稲の実りが、眩しく色鮮やかに目に入って来る。
「秋だね〜(^^)」としみじみ実感♪
そしてこの曲輪の中央にあるのが、前回も触れた「
平八石
」である。
沼田平八郎は12代顕泰の側室の子であったが、この側室の兄に金子美濃守という、平八郎にとっての伯父がいた。
平八郎自身は「磨利支天の再来」とまでうたわれた勇将であったが、この伯父と母が兄妹で結託し、一度は隠居した顕泰をそそのかしたので、顕泰は嫡子朝憲を呼び寄せて謀殺するに至った。
これがため、平八郎も顕泰も沼田を追われて沼田城は城主不在となり、1569年から上杉、1578年から北条、1580年より武田が支配した。
ところが、沼田を去ってから12年ぶりの1581年、平八郎は沼田城奪還の兵を挙げて沼田に迫った。
当時、この城には武田の配下である真田昌幸がおり、昌幸は戦っては平八郎に勝てないと知り、そのとき城中に居た金子美濃守に栄進を思わせ、つまりは騙して平八郎に会いに出させた。
美濃守は平八郎の武装を解かせ、「お前が必ず城主になれるようにしてやる」とこれまた騙して、3月14日(一説に15日)平八郎をこっそり城内に入れ、殺害した。平八郎は42歳だった。
その首級は昌幸が実検したが、その時、首が置かれたのがこの石であるので、これを「
平八石
」と呼んだ。
亡骸は町田町の小沢城址に葬り、沼田大明神として祀った。
が首級はここから亡骸を埋めた所に飛んで行ったという。
そろそろ沼田城を離れる。この曲輪から北方面だったか、一際高い、ツンと尖った山がよく目立ったので、地元の高校生カップルに山の名前を聞いてみた。
女の子の方が「とんば山って聞いてます」と教えてくれた。
(正確には「
戸神山
」と地元出身の方に教えて頂いた。2006/08/09追記)
<沼田・正覚寺>
沼田城からいったん南に出てから、東方面に進むハズだった。が、東に曲がる角を行き過ぎたようで、どこぞで転回しなきゃならなくなった。
「そこに寺がある」と指差すと、亭主はひとまず寺の駐車場に車を入れた。
転回しかけた時、寺の名が目に入った。
「
正覚寺
」とある。
「ん? さっき何か標識にあったお寺じゃないかな(^^ゞ」
「鈴木主水の墓だとか書いてなかったっけ(^^ゞ」
こたつ号は、そのまま駐車場に根を下ろす(爆)。
そしてまた、偶然にしては出来すぎた展開だが(笑)、そこにひょっこりと人が通りかかって声を掛けてくれる。
「お墓参りですか、ご苦労さまです」
「ええ、まあ、お墓参りと言いますか……(^^ゞ」
「さあ、どうぞどうぞ」
「お寺の方でしょうか」
「ええ、まあ一応住職なんです」
「おおっ、あの、スイマセン、鈴木主水の墓があると聞いたのですが……」
住職さんはジャージ姿で、すんごく気さくな感じの若い男性だった。
「あ〜〜〜、鈴木主水……はいはい、こちらです……が」
とちょっと申し訳なさそうに、
「でも鈴木主水の物かどうか疑問が出て来たので、実は今、鈴木主水の墓という看板は外してしまったんです。だからご案内しないと絶対に見付からないと思います」
と先に立って案内して下さった。
それがこれっ。↓
鈴木主水
の物と伝承される墓
小松姫
(真田信之夫人)墓所
フラッシュのせいでかなり背景が暗いが、実はまだ結構明るい時間。
ナント、このお寺はどっちかと言うと、上右の「
小松姫の墓
」で有名なお寺であったのだっ(^^;)。。
ま、とりあえずは鈴木主水の話から(^^ゞ。
ちょっとややこしいが、沼田城は、真田から又ぞろ北条の物となっていた時期があるんだな(笑)。
それは天下がそろそろ秀吉の手に渡った頃である。
ちょっとだけ遡り、1585年の、いわゆる「第一次上田(神川)合戦」から話を始める。
真田昌幸はこの合戦で徳川の大軍を相手に戦い、勝利を果たした。
が、戦には勝ってもその旨みが長持ちしないのが、この真田の「
持ち味
(笑)」で、この「第一次」の後も、秀吉の裁量によって、沼田城は結局北条の物だとかいう事に決まってしまうんだな(^^ゞ。
さて、沼田からそう遠くない所に、名胡桃城という真田の城がある。
こっちは秀吉が「真田の物でいいよ」と言ってくれたので、昌幸はここに城代を置いて守らせていた。
それが、この鈴木主水である。
名胡桃城では真田方の鈴木主水が、沼田城では北条の城代、猪俣邦憲が、互いに目と鼻の近さでじ〜っと隣の庭のエサを見詰める犬のように、互いにただ睨みあうだけの日々が続く(笑)。
と言うのは、この二つの領地が分断されていたのでは、真田にとっても北条にとっても、おのおの城を持つ機能に旨みの薄い無意味な状態だったからだ。秀吉って……(笑)。
ついに業を煮やした猪俣邦憲は、昌幸の書状に見立てたニセの書状をしつらえ、鈴木主水の家臣中山九兵衛尉(鈴木主水の妻の兄か弟)に持ちかけて、鈴木主水を城の外におびき出すと、一気に名胡桃城を奪ってしまった。
鈴木主水は、岩櫃城の真田重臣、矢沢頼綱と会って猪俣に謀られた事を諭され、すぐ城に引き返した。
が、既に後の祭り。城はまんまと敵の手中。己を恥じた鈴木主水は、正覚寺で切腹して果ててしまった。
これだけの姦計が成功したにも関わらず、結局この名胡桃城は北条の物とはなり得なかった。
なぜなら北条はこの名胡桃城奪取がゆえに秀吉に北条討伐の口実を与えてしまい、秀吉はいわゆる小田原征伐を開始したからだ。北条はあっけなく滅んだ。
一方の真田は、良い子で秀吉の沙汰を待っていた、という事で点数を稼ぐ(笑)。
というわけで色々あったが、結局沼田も名胡桃もめでたく真田の手に戻っては来る(^^ゞ。
また主水の子、鈴木右近忠重は真田信之の重臣になった。信州松代の信之の墓の隣に、今でもお供するがごとく鈴木右近の墓が並んでいる。
さて、住職さんの言われる「墓の真偽」についてだが、例え城を取られて切腹したという事情が絡むにせよ、どうも戒名が城代にしては低すぎるのではないか、というのが主な理由のようだった。
前は来た人にわかりやすい何らか目印を置いていたのを、この事情によって今は全て取り除いている、とのご説明だった。
だから「本物じゃなくてもいいから、鈴木主水のお墓参りがしたい」という人は、この写真を頼りに探してみて下さい(^^ゞ。
ちなみに住所は、沼田市鍛治町938。
次に小松姫の墓だが、こちらは「大蓮院殿の墓」という正式な説明版が出されていた。
小松姫は徳川家重臣本多忠勝の娘で、「小松姫」または「いね」と呼ばれた。
そうそう、本多忠勝と言えば、徳川四天王の一人で、「城主のたわごと」では2001年12月「大多喜城まつり」の時にちょっと触れた。
この名胡桃事件が起きた1589年、小松姫は家康の養女としてに真田信之に嫁いだ。翌1590年、上のような経緯で小田原征伐を経ると、沼田は正式に真田の物となったので、信之は沼田城主となり、小松姫も城主夫人の座に納まった。
1600年、真田家は会津の上杉討伐のために徳川と軍をともにしていたが、佐野犬伏に来て、家康から西軍の石田三成を討つ旨を聞かされ、信之は徳川方の東軍に、一方信之の父昌幸と弟信繁(幸村)は西軍につく事になった。
そこで昌幸と幸村は上田に帰る事に決め、その途中、沼田城を訪れた。
このとき小松姫は早くも真田家が二分した事を知り、昌幸と幸村の入城を拒んだ。
これがため後世に女丈夫とうたわれている。
ちなみに「第二次上田(神川)合戦」と呼ばれるのが、この関ヶ原合戦の前哨戦で、昌幸と幸村によってこの上田で釘付けにされた2代将軍秀忠が関ヶ原に遅参したのは有名な話である。
小国の領主に過ぎない昌幸の名が高いのは、彼がこのように、二度までも徳川の大軍を上田で打ち破ってるからだ。
小松姫は1620年に病み、2月に療養のため江戸からの帰路、武蔵国鴻巣で没し、同地で火葬された。享年48歳。
分骨して武蔵勝願寺、沼田の正覚寺、上田の芳泉寺にそれぞれ葬られているそうだ。
ん? 長野市松代にもあったハズだけど……(^^ゞ。ま、いっか。
お墓参りも無事に済ませ、さて今度こそ道を間違えずに行かないと……と思ってた所、住職さんが右の包みを渡して下さった。
中を見ると、蓮の花びらに見立てた物だろうか、綺麗に描かれた絵が6枚入っていた。
裏には一枚一枚「南無阿弥陀仏」と正覚寺の印が印刷されている(^^)。
見て見て、上にあるお姫様の絵。これが小松姫だよ〜〜ん☆ミ
何しろこの住職さんもすんごく好感触で、このお寺は勿論、ますます沼田の高感度は増したのであるっ!
でもこの日は、後はまっしぐらに行かないとそろそろ予定に間に合わないという事で、挨拶もそこそこになっちゃって、車もブンブン飛ばしてる内に日も暮れた(^^ゞ。
<片品温泉>
さて翌日。これは宿泊した片品という所。
ルートは沼田から120号線、沼田街道を鎌田付近で北上、401号線に入る。
写真は宿の二階から写した周囲の風景。
ピカーーンと秋晴れて、急ぎでなければちょっと散歩でもしたい気分(^^)。
宿。小さな民宿だった。同じように小さい宿が周囲にたくさんある。
ここは温泉と会議室もあって、値段がナント一人6000円とすんごく安い。
たまたま通過ルート上で探したら「片品」が出て来ただけで、所用でもなければこのまま全く知らない所だったはず(^^ゞ。でも静かで料理もすごく美味しかったし、また行きたかったりする(笑)。
何でこんなに安いのかな〜と思ってたら、どうもここは……。例えば、
隣はロッジ風の建物だったり
宿にはゲレンデ案内のポスターがあったり(笑)
冬季だけスキー客で賑わう場所らしく、他のシーズンにはお客さんが少ないのかも。
冬にはスキー板持ち込む客で賑わいそう。
秋の花も綺麗。もったいないよ〜。
というわけで、朝ご飯(笑)。
実は夕飯がかなり豪華で、あれを写したかった〜。着いた時ハラペコだったので、ガツガツ食って撮りそびれた(^^ゞ。
キノコと川魚や山菜づくしで、特にキノコの混ぜご飯が絶品だった☆ミ
出発前にちょっと近場に出てみた。すぐ近くが渓流。橋の両側を撮影。
橋から戻って来る。すごく綺麗で落ち着いた村。しばらく居たかったけど、この日はせっかくだから、次の移動場所になるべく急いで、出来れば日光を少しでも見ようという話になってたので、急いで戻った。
でも今見返しても、この辺りの風景はどことなく信州に似てるな〜と思う。綺麗な所だった。
車の転回のため、ちょっと入らせて貰った駐車場にいたワンちゃん達。
亭主が近付くとワンワン!と吠える。
野生感覚が麻痺した都会の犬と違って、やはり
同類の気配
に敏感と見た(爆)。
さて、ここもそろそろ出発せねばならぬ。
ん? あっちからも
犬が
来たゾ
お、仲間だ仲間だ
↑地元の酒屋さん。「水芭蕉」という地酒や「オゼノユキドケ」というビールを買った。名の通り、ここは尾瀬が近い(^^)。
来た時は写しそびれた大きな橋。来る前、民宿の人に道を教えて貰ったのだが、この片品の民宿街に入る目印として教わった覚えが……。 →
<金精峠>
一度「鎌田」付近まで引き返し、昨日来た120号線「沼田街道」の先、いわゆる「日本ロマンチック街道」と呼ばれる道路を栃木に向かってひた走る。
この道路、名でも想像がつく通り、素晴らしく景色がいい(^^)。
でも初めて来るというのと、何と言っても時間に縛りのあるスケジュールもあり、「どこで渋滞に遭うか判らないからね」と何しろビュンビュン先を急ぐ。
だもんで、唯一車を停める用と言えば「トイレ」のみ(笑)。
「日本ロマンチック街道」に入って、そろそろ県境にさしかかる「金精峠」に土産屋があった。降りてトイレに入る。
店内は平日というのもあって閑散としてて、さすがにトイレだけだとちょっと悪いかなと、ふと並んでる土産を見ると……。
こ、この飴は……。
そして店内を見渡すと……おおっ、何かスゴイ物が並んでるっ(笑)
最初↑の飴を見た時は「物産品を象った飴?」とか思ったんだが、↑で全てがわかった(笑)。
これはスゴイと感じ入り、思わず飴を買い、上の写真も撮影させて貰った。
飴の撮影は後日。実はまだ食べずに、ウチでも「神棚」に飾って取ってある(爆)。
その後、多忙に紛れて「謂れ」をちゃんと読んでなかったが、このレポを書くにあたって、撮影した説明書きを改めて読み、結構ぶっ飛びの内容だと思った。
まず、この「金精道路」および「金精峠」という名は、元は「
金精神社
」に由来する。
今は峠が難所である事、昭和40年に有料道路が開通して、金精神社から6キロ離れた事もあり、参拝者の便を考えて、この「
大滝ドライブイン
」に「
金精様
」を安置しているそうだ。
店外にはちゃんと社もお祀りしてあった。↓
金精神社の由来は、ナントあの「
道鏡
」にあるという。以下はドライブインの由来書きより。
道鏡は、43代天明天皇の孫あるいは後胤という説もあり、700年頃、河内国弓削郷(今の八尾市)に生まれた。
妖僧智僧などといわれ波乱万丈の生涯を772年に下野栃木に閉じる。
上野(群馬)から下野への国境を、真夏の非常な暑さにふんどしまで外して峠を越えた。
この男根が並外れて大きかったため、道鏡に肖ろうと村人達が金精様として峠の頂上に安置され故にこの峠を金精峠と名付けたといわれる。
江戸時代の川柳に、
「道鏡は揚風呂桶のそとに出る」
とうたわれ、現在まで、安産、子宝、縁結びの神として親しまれているそうだ。
で、慌てて道鏡を調べてみたが、なるほど、道鏡が下野国で死んだのは確かなようである(^^ゞ。
この謂れ書きでも判る通り、これより群馬から栃木に入る。次回は栃木県の日光をお届けっ。
<つづく>
2005年01月18日
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