<2011年・城主のたわごと6(5)月>




2010年9月「北栃木〜南福島編」第2弾。1泊目は川治温泉(^m^A)

そして2日目、いよいよ湯西川温泉の「平家落人村」へ向かう(^O^)! 




     
  前回からスタートの「北栃木〜南福島編」二回目(^^)。

前回の最後に見た「源三窟」から、南西の湯西川温泉や川治温泉に向かう。
1泊目は川治温泉。そして2日目は、湯西川温泉の「平家落人村」に行く。



<1日目・塩原温泉から川治温泉へ>

  ←前回の最後、「源三窟」(地図A)を見学した後、400号線をさらに西(←)に進み、121号線を南下(↓)して、「川治温泉」で一泊する(^^)。

2日目は、その121号線を北上(↑)して、「五十里湖」を左折、西に進んで(←)、「湯西川」で、「平家の里」など平家の落人村を見学。

次回は「五十里湖」まで戻って来て(→)、121号線を北上し(↑)、県境を越えて福島県に入る。

……実は、「湯西川」の平家落人村には、1日目の最後……つまり川治温泉に向かう前にも行った。
つまり2日かけて二往復したんだが、レポでは「湯西川」行きは一度にまとめようかと(^^ゞ。

まず400号線を西にダッシュ!
上三依あたり(地図B)まで来たかな(^^ゞ

前回も予告した通り、この地域に度重なりおきた災害(地震)について記したい。これより塩原を去るが、各温泉地の地名は、この後もちょくちょく出させて貰う。

塩原は東から、まず「大網温泉」を手始めに、「福渡」「塩釜」「畑下」「門前」「古町」「中塩原」と、それぞれ温泉地の名をもつ、総称「塩原温泉郷」がある。

「源三窟」は「古町」あたりに位置し、その後「中塩原」を抜けた後も、さらに西に「上塩原」「奥塩原」「元湯」など温泉郷を経て、121号線とぶつかる(「上三依」が合流点)。

慶長16年(1611)M7.3の地震が起きた。震源は会津あたりだろうか……。
塩原では、今言った温泉郷のうち「元湯」の源泉の一部が塞がってしまった。

承応元年(1652)、同3年(1654)にも地震が起きて、塩原の各神社が破壊されたので、材料を塩原山から切り出すことを藩主に願い出る文書が残るそうだ(宇都宮藩主は、奥平氏)。
明暦元年(1655)には、塩原八幡宮に続いて、元湯温泉神社が再建され、復興は進んだ。

が、万治2年(1659)にも大地震が起き、田島宿197軒の家屋が倒壊。死者8名。
さらに塩原の「元湯」も山崩れが起き、湯底は破壊されて冷水となってしまい、そこから湯を引いていた全ての温泉が不能。

さらに余震が続いたため住人は移動し、1175年の元湯温泉神社・創建の頃より、480年以上続いた温泉は、ついに寂れていく事となった。

121号線にもう入ってるかな
そろそろ五十里湖あたり

地図C←121号線を長い距離で五十里湖が取り囲んでるので、周囲はド〜ンと視界が拓けて、見晴らし爽快!


寛文4年(1664)、八坂神社を修復。同6年(1666)、古町温泉大権現を再興。
ここで藩主が奥平氏から松平氏に変わったが、松平氏も復興を続けている。

しかし先の万治地震(1659〜)のあと、山の崩落が続いたため、寛文10年(1670)には甘湯地域の住民が移動した。
畑下、塩釜、福渡なども大洪水があって、被害は大きかった。

ところが、そうして川底が出たため、寛文7年(1667)に福渡、延宝元年(1673)に塩釜、翌年(1674)塩の湯と、温泉の出る場を求めて住民が住んだ。

ようやく落ち着いたかに見えた天和3年(1683)、今度は日光地震による強震で、戸板山や葛老山が崩壊。
落ちた土砂が男鹿川をせき止めて会津西街道との通行は不能となった。また、同じく川が止められて、現在の「五十里(いかり)湖」が出来た。

それが、ここ、五十里湖である。↓

五十里(いかり)湖の湖面(^^)
トンネル前を右に曲がると249号線→

ホントは一日目もここを右折して、湯西川方面に行ったんだが、2日目の朝の所(まで今回)でまとめさせて貰うとして、このトンネルを真っすぐ潜って、川治温泉に急ぐね(^^ゞ。



<川治温泉で一泊(#^.^#)>

災害の話は翌日の朝に廻すとして、宿泊した川治温泉の夜〜朝をお届けしよう(^^)。

←山に立ち込める濃霧。夜の写真も新デジカメでやっと写るようになったけど、山に迫る夜の気配って凄味があって、いつも宿泊が楽しみになるんだわぁ。
↑宿に到着。川治温泉の宿。地図D

鉄道では会津鬼怒川線「川治湯元」駅が近い(歩いても来れると思うよ(^^ゞ)

川治にいる内に、2日目の行程に出て来る地名、「鶏頂山」の位置を確認しておこう。
地図E←宿泊した温泉宿から、北東方面の山がそうなんだね(^^ゞ。
これが湯西川の平家の落人伝説に出て来る山のようで、最初はここに隠れ潜んでいたそうだ。

さて、温泉宿の全景は翌朝に譲るとして、まずは……

お待たせ桃の木、美味しい夕ご飯〜(^O^)
←こちらは亭主の膳
↑こたつの膳。
そうそ、バイキングなんだわ( ^,_^)ф<モグモグ

ちょくちょくテレビで、大手や新規の事業者などが買い取るとか、経営に乗り出すなどの形で、「甦った」とか、あるいは自ら新しい試みに挑戦して、「不況を乗り切った」などと紹介される旅館を見る。

浴衣や布団の出し入れや、朝夕の食事をバイキング形式にするなど、なるほど、そこは人にやって貰わなくても、安い方がいいかも……という手法で人件費などの効率化を計っているわけだ。

ただ、テレビでよく紹介される程には、実際その手の宿に巡り合えた事がなくて、泊まれたのは今回はじめてなんだが、うんうん、なかなかいいよ( ^,_^)ф<パクパク。
食べたい物が食べれるし、温かい物や冷たい物の保温には、ちゃんと人手を割いたり工夫されていた♪

美味しく食べ、食休みの後は……温泉〜! ε==(/^.^)/

これ全部、露天なんだわ広い〜(*o*)!
奥は庭じゃなく屋根ナシ風呂(晴天用だね)

露天風呂は雨が降っちゃうと残念なんで、屋根つきの温泉も用意してるんだね〜!

屋根ナシの露天から屋根付き側を見る(パノラマ3枚ほぼ180度)

前、「チャイニーズ・ゴースト・ストーリー」っていう、時代劇(&妖怪活劇)の香港映画で、こんな場面が出て来たな〜。
室内風呂の方は、入浴してる人がいたので翌朝に(^_^A)。

ちなみにこの川治温泉も、さっきの五十里湖の出現と無縁ではないらしく、その後の享保年間(1716〜35)に湖が決壊したのがキッカケで発見された……という情報をネット上では見掛ける。m(。。)m
今回の大震災後も、いわきで新たに温泉が湧き出したり、湯量が増えたニュースがあったよね。

五十里湖あたりの話も含め、翌日にまた地震の話をするとして、一日目の分は、取りあえずここで区切るね。お休みなさ〜い☆ミ



<2日目・川治温泉の朝っ(#^.^#)>

おはようございます(^。^)。
ちょいと、宿泊部屋から外を見てみましょう。ベランダがあるんだよねここは。

おおおお! 朝の温泉街は絶佳じゃっ!

温泉は、前夜の「男湯」と「女湯」が取り換えられていたが、誰も入ってない湯に出会えたので、今度は室内も(^^ゞ。

室内
露天(昨日のとは違うが)

いい湯だったわ(^_^A)。朝風呂の後は、まいど楽しみな朝ごはん〜(^O^)

←亭主                 こたつ↓

朝もバイキングだけど、味は旅館の朝ごはん。満足・満足〜♪ *しーぱーしーぱー*

というわけで、チェックアウトして、これより湯西川に向かう(^^)。宿の全景を改めて↓

ド〜ン!周囲は清涼なる山々\(^O^)/(パノラマ6枚・180度以上)

↑6枚になってるが、途中にちょっと切れてるトコがあって補充を入れたからで、全体で5枚ぐらいだが、それでもだいぶ繋げ過ぎかもっ(笑)。



<川治温泉〜五十里湖〜湯西川>

ではでは、川治温泉を出発。まずは五十里湖を目指す。

道行く先には……
大きなアーチ型の鉄橋が見える

五十里湖の界隈とも、これでお別れなので、災害の話もそろそろ締めくくっておこう。

天和の日光地震(1683)の影響で五十里湖の出来た後、220年以上、「元湯」は廃村となった。
住民はまた移動する事となり、不安や郷愁の悲しみに覆われた。

が、道は上三依、高原街道、会津脇街道(今尾頭がわ)、関谷あたご山通りなどを通るようになり、沿道に各宿が出来て、塩原には江戸からも会津からも文化が流入した。

やがて五十里湖が……
徐々に湖面を露わに見せる

日光地震の翌年(1684)には、専用浴場を設ける円谷寺が出来た。
貞享4年(1687)には温泉熊野三山大権現が創建。畑下には湯池場が出来た。
流通の盛んな塩原は住みやすく、移住者も増え、元禄時代(1688〜)には元禄景気に乗って、酒造りなど産業が発展した。

ところが、古町温泉神社が補修され、建築ラッシュに沸く正徳3年(1713)、又も地震が襲い、元湯千軒が廃滅。。
住民はまた移動し、御神体なども遷座して、新湯(あらゆ)に湯池場を整えた。

↓五十里湖を中ほどまで来て、行きに通ったトンネルを出た所を左折すると、湯西川へ向かう249号線に入る。

249号線を曲がってスグ。「道の駅」
右側は工事中のフェンスが少し続く

地図F←道の駅「湯西川」。建物には「湯の郷・湯西川観光センター・天然温泉」とあった。
この先だいぶ行かないと旅館などのある地域に着かないので、日帰り温泉に入るだけなら、ちょっとした拠点になるかなと思った(^^ゞ。

こっから先は、1日目の夕方と、この2日目の朝の両方行ったので、両方の写真を混ぜながらいく(^^ゞ。道順とか、もしかして前後が違うかもしれないが、ご勘弁を(^∧^)。

目的地、一番奥の「平家の里」の位置を先に提示しておこう。地図G←までドライブ♪

←デカイ建設現場っぽい光景を潜る。ダム用の施設だね(^^ゞ。ホース管(?)に「ようこそ!! 湯西川温泉へ」と書かれ、歓迎してくれる♪
↑渓谷の風情も増して、いよいよ落人村に向かっているムードが上昇(#^.^#)。

享保7年(1723)には大洪水……。。平地が全て沼と化し、五十里湖も決壊。元湯は完全に廃村し、無人状態となった。
又、この享保年間に、一泊目を迎えた、あの川治温泉が発見された、というんだね(^^ゞ。

塩原地方は災害の影響で不作となったが、一方で、会津との往来によって大きな不況は免れたともいう。これがこの地域の特徴とも言えるかもしれない。

ついで、天明3年(1783)の浅間山大噴火による不作と大飢饉、また洪水にも悩まされた。
この後は、大きな災害の話を見ないから、小康を得て、幕末を迎えたのかもしれない。

しかし、やがては戊辰戦争の戦火……まさに大難につぐ大難を経たと言えるが、その都度、復興していったのである。

ドンドン湯西川に向かう〜!
急に出た平野の住宅地

塩原(もうそろそろ湯西川だが:笑)には「温泉神社」がとても多かった。温泉のある地域に温泉神社があるのは、決して珍しくはないが、他で見るより多いような感じもする。
これほど多くの被害を受けても、必ず神社の再建から復興が起こる点を見ても、崇拝の篤さを感じさせる。

地域で元々、崇拝を集めた神社だからだろうが、災害で湯が冷えてしまったり、街道が塞がってしまう事が、いかに地域に打撃だったかも想像させられる。

と同時に、復興しては何度も破壊されるを繰り返し、それでも尚、いくたびも復興するエネルギーには、実に感嘆する。地域の力の源が、街道や宿場の発展にあったからだろう。

以上が塩原地方と、五十里湖あたりにかけての災害の歴史である。



<「平家落人民俗資料館」「平家集落」>


これより、本格的に湯西川モードに切り替えよう。
道は湯西川の奥深く入り込み、↓トンネルを超えると、いよいよ平家の落人村へと入る。

また行く手に大きな山々が見えて来る
このトンネル越えると平家村だよ(^O^)!

トンネルの(向かって)左側には……

(拡大)平安朝の絵が(笑)
さらに進むと……赤い傘がいっぱい(゚.゚)!

ここに至る前、あるいは湯西川よりもっと奥には、カタカナ地名が多く、何だかワクワクするんだわぁ(#^.^#)。
ちょっと地図から拾ってみると、オクダブリ沢、サル沢、マゴリ沢、フリウギ沢、ウツルギ沢、ユナゴ沢、ヌーグラ沢、オクラ沢、ジャーコン沢、オホッパ沢、コビツリ沢……etc。

で、ここ湯西川に入って来ると、入口といえる地域に「高房神社」「平家七盛塚」(伴久ホテル前=バス停)がある辺りを通る。地図H

「高房神社」は、実はトンネルくぐる前にあったと思う。今回の最後に廻す(^^ゞ。
「平家七盛塚」には行かなかったが、ガイドブックにある地図を見る限り、この赤い傘の裏手あたりだろうか。

←「伴久ホテル」は、この向かい(今立つ位置の背後)にあったように思う。

この先の落人村の中ほど「本家伴久」の新館的な宿泊施設かと思ったが、どうも違うような……。

というのも、こちらの「伴久ホテル」は、2011年の4月25日、事実上の倒産となったニュースを見た。
それにつれて、湯西川で有名な「本家伴久」とは、別系列といったような記事も見掛けた。

ネットで知る限り、倒産の要因は長引く不況(特にリーマンショックなど)にも既にあったようだが、この4月、GWを直前に倒産と聞くと、やはり震災の影響をどうしても思うし、事実そのように分析しているニュース・サイトも多い。。
ホテルの会長さんが、地震の被災者を招いた花見の会で、温泉の湯をプレゼントしてた事を伝えるニュース記事も見付かった。

「本家伴久」も「伴久ホテル」も、「平家の末裔」を称しておられる点には注目した。
と言うのも、湯西川で見る平家の落人では、前回の「妙雲寺」とは、また違う名が出て来るのだ。

例えば……さらに少し先にある「平家落人民俗資料館」→

ここでは、落人の名は「右衛門尉・平景定」である。
貰った資料館パンフの系図によると、清盛の子に「清定」、そのさらに子に「景定」と見える。

「清定」の方は、wikiで見ると「清盛の養子」で、「中原師元の子」となっており、一の谷の戦いで戦死したように書かれているが、詳細は知らない(^_^;)。

ただ中原氏というのは学者の家柄で、幕府創生の頃には、頼朝の元で文官(政所)を務めた中原親能が有名。大江広元も、この中原氏に養子に行ってた。

資料館の前の249号線(パノラマ4枚・180度以上)
資料館↑

↑このお店で、「鹿刺身用500円」「猪もも肉650円」「山椒魚」などが売られてて、「買いたいっ(≧▽≦)」と大騒ぎしたんだが、あと2日も旅行が続くので断念した。。
この先に行くと旅館なども多くなり、隠れ里料理っぽい看板がさらに増える!(ジュル〜)

↑の反対側↓(パノラマ5枚・180度以上)
↑資料館

ところで、前回「妙雲寺」に伝わっていた「平貞能」や「妙雲禅尼」らは、「平重盛(清盛の長男)」の縁類であり、木曽義仲の入京による平家の都落ちの時(1183年)から、すでに平家を離れて落人行動を取った事が伝わるが、この「景定」の場合は、それより後から落人となったと伝えている。

ちなみに、ここでは宇都宮氏の名は現われないが、代わって、この源平争乱の頃の前段階として、「承平・天慶の乱」(平将門の乱=935〜940年)に敗れた者たちがこの地を開いた、という伝説が先に語られる。

そして、寿永4年(1185)、平家壇ノ浦に亡んだ時、景定は最後まで防戦し、高官らが完全に退却したのを確かめて京に残ったが、徐々に源氏の掃討戦が厳しくなるので、ついに一党を引き連れ、追捕を逃れながら北国に身を隠した所、一門が西国で亡んだ事を知り、追手の迫ることを思い、北陸道を北に向かって、この湯西川に落ちのびた。

その後、義経の追討などもあって、文治年間(1185〜89)は緊張状態が続いたが、建久年間(1190〜98)には平家の落人掃討も手薄となり、以後、細々ながら静かな余生を送り、ここに独特の民俗文化を伝えた。
これらの文化について、古びた衣類や器物などの展示によって見せている。

さらに進むと、ちょっと拓けた旅館街があり(地図I←かなり拡大)、これをさらに先に進む→

すると又、少し鄙びた山間の清流に行き会う↓

分岐点を左(川を渡る)
進んで右の斜面「湯西川館」

渡ってから振り返る「平家集落」の看板→
(拡大)
橋の脇から川に降りれる階段が作られている→

降りた対岸に↓「本家伴久・十二単館」
あの赤い橋まで少し散策しよう(^^)

本家伴久」は、この「十二単館」と、あの赤い橋(地図J)の向こうには、川の左側に「本家伴久(本館)」、川の右に「萬久旅館・平家隠れ館」というのが地図に見えるm(。。)m。

詳しくは後で話すが、この「本館」と「隠れ館」の間には、かつて追手を寄せ付けないため橋を切り落とした、という伝説があり、今は渡されている橋は、1994年に執り行われた、「源平の和睦式」の後に架けられたそうだ(^^ゞ。

「本家伴久」さんも、落人となるに至った起点を、1185年、つまり「壇ノ浦の戦いに敗れ」としており、「宇都宮朝綱との縁戚関係を頼って」としつつ、先祖とする人物は、「重盛の六男・平忠実忠房)」である。
       
「重盛の縁類」または「宇都宮朝綱との縁を頼みに」という点では「妙楽寺」に近く、「1185年の壇ノ浦」とする点では、「平家落人民俗資料館」に近い。

さらに、「鶏頂山」や「鯉のぼり」の話もあるが、この先の「平家の里」に譲ろう(^^ゞ。
実は「平家の里」に行くと、これらが一繋がりのストーリーになっているからだ(笑)。

<湯西川・平家落人(のみ)系図>(そろそろ増えて来たんで、まとめてみた(^^ゞ)
清盛┬重盛┬維盛
   ├宗盛├資盛====湯西川「平家の里」
   |   └忠房忠実)=湯西川「平家の里」「本家伴久」
   ├清定−景定====湯西川「平家落人民俗資料館」
   └妙雲禅尼=====塩原「妙雲寺」
国香流平氏・系図

平家集落」に並ぶ風情ある民家(パノラマ5枚・180度以上)

この赤瓦の「斎藤商店」には、「そばの実せんべい」「きゃらぶき」「葉とうがらし」「そば粉」「ゆばうどん」「ごぼう菓子」「山芋そば」などが並んでいた(^^)。
湯葉は日光でも名産だよね♪

「平家豆腐」の「会津屋」
通り過ぎて振り返る(^^)

この「平家集落」は、もちろん平安末から続いてる建物ではなかろうが(笑)、この後に行く「平家の里」のような、丸きり再現によるテーマパークとは違い、本当にレトロな佇まいの家屋が並び、古くから「平家の集落があった」と伝説されて来た場所でもあるようだ。

あと、温泉が出た謂れ(戦国末期〜江戸初期)としても、この辺りが本来の場所なのかな……という感じがした(^^ゞ。

一番奥の「清水屋旅館」
赤い橋の方から振り返る

「平家落人民俗資料館」と「平家集落」に来たのは一日目、「源三窟」の後だから、だいぶ日暮れも近く、夕餉前の風情が濃厚で、この風景見ながら、川魚とか山菜類なんか食べたくてしょーがない気分満載となった(爆)。

赤い橋の向こう側の川。左の白い建物が「本家伴久」(本館)かと(^^ゞ。水流に面した抜群の雰囲気♪
一方、橋のたもとから階段を登ると、「慈光寺」というお寺に通じる。→

この「慈光寺」に、特に平家落人との関係などは書かれてなかったが、「本家伴久」の先祖の供養を行ったと伝わる寺で、入口付近の露草には、磨滅して形を留めないながらも、元は石仏か墓石と思われる石が並び、賽銭箱や、「平家夫婦石」というのがあった。

「夫婦石」の碑が、これまた字が不鮮明で由来を完全には読みとれなかったが、「平家の子孫が子宝を授かる石を発見して崇拝していたが、やがて土中の石となってしまい、後に再び発掘され、祈ると子宝に恵まれた」といった内容だったと思う。

再び暮れゆく湯西川の平家集落を眺める(^^)(パノラマ縦3枚)

実は上記「平家夫婦石」と似たような話が、「本家伴久」に伝わってるらしい。

本家伴久」←によると(詳しくはクリック(^^))、湯西川に落ち伸びて来た「本家伴久」さんのご先祖「平忠実忠房・重盛の六男)」が雪中に狩を行った所、地熱で雪が積もらぬ土を発見し、温泉を見つけた。
温泉なら後で子孫が見付けるだろうと思い、そこに財宝を隠した所、1573年、11代目子孫の伴(対島守)忠光が、やはり雪の日に財宝と温泉を発見した。

そこで伴家は、江戸時代に入った1666年、湯治宿「伴久旅館」を開業し、今に子孫と旅館経営を伝え、11代・忠光が発見した「藤鞍」(藤の木で作った鞍)は、旅館の宝物館に展示されているという。

「伴」は、「人+平」が語源と伝わるという。
「イ(にん偏)」+「“平”の天井の“一”が、二番目の“一”の下に降りた形」だね(笑)。

私だと古代の伴氏(大伴氏)を思い出すが(^^ゞ、この「伴」や「大伴」は、鎮守将軍を多く勤めた家柄だから、東北には多い姓(自称にせよ(^_^;))だったのかもしれない。これに上手く紛れ込んだ……という事かな?(^^ゞ



<平家の里>

↑1日目、「平家落人民俗資料館」を見てからここに来たら、ちょうど閉館時間になった(^_^;)。
なので、今見た「平家集落」を見て、最後に「高房神社」を拝んで、川治温泉に引き上げたのが、今回最初に出した一泊目の宿泊。

が、亭主が「平家の里」の閉館を残念がり、「平家の里には、もう行かないの(;_;)?」と言うので、2日目の朝、再びここに来る事にしたのだ〜♪

なのでここでは、外側から撮影した写真に、一日目のも微妙に混ざってるが(笑)、多くは2日目朝の写真(^^ゞ。

到着。「平家の里」(地図G(縮小)地図K(拡大))。
1日目は道路むかいの駐車場から、この茅葺屋根の民家だけ、こうして柵越しに見た(笑)↓
駐車場の片隅には「清盛の木」が立っていた→

案内板によると、「樹齢800年」と伝える御神木のの木で、「太政大臣 平清盛公ノ木」とし、「壇ノ浦の源平合戦以来、平家落人が身を隠し、守り伝えし平家の里」と書かれていた。

園内に入る前に、「平家の里」の案内図を(^^ゞ↓

↑左の方やたら暗かったんで(一日目は、だいぶ日暮れキテてたから)、結構修正入れてある(^_^;)。

左の凹み階段部、@「冠木門」から入場。一番左に受付「太敷館」。
進路は右に伸び、川の左側(上部)から、AB「調度営みどころ」の2軒、CDE「床しどころ」の3軒。
右の大きな建物がF「種々伝えどころ」、さらに右奥にI「赤間神宮」。
ここで折り返し、「鹿園」を通って、戻り道は川の左側(中央部)、G「餉の館」(食事処)、H「よろず贖どころ」(売店)と帰って来る。
下部の森林地帯には「平家塚」が、「平家の里」との間に柵を隔てて隣接。

では入ろう(^^)。

入場@「冠木(かぶき)門」
スグ左に受付「太敷(ふとしき)館」

入って正面は↓こんな橋みたいのを渡り、右に歩いて登る。

垣根の向こうに落人村の再現が広がる(パノラマ3枚・ほぼ180度)

橋を渡る時、足元に「くまがい草とあつもり草は源氏と平家の野草です」と書かれ、触れないよう注意を呼び掛けていた。
右に緩やかな登り坂が伸びている→

湯西川で見る「平家落人伝説」には、前回の塩原「妙楽寺」などに伝わる平貞能ら系統の話を殆ど見ない。

が、ここ「平家の里」で貰ったパンフには書いてあった(笑)。

この「平家の里」は、地域の活性化と伝承の保存を目的として、昭和57年(1982)に着工を開始し、昭和60年(1985)に完成した、再現(テーマパーク)施設である。

平家文化の再現と称し、隠れ里の伝統料理の復元や民芸工芸の展示、平安文化や民話の伝承に努めたり、赤間神宮からの分祀を得るなど、複合的な要素も踏まえている。

それでか、平貞能や妙雲禅尼ら一行の事も、同じ「下野の伝説」として語られる。
すなわち、平貞能は、重盛の妹・妙雲禅尼の他、資盛・忠房の忘れ形見を擁し、宇都宮朝綱の元に落ち伸びたが、源氏方に発見されてしまった。

「平貞能」らは「塩原」に逃げのび、「忠房の忘れがたみ」の一行は「湯西川」へと、各々落ちる先を分けた、としているのだ(^^ゞ。
他にも、「一族は再興を誓って、全国に四散」という具合に、あらかじめ一族同志で逃げる先を分けていた、と受け取れる書き方も見た。

塩原で見た平貞能の一行と、湯西川で見る平家落人の伝説には、類似点も相違点もある。
ちょっとその辺りを、次は比較してみよう(^^ゞ。

坂を登ると、A「調度営みどころ」
その隣、B「調度営みどころ」

AとBを川の対岸から
ちょっとだけ中の様子も(=^m^=)

昔の山家暮らしの様子が伺える
まさに「調度」を営む道具類

特に撮影を禁じてないが、展示物のアップは遠慮しとくとして(^^ゞ、やはりいわゆる平家の「揚羽蝶紋」や、揚羽蝶が三匹で手(羽根)を繋ぎ合っているのを、上空から見たような絵柄の紋様など入った漆器類などが目立った。

あと、山暮らしや山での産業に必要な機器類など、古い工芸道具も展示されてて、楽しく見れた。

「水バッタリ」という唐臼。稗・黍・粟など雑穀の殻を取り、粉を作った。水力利用式のため、川の近くに置かれてるんだねぇ(^^)↓
さらに高台に向かって石段を上る→

CDE「床しどころ」の3軒が並んでる(パノラマ2枚)

さて、同じ下野の平家落人伝説で、塩原の系統と湯西川の系統の類似点と相違点を上げてみる。

さきほど、湯西川の「平家落人民俗資料館」では、「宇都宮氏」の名は出て来なかったが、「本家伴久」には、「縁戚・宇都宮朝綱を頼って」とあり、下野に来る動機が、塩原妙楽寺」と同じである。

また、「はじめに隠れ潜んだ場所から、追手の目を逃れて、さらに奥深く永住地を求めた」というエッセンスも似ている。

しかし、その地名がそれぞれ違う。
「塩原」で見た話では、「藤原」の山中に隠れ、後に「塩原」に住地を求める。

それが「湯西川」では、はじめが「鶏頂山」となっている。
そこで源氏方に発見されたので、「平貞能」らは「塩原」に、「忠房の忘れがたみ」一行は「湯西川」へと、各々落ちる。

この「鶏頂山」が、川治温泉の宿に着いた時に出した、地図E←宿から北東の山(^^ゞ。
ちなみに藤原はたぶん→地図L。塩原の妙楽寺は→地図M

Cの傍にあった、縄を作る機械(^^ゞ
2軒目、Dの「床しどころ」

↑二つの穴からワラを差し込むようになってて、ドラムを回転させて縄にするんだって。

←ついで3軒目のE。この三軒の「床しどころ」では、等身大の蝋人形が展示され、平家の物語を年表や系図を交えて案内していた。
入道姿の清盛、武者姿の敦盛、十二単に包まれた平家女人などが煌びやかな衣裳に包まれて、平安&合戦絵巻を展開している。

さて、下野の平家落人伝説だが、塩原・湯西川の、今度は相違点を語っている。

先に見た通り、二つの系統は、そもそも都から落ちて来る時期が違う。
塩原系は平家の都落ちのあった1183年なのに対し、湯西川では、壇ノ浦に滅んだ1185年以降となる。

湯西川の伝承では、途中に潜み隠れたのが「鶏頂山」で、先ほどは省略したが、ここで起きた源氏からの追討事件は、「本家伴久」にもあった「落人伝説」で、いわゆる「平家落人伝説」らしい結びへと繋がる。

すなわち、隠れ住んだ「鶏頂山」で、一族の女性が出産したので、男児が生まれた喜びから幟を掲げたところ、源氏の追手に隠れ家を発見され、大敗して深手を負った。
ようやく命からがら湯西川へ逃げのび、以後は鯉のぼりを上げなくなり鶏も飼わない風習が続いた(鶏に関しては「時を告げるから」という事だった)。

これは「平家の落人」として、広く全国版の共通項にも思える(^^ゞ。
同じ下野国(栃木県)だと、鬼怒川温泉や川俣温泉(ちょっと南)にも、同様の(禁忌や財宝に関わる)伝承が残ってるらしい。

そのため、湯西川の平家落人村では、「(屋外ではなく、逆に)屋内での節句の祝いは盛大に行なった」といい、落人村ならではの独特の祝い方なども、ある程度の時代まで伝わってたのかもしれない。

そして一番奥の居館、F「種々伝えどころ」
中では民話の語り部が実況中♪

↑園内で一番大きい家屋で、これまでの工房のような所と違って、お客の集まる大広間風の作りになっていた(^^)。
「伝習館」とも言うらしく、語られていた内容は、湯西川に伝わる楽しい昔話だった(^^)。

広間への上がり口、梁の上の壁に、文語調ながら、1994年に源平の子孫が杯を交わし合って、和睦調印式と前夜祭を行ない、宴席をともにした、という内容の書面が展示してあった(笑)。

同内容が「本家伴久」さんのHPにも書かれてる(^^ゞ。が、「平家の里」に張ってあった「和議文書」を、ざっと要訳。

文頭は、「夫れ天地は広大無辺、人間の栄枯を覆ひて愁遠なり」で始まる。

源平は武門の両輪として世に起こり、互いに紅白の旗を立てあって戦い、盛衰の歴史を辿った。
が、それら奇しき因縁も、今は遠い過去となり、一炊の夢となった。
子孫の自分たちは、互いに歴史の中に眺め見る者同志。胸襟を開き席をともにして、互いの遠い先祖の霊に献杯しあい、和議を誓い、平等に祈願している。
こうして親しく交わる事を、祖霊の方々もご照覧下さい……こんな感じかな(^^ゞ。

「本家伴久」さんによると、主催は湯西川旅館組合、源氏側は「鎌倉の源頼朝会」だったそうで、湯西川は新たに「争いの終結」と「縁結びの里」にもなったんだね(^^)。

先ほど「平家集落」の所で話した、「架け橋」というのも、これを機縁に作られた、という事なの(笑)。
源平両氏が手を取り合って渡る、「渡り初め儀式」というのも行なったんだって(^^)。
だから源氏の人も来ていいんだよっ☆ミ

いよいよ「平家の里」の一番奥「赤間神宮」に到達(パノラマ2枚)

この「赤間神宮」は、下関(山口県)の本宮「赤間神宮」から、昭和60年(1985)に分祀を得た分社で、安徳天皇を祀る神社である。

天皇でありながら、平家とともに壇ノ浦で水死を余儀なくされた安徳帝の冥福を祈り、霊魂を鎮めるため、1191年、朝廷は長門の国に使いを出して、御影堂を建立し、篤い崇拝を欠かさなかった。
明治時代には、阿弥陀寺が廃され、かわって天皇社となり、「赤間神宮」と定まっていたので、湯西川でもそう呼称される。
(尚、安徳帝が平家とともに都を去った後は、後鳥羽天皇が即位したものの、「安徳上皇」と呼ぶ例はなく、現職の天皇と見なされていた)

↓鳥居を潜ってお社で、パンパン!(^∧^)
神宮から、F「種々伝えどころ」を振り返る→

毎年6月6〜7日には、「平家大祭」があり、武者や姫姿など、平安の装束をつけた人々による、出陣式および、「平家絵巻行列」が繰り広げられる。
その折は、この「赤間神宮」にて参拝するのが習わしらしく、管弦の演奏の様子がリーフレットの写真から窺い知れる(^^)。

周囲を囲む森林庭園
一隅に「鹿園」がある!(笑)

鹿は3〜4頭いたな(^^ゞ。これまでの展示館の中にも、立派な剥製の牡鹿が飾られていた。
周囲の旅館や食事処などでも、鹿肉が売られているから、湯西川に泊まれば食べられると思う……って鹿さん達を目の前に恐縮だが(^_^;)。。。

後は「折り返し」コースに入る。帰りの道は、御食事処とお土産屋さんだね(笑)。

食事処、G「餉(かれい)の館」
店内。平家落人の料理を作ってくれる

「落人料理」は、湯西川の最大の売りじゃないかな(^^ゞ。
ここ「餉の館」では軽食が中心のようで、蕎麦がき、お汁粉、栃餅、黍餅などがメニューには見られる。

が、これらは湯西川に宿泊しない(日帰りの)客に、せめて雰囲気だけでも食して貰おうとする献立だろう。

地元の各温泉宿に泊まれば、熊・鹿・猪・雉の肉、串刺しごと囲炉裏で焼いた川魚、キノコや山菜など珍しい食材をはじめ、蕎麦、すいとん、珍味の酒や佃煮や漬物など、独特の落人料理を夕食に出してくれるようだ。
ちょ〜っと高めだけどねーーーーーっっ(≧▽≦)。。。

最後は売店、H「よろず贖どころ」
行きに通った、川の対岸からも橋で来れる

H「よろず贖どころ」はお土産コーナー(^^ゞ。正面には橋が架けられ、最初に見た「調度営みどころ」あたりの位置だったかと。

深緑の合間から覗く「調度営み所A」
終着点の左に「平家塚」

この「平家塚」は、「平家の里」に食い込みながらも、別の敷地で、一日目は閉館してたが、この塚だけは見学できた(^^)。つまり園外に出てからジックリ見れるんで、このまま真っすぐ外に出ちゃってOK☆ミ

園内から見る「平家塚」石塔
入口@「冠木門」に戻る



<「平家塚」「高房神社」>

いっぺん外に出て、道路側から改めて「平家塚」を見てみよう。
これより後の写真は、一日目の最後……あとは川治温泉に向かうだけ〜、という時間帯なので、ちょっと暗かったりするけど(^^ゞ。

道路から苔むした石段を上がる(パノラマ3枚・ほぼ180度)

囲った赤い柵の向こうに、やや盛り上がった土と、両脇に墓石か灯籠のような石塔がある↓

(パノラマ4枚・180度以上)

鶏頂山からさらに逃げて来た落人達は、湯西川を安住の地と定め、ようやく武装を解き、甲冑、刀剣などをここに埋めたと伝えられている。

塚部分・拡大

同じ伝説は川俣温泉や鬼怒川温泉の落人伝説にもあるらしく、川俣ではさらに具体的に、「黄金千枚(大判千枚分に相当)、鍬千枚(刀剣千人分)、漆千枚(甲冑千人分)」と伝えられるという。
しかも、「見れば目が、触れば手が、登れば足が腐る」とされる禁足地で、塚の前で獅子舞が奉納されるそうだ。

塚の前の道路は、さらに奥の山々に伸びる↓
……が、もう戻ろう(^^ゞ。

実はこの「平家の里」のスグ近くに、「高房神社」があるようだ。ガイドブックには「平家が一族の守り神を祀った」とある。

が、一日目は既に日暮れも近くなり、この後さっきの「平家集落」に真っすぐ行ったので、あの平家トンネルを外に出た所にもう一社ある「高房神社」の方だけ訪れた。地図N

元来た道を戻る。そろそろ夕餉時(^^)
到着「高房神社

日暮れもあるが、森の木々が繁ってて、元々かなり暗そうにも思えた(^_^;)。いかにも隠れ住んだ人々に守られて来た、という感じで良かったわ〜。
↑鳥居を潜ると、整列した祠の奥正面に古びた拝殿

この拝殿に向かう並びも、何だか、武家の主従っぽい感じに思えた。

小泉八雲の「耳なし芳一」では、身分の高い人の館に招かれ、手をひかれて、一段と奥まった高貴の人の前に通されたことを、目が見えないながら、気配で察するシーンがある。

実は幽霊たちの前(墓前)で、琵琶と語りを披露していた……というオチなんだが、すごぉ〜くそういう感じがしたわぁ(^_^;)。

拝殿
帰り道。山霧が神秘的〜(#^.^#)

こんな風に、濃霧と夜の近づく山奥で、車を飛ばして宿に着き、夕飯を頂くなんてのはサイコーなの来てねっ(≧▽≦)!!

さてさて、今回アップは月越えしてしまったが(^_^;)、次回も「南福島〜北栃木編」の続き(第三弾)をやりたい!
次回も2日目、いよいよ南福島に入る(^^)。乞うご期待ーーーーっ!!!

<つづく>

2011年4月<「塩原温泉郷」を目指す>内以降

2011年06月02日
 
     






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