<2019年・城主のたわごと5月>




2018年4月、地元の桜祭りの後は、古河〜足利〜新田ツアー。

古河公方墓所、三毳神社、佐野城、天命・只木山、足利・新田




     
  冒頭は定例通り、宣伝(^o^)↓

日常編は文章も少ないし、日常編だけ読まれてもそんなに嬉しくないので(笑)、ここで恒例・前レポの宣伝を行う(^。^)。

〜おしながき〜「埼玉〜栃木南編
「4月のたわごと」(千葉北西・埼玉〜栃木南1)
■8月・埼玉県川口市、栃木県栃木市・佐野市
<川口「長徳寺」、@裏門〜本堂>
<川口「長徳寺」、A三重塔〜仁王門>
<川口「長徳寺」、B仁王門・参道・山門>
<東北道で茨木まで移動>
<皆川城址>
<金剛寺(皆川氏菩提寺)>
<佐野市葛生、お昼ご飯(^O^)>
<佐野氏菩提寺「本光寺」>
<佐野氏本城「唐沢山城跡」に向かう>
「6月のたわごと」(栃木南2・東京)
■8月・栃木県佐野市
<「唐沢山城跡」到着、@枡形・天狗岩>
<「唐沢山城跡」、A竜神宮・大炊井・神橋> 
<「唐沢山城跡」、B神橋・桜の馬場・南城> 
<「唐沢山城跡」、C本丸・二の丸・三の丸>
<「唐沢山城跡」、D和合稲荷・組屋敷・避来矢山>
<唐沢山を降り、西に向かう>
<「興聖寺」(清水城跡)>
<樺崎寺跡〜佐野やすらぎの湯(^_^A)>
読んでねっ(≧▽≦)!(既に読まれた方は今回のに進んでネ(^^))

その前のも……↓

〜おしながき〜
武蔵千葉氏編
湯島天神(天満宮)編
2016年「4月のたわごと」(東京板橋)
■10月・東京都板橋区
<板橋区郷土資料館@「武蔵千葉氏展」>
<板橋区郷土資料館A「旧田中家住宅」>
<赤塚城跡「本丸〜滝不動」>
<「松月院」(伝・武蔵千葉自胤の墓)>
2017年「2月のたわごと」(東京湯島〜千葉北西部)
■8月・東京都千代田区・文京区
<「湯島天神(天満宮)」@〜参道両脇〜>
<湯島天神(天満宮)A〜社殿・男坂・女坂〜>
■8月〜9月・千葉県柏市・松戸市
<夏から初秋へ>
良かったら読んでねっ(≧▽≦)!

この前後も、境根原古戦場ウォーキング(2016年6月号)、松戸の根本城跡(同7月号)、北総の龍腹寺(同11月号)、松戸の中根城跡・上本郷城跡・上本郷館跡ウォーキング(2017年4月号)、北総の龍角寺に松戸戸定邸(4〜6月号)、東京の清澄庭園・手賀沼の鷲野谷城跡(8月号)、松戸の根本城跡、萬満寺(9月号)、茨城の東林寺城跡(2018年1月号)、船橋の米ヶ埼城(8月号)、皇居(11月号)、印西の笠神城・小林城(2019年2月号)

など、小ネタ史跡巡りはあったので、ご覧になりたい方はメニューからどぞ( ^^) _旦~~

あとは、その前からの流れ通り、さらに前の「足利編」も出しておく(^^ゞ↓

〜おしながき〜「足利編」1〜4
2015年「9月のたわごと」(足利1)
■7月・東京都港区〜栃木県足利市
<虎ノ門「光明寺・明和大火の供養墓」>
<皇居〜首都高〜東北道〜館林〜足利>
<足利市に到着、1泊目夜〜2日目朝♪>
同「11月のたわごと」(足利2)
<足利の朝から振り返る>
<「足利学校」@、外観〜「入徳門」〜「稲荷社」>
<「足利学校」A、「学校門」〜「杏壇門・大成殿」>
<「足利学校」B、「南庭・方丈(外観)・裏門」>
<「足利学校」C、「方丈・庫裡・中庭・北庭」>
<「足利学校」D、「宥座之器・衆寮・木小屋・庠主墓所・遺蹟図書館」>
<門前通り>
<鑁阿寺>
2016年「1月のたわごと」(足利3)
<鑁阿寺、2(つづき)>
<「太平記館」を見てから、お昼ご飯(^O^)>
<勧農城跡(岩井山赤城神社)> 
<長林寺>
<法楽寺>
<両崖山>
<心通院>
<北東へ向かう>
<樺崎寺跡(樺崎八幡宮)>
同「2月のたわごと」(足利4・千葉北西部)
■7月・茨城県足利市・佐野市
<樺崎寺跡(樺崎八幡宮)、2(つづき)>
<佐野「やすらぎの湯」(日帰り温泉)>
<羽生パーキングエリア(東北道)「鬼平江戸処」>
宜しくねっ(≧▽≦)!

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そして、東北・北関東の旅もヨロシクね!

COOL SHARE「東北・北関東への訪問運動」/「東北・北関東を訪問して復興支援しよう!」by民主党時代の政府&観光庁

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各種お得な交通手段
「お得に東北へ行こう!」

リンク貼ったけど、「東北観光博」は自民政権はやらないみたい。「閉幕」になってますた(^_^;)。
旅*東北」なるサイトが後を引き受けてるっぽいけど、バナーがない(^_^;)。。
東北の歴史」というページが史跡巡り向きって事みたい(説明が殆どないけど。。)

さて……、ついに一年以上の遅れとなってしまった┐(´ー`)┌<もう全然ダメね

今回お送りするのは、2018年4月のレポ。
まず毎年恒例、「常盤平さくらまつり」に始まる。

そして、いよいよ、3年ぶりの旅行(^O^)<わ〜い☆彡
古河(茨城)〜足利(栃木)〜新田(群馬)ツアー」の始まり始まり!! *やんや*

まず古河は、「古河公方公園」と「満福寺」の古河公方足利成氏猪苗代兼載(連歌師)の墓所。
お次は、移動ルート上の「三毳山神社」「三毳不動尊」。
そして、佐野の「佐野城跡」と天命。足利の只木山。新田に入って、「台源氏館跡」(新田義貞の誕生伝説の地)。

話は主に享徳の乱。佐野氏最後の当主、佐野信吉。そして新田岩松氏など。
以上を、旅の一日目からお送りするっ(#^.^#)。



■4月・千葉県松戸市
<常盤平さくらまつり>


毎年恒例の松戸市の中心部(やや東部寄り)の「桜祭り」は、新京成線の三駅区間(八柱・常盤平・五香)の線路に平行して走る「さくら通り」のほぼ全域(一部を除く)で行われ、祭りの間、歩行者天国になる。

五香駅の近く(地図)と、常盤平〜八柱の間(地図)の二点の入口、および、各道路との接点は、大型車両が横付けされて、バリケードを築くなど、厳重な警戒態勢が敷かれ、不法行為などへの防止策が施される。

←その大型車両を通り過ぎると、昔ながらの「さくらまつり」の横断幕が見える(^_^A)。
祭りの目玉は、道路の両脇に、殆ど隙間なくエンエンと並ぶ、すこぶる多数の露天商(屋台)。

ご覧の通り、この年(2018)は、祭り開催まで桜が持たず、スッカリ葉桜祭りと化してる様子も一目瞭然(笑)。
というわけで、今年は特に食欲オンリー(^H^)

焼きとうもろこし」↓「餡餅(シャーピン)」↓「フランクフルトソーセージ」→
毎年、定番メニューがあって、とうもろこし、餡餅、ジャガバタ、綿菓子(お土産)、たこ焼き、この辺りは必ず食べるが、後はその年の気分かなー。
この年は、焼きそばも食べた(((つ^o^)つ

イカゲソ」に
きゅうりの一本漬け」(上)・「鮎の塩焼き」(下)(#^.^#)

ホクホクの「じゃがバタ」に……↓
カリカリチーズ」に「綿菓子」♪→

前は必ず定番だった「アンズ飴」、大好きだったんだけど、歯の詰め物が取れちゃうのを気にして、ここ何年か控えてるのよ(ノ_・。) 。。
こうやって、だんだん食べられない物とか増えていくのねー。。 *若い内よ!何でも*

桜はスッカリ散り切っても、緑の下に連なる屋台群(パノラマ4枚180度以上)

この年の桜祭りのレポ内容が薄いのは、この通り、桜が咲いてなかったから……というのもありましょうが、一年を超えてレポートとなると、「さすがに覚えてない(^_^;)」というのがアル(爆)。

「忘れた」と言うより、今年(2019)の桜祭りと混ざっちゃって……(笑)。
今年の祭りですら、既に終わってから一ヶ月半は過ぎてるんだから、その前の年の祭りを覚えていられるもんじゃない(^_^;)。

それと、この年のは、例年に比べても写真がそう多くないと思った(まぁ葉桜だから:笑)。

それでも何枚か撮った中に、「電球ソーダ」という屋台があって、買わなかったけど、目立って多かった覚えがある。
これ、インスタ映えを狙った人が、撮影するとすぐ捨ててしまう風潮を嘆いて作られた商品なんだって(*o*)
『電球ソーダ』が「電球」である理由 (@「APPBANK」より)

あと、この春は、亭主が多忙の疲労から急性腰痛を発し、救急車で運ばれる騒動があって、テンヤワンヤしてる間に、桜祭りになっちゃったから、祭り自体の印象が薄まったのかな(笑)。

その後、何とか体調不良から復帰した亭主は、過激に多忙だった冬〜春の疲れを吹っ飛ばそうと、「旅行に行くヽ(`Д´)ノ」と、突然決断したのである。↓つづく(笑)



■茨城県古河市〜栃木県足利市〜群馬県太田市
<まずは「古河公方(古河総合)公園」を目指す>


亭主の自営独立以来、綱渡りに次ぐ綱渡りの連続となり(^_^;)、2015年7月の足利・一泊旅行を最後に、この時(2018年4月)まで、約3年間、旅行はお預けだった。

経済的な理由も勿論あったが、時間的にも精神的にも、現状を離れて羽を伸ばす……という状態になかったからだ。
(仕事で忙しい時も勿論多かったが、それより、収入に繋がらない労働(営業だとか)に時間を取られるだけで終わる事も少なからずあって、何しろ先の見通しが不安定なのだ)

ようやく、この一年前(2017年8月)、日帰りではあったが、日頃行き来するエリアを脱して、遠出をしたのが、4号前にレポした「埼玉〜栃木南編」(川口・皆川・佐野・唐沢山・樺崎寺跡)で、この頃から、亭主は気分転換がしたくて、ウズウズしていた(笑)。

だからこの春も、「日帰りにしとく(^_^;)?」と、軽めのドライブコースを見繕いつつ待機していた所、亭主に「いや〜この機を逃すと、又時間の余裕が見込めないから」と言われ、一泊交えてのプランに、急に切り替える事となった。

……話が長くなる前に、取り合えず旅レポ、スタートしよう!
今回の旅程は、「古河・足利・新田、横断ツアー」である!
まずは、古河に向かおう(^O^)。

加須ICから古河方面に向かう
「新三石橋」(地図)だったかな(^^ゞ

古河には、2014年11月に行って以来だから、この時で、3年半(今からだと4年半)ぶりになる。

前に行った時は、千葉県の端っこ、関宿(地図)まで北上し、さらに北へ向かって到達した。
その時は、ウチから古河への道のりを実感するために選んだルートだったのだが、それはだいたい実感できたので、今度は古河までの間は、ド〜ンと高速で飛ばして、時間を短縮した(^^ゞ。

高速(東北道)は確か、加須インター地図)で降りたと思う。そこから上の写真のような道を経て、やはり上の通り、渡良瀬川を渡ったりしつつ……↓

やがて見えて来る「古河公方公園」(地図
入って進むと見える正面玄関

3年前だから、懐かしいような、ちょっと前に来た所のような、微妙な気分(^^ゞ。

旅に至った話のつづきをしたい。

急に一泊旅行となると……、ここ何年か旅計画にブランクが続いたため、正直、「どこどこに行きたい」といった考え自体が、咄嗟には出て来ない(^_^;)。
これは、この「城主のたわごと」の、殆ど冒頭部、2000年7月号で、やはり凄〜く久しぶりに旅行する事となって、同じ事を書いた覚えがある(笑)。

ただ、最後の旅行(2015年7月)で足利に行った後、「この緯度を東西を通して、距離や周囲の風景を実感してみたい」と思い、そのような企画に沿った地図も作成してみた事がある。

そう希望した理由は様々ある。
一つは、茨城栃木群馬が、それぞれ緯度的には横繋がりで、各々が近距離にあるのに、ウチから行くと、その距離感を実感できずに帰る点が歯がゆかった。

数年に渡って、東北と北関東を旅行してきたが、毎年、ウチからその年の目的エリアに直行し、エリア内を旅行し、直帰するので、緯度同志を横断するに至らなかったのだ。

駐車場の奥には、ハナモモの花が紅白に咲き並んでいた(パノラマ4枚180度以上)

例えば、新田氏足利氏は、鎌倉末期〜南北朝にかけてライバル同志だったが、その土地同志もかなりの近距離である。(元は同族なので)
なのに、ウチから新田に行った旅行と、足利に行った旅行は別々の年であったために、「新田と足利が近い」という実感が得られなかった。

(新田と足利は一例であって、ちょうどこの緯度には、歴史的に色々な繋がりが感じられる、と個人的には思う)

もう一つは、史跡旅行に対する視点が変化した事に原因がある。

我が家は自動車を買ったのが、年齢的にもあまり早い方ではなかった。
それまで東京に住まいして、利便性からも経済的観点からも、ひたすら鉄道を使っての旅行が都合が良かったからだ。

ちょっと遠出となると、信越本線や中央線が便利なので、甲信越地方にはよく出掛けた。
だから、武田氏越後上杉氏などは、その史跡を訪ねる事が少なくなかった。

その点、北関東には、千葉に住み、自動車で旅行するようになってからよく行くようになった。
同じ真田氏を訪ねる旅でも、以前は上田・真田・松代など(長野県)によく行ったのが、自動車旅行するようになって、沼田・名胡桃・岩櫃など(群馬県)を訪れるようになった。

この日のお昼は、綺麗なハナモモ見ながら、おにぎりを食べた(^O^)

はじめて沼田を訪れた時、亭主に、真田が来る前はどういう勢力がいたのか問われても、よく知らないから答えられなかった。

今でも何か詳しくなったかと言われると、正直それほど進歩してないが(笑)、武田や上杉や真田より、ちょっと古い時代を掘り起こす気になっている点、前より少し発展したと思っている。

そして、その観点から行くと、戦国史は甲信越から始まったのではなく、関東から起きている。
昔、甲信越地方の戦国史を調べては、何度もエリアを超えて関東に近づいた途端、ワケワカメになっては撤退を繰り返した事を思い出す(笑)。

足利に行った時、足利尊氏の太平記の時代より、永享の乱の頃の上杉氏や、享徳の乱の頃に入部してきた足利長尾氏の痕跡が濃い事に、ちょっと驚いた(^_^;)。

そうとなると、自然と意識するのは、彼らの対峙した(京将軍とは別の)足利氏、古河公方家のいる古河である。
古河と足利も、かなりの近い距離にある。

……というわけで、「古河・足利・新田」の3点を横断するルートが、急に泊まりでいく程良い距離という課題に沿って、ポッと頭に再燃し、この思い付きに沿って旅程を組んでみたのである。

長い車道と広い駐車スペースが続く入口は桜並木と美しい花壇に彩られて、「さすがは公方様の館跡」という感じがする(*´ω`*)。<ほのぼの
この館跡公園は前も来たので、駐車場を借りてお弁当を食べさせて貰ったのみで去ったが、旅の最初に、美しい春の花々に出会えて嬉しかった(^^)。

古河には3年前に来た時、ここ「古河公方公園(古河総合公園・鴻巣館跡)」内部の民家園と、「公方様の森」や「「古河公方義氏墓所」(徳源院跡)」など見学した。
この公園の他には、「古河歴史博物館古河城跡)」「長谷(観音)寺」「鳳桐寺」に行った。

2015年4月<関宿を経由して古河へ入る>以降
2015年5月・全文


まだ廻れてない古跡もいっぱいあるが、古河は、この先に行く地域と比べればウチに近いので、又いつでも来れるというのもあって、この旅行では、史跡を次の1ヶ所に絞った。

それが、「満福寺(古河公方初代・足利成氏の墓所)」である。↓



<満福寺(古河公方・足利成氏の墓)>

3年前(今からだと4年前)に来た折は、「鳳桐寺」で日が暮れてしまったが、それは古河公方公園や歴史博物館(古河城跡)を廻る間にも、そう判断できたので、程近い所を散策するにとどめたのだった。

特にこれよりいく満福寺は、古河のエリアでも北の端にあるので、前回は断念したのだ。
それが今回、「古河は一ヶ所に絞ろう」と思った途端、「じゃ、満福寺に(^^ゞ」と、スンナリ決まった。

古河の街を移動し……
途中から細い路地に入って右側に

満福寺地図)への参道
進んで山門(右に桜の巨木)

スンナリ寺に到着してるようだが、実はそうではない。
細い路地あたりまではスンナリ来たんだが、その後、駐車場の横に伸びる道をエンエン歩いて、寺の敷地を通り越して行ってしまい、のっけからとんだ時間のロスをした(^_^;)。。

すぐに「あれ、おかしいな」と戻って、駐車場の奥にこの山門を発見できたが、「おかしい」と思えた根拠は、歩く内に、「ナビに示された辺りから、だいぶ時間をかけて(遠ざかって)いる」と思ったからだ。

今はナビで場の特定など当たり前だが、20年前には、そんなもの宛にする旅行は出来なかったんだよな〜と、この頃思う。

←大きな梵鐘の釣り下げられた山門を潜り
↑境内に入ると、敷石の広い参道が伸びる先に本堂が待ち構える。空は快晴。木々の影が色濃い。

振り返ると、2006年のたわごとでは、「ナビ」という言葉自体は登場するものの、「ナビ役の私」と言ってるので、助手席の私が地図を見て、亭主の運転を誘導する、という意味で用いていたのかも(笑)。

それが2007年になると、「ナビでもあればわかるのだが」「地図やらナビやらで道を確認していたら(通りがかりの人が教えてくれた)」という表現が出て来るので、何らかの手がかりとして使用しだしていた事が窺える。

2008年には、「携帯ナビに仕込んで進む」という表現が出てきて、ナビを宛にした旅行スタイルが確立してる事がわかる。

つまり、10年そこそこしか経ってないのに、ナビ無しで未知の目的地に行くなんて、今じゃ「凄く昔の事」って感じがするから、人間が機械・文明・利便性に依存(麻痺)するスピードって、あっという間なんだな〜とつくづく思う(汗)。

本堂では釈迦誕生日の祝意を
参拝者と共有すべく甘茶が振る舞われていた

この盛りだくさんの花々の中に、お釈迦サマの小さな像が立ち、本堂の前に置かれたテーブルには、参拝者が自由に汲み飲みできるよう、紙コップと熱い甘茶の入ったジャーが置かれていた(^^)。

この甘茶、私は高校の入学式で飲んだのが、最初で最後の記憶だった。

釈迦の誕生日は、確か4月8日だった。
仏教がらみの学校だったから、入学してきた新入生たちに、「一緒にお釈迦様の誕生日をお祝いしましょう(^O^)」と呼びかけ、振る舞ってくれたのだ。

その時も、花々に囲まれた仏像の傍近くで、紙コップで飲んだ覚えがある。( ^^) _旦~~
長い受験生活の終わりと、温かく花多い春を実感して、仄かに甘いお茶を、みんなで嬉しく頂いたんだよねー。( ^o^)〃迴~~

さて! そろそろ史跡レポの始まり(`・ω・)!

←山門入ってすぐ「古河公方・足利成氏公之墓」なる、なかなか味のある木製の案内板が立つ。
↑墓所に向かう途中、鎌倉中期の板碑にも出会う

板碑は、死者の追善供養のために建てられたもので、この板碑は正元元年(1259年)に作られ、下野国で最古の類に属する。

……えっと、今「下野国」と言ったのは、この満福寺が栃木県(野木町)の寺だから。
さっきまでいた古河公方公園(鴻巣館跡)は、茨城県(古河市)なんだけど、この満福寺のちょっと南に県境があって、栃木県に入っている(^^ゞ。

ここに古河公方初代・成氏の墓があるのは、成氏が、古河の北隣に本拠する小山氏と深く結んでいたからではないか、という見方もあるようだ。

というわけで、古河公方成氏墓所
←から右後方を振り向くとが♪

↑この通り、山門に入って来てスグ見た木製の案内標識と言い、ちょっと驚く程の気遣いが感じられる。専用の場も、こうして広く取って綺麗に整備されている。
(ちなみに、桜の季節はとうに過ぎてるので、あの桜はソメイヨシノではないんだろう)

ところが成氏の墓に関しては、案内板に↓

     
  町指定文化財 古河公方足利成氏の墓
 指定年月日 昭和56年3月16日
 所在地 野木町大字野渡706番地

 この地は室町期の武将として知られる古河公方足利成氏の墳墓の地といわれる。
 足利成氏(1434〜1497年)は、足利持氏の子(ここにガムテープが貼られ、元の字が15字ほど隠されていた)孫である。
 宝徳元年(1449)鎌倉公方となったが、康正元年(1455)上杉房顕と戦い、下総古河(現在の茨城県古河市)に敗走し古河公方となる。
 昭和56年3月 野木町教育委員会
 
     

と、簡素に書かれるのみだった。

しかもガムテープで覆われた部分は、恐らく誤伝に沿って書かれた内容でもあったのではないかと思う。
それを新規に消し込む対応に、出来る限りの誠意を尽くそうとする真面目さを感じつつ、「どういう間違いが書かれてたんだろう」という興味を持たずにはいられない(スイマセン(^_^;))。

右の二基が、恐らく、長く成氏の墓として伝わって来た五輪塔ではないかと思う。卒塔婆も背後に建てられている。

一方、左の墓石はかなり真新しく、周囲の刻銘に「平成3年」とあり、他に、「久山昌公・乾亨院殿・大居士」とも刻まれている(成氏の戒名にあたるかと)。

以前、古河の博物館で購入した本には、この満福寺について、こう書かれていた。

     
  はじめ寺山という字に小寺がありましたが、のち、この地に足利成氏の開基になる臨済宗鎌倉円覚寺末寺として山王山東昌寺(茨城県五霞町)の二代能山和尚によって開山されました。本尊は円覚寺から来たものといいます。永正元年(1504)に曹洞宗に改宗されました。  
     

……(^_^;)。

はじめに「小寺」のあった時は、現在地は「寺山」という地名だったのが、今は地名が(野木町に)変わった、という事なのか……。

そうじゃなくて、「寺山」という所に、今の満福寺の前身と見なせる寺があって、そこに鎌倉円覚寺の末寺が移って来て、今は現在地(野木町)に両方とも移った、という事なのか……。

それも違って、「寺山」にあった「小寺」が「満福寺」だったんだけど、成氏が現在地(野木町)に鎌倉円覚寺の末寺を開基して以来、現在地の方を「満福寺」と呼ぶようになった、という事なのか……。

わからんヽ(`Д´)ノ!

何しろ、成氏の頃には臨済宗だった宗派が、成氏の死後、曹洞宗に改宗し、「武州成田竜淵寺末・西光山満福寺」となり、「野木町野渡」と住所している(^_^A)。

そしてこちらは、さっき振り返った時に桜の方にあった「猪苗代兼載の墓」→

猪苗代兼載(1452〜1510)は、日本文学史上に不朽の名を残した、古河公方時代の連歌師
心敬に連歌を学び、宗祇の門人ともいわれる。


後土御門天皇の命令で詩歌の選者となったり、足利八代将軍・義政の連歌の師匠にもなる。
晩年は古河公方・成氏に招かれて、古河の地に来遊したと書かれているが、中風を病み、二代・政氏(成氏の長男)に仕えていた名医・田代三喜の治療を受けた事が知られている。
永正7年(1510)、この地に病没したという。

以上は、この地の案内板と、前に来た時に古河の博物館で買った本にあった、兼載の経歴であるが、兼載については、宗祇の事をひも解いた時、その人柄や足跡を、もうちょっと詳しく知っていた(^_^;)ゞ。

兼載は、陸奥国は会津芦名氏の支流・猪苗代盛実の子に生まれた。宗祇の31歳、年下である。
師の心敬宗祇が、応仁の乱などの戦乱を避けて東国に下向したため、これらに師事できたのだが、その前にも、会津の連歌師を先輩に持っていたという。

はじめ関東で心敬に習い、心敬の死後、上京して宗祇に入門し、宗春と名乗った。

←1本だけ見事な満開桜の大木
↑垣根を繰り抜いて本堂に伸びる通路

師の宗祇は、連歌師としてズバ抜けて有名で、当時の天皇や将軍や、そうした権力者の意を介した連歌会の主催者らは、詩歌集編集の編者や歌会の宗匠、又は師匠の名として、宗祇の名を冠したがった。
あげく、「宗匠」を、単なる連歌運営者の立場から、将軍家に仕えて連歌の会を司る公的な役職として用い始めるので、宗祇は、そうした立場を「迷惑」と言った事すらあった。

その宗祇本人は、意外と、当時一流として知られた歌人に師事した形跡がなく、享徳の乱で関東の修羅場に奔走した東常縁に、古今伝授を相承された事だけが知られている。

実は宗祇の事を調べた動機も、宗祇の師匠筋である、この東常縁の事を知りたいと思った事が発端だった(東常縁の東氏は、千葉氏の支流なので(^_^;))。

その宗祇の後継者となったのが、猪苗代兼載だった。

左はさっきの本堂
右は山門に戻る

しかし兼載は、宗祇の子弟・門人がいっぱいいる中で、突出して宗祇との間柄が不穏で、宗祇に対し、何かと挑戦的な態度を取ったらしい(^_^;)。

連歌は、その遣り取りを営む中に、ゲーム的な要素が濃厚で、ひたすら師を重んじて追従するばかりでなく、攻めの姿勢も欠かせぬものらしい。
それゆえ、そうした緊張感を伴う師資相承関係も有り得た、と見るべきなのかもしれない(^_^A)。

実は、師の宗祇が関東に来た時、古河公方成氏とは敵対関係にあった上杉陣営の長尾景信と親交が厚かった。
一方、兼載が古河に来た時は、古河公方と上杉は和解した後だから、宗祇と兼載の師弟が、敵味方の陣営に別れたわけではなかろうが、どっかに反骨精神が潜む行動スタイルだったのかもしれない(笑)。

文亀2年(1502)、宗祇は箱根に客死し(宗祇の墓は早雲寺にある。前に訪れた)、それを兼載は岩城の平(福島県いわき市)で知ると、宗祇の墓前を訪れ、追悼の長歌を捧げた。
(2004年5月<早雲寺>

その後、晩年の兼載は、会津や古河に活躍したようで、古河で治療を受け、古河で亡くなった事は先に書いたが、古河に招いたのが成氏であるという記載は、この寺の案内板にあった。
(ちなみに成氏は、1497年に亡くなっている)

古河公方・足利成氏については、この後、享徳の乱の話でやろうと思う(^o^)



<古河から三毳山に向かう>

この先のコースは、古河を出て足利方面(栃木県南部)に向かう途中、三毳山、佐野城跡に寄り、新田(太田市)に向かう。

途中に寄る所は、「せっかく通りかかったから(^^ゞ」という理由で立ち寄るのみ。
その点、今回の目的は、古河から足利を経由して新田に向かう道筋そのものにあるので、その目的に沿って(中継地点に関係なく)、享徳の乱が勃発してから一年の軌跡を語ってみたい。

享徳の乱については、前に古河に来た時、概要を述べた。
その後、足利に行った時は、足利の歴史における、足利長尾氏の登場背景として語った。

特に足利に行った時、古河公方成氏に攻められた長尾景仲とその一党が、「天命・只木山」に立て籠もり、防戦した事に興味をひかれた。

この「天命・只木山」が、古河〜足利〜新田の道筋に位置するので、それが歴史に現れる約一年間について、やや詳しめに語ろうと思う。

満福寺からちょっとバック(南下)して
三国橋(地図)で渡良瀬川を渡る

享徳の乱は、享徳3年(1454)12月27日、鎌倉公方5代・足利成氏が、関東管領・山内上杉憲忠を鎌倉西御門に殺害する事に始まる。

(この時期を、wikiではカッコ書きで「1455年1月15日」と付け足しているのは、暦上の誤差か何かだろうか(^_^;)。。)

この「鎌倉西御門」だが、『永享記』には、単に殺害場所として書かれる。

対して、『鎌倉大草紙』には、成氏の命を受けた(成氏に憲忠殺害を勧めて、認可を得た)、結城・武田・里見・印東らが、管領の憲忠を攻めるべく押し寄せた……つまり、「上杉邸」の如くに書かれている。

ところが、『康富記』(朝廷に仕える中原康富の日記)に、「憲忠は成氏に、鎌倉御所に召し出され、誅殺された」とあり、「鎌倉西御門」が成氏の御所だった事がわかる。
後世の編纂ながら、『喜連川判鑑』にも「憲忠を殿中に召して被殺」とある。

菜の花の土手を渡良瀬川に沿って走る

ただし、『鎌倉大草紙』の誤述は、前後の経緯を混同した結果に過ぎず、成氏の与党が憲忠を討ち取った事も、同じく上杉邸を攻撃し、勝利した点も、間違ってはいないようだ。
上杉邸攻撃は、憲忠の誅殺においてではなく、憲忠の死後(か同時並行で)行われたのだろう。

それに、『永享記』『喜連川判鑑』が正しいかと言うと、この両書には、憲忠誅殺の成氏側の根拠を、「父持氏を憲忠の父・憲実に殺された恨み」としてしまっている点に問題がある。

この点について(一次資料に近かろう)『康富記』の記述は、京に届いた報せから、遠い関東に起きた事件に、筆者が持氏の最期を回想する事による、「御憤か」と推測の域を出ていない。

また、先んじて、長尾らが成氏攻撃した江の島合戦の戦後処理では、成氏が、「憲実に関東の政務を執るよう命じて頂きたい」と幕府側に願い出ており、亡父の仇に対する恨みは感じられない。

藤岡町の高間(地図)で11号線に
渡良瀬川に沿う50号線(地図

亡父・持氏の仇なら、憲実であって憲忠ではないのに、成氏が殺した相手は憲忠(仇の息子)で、成氏が管領就任を望んだ相手は憲実(仇本人)なのだ。

成氏とその与党の上杉攻撃を、持氏憤死の弔い合戦とするのは、持氏を死に追いやった上杉憲実の負い目から出た理由付けのようにも思える。
実相は、長尾・扇谷梁田結城などの対立図が原因だろう。

その点、やはり『鎌倉大草紙』の記述は詳細で、そうした私憤より、成氏を担ぐ者らと憲忠を担ぐ者らの間の、やるかやられるかの緊張状態が克明に描かれている。

扇谷や長尾といった上杉の一門・家宰らが、成氏らに害をなすべく、謀略を張り巡らせる目的で上野国に行ったのを、上杉に敵対して成氏を担ぐ連中が、「やられる前にやるしかない」と成氏に決断を迫るのだ。

では成氏自身は、周りに推されて渋々腰を上げたのかと言えば、全くそうではない。

藤岡ってこんな所よ(#^.^#)
やがて目前に聳える三毳山

江の島合戦(1450年)の頃は、幕府でも成氏に有利な調整が行われていたが、幕府内の権力交替(畠山→細川)によって、趣きが一変してしまったからだ。

ただでさえ、持氏の頃に保持していた土地充行権や裁判権は、全て幕府の掌握の元にあった上に、細川主導になった頃、成氏は関東管領(上杉氏)の副状無しでは、成氏の申し入れに返答して貰えない状態となってしまい、事実上、鎌倉政権は、幕府と上杉氏による統治を追認するだけの機構に成り下がっていた。

……実は、前にこの件を書いた時は、「畠山と細川の交替前から、成氏の権限は奪われていた、とする説があるが、どっちが正しいんだろう」と首を傾げたまま書いた。
「両方正しいなら、二氏の交替によって、何がさらに不利になったのか」とも思っていた。


みかも山公園地図)の入口に到着してしまった(^_^;)

その違いについて、その後に著わされた書籍などで、「畠山持国は、憲実の管領復帰を説得してくれ、将軍(八代)義政にも、成氏の書状を披露してくれたのに、細川勝元は、憲実の復帰路線を初めから切り捨て、憲忠に一本化して押し付けて来たから」という具合に読めた。
また、『鎌倉大草紙』に頼らず、当時資料(書状)の文面から裏付けてる点も評価したい。

……ただ、当の憲実は管領就任を強要する京幕府にトコトン辞退を示し、享徳元年(1452・江の島合戦の2年後で、享徳の乱の2年前)には、長門国大寧寺に身を寄せ、鎌倉から遠ざかっている。
これが憲実自身の意志か、京幕府の意志を受けてか、にもよるけどね(^_^;)。

いずれにせよ、成氏としては、長尾・太田の暴走(成氏攻撃の他にも、アチコチ強入部や押領)にケリをつけるに、管領職に長くあった憲実なら、いう事を聞かせられようが、若年の憲忠には、老獪な長尾・太田を牛耳る術が無い(むしろ勢いづける存在)と判断した、って事だろう。

あとは前も書いた通り(^^ゞ→<古河総合公園B「公方様の森〜天神橋」>内


て所で、いよいよ、享徳の乱から始まる一年スタート(^O^)!
……と思ったら、最初の中継地点、三毳山に着いてしまった(^^ゞ。続きは後に……。



<「三毳山神社」(里宮)と「三毳不動尊」>

みかも山公園地図)は、↑上で見た通りの入口風景から始まるが、「公園」と言いつつ、立派な山なんで、登山コースを含めた広範囲が敷地に入る。

我々は先を急ぐので、山(公園)には入らず、公園前(向かい)の「道の駅みかも」(地図)でトイレ休憩し、入口の左右にある「三毳不動尊」(地図)と「三毳山神社」(地図)を参拝するのみとした。

そうそう、「道の駅みかも」では、露店で包丁を売ってる業者がいて、大きいの小さいの太いの細いの、ズラリと豊富に並んで圧巻だった。
欲しいなと思ったけど、まだ旅の初めだし先も急ぐので買わなかった。
佐野は天明鋳物があるけど、包丁も名産なのかな(゚.゚)。

はじめに「三毳(みかも)山神社」(地図)参拝(^人^)<パンパン(パノラマ2枚)

拝殿は扉が閉ざされていたが、参拝者が自由に取れるよう、御札が数枚置かれており、私も一部頂いて、ウチの壁に貼っている(^人^)<パンパン、有り難や

神社境内には、「万葉歌碑」の石碑があり、昭和22年(1947)に憲法制定を記念して建てられた。
これは、「万葉集」の巻14東歌にある一首、
「しもつけぬ みかもの山の こならのす まくはしころは たかけかもたむ」
と刻まれてるようで、案内板(藤岡町教育委員会)によると、解釈は色々あるが、「下野国の三毳山の小楢の木のようにかわいらしい娘は、誰の食器を持つ(誰の妻になる)のだろうか」と解されているという。

他に神社のご祭神や謂れ等に触れた記述物は見当たらなかった。
ネット情報には、この神社は里宮で、三毳山の山頂に奥宮がある事や、主祭神が日本武尊命、配祀神に天香香背男命、と出て来るサイトもあるが、自分で確かめたわけではなく(^^;)ゞ。

境内には社務所と神楽殿がある(パノラマ2枚)

次に、三毳山公園の入り口に向かって左に位置する「三毳不動尊」にも行ってみた↓

こちらは真言宗のお寺で、宗祖・弘法大師空海)の伝説が残る。
その伝説によると、空海は三毳山に立ち寄り、主狐に出会って案内を頼んだ。
」の字を書いて降雨祈願をした、と伝わるのが「弘法の硯石」。
下山の途中で座って休んだ、と伝わるのが「弘法の着座石」だという。

空海を案内したは、後にこの地を守る出世稲荷に化身し、民の幸せを祈り、「五穀豊穣・商売繁盛」を願っている……と言う説があるそうだ。

弘法大師の伝説は全国にあるものの、正直ちょっと意表を突かれた(゚.゚)。
というのも、三毳山と言えば、天台宗慈覚大師円仁・比叡山延暦寺・三代座主)の出身地として名が通っている(方じゃないかと個人的に思っている)からだ。

円仁の開山を謳う出羽の立石寺(山寺)に、円仁磐司磐三郎が出会う伝説があって、両者の故郷(先祖地)が同じ下野国なので意気投合したのかも……という話を前にした事があった。(2009年1月<対面石と対面堂>内

三毳不動尊」(地図
階段上には飲食店や売店が並ぶ

この地域は、中世は小野寺氏の領域にも近い。
小野寺氏にも、狐との縁で城地を開いたという伝説を、確か小野寺維道さんのサイト(新・小野寺盛衰記)で読んだ覚えがあるので、宗派・聖俗を超えて共有してる地域伝承かも(笑)?

いずれにせよ、円仁は壬生氏の出で、地元における由来の寺と言えば、大慈寺である。
これもそのうち行きたいと思っているが、その前に、「三毳山ってどんな所か、ちょっと行ってみよう」と、このたび来て(通って)みたのだ。

このたび、古河→足利→新田の道筋を走る旅路において、古河から足利はちょっと距離があるので、どのルートを通ろうかと地図を眺める内、この三毳山が目に入って来た。

慈覚大師(円仁)の出身地という以外に、もう一つ、「将門の乱の時に出て来る(と推測されてる)山だよね(゚.゚)」とも思った。
こうした点から、以前よりこの三毳山を常に意識していた(^^ゞ。

これが「出世稲荷」だ(コンコン)
その隣の「閻魔殿

「将門の乱」は、同族同志の争いに終始した「承平の乱」と、それに勝ち抜いた後、関東地方全般を巻き込み、ついには京に朝敵討伐を受けた「天慶の乱」がある。

後者「天慶の乱」の最終段階、急に敵となって将門の前に立ちふさがるのが、藤原秀郷(通称・俵藤太)である。

この三毳山は、将門が秀郷と戦う時、下総国から下野国境にまでやってきて、秀郷の軍の様子を窺うため、登った(物見のため登らせた)山ではないかと推測されている。

話の流れ的には、この辺り→2008年10月<坂東市「延命院」>
『将門記』には……↓

     
  原文(読み下し)
「時に新皇・将門が前の陣、未だ敵の所在を知らざるを以て、副将軍・玄茂(はるもち)が陣頭・経明(つねあき)・遂高(かつたか)等が後陣に以て、敵の所在を訪(と)ひ得たり。実否を見むが為に高き山の頂に登りて遥かに北方を見れば、実に依りて敵あり。略(ほ)ぼ気色は四千余人許(ばかり)なり」



現代語訳
(将門が敵地・下野国に乗り込んだ)その時、新皇・将門の先陣は、まだ敵の所在を知らなかったが、副将軍・藤原玄茂の部将・多治経明坂上遂高たちの後陣が、敵の所在を探り当てた。
真偽を確認しようと、高い山の頂上に登り、遥か北方を見ると、実際そこには敵があり、その気配からすると、およそ四千余人ばかりだった。
 
     

その後、将門軍の多治経明らは、目前の敵を逃してはならじと、日頃の己の武勇を過信し、将門に知らせもせず突撃して、秀郷に見事に迎撃され、討死者を多く出し、惨敗してしまう。
(この敗戦を機に、将門軍は徐々に不利な戦況を迎え、やがて将門の戦死によって滅びる)

下総国からやってきて最初に通りかかり、登って様子見するのに手頃な山であり、逆にこれ以上ゆくと、下野国の領域に奥深く入ってしまうという位置関係から、この三毳山が割り出され、比定されたのだろう。

本堂。本尊は不動明王と思われる
本堂から見下ろす。向かいは道の駅

将門の軍は、この戦いの前にも下野国境付近で戦い、見事に勝っているし、坂東八ヶ国を掌握した時などは、さらに上野国にまで入った事もある。

しかしそれらは、藤原秀郷が敵として立ちふさがっていなかった時の事だ。
もう一つ、将門軍は、平貞盛や藤原秀郷が将門討伐に立ちあがったこの時、多くの兵を各々の家に帰してしまっていた。(各々が農業に従事する時期になったからだろう、という見解が現在は主流に思われる)

寡兵だったとは言え、無敵に近かった将門軍が物見までしたのに、一瞬の油断で大きく敗れるからには、秀郷軍には充分な用意があった事が想像できる。

そういった観点もあって、古来から、将門の元に間者を送り込み、情報を流させていた……という逸話が後世ついてまわったのだろう(例えば、将門の妾になった桔梗姫が、実は秀郷の妹とかいう具合に)。

将門の軍が、いつ、どこから、どれぐらいの兵力で、どう入って来るかがわかれば、それに応じた迎撃で成功しやすかろう。

例えば、将門軍と同じようにに、高い山に登って、将門軍の全容を把握すれば、迎え撃つのも容易いだろう。

そこで、三毳山の後方に聳える唐沢山に、どうしても目がいく(^_^;)。
唐沢山城(地図)が戦国期の佐野氏の築城より前には遡れないとしても、望遠するぐらいなら機能したのでは……、日頃から山に道筋をつけておいたのでは……などと想像を逞しくする(笑)。



<城山公園(佐野城跡)>

次にやって来たのが、ここ、佐野城跡(地図)である。
(享徳の乱の話の続きは、このスグ後に(^^ゞ。佐野城の話しばらく行きます)。

古河から三毳山までの距離に比べると、その1/4ぐらいかな。道の駅でのトイレ休憩から出発して、わりとスグ着いたように感じた。

両毛線の「佐野駅」の北側に(道を挟んで)接しているので、場所はスグわかるが、車だと入口を探すのに、周囲をグルグル回ると思う(^_^;)。
(徒歩なら、ストリートビューで見る限り、周囲のどこからも階段で上がって入れるようになってるようだ)

車もここまでで、この丘を歩いて登ってゆく(パノラマ2枚)

城は自然の独立丘陵を利用して作られた、近世初頭の代表的な連郭式の平山城で、主要部は、南より三の丸・二の丸・本丸・北出丸と、直線的に続く郭で築かれ、縄張の主郭部は、全体で東西110m・南北390mの規模を有する。
それぞれの間は空堀で区切られ、内堀へと続いていた。

現在、主郭部の丘陵は公園として利用されているため、保存状態が良く、当時の城割の姿を良好に留めて、遺構も各所に見ることができる。

が、内堀から外堀、その周辺部は開発・市街化が進み、完全に埋め立てられて、駅や中学校、住宅地等になっている。

我々は駐車場に車を停めるため、三の丸をとばして、イキナリ二の丸下(三の丸との間)から入城してきたが、三の丸のさらに外は外堀で、東西300m・南北600m四方の城郭を取り囲み、幅も広い所では数十mに達していた。

登った先に「万葉の里・城山記念館
公園へは記念館の前を左折

三の丸の南部に、地表下1.5mの深さから石組みの「井戸」跡(内径が約1m)が発見された。保存を優先して、完堀せずに埋め戻ししたため、詳細状況は不明だが、井戸の北側20mほど、城の馬出し部に巡ると思われる幅約10mの堀跡も確認された。

また、三の丸の南東部には、春日岡山(公園のある台地)の硬質な岩土を削って作られた「切岸」(緩やかな斜面を削って急斜面を作り、敵の侵入を困難にするもの)が、石垣の代わりにあった事も確認された。
内堀の底からは、切岸の上までの高さ約4m。そのさらに約4mの盛土を施して、城が築かれていた。

三の丸から、公園の外の道路を挟んで東には、東西15m、南北10mの「施設」跡が発見されたが、使途不明。
施設は地表を凹状に彫り込んだ中央に、1mの平な巨石が二つ並べられており、周辺に排水溝が巡らせてあったという。

二の丸と三の丸の間、外堀と内堀の間には、東西に延びる小規模な堀が発見された。
断面がV字状の薬研堀で、柱穴が3つ一間間隔に並び、柱の一部も出土、文字らしきもあったという。

二の丸跡。端まで入って振り返り撮影(パノラマ3枚ほぼ180度)

話の流れで、ス〜ッとここまで来ちゃったが、二の丸に入る前にあった「万葉の里・城山記念館」に入ると、小規模ながら展示コーナーがあった。

中でも特に関心をもって眺めたのが、佐野氏に関連する周辺の城郭地図。
展示には「(佐野氏が)現在の安蘇郡とその周辺を支配」と書かれていて、かなりの広域である事、城の数が、唐沢山城やこの佐野城も含めて、34城もある事に驚いた。

去年、唐沢山城について書いた旅行記でも述べた通り、私にとって佐野氏は、かなり謎(未知)の氏族で、資料にも心もとない。
だから、佐野城に寄ったのも、唐沢山で求め損ねた地元史の書籍など得られないか、という望みがあったからだが、残念ながらそういった物は見かけなかった(;_;)。。

それゆえ、展示コーナーで見た城郭地図は喜んだ(^O^)。
撮影禁止ではなさそうだったので、写真に撮らせてもらった。今後の糧に繋げたい(`・ω・)

と同時に、この地域における謎の領域が、一気に解決の感もあって、まさに「最後のピース(それも大物)が埋まった」気分(笑)。

公園の外(西)に見える山は……
(拡大)たぶん近くのゴルフ場(笑)

この佐野城は、唐沢山城地図)に居城していた佐野信吉が、慶長7年(1602)、幕府の政策を受けて、居城を移してきたものである。
その「幕府の政策」について、案内板には「山城廃止政策」とされている。

……そういえば、「山城廃止令」というのは聞いた事がない(゚.゚)。
一般的に、江戸幕府が城に関して発した政令と言えば、慶長20年(1615)に出された、「一国一城令」が思い出される。

豊臣家が大坂に滅び、徳川家の天下が決定した後に出されたもので、城の数も限定されたが、同時に世の多くの山城が無くなっていったのも事実だ。
山城は次々と廃され、江戸時代の城と言うと、平地に建っている天守閣のついた物を指すようになった。

この一国一城令に先立つ政策が、唐沢山城に向けて発せられていた、という事かと。


二の丸から本丸に向かう通路。左の崖も見下ろしてみよう(パノラマ3枚ほぼ180度)

その後、慶長19年(1614)、佐野氏は本領を没収され、この佐野城も廃城となった。

当時、廃城の際は、城が再び利用されないよう、建物や石垣などはことごとく壊されたものだが、発掘調査によってその破却の様子もわかった。
現在は、貴重な歴史文化遺産として後世に伝えるべく、佐野市の史跡・名勝に指定されている。

……この改易理由について、私の知る限り、大久保長安事件の連座と思っていたが、wikiを見ると、その他に、江戸城の火災の消化に駆け付けたのが早すぎて、無断参府の罪により……とも言われてるそうだ。
無理な理屈のつけ方だが(^_^;)、単に江戸に近い距離にいた事が危険視されたのだろう、とも書かれている。

いずれにせよ、佐野信吉が豊臣家に極めて近い存在だった事が裏にありそうだ。
実は信吉は養子に入って家督を継いだ人物で、出身は、富田氏である。


見下ろしてみた。城の西側。下の道路に注目(パノラマ2枚)

↑下に見える道路は、かつては「内堀」のあった場所で、内堀に沿ったこの斜面には、幅1〜2メートル程の帯状の平坦部が造られ、さらに5〜6メートル上にも同様な遺構が存在していると想定され、通路のような形態から「犬走(いぬばしり)」と呼ばれている。
昭和63年度の急傾斜地崩壊対策事業に伴う発掘調査により確認され、一部を保存整備している。

犬走は通路となる以外に、内堀から這い上がって城に侵入する者を、上から槍などで攻撃するため設けられた。

……と、現地の説明版には書かれていたが、逆に内堀からの侵入者に足場を与える不利があるので、それより土塁の崩落への対処ではないか、とする意見もあるんだよね(^_^;)。

ただ、同じく説明版に、「同様な遺構は(豊臣家の)大坂城等にも見ることができる」ともあって、このあと向かう本丸でも、豊臣家との深い関係が伺える発掘結果が出ている点とあわせると、非常に興味深い。

実は先に下のこの道路に来てた(^^ゞ
古河方面から来ると最初に出会う壁

         北条氏忠
(佐野)       |
┌泰綱−宗綱┬乗讃院
|        └−女
|          |
└房綱===信吉富田信種
(天徳寺宝衍)

↑信吉の先代にあたる、佐野(北条氏忠佐野宗綱の娘との婚姻によって、佐野氏に養子入りした事までは、間違いない(^^ゞ。

その後、信吉については、私は「富田氏から出て佐野氏の後を継いだ」って事しか知らなかった(^_^;)。
だから、信吉が房綱(天徳寺宝衍) の養子になったり、同じく宗綱の娘を娶ったりした点は、wikiに書いてあった事を、そのまま繋げている(^^;)ゞ<間違いがあったら、ごめんね

氏忠夫人を「乗讃院」とするのもwiki情報で、小田原討伐の敗戦後、預かり先(毛利)で娘に婿養子をとって家名を再興した、という点から、信吉夫人と同一人物ではない(信吉には、乗讃院が再婚したのではなく、乗讃院の姉妹が嫁いだ)と見ていいと思って、上記の系図を書いた。


犬走のある崖の上は橋が渡され
二の丸の北にはこんな池が設えられ

小田原征伐(1590年)によって、北条方だった多くが開城、所領没収、大名廃絶となった中で、佐野氏には秀吉と懇意だった天徳寺宝衍が、佐野氏の出身だったため、秀吉の息のかかった富田氏から信吉を婿養子として受け入れる事で、所領・居城・家名を保った。

豊臣家との深い関係は、ここから生じている。


ただそれも、家康が天下を取った関ヶ原合戦(1600年)の後に、居城を唐沢山から佐野へ移され、同じく、豊臣家を制覇する直前に、今度は改易となった点などから、豊臣家の指図で存続して来た事への仕置きが下った、と見られるのだろう。

信吉が関ヶ原では東軍だったり、江戸へ消火活動に駆け付けたにも関わらず……と思えば、理不尽なようだが、佐野氏が小田原征伐で、殆どお構いなしであった点は、他の小田原負け組で淘汰された者から見れば、不公平に感じられただろうから、仕方なかった、とも言えるかもしれない。


西側の崖下(堀跡のような)
橋を渡って振り返る

ところで、佐野氏と唐沢山城については、2018年6月号←こちらにタップリ書いた通りだけど(^^ゞ、この佐野城は、信吉が城を移して来る前はどういう場所だったかと言うと……。

ナント、あの「佐野厄除け大師(惣宗寺)」があったらしい(*o*)!
それが、佐野信吉が唐沢山を下り、城を構えるにあたって、惣宗寺の方が、佐野城(地図)よりわずか南に境内を移して、現在は、地図←こちらにある。


そして、佐野城跡(現・城山公園)と、現・佐野厄除け大師の、ちょうど中間に、殆ど点だけと言っていいほど狭い範囲に、「天明町」(地図)という地名が存在(残存)する。

これこそ、享徳の乱の折に、長尾景仲らが籠城した「天命」の跡地あたりではないか……。

天命(現・天明町)は後で、改めて通ろう(`・ω・)

ただ、籠城となると、やっぱ小高い丘みたいな場所じゃないかなと思うし、籠城に必要なあれこれ、お寺から調達できる方が便利なんで、普通に考えて、「惣宗寺のあった現・佐野城公園(つまり、ここ)に篭った」と考えるのが自然なんだけど(^_^;)。。

なんで、「元・惣宗寺(現・佐野城跡公園)に篭った」と伝わってないのかな〜(*_*)。


←橋を渡りながら右(東)側の谷を撮影
↑橋を渡ると階段が設けられ、本丸へ続く

惣宗寺(佐野厄除け大師)は、初めは奈良の僧侶が開基したのを、将門の乱(935〜940年)の時、佐野氏の祖・藤原秀郷が建立したと伝わるそうだ。

ところが享徳の乱(1455〜1483年)の頃、秀郷の子孫・佐野氏は、古河公方成氏の陣営にいた。(成氏の奉公衆だったらしい)
お寺が長尾氏ら(上杉方)に占拠されてしまった(陣地に使われた?)事が、檀家筋の佐野氏に逆らう事になるのを憚って、ちょっと外れた地名で伝わった……とか?(笑)


二の丸の北部からは、東西・南北に走る「石組溝」が発見され、南北溝の一部はクランク状に折れ曲がっていた。
本丸同様、二ノ丸にもすでに排水施設が整備されていたことがうかがえ、調査された範囲だけでも、溝は東西16m・南北17m以上の区域に及んでいた。
また、この溝からは、織部焼の向付なども出土したそうだ。

本丸の南部、二ノ丸から橋を渡って本丸に入る出入口に、石垣で築かれた枡形状の「虎口」(こぐち)が発見された。

ついに本丸跡に到着(^_^A)(パノラマ3枚ほぼ180度)

平成4年度(1992)の発掘調査で、本丸の東部からは、地表下1.5mほどの地点から両側に「石垣」が築かれた「通路」が発見された。

石垣は、最も良く残っている部分で、長さ6.4メートル。いずれも細長い角礫を使用している。

通路には、「石畳」が丁寧に敷き詰められ、石畳は、東西2.6メートル、南北5.6メートルほどの範囲で、幅20センチ、深さ20センチの側溝が伴っており、水路と思われ、本丸の主殿へは階段が続いており、排水施設と考えられる。

この東斜面には「井戸」跡もあり、石畳と石垣は、ここへの通路の一部であった可能性が高い。
出土した石畳と石垣は、形状を損なうおそれを避け、保存のために埋め戻しを行っている。
現在は、埋め戻した石垣と通路に沿って、付近から出土した石を並べている。

本丸の中央部からは、「建物跡」が発見され、柱を支える礎石が整然と等間隔に並べられていた。

建物は、南北4間・東西6間以上の規模で、本丸の主殿に関わる施設であったと考えられる。

この付近からは、桐紋の棟込瓦がいくつも出土しており、当時の佐野家は、豊臣家と深いつながりであったことがうかがえる。

←本丸の横に通路が伸び、さらに「北出丸」に続いていたようだ。

私らは公園はここまでと思ってたので、先にはいかず、ここで戻った(^^;)ゞ。

ところで、佐野厄除け大師の正式名称は、「春日岡山転法輪院惣宗官寺」と言うそうで(「春日岡山の歴史」(@「佐野厄除大師」より)、一方、佐野城も「春日岡城」(別名、姥ヶ城)と呼ばれていたそうだ(^^ゞ。

春日岡とは、延暦元年(782)、秀郷の曾祖父・藤原藤成が、この丘に春日明神(藤原氏の氏神だね(^^ゞ)を祭ったことに由来すると伝わる。

(藤原)魚名−藤成−豊沢−村雄−秀郷


何しろ、信吉は惣宗寺をここからどかすと、築城と町割りを開始し、現在の佐野城を中心とした町の原型を形作った。

……うん、まぁ、ある意味、「佐野家(秀郷子孫)の血筋だとしづらい整備を、(さらに上位の)太閤家の威光を背景に成し遂げた」、と言えるのかも(^^;)ゞ。

発掘調査の結果から、築城開始から廃城まで僅か12年の短期間ながら、近世城郭としての機能はすでに完成されていたものと考えられるという。




<佐野「天命」(天明町)〜足利「只木山」(多々木町)>

この先の行路は、佐野(天命)→只木(足利)→足利→新田。
まず、佐野城内でも言った通り、「天命」の名残りかもしれない現「天明」の風景を見てみよう。

通りの一点に「天明町地図とする地名があり、電信柱でも確かめられたが、あまりに狭い箇所なので(^_^;)、その周囲も少し交えて、佐野城の城下町(江戸期に城は無かったんだろうが)をお届けする。

ちなみに、町のはずれに「秋山川」が南北に流れ、陣を構えるにはありそうな風景なんだが、「篭った」となると、やはり丘陵か敷地の広い寺かなーとか思いながら走った。

話は、さっきまで書いてた「享徳の乱」の続き、いきます(^^ゞ。

今回は、享徳の乱が勃発した後の展開を、ちょっと詳しめに書いてみようと思う。

享徳の乱(1454年12月)が勃発すると、上杉の陣営における中心人物は長尾景仲(山内上杉氏・家宰)となる。


「金屋仲町」(地図
佐野厄除け大師の駐車場看板が見える

景仲は、江の島合戦(1450年)において、成氏に攻撃を加えているが、これは、景仲の主君・上杉憲忠ですら成氏の援助に駆けつけるほどの、景仲や太田資清(道灌の父)のみの暴発と言え、その後の景仲は家宰職を退いており、享徳の乱当時は、家宰の地位に無かったようだ。

それが再び家宰に復帰したのが、享徳の乱勃発による。

景仲は、上杉憲忠の正室扇谷上杉持朝の娘)を救出すると、京から憲忠の次の関東管領に、憲忠の弟・房顕(憲実の息子・京にいた)を呼んで擁立。
扇谷上杉持朝・犬懸上杉憲顕とも一味し、越後の上杉房定にも援軍を要請。

(房定は、成氏の関東公方就任のため働いた人物だが、これここに至ってはやむをえないと腹を括ったようで、これ以後、上杉陣営に登場する。後の関東管領・顕定の実父である)

成氏は成氏で、幕府に憲忠誅殺の言い訳を述べ、将軍側の領分侵犯(京都扶持衆などを成氏の父・持氏が攻撃した事だろう)をせぬ事を誓い、足利荘には京からの代官を望むなど、丁重な姿勢を示したが、細川勝元の管領体制は上杉支持を打ち出し、成氏討伐の軍令を発した。


享徳の乱で長尾景仲が篭ったのは、この天命あたり(`・ω・)

年が明け、永享4年(1455)1月5日、成氏は、上杉氏の本拠地・上野国を叩くため、鎌倉を出発。

上野国の方を成氏らが担当し、相模国からの上杉軍には、一色直清・武田信長が応戦、迎撃したようで、続く1月6日、「島河原の合戦」が相模国島河原(神奈川県平塚市)で起きている。

先発した成氏軍は武蔵府中の高安寺に着き、同22日、成氏軍は上杉軍と、「分倍ヶ原の合戦」(東京都府中市)となる。


成氏軍には石堂・一色・里見・世良田などの討死者が、上杉軍では犬懸上杉憲顕・扇谷上杉顕房・大石房重などの死者が、各々出たが、勝敗は成氏軍に決した。
大敗を喫した上杉軍は、西の相模に戻る事は叶わず、北上を余儀なくされる。

成氏はこれを追撃しながら、行く先々で近辺武士らを従え、2月18日、利根川に達した武蔵村岡に陣を構え、赤堀氏の参陣を加えて、利根川を渡河。
上野国の新田庄(先に成氏派の岩松持国が制圧)、下野国の足利庄・佐野庄・小山庄にも参加を促しながら、3月3日、古河に着陣した。

(ちなみに、この時期、岩松氏と共に上野国方面で成氏派として軍事行動していたのが、鳥山氏、桃井氏などのようだ)


佐野城下を離れて……
次は只木山(多々木町)に移動

続いて、多々木町を訪れたのだが、この地名はわりと広範囲にあるので、我々が目指して来たのは、「足利フラワーパーク・迫間自然観察公園」に連なる敷地にある、「多々木山展望台」(地図)だった。
何か、聞くからに、武将が篭りそうなポイントに思えたんで(^^ゞ。

ところが来てみると、車で近づけそうな道が無く、わりと時間をかけて散策するウォーキングコースなのかもしれないんで、周囲の風景だけ移して次を急いだ(笑)。

古河は鎌倉府の御領所ではあったが、この時はまだ、古河を本拠にすると決まっていたわけではなかろう。
一方、逃げた長尾景仲ら上杉軍は、3月19日、常陸国の小栗城地図)に立て籠もった。

同月下旬、上野国東部の桐生山上保に上杉方の動きが見られた。
上野国には、越後から山内上杉房顕(憲忠の弟で、次期管領)、越後上杉房定が進行しつつある頃だろう。
遅ればせながら、幕府側から下向を命じられた上杉軍の巻き返しが始まる。

4月2日、成氏方の那須持資が小栗城攻めに参陣。
同5日、成氏は、小田・梁田・筑波・小山など、小栗攻略の軍を派遣。自身は結城に馬を進め、7日には小栗城への攻撃があった事が知られる。


今いるのは多々木山の山麓→地図(パノラマ4枚180度以上)

4月中旬までには、上杉房顕の上野下向があったと推測され、平井城地図)あたりに入城しただろう。
成氏は、上野国の岩松持国を支援するため、5月11日、実弟・定尊足利庄に派遣。


5月14日、武蔵国の入東郡で、大袋原合戦。上杉軍が初勝利。

5月20日、成氏は、小栗城を攻略。成氏軍は兵力が薄く、陸奥南部の白川直朝の味方を得て勝利している。
同月、成氏は小山城に着陣(小山持政も成氏派)。

6月5日、上野国にて三宮原合戦。これも上杉が勝利。続いて、同国、高井要害城も上杉軍に落とされ、岩松持国の在所がある西庄に、上杉軍が迫る事態となった。

6月11日、成氏は小山城から出陣し、長尾景仲らのこもった天命(佐野庄)に向かう。
この時、長尾らはここと、もう一ヶ所、只木山(足利庄)にも篭ったようだ。
これを追いかけて来た成氏は、同13日、足利庄に着陣
(この次に行きます(^^ゞ)。その後、攻撃を開始したようだ。

↑と同じ橋、もう片側の風景↓(パノラマ4枚180度以上)

6月16日、京幕府の成氏討伐令を受けた駿河国の今川範忠鎌倉に入り、御所・寺社の区別なく、悉く焼き払った。

(……『鎌倉大草紙』は、この時、鎌倉では木戸・大森・印東・里見などが防戦に努めた、と書いてて、それは、まぁそうなのかもしれない。
でも、それを成氏が兵力追加したり、梁田結城が敵の囲みを破ったあげく、成氏が武蔵府中に落ち延びた、というオチは、その後の古河居城と無理やり結び付けてる感じ。
というのも、この時、成氏天命・只木山を囲むため足利にいて、鎌倉にいない(^_^;))

7月6日、成氏は、兵が足りないため作戦変更を決定し、同9日、小山城に撤退。
さらに、上野国方面の岩松・鳥山・桃井の元には、成氏に同行していたと思われる、結城・小山・佐野・舞木などを派遣し、上野方面の成氏別動隊は5千騎になったという。

7月24〜25日、栗田城・穂積原合戦も、上杉軍の勝利に終わり、岩松ら成氏別働隊も、足利庄に撤退して来る。

同29日、下野の宇都宮等綱が、成氏陣営から離反。成氏からはこれの討伐のため、那須持資を向かわせた。
10月15日、離反した宇都宮勢が、成氏軍に向けて挙兵したため、小山持政が迎撃に出向く。


さらば、多々木山。次は足利に向かう

だが、しばらく続いた上杉軍の優勢も、ここまでだった。

12月3日・6日、(上杉方の)武蔵国・崎西城が成氏軍に攻略され、同11日には、ついに天命・只木山落城する。
長尾景仲は、最後は天命・只木山を出て、崎西城に居場所を移した、との事なので、崎西城の攻略日が、13日・16日(あるいは23日・26日)だったのかもしれない。

成氏が古河城居城としたのは、遅くても、この時点であると言われる。
6月に鎌倉の御所が今川範忠らに焼き払われた後、12月13日の書状で、「古河に帰参」と書いている所から、この時点までには、古河城を「御所」(関東公方の御座所)と定めていた事が知られる。

以上が、享徳の乱の初盤における、天命・只木山の出番であるが、この地名は、この16年後(文明3年=1471年)の同乱にも、ちょっとだけ名を出す。

書いて来た通り、享徳の乱の初盤は、関東じゅう(特にこの緯度は)熾烈な抗争を繰り広げたが、その後は、動きも合戦もあるにはあったが、全体的に膠着状態に入った。
成氏は鎌倉を追われたものの、古河に公方の座を保ったし、上杉陣営も五十子(いかつこ)に陣を築き、腰を据えて粘ったので、何年も「睨み合い」が続いた。

比較的、大きな動きがあったのが、今言った文明3年(1471)なのだ。


渡良瀬川に沿って進み
やがて右折、足利市街に入る

大雑把に言うと……。
成氏方が伊豆方面に侵攻し、上杉陣営の堀越公方政知(京幕府から、新・関東公方として寄こされた将軍義政の兄)を大いに叩いた。

が、その隙に上杉軍は古河に侵攻。
成氏陣営は伊豆侵攻に削がれて手薄であったため、持ちこたえられず、成氏は古河城を落ちて、千葉孝胤佐倉城に身を寄せた。

翌年(1472)に成氏は古河城に復帰したのだが、この争乱中、新田岩松氏天命・只木山に陣を構えたらしい。

新田岩松氏は、初盤でバリバリの成氏党だったが、この文明三年の動乱時には、上杉方として参戦しており、よって、天命・只木山は、またしても上杉陣営の拠点となったわけだ。
なぜ、あれほど濃い成氏党だった岩松氏が、上杉に寝返ったか……。

ちょうどこれより上野国(群馬県)に行くので、今回は新田岩松氏の事もやろうか(^^ゞ。



<足利(栃木県)〜新田(群馬県太田市)>

話は岩松氏の発端に遡りたい。(享徳の乱までに到達するのは、次回号かも……)。

足利学校地図)だ!
キャーキャー3年ぶりよ(≧▽≦)!

以前、ここ足利に来た時、源氏から新田氏足利氏に分かれ、足利氏は@義康、A義兼、B義氏と代を重ねた……と、三代の墓所や寺の話なんかと共にした。(2015年11月<鑁阿寺>

その時にも触れた通り、@義康は頼朝と母系の従兄弟。
A義兼B義氏は二代に渡って、北条氏から妻(時政の娘・泰時の娘)を娶っており、特にA義兼は頼朝と相婿(妻が政子の妹)である。

このように足利氏は、幕府発足前後に頼朝北条氏と縁が濃かったため、好位置で鎌倉時代のスタートを切った。

それだけに、執権北条氏との婚姻が最優先され、北条氏から娶った妻が生んだ男子以外は、順序が先でも「家督は無かった事」にされたり、カウント自体から外される事が続いた(^_^;)。。
(理由は正直よく知らない。度重なる経過からそのように思えてしまうだけで)


↓この通りの正面に見えるのが……
(拡大)鑁阿(ばんな)(足利氏宅跡・地図)→

足利は懐かしみながらも、通り過ぎるのみで、今回はこのまま新田(太田市)方面に向かう。

B義氏にも、先に生まれた兄・義純がいたが、北条氏を母親に持つ義氏が家督を継いだ。
wikiなど見ると、この義純が既に、「大叔父にあたる新田義重に育てられた」ように書かれており、なるほど……と思う(^_^;)。

何が「なるほど」かと言うと、義純はその新田義重孫娘を妻に迎え、そこに生まれたのが岩松時兼(岩松氏の初代)だからだ。
幼馴染み同志で夫婦になったのかな〜とか、イメージしやすいかったので、「なるほど」と(^^ゞ。

しかし、この夫婦は離婚する事となり、義純には、畠山重忠の未亡人(これまた北条政子の妹)が再縁し、以後、義純は妻の前夫の名跡を継いで、「畠山」と名乗るのだ(^_^;)。
そして、この後室(北条氏)との間に生まれた系譜が、室町時代の管領職として盛んに名を示す、あの畠山氏となって、享徳の乱の前段階、関東贔屓の管領として関わるのだ。

一方、前妻の新田氏との間に生まれた時兼は、又しても母の実家・新田氏に引き取られ、新たに「岩松氏」を興すのである。
両親の離婚によって、父の系譜を否定された(母方の姓を引き継いだ)事から、「新田岩松氏」と呼ばれた……というのである。


渡良瀬川を渡る、渡良瀬橋地図
渡りながら、足利駅(東)方面を見る

「え、女でも家を興せたって事(゚.゚)?」と思う方も居られようが、結論から言えば、「実はその通り」である(笑)。

翌日の旅程になるが、岩松氏の史跡巡りで現地の案内板など読んだ所、新田氏の内部で、岩松時兼の生母にも所領の相続を行っていたようだ。

時兼生母の実父・新田義兼の妻から相伝されてるようだ。この女性(新田尼)が時兼生母の実母(母から娘への相続)なのかもしれない。

その後の岩松氏は、「経家」の時に、鎌倉末(〜南北朝)の動乱を迎えた。
足利尊氏→紀政綱(尊氏の家臣)→田嶋氏(岩松氏の支流)→岩松経家新田義貞
のルートを辿って、新田+足利による同時挙兵の算段が行なわれたのではないか……と見られている。

太田市(群馬県)に向かう(地図)。今度は新田氏の本拠地へ

何の同時挙兵かと言うと、前北条氏へ叛旗を翻した「元弘の乱」を指す。
新田義貞鎌倉を攻め落とし、足利尊氏六波羅探題を襲った。源氏の二大武将が、鎌倉・京を一瞬にして制圧した。
(この時期以外に、足利尊氏と新田義貞が手を組んだ戦いは無い気もする(^_^;))
岩松経家自身は、新田義貞の鎌倉攻めに参加している。義貞と「両大将」であったという。

岩松氏が二大武将を結びつける役割を果たせたのは、新田・足利の両方の血筋を持っていたからと思われ、その後、足利×新田が全く相いれなくなり、南北朝の動乱が始まった事を思うと、この時点において大した功績だったと言えよう。

が、ここで坂本龍馬みたく、岩松経家の銅像が立っちゃう程、南北朝時代は甘くない(爆)

新田義貞は、鎌倉に居残って武士の棟梁に立つ道もあったが、京にいる尊氏の足利氏からも細川氏などが派遣され、既に新田×足利の対立ムード濃厚。
さらに時の趨勢は、後醍醐天皇の手中にあり、鶴の一声で軍配が決せられてしまう建武の新政に突入していた。


遠い山影。榛名山とか赤城山が見えるトコまで来たかなー♪

義貞は鎌倉を離れて、上洛する道を選んだ。
これに対して、岩松経家は鎌倉に残留したようで、これが後に、南朝勢力として各地を転戦した新田氏に対して、岩松氏が鎌倉府に存在感を示す事となる、第一歩だったのかもしれない。
(一方、南朝方についた岩松氏というのも、いるにはいるようだ)

ただし経家自身は、その後の中先代の乱で、北条高時(14代執権)の子・時行を迎え撃って戦死している。

経家の後は、私の知る限りだと……、

┌経家−直国−満国
└頼宥

となるのだが、wikiを見ると、

┌経家
├頼宥−泰家−満国
└直国

こんな風になってて、どっちが正しいのかな……。
いずれにせよ、次号に登場するのは、最後に連なる「満国」からになる。

今回の所は、経家の戦死後、頼宥・直国まで語っておきたい。



<「台源氏館跡」(新田義貞・誕生伝説地)>

↑前、ここに来たのは、2012年の10月だった。
それから実に6年ぶり(今からだと7年前)の再訪となっている。

2013年1月<東北道〜北関東道>以降
2013年2月・全文
2013年3月・全文
2013年4月・全文
2013年6(5)月・全文
2013年7(6)月・全文
2013年8月・ほぼ全文


6年前は、行けたトコも少なくなかったが、行けなかったトコもあった。
今回は、前回行けなかった所を、なるべく集中的に廻った。
(が、今回は、亭主のリフレッシュが主たる目的なので、配分的に、残念ながら漏れた史跡もないではない(^_^;))

この日は、日暮れもだいぶ近かったし、それでも「新田に来た!」を実感すべく、最もそれっぽい場所を一ヶ所限定で選び、この日の締めくくりとした。
それが……

ここ、「台源氏館跡」だぁっ!
新田義貞御誕生地之碑」と刻まれる

6年前に来た時は、このスグ近くの円福寺を訪れ、そこで、

>ただ周辺には、東方に約400mに「台源氏館跡」、南東に約500mに「由良城跡」がある。

と述べた事が、当時をレポした「たわごと」に記されているφ(。。)m
(2013年2月<「円福寺・茶臼山古墳」(伝・新田氏累代の墓)、1>

あとは、現地案内板の記述をそのまま……(太字・段落を適時入れてます)↓

     
  台源氏館跡 新田義貞誕生伝説地」

 ここは太田市由良町(字北之庄)に当り、古くから太平記を飾る郷土の武将・新田義貞公の誕生の地と伝えられてきた。
 義貞公は正安3(1300)年ころにここで生まれ、やがて反町館で青年期をむかえ、正安3(1333)年5月8日、生品神社で鎌倉幕府打倒の旗をあげたと伝えられる。

 公はその後、後醍醐天皇に仕え建武新政の要人として活躍したが、暦応元(延元3・1338)年閏7月2日、福井の灯明寺畷で壮絶な最期を遂げたという。享年は38と伝えられる。

 この館跡は居館跡の土塁の一部を整備して昭和13(1938)年8月26日(陰暦の閏7月2日)、二基の石碑が建てられて義貞公誕生の地とされたものである。
 なお、義貞公誕生地はここの外に、反町館説、世良田新田館総持寺)説、榛名町里見郷説などがあり、不詳なところが多い。
 
     

以上で、一日目の旅程を終了(^_^A)。これより一泊目の宿、藪塚温泉に向かう。途中に見た夜景→

岩松氏のその後の話で締め括ろう。

岩松氏は経家亡き後、経家の弟・頼宥が、経家の子(と私は思ってる(^_^;))の直国と共に、足利尊氏に従い、新田義貞と戦った。

単に区分として、南朝・北朝といった敵味方に別れたのみならず、新田と岩松という、同じ新田荘に基盤した同族同志で戦い合った、と見られる戦場も多数あるようだ。

それを言うと、足利新田も元は同族である。

尊氏の生涯のうちに、南北両朝が和睦・合一される事は叶わず、新田義貞の子達をはじめ、いわゆる「新田や南朝の残党」らは、各地にその痕跡を残してゆく。

それでも尊氏は、先に散った新田義貞の慰霊を、この岩松頼宥に命じ、直国には新田庄内に知行を与えている。
尊氏……すなわち室町幕府の初代将軍の公認を得て、義貞の菩提寺・安養寺は建てられ、その中心に、現・明王院が残ると言う。

尊氏のこういう部分を、NHK大河「太平記」では、心の奥に新田義貞との友情を持ち続けたように描いたし、祟りを恐れたとする説もあれば、尊氏は鬱病・躁鬱病とする説もある中、私は……。

尊氏も含め、歴代の足利氏ってのは、結構な仏教マニアなんだよなーと。
(しんみり余韻を残して終わるつもりだったのに〜〜!)




次回は……計算通りに行けば、旅行の最後あたりまで一気に行けそうなんだが、そうやって甘い見通しを立てて、その通りにならなかったことの方が多いので(笑)、そうはならないんだろう。。

甘い見通しの通りだと、「藪塚温泉」、「赤城山」と、いわゆる観光旅行を楽しんだ後、また新田に戻ってきて、岩松氏ゆかりの「青蓮寺」「義国神社」「金剛寺」「岩松尚純夫妻墓所」、富岡氏ゆかりの「小泉城跡」「龍泉院」の順。(全部は無理かも(^_^;))

例によって、関連事項リンクは後日、貼りますー!
(現在、2018年4月号まで貼るの追いついてます(^^ゞ)

<つづく>

2019年05月23日
 
     






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