「将門雑記(風と雲と虹と)」2(08〜13)
キャスト

平将門= 加藤剛(青年役)
平四郎・将平=岡村清太郎

平貞盛=山口崇

鹿島玄明=草刈正雄

小督=多岐川裕美

藤原純友=緒形拳
螻蛄(けら)婆=吉行和子
美濃=木の実ナナ
武蔵=太地喜和子
季重=沢竜二

藤原忠平=仲谷昇
藤原仲平=永井智雄
藤原子高=入川保則
大中臣康継=村上不二夫

三宅清忠=近藤洋介
紀豊之=綿引勝彦

貴子=吉永小百合
貴子の乳母=奈良岡朋子
多治比の文子=杉浦悦子

藤原恒利=今福将雄
千載=五十嵐淳子

大浦秀成=中丸忠雄
紀秋成=平田守
くらげ丸=清水紘治
鮫=丹古母鬼馬二

平維久=森塚敏
藤原正経=寺田農

小野道風=小池朝雄

興世王=米倉斉加年



この回の関連レポートは、「城主のたわごと」2008年8月<史跡と順路について>からおよび9月(冒頭部)からを(^^ゞ。

08話「京の姫みこ」

  将門は同僚の三宅清忠が、実は藤原純友の知人だったと知る。純友は将門に、税や役を逃れる民が続出する煽りで、公地の民のみ重税に苦しむ一方、権威をかさに貴族が私腹を肥やす世の矛盾を覆すため、謀叛の企てを打ち明ける。が、将門は猛反対し、誘いを断り、別れる。
  皇子の荒廃した住まいが、嵐の後さらに荒れ果てたのを案じた将門は敷地に入り込んで、足を怪我してしまう。すると建物から老女が出てきて、怪我の手当てを助けてくれた。将門は後日、返礼に訪れ、館に通されて、記帳ごしに女主と声を交わした。何度目かこの館の傍を通ったある冬、老女が破れた塀ごしに将門を待ち構え、女主が危篤だと助けを求めた。
  将門は初めて女主に対面。薬士を呼び与え、その対価や暖を取る衣類や燃料などを援助し、老女の求めに応じて一晩付き添った。姫は嵯峨天皇の曾孫で、名を貴子という。



09話「火雷天神」

  回復した貴子は、快活に笑う明るい姫だったが、長い孤独と貧窮で複雑な一面も持ち合わせた。乳母の老女は、そんな貴子の元に通うよう将門に頼み、将門も館の修理などを支援。貴子の北野天満宮(後の)詣でにも付き添うと、火雷天神(菅原道真の霊)を受けたという多冶比の巫女は、貴子の運が東国の男によって開かれると神託を授ける。
  そんな道中に出あった貞盛は、貴子の同行を知りながら、わざと小督の存在を仄めかした。将門は、衝撃を受けた貴子に罵られ、貞盛からは「官位を得るために付け届けに精を出せ」と再三の忠告を受ける始末。そんな将門を藤原純友鹿島玄明が探っていた。玄明は将門に知られぬよう、将門の命を狙う季重から将門を警護し、はじめて武蔵と対面した。
  乳母の懇願で貴子の元に通う将門は、春の除目でも無位無官だったが、貴子は「将門さまが東国に帰らないので嬉しい」と喜んだ。そこに貞盛が将門を慰めに来た。貞盛が官位に就いたと聞いた貴子の乳母は、貞盛も招き入れ、将門・貞盛・貴子の三人が顔を合わせる事になった。



10話「純友西へ」

  将門が庶流で父も既に居ないのに対し、貞盛が嫡流の嫡子で父が健在、従八位上・左衛門府の職に就いたと聞くと、貴子の乳母は値踏みを始めた様子だが、貴子は一途に将門を思っていた。貞盛も貴子に自分は遊び人だと冗談を言い、将門に「小督なんてどうでもいい、あの姫を早く物にしろ」と勧め、将門の居ない時は貴子の部屋に入るのを遠慮した。
  純友は、珍しく主人の藤原仲平に呼び出され、無位無官から一気に従七位・伊予の掾に任官され海賊盗賊を仰せつかる。その別れの宴に将門は呼ばれた。
  女盗賊の武蔵も純友の船出に来て別れを惜しみ、純友から後妻になって欲しいと言われる。武蔵に会うまでは野盗だった季重も、義賊を続けると約し、純友について行くよう勧めるが、武蔵は海では自分は役に立たないと、都の盗賊を続ける決意だった。



11話「餓狼の頭目」

  純友は名高い海賊・藤原恒利に誼を通じ、追捕使を襲わないで欲しいという頼みを受け入れられるが、海賊を追う立場でありながら、逆に海賊大将軍になるよう期待される。
  山陽道・追捕使の藤原子高は、海賊が民に紛れている現状を鋭く把握し、恐怖によって海賊と民を引き離すため、罪もない漁村や漁船の民を処刑し、その数で点を稼いで名を上げていた。美濃螻蛄婆は、そんな子高に伽を命じられた遊び女の千載を助け出し、純友は伊予に着いて、守の平維久・介の藤原正経に挨拶を交わし、伊予に残す一人息子にも再会した。
  将門三宅清忠は、純友の館で会った大学寮の学生・紀豊之に謀叛を打ち明けられる。豊之は、貴族が政治を怠っていられるのは、彼らの行なう祈祷や宗教儀式で救われていると民が迷信しているからだと、犬や鳥の屍骸など不浄物を殿中に置き、逮捕・連行される。



12話「剣の舞」

  春の除目で将門は従八位上・右兵衛府と初の任官に預かり、藤原忠平に直答を許された。藤原子高が取次ぎ(家司)になっていた。貞盛も従七位上・左兵衛府と検非違使の異例の大出世をした。ともに贈答品が物を言ったに過ぎず、複雑な思いの将門だったが、祝いに訪れた鹿島玄明と京で初めて再会し、互いに藤原純友に会った話をした。
  そんな将門を頼って弟の四郎が京に来た。都の大学は博士同志がいがみあい、学生は派閥にあって学歴を出世の道具にしているので、真面目な四郎は大学も他の私塾も気に染まず、変人と噂される小野道風を師に選んだ。道風も四郎を気に入って、自宅に住ませて弟子にした。
  盗賊がまた出た。面をつけるなど武蔵たちの手法を真似たやり方で武蔵らは後を追い、官職に就いた将門は、動こうともせぬ同僚たちに苛立ち、手下を連れて退治に出て、頭領も配下も叩き切ったが、面を剥ぐと盗賊らしからぬ高貴な顔立ちの者達だった。



13話「酷い季節」

  純友は海賊のそれぞれの長(大浦秀成紀秋成くらげ丸など)6人を浜辺に集めて、密かに誼を通じ、掾の位にありながら事実上、海賊の首領となった。
  一方、都の盗賊退治に一人で手柄を上げた将門は、同僚にも上司にも大人気。藤原子高大中臣康継も口々に、藤原忠平までが上機嫌で将門を誉めそやし、将門と同じく桓武帝5世の末孫で(桓武帝の皇子から流れの違う)風変わりな興世王も将門に興味を持って訪ねて来た。
  貴子は将門が坂東に帰る事を悩み、乳母も火雷天神のお告げ「東国の男」が将門か貞盛か決めかね、貴子の思いを明かすと、将門は貴子を妻として一生を京で過ごす約束をした。
  が、将門が殺した盗賊が皇族や高級武家の子息だったと判明。途端に周囲の態度が冷たくなり、藤原子高も「盗賊は捕縛すべきで、面は被っていても気品から皇子と判ったはずと遺族に反論されている」と批難。こんな藤原氏の権勢に貴子の乳母は怒って将門に同情し、貞盛も同僚の中で一人将門を庇い、挽回のため坂東の土地を献上するよう進言すると、貴子の乳母も賛成したが、将門は「先祖や領民が耕した土地を手放すなど出来ない」と怒りを露にした。



<コメント>

「将門記」および「承平・天慶の乱」にいたるまでのオリジナル展開が、ここまで三分の二ほど描かれて来ました。
そろそろ官位の話が登場します。

官位(位階)は一位から九位まであるそうですが、呼称は八位までで、九位を「初位(そい)」と言います。
一位から三位までがそれぞれ「正」が上、「従」が下に分かれて6等分。呼称は「正」「従」が位の先について、「正一位」「従一位」などと呼びます。
四位以下は「正」と「従」がそれぞれさらに「上」「下」に分かれて24等分。「上」「下」は位の後について、「従五位の上」などと呼びます。
あわせて30等分の身分階級となるそうです。

正一位/従一位
正二位/従二位
正三位/従三位(ここまで6等)
正四位上/正四位下/従四位上/従四位下
正五位上/正五位下/従五位上/従五位下
正六位上/正六位下/従六位上/従六位下
正七位上/正七位下/従七位上/従七位下
正八位上/正八位下/従八位上/従八位下
大初位上/大初位下/少初位上/少初位下(ここまで7〜30の24等)

将門がついたのは「従八位上」、貞盛はさらに「従七位上」に進んでました。

次に役職ですが、延喜式の編纂が905年、完成が927年、制定が967年との事で、将門の頃は、その前に行なわれていた令制(700年代に出来た律令制)施行時代に当たるハズですが、令制は奈良時代から変更や増廃が行なわれており、ドラマを見る限りでは、既に延喜式制に近い形の名が見受けられます。
年次ごとの変更事項に詳しくないので、この際、令制と延喜式制の合わさった所だけ出してみます(^_^;)。

まず「太政官」と「神祇官」の他に「地方官制」。

「太政官」が「左弁官局」「右弁官局」「少納言局」に分かれます。

「左弁官局」は「中務」「式部」「冶部」「民部」の各章に分かれ、「右弁官局」が「兵部」「刑部」「大蔵」「宮内」の各省に分かれる他に、「弾正台」と並んで、令制だと「五衛府」延喜式制だと「六衛府」、他に「左馬寮」「右馬寮」「兵庫寮」などがあります。

「五衛府」にせよ「六衛府」にせよ、内部に「右兵衛府」「左兵衛府」がありまして、将門が配置されたのは、この「右兵衛府」のようです。

一方「地方官制」には「諸国」「大宰府」「右京職」「左京職」などがあり、延喜式制からは「鎮守府」「按察使府」が入ります。

諸国」は延喜式制からは「軍団」「諸郡」と分かれ、位は「守」「介」「」「目(さかん)」の順。
鎮守府」の位は「将軍」「副将軍」「軍監」「軍曹」の順。

藤原純友が配置されたのは「諸国」の伊予、位は「」でした。
既に亡くなった将門の父・良将がついたのは陸奥の「鎮守府」、位はトップの「将軍」でした。

ところで作中によく出て来る「坂東」という言葉、坂東にいる間は「主人公のいる土地」と思うわけですが、京都に来てしまうと……特に純友と意見が対立する場面になると、どれぐらいの範囲を指すのか気になりますね(^^ゞ。

現在は茨城県の将門がいた石井営所あたりに「坂東市」がありますが、古くは「陸奥+関東地方」と、かなり広大な範囲だったようで、ざっと言うと「碓井峠より東で、足柄峠より北」という事のようです(^^ゞ。

これに伊豆が入るとか、安房は上総の一部だった時もあるとか、時期や解釈でブレがある気がしますが、元々関東は、中央から「野蛮な土地(今言うと語弊がありますが(^_^;))」とされた点では東北と同じで、「美濃・信州・駿河などとは別」という意識を持たれた土地……つまり信州や中部(甲斐あたりはちょっとビミョーかも)などに類が及ばないように、蝦夷への「防波堤」と見なされていたので、だいたい「東北+関東」が「坂東」でした。

それが将門の生まれる前の800年代、征討範囲が北まで届ききった頃から、征討という緊張感が無くなった事も一因に言われますが、何しろ全国で騒乱(俘囚の反乱など)が頻発します。
また常陸・上総・下総などからは陸奥に対して夥しい征伐兵が送り出された事もあり、陸奥と切り分けて、関東地方だけを指して呼称された時(場合)もあるかもしれません。

上総や常陸は800年代に「親王任国」と決められました。全国的に見ても俘囚が多く配され反乱も頻発して、そのせいなのか、配置された役人の上に親王を冠する必要があった、などとも言われています。

ただ将門のお祖父さん「高望王」は武勇の名も高かったようで、ドラマでは将門の父・良将に到ると「民主的で民に好かれていた」と描かれますが、この人も鎮守府将軍となったわけで、実際には貴種というのみならず、戦闘能力も高かったりで、盗賊や反乱の多い坂東に適合したのかもしれませんね(^^ゞ。

いずれにせよ、まだ坂東のような田舎では、親王やその子孫といった貴種が尊ばれ、また武勇に秀でていれば尊敬されるといった意味でも、純朴な空気が残っていたのでしょう。

ドラマでも「フツーに生きりゃいいじゃん」と思う坂東人と、「フツーなんかこの国に無い」と主張する都会の空気を味わい尽くした純友の違い、みたいな所がウマイと思います(^^ゞ。
理解を得られずに滑り違っていく二人を、純友の方がだいぶ大人(広い海を知り広い度量を持てる人)として描く事で乗り切ってます(笑)。

例えば、貴子の乳母が天神サマのお告げを妄信する下りも、坂東人が見た京都の人の不思議みたいな、ちょっと理解の壁がある感覚として、よく描けていると思います(笑)。

また、上総や常陸が「親王任国」となったのは、 こうした皇族後裔の零落を防ぐ対処だったとも言われています。
ドラマに登場する「貴子」は嵯峨天皇の曾孫とされ、坂東に根付こうと必死の源護らと同系なのですが、女の身の上で後ろ盾もなくヒッソリと都のあばら家に住み……と、「源氏物語」に登場する姫君のようでした。

他にもドラマの全編に渡って、「源氏物語」のような描写が多々あって、「源氏物語」の成立が承平・天慶の乱よりも60〜70年ぐらい後なので、「ちょっと早くない?」と感じるかもしれませんが、「源氏物語」自体が、実はこの承平・天慶のちょっと前あたりをモデルに描いているとも言われるので、もしかしたら、そう物凄く時代錯誤ではないのかもしれませんね(^^ゞ。

貴子の乳母は「藤原が何だ、帝の曾孫たる姫君たるもの」と言うのですが、この時代になると、各代の帝の子孫なんて人は、とっくに人口過多で(^_^;)、何々天皇の何世の子孫だから、威張っていれば自然と収入が来る、といった気楽な時代では無く、むしろ零落しきっていたようです。。
こうした零落皇族は、早くは天平年間(700年代半ば)には現れるそうです。。

さらに紀豊之の反乱事件が描かれるわけですが、将門や純友の乱が終息した後で、安倍晴明が登場し、やたらと陰陽道を究めて、藤原政権を下支えした(反乱の出ないように気配りされた)事と関係があるのかもしれませんが……紀氏については、この後も学問に秀でた家柄として出て来ますので、それとは違う範疇から出ている設定なのかもしれません(^_^;)。

さらに続いて、12〜13話にある将門の手柄だったハズの盗賊退治ですが、その盗賊一味が、実は高級氏族の御曹司たちだった、という逸話は、最初に見た時は「将門に急に栄誉と困難を同時に作り出すために、咄嗟に虚構を用いた」という具合に見えてしまったのですが(^^ゞ、どうもこの時代、こういった事があるにはあったようです。

これらの子弟たちが、将門や純友の同盟者になるという展開にはなってないので、この時点では「ご都合主義」に見えてしまうんですが、もしかしたらその理由は純友と同じく「動かぬ現況に苛立ちを募らせた」といった所もあったのかもしれませんね。

このドラマの良い所は、ナレーションが登場人物の奥底の感覚まで説明して、視聴者を説得してしまう所なので(笑)、ここで「この当時、こうした風潮が貴族の間にあった」と一言入れても良かったような気もします(^^ゞ。

また、そのようにして「酷い季節」に描かれる将門の不運については、自らが太刀を取って戦うわけでもない藤原子高が、真の武者は……などと語るシーンがあります(^_^;)。

古代から続いた傭兵が重装備したのに対し、やがて軽装に変わっていった背景には、外敵に向かうよりも、反乱者や盗賊を退治するのに適合していたから、と言われる一方、矢に一本一本自分の名を記したなど、功績を正等に評価して貰うための工夫が生まれて来た時代でもあったようです。

しかしそれが中央にまで正確に伝えられたのかは定かではありません(^_^;)。。

ただ、この時にドラマの将門が味わう屈辱感・不公平感を、何らか直接的に解決に導く描き方はこの後もありませんが、200年以上も後に芽生えた武士政権(鎌倉幕府)から遡って見ると、この後における坂東武者との対比として、子高のこうした描写は、なかなか興味深く、また鋭い捉え方(描き方)だと思うんです〜(#^.^#)。

そして最後、窮した将門に、貞盛が土地の献上を勧める下りは、将門の時代より後で鎌倉時代に至る前の事を重ねあわせると、これ又なかなかに興味深いです。

まず貞盛自身が、二度目の任官の前に土地を献上した、と言うわけですが、土地を大事に思う将門には、まだそれを勧めなかったと言うんですね(^^ゞ。
つまり出世や優遇への効果に繋がるのか、まず自分が試してみた、という事なんですね(笑)。

しかし将門は今回、身分の高い家柄の子息を殺害してしまい、簡単には拭えない失点を負ったわけで、そこで土地の献上など効果があるんだろうか、という具合にも見える所がミソです(^^ゞ。

実は、後に貞盛の甥の子、平維良(維茂と同一?)が国府を焼討ちして官物を奪い、将門の乱にも似た反乱を起こすのですが、時の権力者・藤原道長に馬や砂金などを盛大に贈って、鎮守府将軍の座を見事にゲットしてるんですね(^_^;)。。

勿論これは将門の死後なので、将門の頃とは微妙に事情が違ってるかもしれませんが、「こうやって(後に清盛にまで続く)国香流・貞盛流は、上手く橋を渡って行ったんだなぁ」とも遠目で見れる所が面白いです(笑)。

以上、2008/07/16