「将門雑記(風と雲と虹と)」5(27〜33)
キャスト

平良兼=長門勇
詮子=星由里子

平良文=渡辺文雄

平良正=蟹江敬三

貞盛の母=丹阿弥谷津子
平貞盛=山口崇
小督=多岐川裕美
平繁盛=佐々木剛
佗田真樹=藤巻潤

将門の母・正子=新珠三千代
平将門= 加藤剛
良子=真野響子
平三郎・将頼=高岡建治
伊和員経=福田豊土
菅原景行=高橋昌也
三宅清忠=近藤洋介
鹿島玄道=宍戸錠
鹿島玄明=草刈正雄
多治経明=金内吉男
文室好立=大宮悌二

源護=西村晃
源扶=峰岸徹

大中臣全行=林昭夫
田原藤太(藤原秀郷)=露口茂
武蔵=太地喜和子
季重=沢竜二
季光=無双信

藤原純友=緒形拳
螻蛄(けら)婆=吉行和子
美濃=木の実ナナ
藤原恒利=今福将雄
千載=五十嵐淳子
大浦秀成=中丸忠雄
紀秋成=平田守
くらげ丸=清水紘治
鮫=丹古母鬼馬二

藤原忠平=仲谷昇
藤原子高=入川保則
大中臣康継=村上不二夫
紀淑人=細川俊之
大使坂上=柳生博
興世王=米倉斉加年
小野道風=小池朝雄
多治比の文子=杉浦悦子
貴子=吉永小百合
貴子の乳母=奈良岡朋子



この回の関連レポートは、「城主のたわごと」2008年9月<良兼出陣「子飼の渡し合戦場」>からを(^^ゞ。

27話「折れた矢」

  良正の水守館で合流した良兼貞盛に将門討伐に参加せねば攻撃すると脅したが、貞盛は出陣しようとする弟・繁盛にも出陣を禁じる。しかし「自分が貞盛の妻でいる限り良兼たちに攻撃はされぬ」と自信たっぷりだった小督は、繁盛も佗田真樹も連れ出し、貞盛が連れ戻しに水守に行くと、軍は下野に移動していた。下野・伊讃の陣では、兵が繁盛の陣に案内すると騙して、良兼・良正のいる陣へ通し、貞盛は叔父達の兵に槍を突きつけられ、ついに参軍を決意。
  伊和員経鹿島玄明から貞盛の裏切りを聞いた将門は、貞盛の書状を届けに来た貞盛の母に、「自分と貞盛の仲は二度と元に戻らない」と、二つに折った矢を渡した。
  良兼が豊田を通過して下野に及んだ事を、将門の陣営では「常陸国府から干渉が入った」「農繁期を犯して将門の首だけでは勘定に合わぬから、下野に力を誇示」と憶測され、現に下野守の大中臣全行も良兼に厳重抗議していたが、良兼の機嫌を取る下野の豪族達により、1000から2000へ兵力が膨らんだ。そんな中、下野で力を持つ田原藤太(藤原秀郷)は静観していた。



28話「坂東震撼す」

  武蔵は、田原藤太(藤原秀郷)に山中で助けられ保護されていた。武蔵を探す季重は旅中に盗賊を切った。この盗賊達は足柄の手前で貴子の乳母殺害、貴子を陵辱した上で都の人買いに売り飛ばした者達で、義賊の季重に感心した鹿島玄道は、坂東に連れ立った。
  田原藤太を味方に出来なかった良兼たちは、兵が倦み疲れ不平が出たため、仕方なく南下。斥候に出た将門は道中に良兼軍が近いことを知り、長く伸びた良兼軍を、沿道の片側から伊和員経の隊が矢を射掛け、もう片側から将門軍が襲い掛かる。貞盛は将門の奇襲と知ると、さっさと逃げ、玄明の急報を受けた三郎(将頼)三宅清忠は手勢を率いて後詰。良兼軍は下野の府中にある豪族の館に逃げたが、2000以上に膨れた軍は僅か100に減っていた。
  将門は館を取り囲んだが、三郎・三宅清忠・玄明の反対を押し切って出口を開け、良兼たちを逃した。これを鹿島玄道とともに観戦していた季重は、将門の度量の大きさに感嘆した。



29話「脅える都」

  将門は鎧のまま三宅清忠伊和員経だけ連れ、下野国府に赴いた。平一族の威勢と私闘の展開に苦々しい大中臣全行は、威厳を示して将門を政庁に待たせ、重々しく登場。京を思い出した将門は直答で謝罪と説明をした。その公明正大で筋の通った態度に役人は感動し「坂東武者の頭領になられる方」と賛辞を送るなど、坂東での将門の人気は絶大となり、三郎(将頼)と伊和員経が訪れる客の多さに、館の新築まで頭を痛める程。内輪と民人とだけの宴にしたがる将門に対し、羽生の多治経明や相馬の文室好立等は、勝手に押し掛け将門の弟分と名乗る。
  一方、京の公家は強すぎる将門を恐れた。藤原忠平は将門を都に呼び寄せ、子高は「都にあれば料理は思いのまま」と言う。源護良正もようやく裁判の願い出が受け入れられたと安堵したが、片目を失い病床の長い源扶は荒れて大暴れし、良兼も上総に戻って引き篭もった。
  純友が瀬戸内海の貢船を襲うため、山陽道・九州は航海不能。山陰・琵琶湖の貢は品薄で、北の坂東について純友は将門に期待し、海賊対策として忠平は船団を組んで護衛をつけた。



30話「遊女姫みこ」

  将門に惚れ込んだ季重は、将門を弟・季光の仇として付け狙う気は消えていた。
  海賊を恐れて貢船が出なくなった憂さから、日振島では出自を誇る紀秋成と、それを嫌うが海賊同志で喧嘩をしていたが、護衛船が出ると、藤原恒利千載美濃螻蛄婆が海賊による被害者を装い、先頭船を誘導。後続の船団も芋づる式に捕えた。働きのあった者が分け前を取るべきと主張する恒利に、純友は留守の者にも与える事が理想の実現に繋がる、と説得した。
  京に着いた将門は、忠平の屋敷でまた高飛車な門番に呼び止められたが、今や将門は有名だった。しかし子高は暗に進物を要求。将門は否応なく源護佗田真樹との進物合戦となる。
  将門は闇夜を賊に襲われた。再会した興世王は、賊達は先年、将門に斬られた皇族・貴族の子息の仲間という事になっているが、都には将門の名声を面白く思わぬ者もいると忠告した。
  将門は貴子の家が全焼した事を知る。貞盛の命令で、同じく焼け跡に来て衝撃を受ける侘田真樹もいた。そんな将門に玄明が教えたのは遊女宿。そこで貴子は遊女に変わり果てていた。



31話「竜と虎と」

  玄明貴子の不遇を京に潜入中の純友に話すと、純友は進物合戦に費用がかかる将門の代わりに身請け料を出した。良子を愛する将門は貴子の処遇に窮したが遊女に戻す事も出来ず、佗田真樹は遊女の身に堕ちた貴子が、将門の京屋敷に居ると忠平館の奉公人に聞いた。
  裁判では高飛車な役人も、将門が詮子の誘い文を証拠として提出し、己の非も含め堂々と事実を述べる態度に、大使坂上はじめ皆が真剣に耳を傾けた。先年の海賊退治で一人だけ生き残った将門が純友と通じているという噂を忠平がじかに確かめると、将門は純友を友だと認めたが、自分に一番大事な坂東を冒すなら、友であっても戦うと述べ、忠平の信を得た。
  忠平の家司の再就任を願う大中臣康継を、純友討伐に失敗して当分その機会は無いと、子高は追い払った。そんな康継が、京の町で変装した純友を発見。康継と子高が急行した時、純友が貴子を救ってくれたと知った将門も、玄明と供に純友に会いに向かっていた。



32話「裁きの春」

  純友将門の再会はならなかった。格下の従五位下・伊予守任官を引き受けた紀淑人は、処世派ではないが秀才として名高く、海賊の代わりに民を処刑する手法を伝授する子高に対し、「和をもって制する」考えを述べ、忠平の了解を得た。純友は強い警戒心を覚える。
  佗田真樹は将門を訪ね、貴子への面会を申し入れた。将門も貴子の口から「貞盛でなく将門を選ぶ」と明言するよう頼んだが、なぜか貴子はこれを強く拒否した。
  将門が再会した小野道風は、無能な公家が自分の影に怯え、都を追い出される事を恐れていると指摘。京に嫌気が差し、坂東に下る心積もりの興世王の予告通り、半年かかった裁判の判決は、騒乱の咎はあるが反逆ではないとして、将門も源護も大赦によって無罪。が、源護には「将門に罪を負わせようと嘘の訴えを起こし、政府を欺いた」と強い叱声が追加された。
  将門が菅原景行の頼みを受け、火雷天神の多冶比の巫女に勧進して分祠を受け、帰途に着こうとしている時、良子は将門の嫡男(豊田丸)を出産した。



33話「凶兆」

  坂東に帰った将門良子の生んだ赤子を夢中であやした。伊和員経の報告から貴子の同道を察した良子の配慮で、三宅清忠に預けられていた貴子も豊田館で暮らした。
  紀淑人は伊予に到着するや、いきなりを選んで純友に伝言を頼み、「辞表は受理されてない、純友は未だ伊予の掾」と言い出し、「海賊討伐に協力せよ」と純友宛の宣旨(帝の発言)を読み上げる。これに紀秋成は這いつくばり、くらげ丸大浦秀成は無関心と見事な対比に割れた。
  さらに紀淑人は、海賊に所領を与え、生産に必要な経費を貸し、「貢が全く届かないよりマシ」と笑った。この懐柔策に、国家を追い込む作戦だった純友は一時の挫折を認め、「国家の無能さはいつか現われる」と、裏切り者を裏切り者と見なさぬよう、海賊の首領達に申し渡した。
  一族との争いへの憂いから病がちの将門の母は、貴子を引き取った良子に同情した。その母を、良兼良正への協力を拒否している良文が、戦乱から遠ざけるため預かると申し出た。



<コメント>

前回も出した、将門の乱の合戦一覧を出しましょう(^^ゞ。

承平の乱
・野本の合戦
・川曲の合戦
・下野国府の合戦←今ココ
・子飼い川の渡しの合戦
・堀越の渡しの合戦
・服織営所の合戦
・石井営所の合戦
・信州千曲川の合戦
<天慶の乱>
・常陸国府との合戦
・下野国府・上野国府の攻略
・下野国境の合戦
・北山の合戦

貞盛はついに裏切り……つまり良兼派に寝返り(っつーか投降だなアレは(^_^;))。。
しかし三たび、将門は圧倒的な勝利を果たします! これで将門の勇名は決定的となりまする〜っ!

略奪して来た良子が「子供の頃から小次郎兄様が好きだった」と言ってくれるシーンも好きでしたが(笑)、ちょっと地味ながら、今回の下野国府で申し開きをする将門に、居並ぶ国府の役人たちが感動してしまう場面もイイ感じです(^^)。

根が素直なお坊ちゃん風の大中臣全行が、権威を示そうと精一杯に虚勢を張る若造国司ながら、将門の武勇と思慮を「坂東の頭領となられる人だ」と賞賛するシーンに、ちょっと先の話かもな〜(^^ゞと思う事も、さりげなく提示してて、滅多にやらない時代を扱ったドラマとしては気が利いています。

将門の乱の後も坂東平氏は、一族同志の摩擦が続きますが、やがて頼朝にいたる河内流源氏が地場を形成するに到り、彼らが坂東武士の心をゲットしていく過程とは、この回で将門が期待されている点を学習し吸収する時間だったとも思うからです(^^)。

鎌倉幕府の創出は200年以上も先ですが、騒乱の裁定に相応しい主導者が現われて欲しいという望みは、その予兆が既に将門の時代には始まっていたと見て、そう行き過ぎた見方とは思えないのです(^_^;)。

ずっと後になりますが、「将門記」には「将門書状」というのがあり、そこに「将門記」の作者の主張とはちょっと異なる、将門自身とされる主張があり、そこには中央政界による政治判断の不味さ(見ようによっては陰険さ)が現われているのです(^_^;)。。

つまりドラマでは、原作では今イチ弱い、「坂東における主導者とは、遠い京で泰然としている貴族ではなく、坂東を知る武者でなくてはならない」という点が描かれているのが、この辺りなんですね(^^ゞ。

そうした点、大中臣全行は都の貴族やそのお追従連中と似てるようでいて、武勇や筋の通った度量を目前にすると、新任でも土地に来れば共感できる点だったのかもな〜と思える点です(^^ゞ。真面目な人もいた、という事なんですよね(笑)。

また将門へのそうした評価が、京と坂東では微妙に分かれる辺りも、上手に描いてるように感じます。
実際その後の将門を取り巻く状況には、どうも東西に温度差があったようにも思え(^_^;)、つまり中央に上手く取り入る者達と、将門を立てたがる坂東諸国の者達の間には、何か擦れ違いがあった感じもして仕方ありません。

また、そうした京の都の事を、西国の純友はストレートに糞ミソに言うわけですが(^_^;)、そこまではまだスレておらず、一応「国家」(そしてその代理たる自分の立場)を信じるという感じも、下野国府の場面に、よく現われていると思います(^^ゞ。

今回から登場する多治経明や文室好立は、いかにも「将門人気に乗じて」出て来る感じですが(笑)、これが案外この後も長く出て来る豪族で、後に将門主導で行なわれた坂東八ヶ国の8国司に含まれています。

ただ、今から言っておきますと、「新皇即位」は原作では肯定されてますが、ドラマでは「徹底的に否定」されてまして、よって8国司の任官もハッキリと否定されてる事を先にお断りしておきます(笑)。

原典「将門記」では、8国司の任官は以下となっています。

下野守=平将頼(将門の弟)
上野守=多治経明(常羽御厨の別当)
常陸介=藤原玄茂(常陸掾)
上総介=興世王(武蔵権守=権守は国司の代理的立場)
安房守=文屋好立
相模守=平将文(将門の弟と言われる)
伊豆守=平将武(将門の弟と言われる)
下総守=平将為(将門の弟と言われる)
<県(今)国(昔)対照表>

ざっと見た感じ、「北から南」に国名を書いていった感じがしますが、その割に「安房・相模・伊豆」が上に来て、「下総」が一番下という配置なのはいいとして、「伊豆」が入ってるのに「武蔵」は却下されているという妙な図式です(^_^;)。

まず下の三つ「相模」「伊豆」「下総」から取り掛かると、「下総」は将門の本拠地だから、「事実上は将門が統括してた」と一応の所は考えてみます。

「相模」「伊豆」については、後に将門の言う「足柄峠」に近い所なので、戦略的には重要だったと思いますが、将門の親族が冠されており、この弟達も色々無くは無いんですが(笑)、とりあえずは選挙区で人選につまった時、強い地盤を確保してる政治家の縁類を持って来る構図みたいなもの、という感じでこの局面は流させて貰うです(笑)。

何と言っても、「将頼(三郎)と将平(四郎)いがいの弟は、ドラマに出て来ないから」を、ここでは最大の理由とさせて頂くザマス(核爆)。

次は「上野」。ここは「下野」との地名の連判上、最初に上げられたのだと考えます。
上野は東山道に上る起点(京に一番近い所)で、やはり後に将門の言う「碓井峠」に近いのですが、将門側から見れば、下野のついでに制覇したに過ぎず、新皇に推薦する巫女が出るあたり、気分的にも将門に好意的だったかもしれない事、又、このあと「追討官符」が発布された折、記されるのが「武蔵・安房・上総・常陸・下野」でして、ここで「下総」が入らないのは当事国だからでしょうが、ここでも「相模」「上野」は入ってないので、今回の選からは外します(^^ゞ。

さらに「安房」。将門の縁類がついてない所を見ると、何か意図ある場所かもしれないですが、もしかしたら将門の弟の数が尽きただけかもなので、「ついでに却下」させて貰うです(笑)。

すると残りは「下野」「常陸」「上総」ですが、「下野」は将門の戦歴で2度は登場する国ですし、ここから出た豪族、藤原秀郷(田原藤太)によって将門は敗死に至るのだから、将門の側にも重要性を認識してた可能性も無いとは言えない(原作とドラマではそこに重点を置いて話を展開している)、としときましょう。

そして、さらに残った「常陸」「上総」。ここが肝心に思えます。
この二国だけが「守」でなく「介」になってる点が気になるからです。

まず、08〜13話でも述べた如く、「守」が上、「介」はその下に列する官位ですが、実質的にどれほど差があったのかは、私に述べる能力が無い事を先にお断りしておきます(^^ゞ。

また、写本だから書き間違いがあったとか、原文に欠損があったとかまで言うとアレなので(笑)、取りあえずは将門主従の「意図」か、或いは「将門記」の作者の意図に限定しますね。

海音寺潮五郎は、将門(およびその陣営)の事を「驚くべき錯誤」としていて、その理由をだいたい、「親王任国たるこの二国に『守』でなく『介』を配するのは、実質上は『守』たる親王ではなく、『介』が取り仕切る業務上の理由であって、それを踏襲する必要はない」といった論調で、「有能な人が居なかった証拠」と、この辺りを通り過ぎてます(^_^;)。。

誤りとは言わないです。十二分に有用な根拠(か深い考え)を裏に秘めながら、端的に片付けただけなのかもしれないです。その場合は、ご容赦願います。。。
また「無能」は実際そうだったのかもしれないですしね(笑)。

そのせいなのか、原作ではもう一つ「親王任国」である「上野」にも、「介」と書いてあるんですね(^^ゞ。「将門記」の作者の誤字を、踏み込んで訂正しといた、という事なのか……。。

原作にはドラマに描かれない大量の知識が投入されてまして、私自身「とてもタメになる(^^)」と大層喜んで読みました。
例えば、今回ついに遊女に身を落としてしまった貴子ですが、原作ではこの悲劇を描く前段階に、ドラマの時代は61代・朱雀天皇ですが、その前の59代・宇多天皇が、51代平城天皇の四世の王女が遊女になっているのを知って憐れむ話などが書かれてまして、当時の世相が説明されているのです。

が、この頃この部分のみネット上に喧伝され、万が一原作者の見当違いだった場合、この一事で評価されるのも〜と思うので、敢えて言いますと(笑)、将門のそれまでの戦歴を見れば、まさにこの「常陸」「上総」を相手に戦っていたわけです(^_^;)。。

「戦で隷属化した国だから貶めてやる」、あるいは逆に「戦で痛めつけた国だから、自分の配下からは『介』だけを出し、親王任国だった点も重んじて、やがて『守』を招こう」という考えだったのかもしれないですよね(^^ゞ。
例えば、こうして「守」を空けておけば、「そこに自分が入れるのでは(^^)」と期待する人も出て来るかもしれないじゃないですか(笑)。

語感の問題に過ぎないんですが、「錯誤」で片付けると、ここに何ら特別な意図が(それが例え幼稚な動機や、外見的には判りにくい確執の結果であったとしても、それすら)無かった、と受け取られる事を思ってみました(^^ゞ。

さて、同じく八ヶ国に配属された多治経明・文屋好立については、ドラマでは多治経明を「羽生御厨」・文室好立を「相馬郷」のそれぞれ豪族としてました。
多治経明に関しては、「将門記」で「常羽の御厨の別当」とされていて、この「常羽」が「羽生」という事なのだろうと思います。

文室好立の「相馬郷」に関してはちょっと判らなかったですが(^_^;)、原作でもこう書かれてました。
ちなみに原作では、この「相馬郷」には、後に将門の弟、三郎将頼が入って治めてました。

相馬と言えば、後に千葉氏から分家した相馬氏を思い出します。
この千葉氏は、ドラマでは将門の「良い叔父さん」的な「良文」から出ていまして、相馬氏が出たのは、源頼朝が幕府を興した頃の千葉氏当主・千葉常胤の次男からです。平氏系図

ちなみに、この「良い叔父さん」として描かれる良文については、原作とドラマでは「すこぶる大きな違い」が見られます(笑)。

原作では将門と敵対とした良兼陣営に加わり、良兼や良正よりは屈強な戦術・戦力を有する強敵として登場しますが、ドラマでは、言葉の上では「中立」ですが、それだけでも敵の多い将門にとってはありがたい親族、という感じに出て来ます。

今回33話「凶兆」に出て来る「将門の母を預かる」段など、その最たる違いでして、原作になると将門の母は、良子や、ドラマでは登場しない何人もの弟達と、お話しの最後まで行動を共にしていて、良文の関与は全くありません(^^ゞ。

が、この良文から出た千葉氏、そして千葉氏から出た相馬氏は、鎌倉時代から東北に分家を送り、それが後の戦国時代にも名を現して来る相馬氏で、今にも伝わる「相馬野馬追い」の家として有名です。
この「相馬野馬追い」が「将門以来」と銘打たれるのは、相馬氏が「将門の子孫」とされている事に由来します。

私個人は、相馬氏自身が「将門の直系子孫」と主張してる物に出会った事がないです(^^ゞ。
将門の生前や何代も下ったなど諸説(諸系譜)あるようですが、いずれ「養子」だった背景が伺えます。
しかし将門の生前中に、将門が良文を養子にしたとか、逆に良文の養子に将門やその子がなったとか、そういう細かい点になると、現時点で検証の仕様があるのかどうか……(^_^;)。。

史料的にどうか知りませんが(^^ゞ、鎌倉時代、北条時頼(五代執権)が千葉氏に将門の慰霊を許可した、という土地の伝承をこないだ見ました。
さらに、将門の最初の本拠「豊田館跡」には、将門の娘が良文の子・忠頼に嫁いで、忠常を生んだ系図が書かれてました。史実としては何とも言えませんが、この忠常は後年「平忠常の乱」を起こした叛逆者として有名で、千葉氏・相馬氏の先祖にあたります。

これらの事が全て、かなり後世になって付属した主張なら、その時に何を根拠にそうしたか、という視点で解明する必要がある気がします。

相馬氏と将門の関係を否定する材料が、「将門人気にあやかった」とか、「芸能のモチーフに将門伝承が用いられている」事のみに限定されるのは、つまり江戸時代かせいぜい室町時代に作られた虚構という事なんでしょうけど、すると、現代人が自分の子供に、思い入れのある芸能人の名前をつける、みたいなもんですか(^_^;)。。

ただ将門自身が「相馬」を名乗ったという事なら、後世付会の可能性も考えて良いと思います。
ちなみに将門が相馬氏を名乗ったとされるのは、「常陸大掾譜」なんかあるようです。
「大掾(官位か職名)」なのか、「大掾氏(姓氏か苗字)」なのか知りません(^_^;)。後者ならば、貞盛の弟・繁盛から出た家に同姓があると思います。

まず、どの時点で養子になったかは置いといて( ^^)//
普通に相馬(地名つまり土地)と将門の関係に焦点を絞ると、将門は下総に住んでました。どの範囲まで領地だったのかは判りません。

で、相馬も豊田も石井も取手も下総ですが、将門が居館を構えたのは豊田と石井でしょう。
また「将門記」には「栗栖院常羽御厩」が出て来ますので、それに「羽生」が相当すると言う事なら、ここは何らか勢力範囲に含んで見ていいと思います(^_^;)。

次に「将門が相馬御厨の下司だった」という点について、これも諸説あるように思います。
「相馬御厨の成立および継続的確定は将門の時代より後」という事なら否定しないんですが、「相馬」という地名じたいが将門の時代に無かったわけではありません(汗)。。

「相馬」という郷名については、律令の頃から在ったようです(^_^A)。「将門記」にも将門を主体とした王城建設に絡んで、この地名は出て来ます。
なんとな〜く地図を見てると、良将があてがわれたとも言われる佐倉あたりから、 将門が住した豊田や石井にいたる間に相馬があるから、だんだんと北に進出していったと考えれば、相馬もアリかな〜とは思います(笑)。

が、「御厨」の成立(確定)は平安末期か鎌倉時代ではないか……と私は思ってたんですが、土地が良文の系譜の領地となったのが、良文の孫の代あたりから、とか推測されていて、何故そんなに早い時期に遡れるのか根拠が不明です(^_^;)。。
良文の孫・忠常が房総で「平忠常の乱」を起こしてるから、という事じゃないかとは思うんですが……。。

相馬御厨をめぐって、千葉氏がほうぼうの勢力と凌ぎを削っていた事は、わりと知られているようです(私は全く知りませんでしたが:爆)。それはもちろん、相馬を御厨として承認されたい、つまり自分の支配領域として永続的に権利を主張したいからです。

千葉氏に至る前にも、房総の良文流には上総氏もありました。
両氏ともに子供が生まれるたびに地名とおぼしき苗字をバンバン名乗らせ、それだけを見ると、確かに千葉県じゅうの地名が瞬く間にこの一族の子孫で埋まったな〜とは思います(爆)。
そして「相馬」という苗字も両氏ともに出て来ます(^^ゞ。

だから、相馬という地についても「自分達のモン(^^)」にしたのではないかと思います(笑)。
それと「将門子孫」とした経緯は関係あるのか……つまり土地をゲットするのに「将門子孫の名乗りが都合が良かったから」なのか、それとも宗家の千葉氏や上総氏と同じ良文流である事が、何らか不都合になったのか(急遽他の先祖を持って来る必要があったとか)なんて事も考えられますよね(^^ゞ。

それとも全く関係がない……例えば「将門よりもっと前から」とか「将門を征伐したから、遺領が貰えるハズだったのに〜」なのか、そこを知りたいわけです(^_^;)。

で、どうも、後者にやや近い説ならば見た事はあります(^^ゞ。
良文が将門の乱に、将門の敵側勢力として何らか関与していたという説ですね。あと、平安末期から鎌倉初期にかけての千葉氏の当主・千葉常重と常胤は「良文の代から自分達の領地だった」と言ってるそうです。千葉氏と上総氏は途中までは良文流という点では同族です。

いずれにせよ、後世から遡って将門が「相馬」とされたのならば、それはなぜか……。

現代は少子化ですが、私の親や祖父母ぐらいになると、兄弟が沢山いる事が多く、叔父さんや叔母さんを名前そのものでなく、住んでる地名で呼ぶ事が多かったです(^^ゞ。
つまり結婚すると、本人の名前で呼ぶ事がなんとなく憚られるからです。お嫁さんやお婿さん、その実家の親族を無視してるようではありませんか(^_^;)。

冗談は置いといて(笑)、よく苗字の起こりを見ると「■▲(地名)に住んで■▲(地名通りの姓)を名乗った」という記述を見掛けます(^^ゞ。
昔は伴侶への気遣いよりも、同姓が増えてややこしいから、というのもあったと思いますが(笑)。

で、ドラマでは「豊田の小次郎」と言ってます。私はこの辺りが妥当じゃないかな、と思います(^^ゞ。
石井に行ってから先は呼び方が変わったかもしれませんが、それでも親族の間ではウッカリ「豊田の」と言う事もあったかもしれません(笑)。

しかし、だからと言って、「豊田が将門から興った苗字」とまで言うと、ちょっと堅苦しく限定しすぎに思えます(^_^;)。。
だいたい「豊田」を姓にしたのは、貞盛の弟・繁盛の子孫から出た豊田氏なので、ややこしいと思うです(爆)。
(ちなみに豊田氏は平氏系図では割愛されてますが(^_^;)、繁盛−維幹−為幹−繁幹の後に「清幹」と並んで「政幹」という人が出てまして、その系譜からです(^^ゞ)

ただし、ついつい「怪しい」とか強調したくなる気持ちも全く判らないではありません(笑)。
なぜなら、良文から千葉氏に至る系譜に「ありゃっ?」と思う物もあるのは確かだからです。
例えば、「信田(篠田とか信太)」ってのは何なのかワカランですたい。。(ちなみに信太は常陸の地名です)
そして(話は長くなりましたが)、良文から千葉氏に行くまでに「経明」という名が入ってるパターン(^_^;)。

どうなんでしょう、これ。やはり「多治経明」でしょうか。。

ドラマでは、「将門の豪勇を慕って、勝手に弟と自称している」と処理してました(^^ゞ。
文室好立についても同等でして、これはなかなか上手いと思います。
系譜に混じる「経明」と、後に縁付く事になる「相馬」の両方を、ポロッとこの辺りから合体させてるんですね。
「土地も地名もあったが、将門以外の人が住んでいた」という解釈ですね(^^)。

歴史ドラマを描く上で、伝承とか系譜とか、「史実としてはちょっとどうかな」と思えるモチーフでも、英雄伝として除き難い部分を繋げる工夫は重要だと思いますが、これはいいアイディアですし、お手本になる遣り方だと思いました(^^)。
話全体の流れからも将門が、一族の中ではともあれ、坂東の中では孤立無援ではなくなってきて、下野国府の役人や多治氏や文室氏など、地域の豪族や近隣国府と誼を通じるタイミングに合ってますし。

また将門の乱は、一つ一つの合戦地が、なぜそこで行なわれたのか考えるだけで頭が痛くなりそうです(汗)。

例えば川曲の戦いの後、将門が圧勝した下野国府付近での戦い。これがなぜ下野なんかで行なわれたのか(^_^;)。
この辺りを、将門主従が「評判の悪い季節外れの大軍(前回お話しした通り、ドラマでは「農繁期の戦争はタブー」という考えを取り入れてます)を起こす良兼が、将門の首を取るだけでは勘定にあわないと思ったんだろう」と言い合うシーンも気が利いてます。

ここで会話に参加してる三宅清忠は、実は原作では将門を反逆に加えるべく純友の使い走りになってるんですが、この辺りの人脈構図は原作にはないオリジナルの味が凄く良く、三宅清忠もドラマでは原作を大きく逸脱して、将門軍の頼もしい主力として活躍しています(^^)。

ここに至るまでに、三宅清忠や三郎、鹿島玄明など、一緒になって「グフフ(=^m^=)」とか敵陣営を笑い飛ばす人間関係がよく描かれていればこそ、こういうシーンで「だよね〜(笑)」と思えるわけですし、後に「錯綜してしまった多くの事柄」が、「こんな日常から出て来た会話が、後に伝説として派生した結果」と自然に思えるのです。

そして原作では「野本の戦い」で戦死(か戦病死)してる源扶が、片目を失いながらもドラマでは復活です!
扶(たすく)は「野本の戦い」が原因で死亡したのではなかったのでしょうかっ(笑)。
ちなみに原作では最初の「野本の戦い」で、扶は二人の弟と一緒に死んでます。

なので、ここだけ、ちょっと原典たる「将門記」の原文を洗ってみましょうか(^^ゞ。

「城主のたわごと」(2008年9月)にも書きましたが、扶たち源氏三兄弟が戦でどうなったのかが書かれるのは、「野本の戦い」の次の「川曲の戦い」が始まるに及んで、です。
つまり「野本の戦い」ではどうだったかわからないんですが、次の「川曲の戦い」までに「という結果になった」という具合に書かれます。
「川曲の戦い」で将門に挑んだ良正の目的が、「前の戦いに対する恨み(仇討ち)から」と書かれるからですね(^^ゞ。

原文
「護常嘆息子扶隆繁等為将門被害之由」
書き下し
「護(まもる)ハ常ニ息子扶・隆・繁等ガ将門ノ為ニ害セラルルノ由ヲ嘆ク」

「将門記」では、三人とも「害せらるる」となってます。
ビミョーな所ですが(笑)、だいたい普通は、これが「殺された」と解釈され、「戦死」あるいは「戦病死」と判断されてると思います。

この「ビミョー」な違いを使って、ドラマでは扶を生かして再登場させているわけです。
細かく言えば、「隆(たかし)や繁(しげる)といった弟達は殺されたが、長男の扶(たすく)は目を負傷して病床についた」という解釈にしたワケですね(^^ゞ。その後も片目に眼帯を装着して登場しますので、「不都合な体にされた」という解釈でもあるのだと思います。

さてさて、32回「裁きの春」をもちまして、裁判に勝った将門は再び坂東へ(^^ゞ。
将門がの上洛はこれが最後で、前回の上洛で知り合った小野道風や興世王とも再会してましたが、後に純友征伐に名を上げる小野好古は、ドラマに登場しませんでした。

原作「平将門」にはチョイ出するのですが、純友については今「海と風と虹と」を読んでまして……初段三分の一まで水増し感が強く、「平将門」の特に前半を読む時のようなスピード感に乏しく、スラスラ読み進んでませ〜ん。。

作者ご本人は「平将門」を書いてから純友に関心を持たれ、列伝形式で両人とも取り上げた後、純友を主役に「海と風と虹と」を書き上げられたとの事ですが、純友に関する史料が少なすぎるのか、将門のような民間伝承や逸話(後付にせよ)もあまり多くないのか(^_^;)。

また将門は、彼を討伐した(り密告した)面々が後に子孫が東国で大勢力を築き、さらに200年以上の月日を経たとは言え、鎌倉幕府成立という軌跡に繋げると、将門の乱が良くも悪くも出発点になったと見れるのですが、純友はそういう面に難しいのか……(^_^;)。。

取り上げるべく腐心された原作者やドラマ制作側に敬意を表し、この純友役を、他の役者では不可能にすら思える好演で支えた緒方拳さんのご冥福を、謹んでお祈り申し上げますm(__)m。

以上、2008/10/12