<2002年・城主のたわごと9月>




亭主の気まぐれから始まった意外な旅行(^O^)!

あくる朝の養老渓谷の紅葉は素晴らしかった〜♪




     
 

もう9月だなぁ。前回の「たわごと」を書いてから、もう1ヶ月も経ったのだ。
嗚呼……。

いいや! そんな覚えは全くないゾ(>O<)! 1ヶ月も経ったか?! 一週間ぐらいしか経過してない気がする! *キィッ!*

などと時間の早さにひたすら驚く今日この頃である。
……さて、続きを書くか(しくしく)。

途中ちぃと渋滞に巻き込まれはしたものの、養老渓谷までは道にも迷わず到着した。夜の7時ぐらいにはなっててちょっとお腹が空いてもいたので、旅館街の道路脇にある旅館案内地図板の近くに車を停め、二人して見ながら「前に泊まったのは……」などと懐かしく探し始める。
亭主は前に来た時、宿を手配してくれたのでよく記憶していた。

「あそこは温泉が無かったけど、今日は温泉に入りたいね」
「高くないかなぁ(^_^;)」
「聞くだけ聞いてみよう」

こうして目ぼしそうな旅館に入って、オズオズ値段を聞くと……、
「はい温泉でございます。一泊1万三千円。夕食ならすぐ手配します」との答♪
しかし私は「旅館に入ってみただけで、何となく旅行したような気分になれたじゃな〜い? さっ、帰ろっ(#^.^#)」と思った。が、亭主は意外な言動に出る。
「じゃ、お願いします」

「えーーーー! 1万3千円よー(>O<)!」と私。
「たまにはこれぐらい」亭主。太っ腹である。
案内された部屋に入り、私は、
「二人で2万6千円(>O<)!」と小学一年生の算数を叫んだ(笑)。

亭主はそこでピクッと反応。
「一人分の料金だったのか!」
「キャーーーーッ!(>O<)」

ま、いいか。これでお腹ペコペコも解消され、そして……温泉にも入れる(^_^;)。
養老渓谷の温泉には、上に書いた通り今回が初体験っ♪ ルンルンルン〜と入ったら、これが薄い白濁色で肌触りが滑らか〜(^^)。中でオバチャン達と話したりして(地元の人達だろう)、楽しい入浴タイムを終え、夕食もさすがに豪華で、かなり満足の内に就寝タイム〜♪

「明日はどこ行こっかなー」と久留里城で買った本を読んでみると……。
「あーーー、お城(久留里城)の史料館で読み飛ばした話が載ってる〜!」
そう。私は駐車場からお城に続く急な坂道で血の気がどうにかなって、史料館の展示物説明をほとんどちゃんと読めなかったのだ。
しかしそこで購入した本には、読み飛ばした内容が書かれてあった☆ミ
そしてそれは……『世にも奇妙な物語』とも言えた(^^;)。

久留里城は浦田城とも呼ばれ、地方に伝わる『久留里記』によると……。
平将門は"おもが池"で、かぐわしい香りを漂わせる美女に出会った。かたわらの木の枝には羽衣がかけてあったのでそれを奪うと、美女は驚き「春の若草の美しさゆえ仮に舞い降りたものの、羽衣が無くては帰れないから返して下さい」と頼んだ。が将門は返さず、天女の手を引っ張って自分の館に連れ帰り妻にした。

十年の歳月の内に将門と天女の間に、一男の千葉、二男の相馬、三男の東少輔(とうのしょうゆう)が生まれ、天女は羽衣を取り返して帰ってしまったので、将門は妙見菩薩とあがめ、千葉・飯高・印西・周西・浦田など6ヶ所に妙見社を建立した。

三男、東少輔頼胤が浦田の妙見に参詣し城郭について祈ると、夢に「浦田の峯に城郭を構え、久留里と名付けなさい」と教示があったので人をやって居城を作り、自分も久留里左衛門頼胤と称した。

久留里城は3日に1度づつ雨が降り、それが21度に及んだので「雨城」と称され、今日では「うじょう」と呼ばれるが、古くから久留里南部に「甘木」の地名が認められ「安万支」とも書かれるので、元は「あまき」が語源と推測される。

やがて将門は朝敵の立場になり、藤原秀郷(俵藤太)と平貞盛の奇襲を受けて、下総豊田近い北山に倒れ、久留里左衛門(東少輔)頼胤も降伏して望陀の久留里館に住んだ。子の清胤、孫の竜胤とつづき、この竜胤のとき、同族の千葉氏との領地争いに負け、姿を消したので、久留里城は俵藤太の末孫の秀国が城主となり、子の秀光のとき近江に国替えとなる。秀光が父秀国の供養のために建立した宝蔵院は現存し、近くには俵田邑(むら)もある。
(『久留里城誌』/久留里城再建協力会著より)

実はこの伝説、その一端が前に図書館で千葉氏の話を読んだ時も見掛けた気がするけど、3人も男の子が居たっけな(^^;)? 特に三男の東少輔というのは見た覚えがあるような無いような……。こないだ見た相馬館跡が次男の家系である事は疑いようがないが、今日行ったばかりのあの久留里城に「謎の三男」がおったとは……(汗)。

誤解を招くといけないので補足すると、これはあくまでも土地の「伝承」で、私の知る限り、将門の直系は相馬氏として存続はするが、7代目に千葉氏から養子(師常)を迎えており、この千葉氏自体は将門の従兄弟から出ている(ハズである)。だから、将門の長男とか次男とか三男とかいうのは、あくまでも伝承(っつーか神話だな。天女や妙見が母だってからには(^^;))である。

しかしこの師常の弟に東胤頼なる人物が出ているのは確かだ。また前回の増尾城の看板によると、師常の死亡は元久二年(1025)との事だったから、将門が敗死した天慶3年(940)から85年も経っているものの、何か関係のある人物が居たという事だろうか?

亭主も温泉から上がって部屋に帰って来たので、私は、
「明日もう一度史料館に行って確認しようと思った事なんだけど、この本に書いてあったのー♪」
とウキウキ話した。亭主はもともと養老渓谷に惹かれて来たわけだから、
「じゃ、明日は思い出の養老渓谷巡りでもしようか」
などと何となく話はまとまったようなまとまらないようなノリのまま、その夜は寝る。

翌朝。……起きてビックリ!!!
部屋から見える屋外の辺り一面、物凄い紅葉に包まれていたのである!
「きゃーーーー(*O*)!」
前夜は夜に到着したため、こんな風景に囲まれていたとは全く気付かなかった。
正直言って私は、自分の家の周辺でこれほど見事な紅葉って見た事が無いので、色合いの鮮やかな紅葉は千葉県には無いのだろうと思っていたのだが(そんなワケはないか:笑)、まるで信州あたりで見るような素晴らしい彩りだった。
また宿から見える真っ赤な二連の渡り橋が紅葉に映えて一層美しく、早朝には立ち込めていた霧が晴れるに従って、気分はすっかり旅行気分一色に染まった(#^.^#)。

朝食を食べ終わり、ロビーで付近の散策地図など貰ってイソイソと宿を出たが、こうなると私は、
「せっかくこれほどの紅葉だから、きっと久留里城に行っても綺麗に違いない」
なんて夢想に始まり、例によって例のごとく(笑)、唐突に以下の妄想が芽生える。
「城山で死ぬのが日本人の本懐だっっ!」(←なぜ死にたがるのかは自分でもよくわかりません、はい)

以後、渓谷巡りもどこかセカセカと巡り、さらに源頼朝も参拝したという地元でも霊験あらたかで知られる出世観音への道のりも、何となく急ぎ足となった。

ちなみに出世観音には「頭痛守り」という変わったお守りがあった。ここでこれを買ってみた。
以来しばらく頭痛持ちの私が頭痛に悩まされずに済んだのは確かなので、効能は私が保証する(←誰が信じるワケ?)。と同時にこの時、セカセカと参拝した行為をちょっと申し訳なく思ってもいる。観音さま、スイマセンでしたm(__)m。

宿に戻って来ると午前はすでに過ぎようとしていたから、それから再び久留里城に向かってみる。
昨日の内に史料館は見たから、後は時間外で入れなかった駐車場の奥の売店にちょっと寄ってみよう(#^.^#)、とお昼の腹ごしらえも兼ねて建物に入る。

「あーーーー!」
入ったとたん私は狂喜の声をあげる。なぜなら食堂の壁に貼ってあるメニューには、堂々と「雨城そば」と書かれてあったからだ! 城や武将の名や合戦名さえついてれば嬉しい私は、
「わ〜い♪ これにするの〜〜〜(^O^)!」
「ワンワン!」
亭主は常に飼い主と同じ物を食べたがるから、二人して雨城蕎麦を食べたっ♪

さらに、食後売店巡りをする。正直あまり期待してなかったのだが、ここの売店がわりとスゴイ!
地元の物産品をはじめ、「久留里城饅頭」なんてのが売っていて、それが人形焼風で、形が天守閣なのである!
さらに感動したのは、史料館でも立派なお城の本が売っていたけど、ここの書籍コーナーが歴史マニアにはかなり嬉しい「地元ならでは(#^.^#)」の本がたくさん揃ってて、もぉもぉこれの中からどれを買おうか決めるだけで、長〜い長〜い時間がかかってしまった!(笑)

さらにもう一度城内に上り、やはり昨日は史料館を優先させて入れなかった天守閣にも入ってみた(#^.^#)。
お休みの日だったので、わりと観光客も多く、また期待通り紅葉が綺麗で、ウキウキしながら久留里城ふたたびの旅は終わった。

その後「まだ時間あるから、大多喜城にもう一回行ってみない?」といってみた。これは閉館に間に合うかどうかギリギリって感じだったけど、亭主は前回の大多喜行きで道がわかったから、他のルートを行ってみるか……などと乗り気だったので、行ってみる事にした(^^)。

<つづく>

2002年9月24日

 
     




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