「将門雑記(風と雲と虹と)」6(34〜39)
キャスト
平良兼=長門勇
詮子=星由里子
平公雅=高野浩幸
平公連=森井信好
平公元=佐藤健一

平良将=小林桂樹
平将門= 加藤剛
良子=真野響子
平三郎・将頼=高岡建治
平四郎・将平=岡村清太郎
伊和員経=福田豊土
将門爺や=日野道夫・その妻で元乳母=関京子
菅原景行=高橋昌也
三宅清忠=近藤洋介
鹿島玄道=宍戸錠
鹿島玄明=草刈正雄
多治経明=金内吉男
文室好立=大宮悌二
貴子=吉永小百合
貴子付きの老女=春江ふかみ
栗麻=神田正夫
桔梗=森昌子
子春丸=島米八

平良正=蟹江敬三
良正の妻=平井道子
定子=新藤恵美

平貞盛=山口崇
小督=多岐川裕美
平繁盛=佐々木剛
佗田真樹=藤巻潤

源護=西村晃
源扶=峰岸徹

田原藤太(藤原秀郷)=露口茂

藤原純友=緒形拳
螻蛄(けら)婆=吉行和子
武蔵=太地喜和子
季重=沢竜二

藤原忠平=仲谷昇



この回の関連レポートは、「城主のたわごと」2008年9月<良兼出陣「子飼の渡し合戦場」>後半からを(^^ゞ。

34話「将門敗る」

  連戦連勝で自信満々の将門の兵達だったが、出陣前に風に飛ばされた軍旗に動揺したまま、子飼い川で、高望王(将門の祖父)の木像を掲げる源扶良兼良正に遭遇。動揺を押さえ士気を鼓舞しようと、木像を射ようとした将門の弓弦が切れると、兵たちは我先に逃げ出した。
  良兼は慎重に将門への追撃を禁じ、撤退後、態勢を整え直した将門達が見たのは羽生御厨の炎上。家や田畑を焼かれた羽生の民達は、防御の手配りに欠けた事を詫びる多治経明に、むしろ経明が将門を兄と慕って味方したためだと恨みを述べ、将門を恐怖と憎悪の目で見た。
  敵に背を向けた事を恥じる兵たちに、将門は自分にも躊躇があった事を認め、皆は戦場に像を持ち出す敵こそ祖霊を敬う心が無い、と再起を誓い合った。豊田館でも良子が館の女たちに明るく歌わせ、逆に貴子が脅えていると将門に伝言。が、その貴子と老女は戦の多い坂東を恐れ、勝った貞盛を頼ろうと密かに旅支度していて、将門は男から男を渡り歩く貴子に幻滅した。
  負けた将門に、将門を持ち上げていた世間の風当たりも冷たくなった。将門は自ら周囲の豪族に与力か中立を頼んで歩く内、病にかかって炎天下に倒れ、桔梗たち村娘に助けられた。



35話「豊田炎上」

  将門良子の看病で高熱から回復。残る脚気の後遺症を内緒にして出陣。源扶良兼良正軍は、今度は将門の父・良将の画像を掲げた。良将以来の郎党を気遣った将門は、敵を引きつけ射掛ける作戦から騎馬で乗り込み良将の画像を奪う作戦に変更。が、脚気の将門は鐙に乗せた足に力が入らず、跨った途端に落馬。これを祖霊の祟りと勢いづく敵に将門は又も敗退。押し寄せる敵勢に、やむなく豊田を離れた。豊田館に古くから仕える爺やは号泣した。
  将門たちを助けたのは、古くから良将・将門を慕う栗麻桔梗父娘など、葦津江の民たちだった。将門と良子や貴子は、ひとたび落ち合い野宿して、将門の落馬は脚気が原因と話すと、主従は祟りではないと安堵し、良子や貴子は、将門とは二手に別れて闇の中を船で逃れた。
  豊田館は炎上。貞盛は将門の生死と苦悩を、良兼は娘・良子の身を密かに案じたが、扶が良子の安全を請け合い、戦地では良正が草の根を分けて探索・追撃を号令。良正は将門に与力した者を殺せば村人の命は助けると脅し、栗麻とその妻は息子たちを自ら手に掛けた。



36話「貴子無惨」

  良正源扶に捕らわれ脅迫された者の偽りの呼び声に、良子達は船を近づけ捕らわれる。良子は源扶の厚い保護で連行されたが、扶に「遊び女に身を落としながら、将門と貞盛の間を行き来するのか」と指摘された貴子は、貞盛との関係を否定し、兵達にただの囚人と判断された。
  山野に身を伏せる将門の元に、三宅清忠四郎(将平)が忍び、敵勢は重囲を解いたと報告。罠と見抜いた将門によって三郎(将頼)が急行した時には、良子や貴子の姿は無かった。
  足の弱い貴子に「馬を用意する」と、兵達は扶や良子を先に行かせ、貴子を連れ出し慰み者とした。螻蛄婆玄明の救出は間に合わず、駆け付けた貞盛の前で貴子は息絶えていた。
  桔梗など葦津江の娘たちも勝ちに奢った兵たちに弄ばれたが、栗麻率いる村人たちは、泥酔し寝入った兵たちから武器を奪って打ちのめして、村に柵をめぐらし要塞を出現させた。真意を顔色にさえ出さなかった螻蛄婆が、この農民蜂起の光景に涙を流すのを玄明は初めて見た。



37話「民人の砦」

  良子貴子の行方を案じ続け、良子に同情的な良正の正室も、夫に同族争いをさせる側室・定子ら源家姉妹を憎み、夫・良正に、良子を将門の元に返すべきだが、将門が行方知らずだから、良子の父・良兼の元に戻すよう進言。良子は良兼の戻った上総に送られる事となった。
  葦津江の民たちの案内で、伊和員経文室好立もやっと将門に再会でき、民たちは子飼い(子貝)川と毛野(鬼怒)川の間に一大要塞を作り、螻蛄婆鹿島玄道玄明季重とともに、柵に近付く繁盛侘田真樹・良正に、多勢に見せかけたり仕掛け矢などの攻撃を加えて、その出鼻をくじいた。彼らに加勢しようとする三郎(将頼)だったが、未だ病の癒えぬ将門は、足の脚気を軽く見たため落馬して兵の動揺を誘い、民達を悲惨な状況においた事を思い、それを止めた。
  武蔵が葦津江の民の武装を田原藤太に伝えると、藤太は「それは一時の事、民を信じない」と言い、武蔵は「国は民の物で都の白蟻(貴族や役人)の物ではない」と純友の言葉を伝えた。



38話「良子脱出」

  田原藤太は、旅に出る武蔵を見送りがてら、民人達の築いた砦の視察に出た。通常通り農事にいそしむ民達だが、少しでも怪しい動きを見ると、途端に武装の片鱗を見せた。藤太は役人殺害に及び連行された若い頃、刀を献上した少年(実は幼少期の将門)を思い出していた。
  公雅公連公元は、実家に戻った実姉・良子と良子の生んだ赤子(豊田丸)に会いたがり、父・良兼も「良子は囚人とは言っても、無理やり略奪されただけで罪はない」と面会を許可した。初孫を囲んで久々に一家団欒を喜ぶ5人の親子だったが、良兼が良子を囚人として扱ってない、と立腹の後妻・詮子は実家に戻ろうと旅立ち、良兼は体調不良をおして後を追った。
  その隙に義母の詮子を警戒して、良子に逃亡を持ち掛けたのは一番上の弟の公雅だった。それに、良子を奪い返そうと忍び込んだ桔梗が良子の身代わり役を引き受け、同じく良兼館に潜伏していた鹿島玄明、その兄の玄道が手を貸して、良子と豊田丸は無事に脱出を果たした。



39話「富士噴火」

  将門の元に急ぐ良子の一向を、見回りに来た源扶が遮ったが、鹿島玄道玄明兄弟が扶の郎党を退治。良子は、足も回復し行進する将門と民達の一向に出会えた。また武蔵も玄道と供にいた季重と涙の再会を果たした。が、良子に貴子とはぐれたと告げられ、子春丸からも、貴子が兵に殺されたという惨い現実を知らされた将門は、貴子を坂東に連れて来た事を悔いた。
  源護の館に、詮子定子小督良兼良正貞盛が集結。民のゲリラ戦に悩まされる侘田真樹繁盛の報告に、護は国府に、貞盛は京の藤原忠平に応援を頼もうと述べるが、国府はアテにならず、京では急場に間に合わないと詮子が却下。将門を戦場に呼び出す事に決まった。
  将門は焼かれた豊田館のやや南西に石井(いわい)館(営所)を建造。兵や民は復讐戦に燃えたが、将門の弟・四郎(将平)菅原景行は祖霊を担ぎ出す良兼たちを警戒した。
  将門が勧請した菅原道真の分霊・火雷天神に詣でると、参拝に来た老婆が神がかり、「自分の旗を掲げろ」と告げる。菅原景行が書いた「神兵降臨・火雷大明神」の旗を掲げ、将門が進軍すると、服織営所の良兼も水守の良正も退去しており、老婆のお告げ通り富士山が噴火した。



<コメント>

承平の乱
・野本の合戦
・川曲の合戦
・下野国府の合戦
・子飼い川の渡しの合戦
・堀越の渡しの合戦

・服織営所の合戦←今ココ
・石井営所の合戦
・信州千曲川の合戦
<天慶の乱>
・常陸国府との合戦
・下野国府・上野国府の攻略
・下野国境の合戦
・北山の合戦

「子飼い川の渡しの合戦」で初の敗戦を味わった将門ですが、この時に良兼の陣営が担ぎ出した「高望王(将門の祖父)の像」の他もう一体は「将門の父・良将の像」という説と、「将門に敗れて死んだ国香の像」という説があるようです。

良将であった場合は「祖父や父に弓が引けるか」という脅しか反省を促す行為でしょうし、国香の場合は「復讐戦」の大義名分を掲げたか、「嫡流たる国香の死を、その父・高望王も嘆いてる」という脅しでしょう。
どっちにしても高望王を掲げて来る時点で、「将門は一族の敵」とは言えるわけです。

前半を苦労の連続で過ごした将門。良子をゲットしてやっと手に入れた幸福も、持続するには戦い続けるしかなく、それでも後半やっと国府の役人や中央の裁判官(世論)も味方に、さぁこれからって時なのに、敵は裁判の結果など無視して攻めて来て(^_^;)、病気にはなるわ館は焼かれるわ、先祖まで敵の味方って、もぉ……。

このドラマの次々と作り出す主人公の試練たるや、休まる所がありません!

こういう昔のドラマ見てると、90年代後半からの「棚ボタ」設定が、「昔の日本は何事もトントン拍子」って誤解を前提にしすぎるキライを感じますね(^_^;)。逆に「棚ボタの逆襲」=棚ボタに飛びついたため死ぬまで苦労の連続、みたくなってるドラマは面白いです(笑)。

しかも将門は神。その条件を、暴虐の限りを尽くして目立ったから……と描いてはイケナイと思います(笑)。

羽生の御厨の郷民たちが、将門を憎悪と恐れの目で見る下りは、「将門記」で、これよりもっと後の段階……すなわち秀郷(田原藤太)・貞盛が下総に攻め込んで来た時として、それっぽい記述があるにはあるのですが、ここは解釈の仕様では正反対の意味にもなってしまう所じゃないでしょうか(^_^;)。。すなわち……、

「常陸国が既に無くなった事より、将門が治めない事を恨んだ」

ボンヤリ読めば、こうなりますかね。この時は既に将門に攻め込まれて常陸は将門の支配下にある時です。

しかしこの時に秀郷・貞盛に攻め込まれてるのは、「常陸」ではなく「下総」なので、ここが作者の誤記ではないかと言われ(こういう誤記の多い書物なので(^_^;))、「下総」として見ると、

「下総が秀郷・貞盛に攻め込まれ火をかけられて亡国となった現状より、将門(の暴虐)によってなかなか下総が治まらない事を恨んだ(早く将門にかわって秀郷・貞盛・その他が治めて欲しい)」

あくまで「常陸」として読むと、

「常陸が将門に攻められた事はいいとして、下総(に常陸の住民が来てるって事ですね、将門書状にもそういう文面があるので)に住んでる以上、将門に治めて欲しいのに、そうならずに焼け出されて恨めしかった」

となりますか(笑)。この辺り、将門が民人にどう思われてたかという意味では重要ですが、もし後者なら、常陸制圧の後、戦闘らしいものもなく、下野・上野が随分あっけなく降参した点を見ても、「次は将門でいいんじゃね(^^ゞ?」という風潮があったんでしょうか(笑)。

前者であった場合も、ドラマがここに挿入したのは、一つには、最終段階になってからでは、将門が民の陳情を聴くなんて暇は無いので(^_^;)、そういう意味で正解だったと思います。

もう一つは、このように「将門記」にある記述を、原作ではあくまでも順番通りに描いて行くのに対し、ドラマでは「少し時系列が混同されて記述されてるのでは?」という解釈に立つからじゃないかと推測します。

つまり実際にあったと思われる出来事や状況説明が、ず〜っと後になって記述されるという特徴が「将門記」にはあり、また実際に時系列の混同が専門家に指摘されてる点など踏まえると、そういう意味でも、ここで入れても良いと思います(^^)。

このように将門を恨む人もいる一方、良将以来、長く住まいした豊田館が焼け落ちるのを涙の別れをする将門の爺やのように、それで居ながら恨むどころかむしろ強烈に応援する人もいる、と立場や心情をハッキリ区別して描き抜いてる点、ブレが無くて特に素晴らしいです。

将門の豊田館が焼けるのを見て、高らかに勝利宣言をする源護の長女・詮子が、初めて自身の育った京への嫌悪感を語り、ここは原作にない部分で、「源氏三姉妹を駆り立てて来た根拠」と鋭い説得力を感じる場面でした。

原作も先をワクワク期待するノリに彩られて物凄く面白い(≧▽≦)のですが、歴史物は悪役が次々登場して主役を苦しめる設定が連続するわけで、文章では「また出ました」と描けばいい所を、映像では視覚的に違った悪役に見せないと見分けがつきませんから、現場は役作りへの苦悩も多かったと思います(笑)。

ドラマは全体として、源護・国香・良兼・良正・貞盛といった敵方は心底悪い人ではなく、その分、歴史的な局面ごと、詮子にかかる比重は大変なものだったと思いますが、そこに時代に追い詰められた弱者の正当性が漂い、「時代を変える以外にない」と感じさせられる点も秀逸です。

が、このドラマの真骨頂は地縁や血縁の鬱陶しさを細々と生々しく描いた点で、そこにうごめく人々の心理のリアルさに、共感者が続出したのではないでしょうか(笑)。
当事者の将門は当然ながら、貞盛や良子とその弟達といった、子供(従兄弟)の世代になると、殆ど全員が「ウンザリしてる」様子も実によく描けてます(笑)。

さて、敗戦してから立ち直って石井(いわい)営所を築くまでの間、ドラマ回数にして5話もの間、将門は森の中で暮らしてるんです(^_^;)。インドの神話みたいです。
本放送の時は週一でしたから、日曜日の夜にテレビ・スイッチを入れると、主人公が山野の中で暮らす風景を1ヵ月以上も見たわけです。昔のドラマって、こういうの平気だったんです(笑)。

インドの神話といえば、私は前から将門の話は、どっか「マハーバーラタ」に似てると思ってました(笑)。
私の場合はインドネシア産の物しか知りませんが、「将門記」も似てますし、「将門記」をベースに作った大河ドラマ「風と雲と虹と」には、より似た空気を感じます。

一族に追い出された兄弟や妻が、森を彷徨って民人たちに助けられたり、気の強い三人姉妹が夫を戦に駆り立てたり、そのあげく木っ端微塵に負けてしまったり、主役側に強い神様が味方してくれたり、妻が服を剥ぎ取られたり、敵に拘束された妻が脱走を図ったり、大勢に射られたから誰が射た矢かわからない等々……。

そしてドラマでは取り上げませんでしたが、将門が天皇に取って代わり、純友が藤原氏として政務を担当なんてのも、戦争終結後の話にやはりあったり、何より放火合戦で一瞬にして全土が疲弊なんて辺り……言い出せばキリがない程(笑)。

敗戦中の将門の潜伏生活を描くにあたって、葦津江が舞台となってましたが、土地の伝承でしょうか、これには「将門記」などにある話に加え、当地に関わる逸話が入ってた感じがします。

将門の妻妾や子供が捕えられた話は「将門記」にもあるのですが、そこには「将門の妻の弟が逃がした」と書かれていて、殺された話は無いです。

が、「城主のたわごと」2008年9月に書いた通り、当地には将門の妻妾や子供が処刑された伝承が残ってますので、そこをドラマで、捕えられた妻が将門の元に戻る話と、一方で殺害される女性の話の両方を扱っているわけですね。

また「将門記」には、後に貞盛の妻や源扶の妻が、将門の厳しいお達しにも関わらず、兵達に惨い目に遭う話があるのですが、そこで「同じ被害が(葦津江の災難の折)将門側にもあった」とも解釈されるようです。

が……、どうも私はそこの部分、原文からはちょっとそう受け取れなかったです(^^ゞ。
根拠が私と同じかは判りませんが、ドラマでも、源扶の妻と貞盛の妻が復讐を受けるシーン自体がありませんでした。

原作には、さらに源扶の妻や貞盛の妻(小督)の話も書かれてましたが、要はこうした弱者の悲劇についての記載が、「将門記」の高く評価される点ですので、敵側で起きた出来事が何か混同して将門軍の出来事として「将門記」に書かれただけ、と受け取れますし、そういう意味では「将門の妾とも貞盛の妾とも言える」「嵯峨源氏の子孫で貞盛の妻」と描ければいいわけで、二重にやる必要はない気もしますね(笑)。

だから殺害される女性については、原作(「平将門」)とは少し趣きを変え、「深井の地蔵尊」に祀られる地蔵菩薩に近い描写になったのかな〜と思いました。

又この葦津江を舞台とした潜伏劇には、とても多く小舟や川筋の描写が取り上げられており、「うんうん(^^)」と満足してしまった所でした。

それは西海の純友を描く上で、対比的なモチーフを重んじるがゆえか、ドラマにおける将門の地盤・坂東は、大半が騎馬+荒野の設定場面で、水運の風景は殆ど出て来ないんです(^_^;)。

土地の持ち味は、特に大河ドラマとして重要な基本設定ですから、何でもかんでも「史料」「新説」「考証」を盛り込む必要は全くなく(笑)、このドラマの場合は、何より「京」との対比が重要で、「山海には活気があった」と示す事に意義があると思います。

実際かなり近年まで、この時代の日本については、「南船北馬」ならぬ「西船東馬」という見方が主流だったそうなんです(^^ゞ。だから西国の海賊、東国の山賊でして、ドラマの将門は、常に馬で荒野を駆け回り、日常風景もせっせと田畑を耕しているのです。

また水害についての記述が増え、内容が具体的に判るのは、家康が関東に来た1590年以降で、これは大雑把には利根川に注がれていた鬼怒川の水流を江戸川に流すよう付け替えが行なわれたのですが、実は何度にも渡ってあの川を堰き止めてこっちに繋げ、そこで氾濫が起り、次はこの川の流れを……という具合に長々と工事が行なわれました。それまでは長く、川に関しては今とは大きく違う地図でした(^^ゞ。

千年前(将門の頃)の香取海→

徳川は江戸を関東の中心の都市(事実上の首都)としましたから、まずは江戸の被害を減らす事が目的だったわけで、大まかに言えば、西の川々から東の川々に流れを寄せて行った、と言うか……、だから元は、江戸期の氾濫より大きな被害でなかった土地もあったと思います(^^ゞ。

しかしそれでも、今の茨城県と千葉県の間を繋げる部分は、大雑把には「香取海」と呼ばれ、太古は大きな海と夥しい数の川があり、埼玉県や東京にまで及ぶ、実に広大な幾筋もの水流をもった地域だった事も一応書いておきたいと思います。
そういう雰囲気を唯一伝える場面が、この葦津江付近で展開される一連のドラマなんです(^^)。

さて、将門の次の本拠地は石井(いわい)になります。
石井営所について「将門記」に書かれるのは、「服織営所の戦い」がすっかり終わってからなんですが、どこにも本拠を持たずに山野を駆け回り続けるなんて無理ですから(^_^;)、ドラマでは石井にまず新しいおウチが作られてます。

ここにも現地に残る「石井の井戸(一言主神)」の伝承を彷彿とさせるシーンがありました(^^)。
葦津江の奥に身を潜ませる将門が、「不思議と力がみなぎってくる」と再起を志すシーンです。

一般的にはこの伝承も、「将門が新皇としての宮殿建設地を探していた」とされる場かもしれませんが、ドラマでは、殺され虐げられた郷民が、再び立ち上がろうとする自力を背景に、将門が軌跡的な再生を果たすシーンとなってました。

そして、参拝に来た老婆に菅原道真の霊が降臨するのですが、、その後に復活した将門が火雷天神を持ち出して来るのは、原作でも「祖霊に対抗して」という設定になってます。

この火雷天神すなわち菅原道真について「将門記」では、将門が新皇に称する段階で「八幡大菩薩」とともに登場してまして、原作やドラマではそれを二段階に分けている、というわけです(^^ゞ。

そう言えば、これまでに巫女の神がかりシーンは、筑波山のカ歌、京の多冶比の巫女2回(内1回は神託)、下総の火雷天神(神託)と4回はあり、この後に、上野の総社の巫女(神託)が加わりますが、そのうち神託は3回あって、後から振り返ると本物と思える神託は、下総の火雷天神だけだったような……(^^ゞ。

このドラマでは、神託を祈願者や巫女自身の願望と解説し、良子が「老婆のお告げに世の中が左右されてしまうのでは」と、返って自分達の将来を案じるなど、全体的には信仰について、かなりシビアに詰めてる感じがしつつも、神がかりや神託といった、その後の時代を扱ったドラマでは、あまり見受けないシーンが連発する点も特異でして、この頃には古代に通じるムードが満載だった、という感じがよく描かれていると思います。

さらに敗戦から復活した将門軍が火雷天神の旗を掲げて行軍する話は、原作から来ている筋ではあるんですが、ドラマでは、この旗が地上に立ち上がった瞬間は本当に感動的で、このドラマの中で一番良い場面と思います。

菅原景行や三宅清忠、鹿島玄明など、ヨソからやってきて土地に根付いた人の姿をよく描きこんでいる効能がハッキリ現われる瞬間で、特に旗に字をかく菅原景行の姿が感動的です。

高望王から数えると、将門だってこの土地では僅か三代目です(^^ゞ。
土地に宿る神より、父祖の妙罰の方が遥かに怖いぐらいの世代ばかりが集まって、その土地に相応しい旗を掲げようとするシーンは、日本に初めて、本当の意味で人々の違いを乗り越え、軍旗が登場した瞬間と言えるんですね。

そして進軍すると、ドラマでは良兼・良正が逃亡してしまい、将門は拍子抜けして帰陣してますが、ここも「将門記」でも原作でも、ここは復讐に燃える将門が、良兼の服織の陣に火をかけたように書かれてます。

ドラマでは、将門が放火や略奪するシーンは出て来ません。
今回辺りから原作とドラマに解釈の違いが出て来まして、原作は最後まで「将門記」に沿ってますが、ドラマでは徐々に踏み越えて行くのを感じます。

この辺りは、「将門記は前半は事実を忠実に記しているが、後半は何らかの曲解(後世の改竄か、作者の限界)がある」と言われる辺りなのかもしれませんね(^^ゞ。

個人的には、乱世においても局面ごとに正義を貫くドラマの将門が大好きですが、原作の将門も「戦巧者」という点では圧倒的で、なかなかに読ませます(^^)。

将門が「火雷天神」を掲げて来ただけで、敵は恐怖して逃げ惑うのに、将門は自分が強いものだから、相手もそうだと思い込んで、ドンドン追い詰める点もスゴイですし(笑)、こうした将門に、良文もですが、将門の兵すら頭が追い付かず(^_^;)、「だいたい終ったから、あとは略奪(^。^)」モードになって、それが真面目な将門には血管が切れるほど腹立たしいわけで(笑)、ついて来れる精兵だけ連れて続きをやるとか、何しろ読んでて飽きないです(^^ゞ。

そうそう。原作では良文が、「服織営所の合戦」に初めて登場し、良兼・良正の味方として殿(しんがり)を務めます。

この良文については前回も書きましたが、房総のみならず関東じゅうにその子孫が散らばり、それぞれ繁栄した事によって、それらの「祖」として大変に有名ですが、「将門記」に登場しない事から、後に千葉氏が関わった土地や、千葉氏自身の伝承以外から「将門の乱」との結びつきを探すのが、とっても困難なんです(^_^;)。。

@将門の味方だったので、将門を倒した貞盛・繁盛の子孫と対立しつつ自力で発展していった。
A中立的立場だったので損傷も少なく、その後の子孫繁栄の基礎を築いた。
B途中までは将門の味方だったが、最終的には敵になった。
C将門の敵として戦ったのに、軍功に預かれなかったから、その後の争乱への禍根となった。

↑将門の乱に無理やり繋げて仕分けると、だいたいこんな感じですか(^^ゞ。
BかCは、根拠となるべき史料など示す学者サンもおられるのですが、残念ながら、 まだ特定には至ってない(決定力に欠ける)感じがします。

真っ二つに分ければ「将門の味方」か「将門の敵」のどっちかになるわけですが、実は千葉氏にも、背反しあってる@〜Cの伝承や主張の両方があったりするんですな(爆)。

さてさて、この「服織営所の合戦」の直後、「追討官符」が発せられるのですが、「発せられた」というのも、「武蔵・安房・上総・常陸・下野などの国に」という事ですから、国衙に命じられる立場と見れば、「発した」方は朝廷でしょう(^^ゞ。

問題は、「誰を追討せよ」かでして、「将門を追討せよ」か、「将門の敵を追討せよ」かです。
これは物凄く重大な違いでして(^_^;)、つまり将門が既に追討対象となっているのか、それとも追討対象は将門の敵なのか、という事ですね(笑)。

で、実は「将門記」には二通りの写本がありまして、その片方を読むと、「将門を追討せよ」とあり、以前はその官符が「良兼らに出された」と解釈されてましたから、「内心はもう戦をしたくない良兼も、朝廷の意向に応じざるを得なかった」と受け取る事が可能でした。

ところが「将門もそれを受けてヤル気を出す」といった文があるので、「叛逆にヤル気を出した」と読め、この段階からして大変な事になってしまいます(^_^;)。。

が、もう1個のを見ると、どうやら「将門の敵を追討せよ」であるようなんですね(^^ゞ。
この頃では文脈から見てこちらを取る説が有力で、つまり「良兼らを追討せよという官符が将門に下された」という解釈が定説になって来たわけです。

前回の京の裁判で将門は許されてるわけで、それなのに襲って来るとは、将門自身あまり考えてなかったので「子飼い川の渡」や「堀越の渡」で負けてしまった、という見方も出来ますし、これは後の「将門書状」(「将門記」に含まれる文書)にも将門自身とおぼしき文でそう書かれてます。

海音寺潮五郎が原作を書いてた頃は、まだその辺が定まってなかったのか(^_^;)、「将門を追討せよ」と言ってきたり、「将門の敵を追討せよ」と変わったりと、朝廷の動きやすい挙動として両方を扱ってます。まぁこれも、後々から見れば、そんなに大きくハズレじゃない気もします(笑)。

そう読むと、この時の叔父連(良兼・良正)は随分しつこい……つーか「将門記」自体が、「しつこいよコイツら」といった雰囲気を匂わせて感じられます(爆)。
更に、この後、次回になりますが、つまり良兼の復讐劇は「朝廷に叛いても」って事になるわけで、更に「しつこさ」に磨きが掛かるんですね(^_^;)。。

実は原作でも「良兼・良正・源護の執拗さがよぉわからん(^_^;)」と感じ始めるあたりでして(笑)、原作は「将門記」を元にしてますから、別に原作者が悪いんじゃありません(^_^;)。何しろひたすら「名誉挽回」に執念を燃やす良兼の筋で行くんですが、ドラマでやったら、「このオッサンら(^_^;)」と、視聴者が見飽きてしまうかもしれません。。。(待ってー!)

また「今昔物語集」になると、良兼は「仏様を崇めてる」つまり善人と受け取られ、それでか、ドラマでは「鷹揚な良い叔父さん」的に描かれてるのですが、それだけにこの後の局面に来ると、「将門記」にある「ひたすらしつこい復讐の鬼」てイメージと不一致になってしまいます(^_^;)。。

そこが、ドラマも原作も良兼の娘を将門の妻と設定してるのが救いで、「将門記」では冒頭部に相当する略記で、良兼と将門の関係を「舅甥」と書いてまして、この「舅」が、この時代は必ずしも「妻の父」とは限らないという指摘もあるので、葦津江で「将門の妻」が捕らわれたあげく脱出するシーンに来て、「(将門の妻が)親族(良兼か良兼陣営の誰か)より夫(将門)を選んだ」と結ばれるので、ここではじめて「やはり将門の妻は、良兼の娘なのでは?」という説に、説得力を加えているわけです。

さらにドラマでは、特に源扶(たすく)の再登板が効いてました。
27〜33話の所で、彼の再登板について触れましたが、確かに源護の側からも「俺にも一発やらせろ」と言い出す者が居ないと、この辺の泥試合が浮いて感じるんです(^_^;)。。

良兼にとっては娘を、そして扶にとっては妻にすべきだった女性として、双人ともに良子ゆえに戦を長引かせてしまった、と描いているわけですね(^^ゞ。
ドラマでは良兼の「執念深さ」より、むしろ「娘を思う父」にグッと来ますし、そうした親心を密かに汲む人物として、源扶がかなり光ってました☆ミ

前回の緒方拳さんに引き続き、源扶の役を熱演された峰岸徹さんの訃報が流れてしまいました。。今回も謹んで、ご冥福をお祈り申し上げますm(__)m。

以上、2008/11/15