キャスト 平国香=佐野浅夫 貞盛の母=丹阿弥谷津子 平貞盛=山口崇 小督=多岐川裕美 平繁盛=佐々木剛 佗田真樹=藤巻潤 平良兼=長門勇 詮子=星由里子 平良将=小林桂樹 平将門= 加藤剛 良子=真野響子 平三郎・将頼=高岡建治 伊和員経=福田豊土 将門爺や=日野道夫・その妻で元乳母=関京子 菅原景行=高橋昌也 三宅清忠=近藤洋介 鹿島玄道=宍戸錠 鹿島玄明=草刈正雄 平良文=渡辺文雄 平良正=蟹江敬三 源護=西村晃 源扶=峰岸徹 源隆=神太郎 源繁=牧村襄 藤原純友=緒形拳 螻蛄(けら)婆=吉行和子 大浦秀成=中丸忠雄 くらげ丸=清水紘治 鮫=丹古母鬼馬二 藤原忠平=仲谷昇 藤原子高=入川保則 平維久=森塚敏 藤原正経=寺田農 大中臣康継=村上不二夫 貴子=吉永小百合 貴子の乳母=奈良岡朋子 貴子付きの老女=春江ふかみ この回の関連レポートは、「城主のたわごと」2008年9月<「野本の戦い」跡地周辺「鹿島神社」>からを(^^ゞ。 21話「騙し討ち」 妻の詮子に鎧姿を誉められ、機嫌よく軍議を開く良兼の元に、将門の使者として三宅清忠が良子の書状を持って来た。そこに「源家に嫁ぐより今の方が幸せ」と書かれていたため、一気に戦意を喪失した良兼に詮子は離婚を仄めかす。板挟みの心労から良兼は病床についてしまう。 将門が鹿島玄明を使者に遣わすと、病の良兼にかわって詮子が将門を源家に詫びにいかせるよう勧め、後日同様の書状を届けたが、詮子に不信を持つ良子は、罠だと指摘。 案の定、良子を宥めて武装せず僅かな供を連れて出た将門を、詮子や護・国香と示し合わせた源扶・隆・繁の三兄弟は、大勢の武者と囲み、いきなり攻撃して来た。 囲みを突破し、林に隠れた将門たちは、侵入して来る敵を茂みから狙い撃ちする。武勇に優れた将門に、援軍と合流して外から攻めて欲しいと、郎党は衣装を交換したが、扶は林の外から火をかけた。将門を助けようと飛び出す玄明を、螻蛄婆が「自身で切り抜かせよ」と止めた。 郎党たちは燻り出されて、扶の配下に悉く惨たらしく殺され、将門はようやく囲みを脱出した。 22話「修羅の旋風」 毛野川(現・鬼怒川)沿いに三郎(将頼)や伊和員経など援軍と合流した将門は武装し、襲撃された林に戻ると、郎党たちは惨たらしい屍骸となって、将門主従の激しい復讐心を煽った。 源扶は国香の領地・大串の村に集結、民に無理強いして迎撃準備を整えたが、村には裸馬が駆け入るばかり。後方から襲う将門たちに慌てた扶は村に火をかけ、将門の追撃を阻止すべく、途中の村々にも火をかけたが、将門は隆を斬り、逃げる繁も馬上から追い矢で死亡させた。 石田に届いた悲報に弱気になる、戦の経験のない源護を国香が力づけ、将門の追撃に扶と立ちはだかったが、復讐に燃える豊田勢に対し、同族同士の戦いに浮き足立つ国香の陣営は押され、石田館に逃げ戻る。追って来た将門は、背に数矢を受け息絶えた国香に対面。 仇を討とうとする佗田真樹に、将門は「貞盛に報せろ」と諭す。子供の頃に遊んだ国香の館に火の手が廻った。将門は手向かわぬ者への乱暴を禁じ、国香の遺骸を葬るべく丁重に運んだ。 京の藤原忠平館の才長けた上臈と噂になり、早くも貴子を悲しませていた貞盛の元に、佗田真樹からの連絡を受けた貞盛の弟・繁盛が、国香が将門に敗死した事を知らせた。 23話「あだ桜」 貞盛は、仇討ちを主張する繁盛や佗田真樹に、国香が身内の将門より源家の味方をし、後ろ背に矢を受けた事(坂東武者の恥)を盾に、世間の評判を言い立て、退けた。 貞盛を気に入りの家人としていた藤原忠平は、私情に奔らず、自分の意向を第一にする貞盛に満足したが、京での出世を目指す貞盛は、親の仇討ちなどに巻き込まれたくないだけだった。 が、将門を同志と思い定める藤原純友は、東国の乱を拡大するため、傀儡たちに「貞盛が将門を恐れる臆病者」という歌舞で京を煽らせ、庶民も貴族も支持。忠平が「西国の海賊討伐に、前回活躍した坂東者だけを配置したい」と相談すると、藤原子高は「貞盛を坂東に帰す方がいい(坂東者=臆病者という評判を遠ざけるべき)」と進言。結局貞盛は「暇」を言い渡された。 貴子は貞盛に、将門が国香を討ったのは自分が原因とか、都の人々が無責任に乱を好む風潮に乗らず京に残って欲しいと主張したが、貞盛にはそれが貴子の将門への未練に映った。 将門が良子を奪って伯父たちと戦った事を喜んだ鹿島玄道は、一杯飲みに来て三宅清忠と意気投合したが、盗賊と縁をもつ将門を、三郎(将頼)や爺やは案じた。 24話「川曲の戦い」 常陸に戻った貞盛が将門と和解する旨を話すと、一族の争いに心を痛める貞盛の母は喜んだ。菅原景行に折衝を頼み、将門が景行の庵に来ると、二人は涙ながらに和解。貞盛の提案通り、長く問題である領地も、貞盛の領地を将門が管理して利益を取る事に決まった。 が、来訪の催促に応じて源家に行った貞盛に、叔父の良正は将門を討とうと張り切り、源護も、実家に入り浸りの娘・小督の婿・貞盛の機嫌を取りながらも、戦に疎い自分には仇も討てないと嘆く。将門との戦いは評判が悪い、と撥ね付ける貞盛を良正が怒号し、痛めつけた所に、良文が貞盛の館に来た。良文は貞盛と同意見で、血気にはやる繁盛をも言い聞かせてくれた。 が、良正は「父の仇討に弱腰だったと物笑いの種」と貞盛をイビッて単独出陣。将門と川曲で一騎討ちしたが、その最中に刀が折れて、素手で向かって来る将門に、怯えた良正は敗走。 25話「風の決意」 将門は良正を水守までは追わず、追い払うのみとした。将門の勇名は決定的となったが、詮子は、むしろ良正に一人勝ちされずに済んだと、夫・良兼を煽ったあげく、弟達を死に追いやった自分の小賢しい策謀に逆ギレして良兼と激しく揉めた。こうした家庭の騒乱を、良兼も将門を討つ以外に修められないと思い定め、敗れた良正も、将門が油断する6月挙兵を持ち掛けた。 が、情報は玄明の忍び行動で将門に届き、父・良将の代から仕える爺が、農繁期に合戦など古今になかったと号泣。将門は民を農事に専念させ、僅かな兵で応戦すると決意。 純友は、大浦秀成の館に第二の追捕使・大中臣康継の間者が侵入したと聞き、国府に赴く。大中臣は先年の追捕使が全滅した件で伊予国府の報告に疑念があり、実は伊予人は一人も死んでない、と指摘。役人らしく振舞って来た純友も「海賊が民を襲わなかったからで、そもそも海賊を生み出したのは、荘園と称して、中央の貴族たちが陸海の民から搾取している事に原因がある」と爆弾発言。辞表を提出する旨を宣言し、追い掛ける大中臣の追捕から海に逃れた。 26話「海賊大将軍」 京の貴子の屋敷が失火から炎上。京の貞盛屋敷の郎党は合戦に出ねば恥と、残らず坂東に戻ってしまい、貴子と乳母は、老女を一人伴うのみで旅に出る。 純友は和解を申し入れる国府の書状を、自分を捕らえる罠と見破り、国許の大津に招いた郡司を酔い潰れさせ、海賊たちに郡の不動倉から兵糧を盗ませ、国府の蔵まで空にした。 こうした騒動に又も現地人が無傷と聞き、大中臣康継は純友が海賊だと見抜いたが、郡司や大領たちを連行途中、逃走しようとしたとして殺害し、都に報告する手筈だったのを、大津で徴集した兵は消え、坂東兵たちは同志討ちになるなど霍乱されたあげく、郡司や大領たちの身体保障の約定を純友に取られ、守の平維久・介の藤原正経とともに伊予から追い払われた。 純友は日振島に本拠を定めて島入りし、螻蛄婆が連れて来た、高麗や中国(この頃は五大十国時代だろう)から来た頭領たちにも会って、海賊大将軍と称した。 坂東では大軍を引き連れ良兼が出陣。小督・繁盛・佗田真樹の冷視の中、良兼・良正・貞盛の家からも暗殺者が出る事を案じ、貞盛の母が貞盛の書状を将門に届ける事になった。 <コメント> ここからが「承平・天慶の乱」として知られる「将門記」の記述に入って来ます。 将門の乱における合戦って、幾つあるんでしょうね(^_^;)。私の把握する限りでは……、 <承平の乱> ・野本の合戦 ・川曲の合戦←今ココ ・下野国府の合戦 ・子飼川の渡しの合戦 ・堀越の渡しの合戦 ・服織営所の合戦 ・石井営所の合戦 ・信州千曲川の合戦 <天慶の乱> ・常陸国府との合戦 ・下野国府・上野国府の攻略 ・川口村の合戦 ・北山の合戦 こんな感じでしょうか。ドラマの「修羅の旋風」が「野本の戦い」といわれる合戦ですね(^^ゞ。 国香については、焼死とも自殺とも傷病死とも言われますが、「将門記」では、京にいた貞盛が父の死を嘆くシーンによって「死んだ」事を示しているのみです。 ただ、この「野本の合戦」における火災が大変な被害であった事は伝えており、既にこの合戦からして国土が疲弊してしまったわけです。 将門の乱の後、将門の叔父・良文の孫・忠常が引き起こした「平忠常の乱(1028〜1031)」では、将門の乱に既に見られる「焦土作戦」が各地に広がり、房総は「亡国」あるいは「亡弊国」と言われるわけですが、それを「忠常の乱から」と見る説と、「忠常の乱の頃には、既にそう言われていた」とする説があります。 この当時の記述は必要最小限の事しか伝えませんし、用が済めばそれも捨ててしまいますから、合戦に関する事は勿論、その及ぼす影響についてもわからない事が多いのですが、それでも伝えられている事の一例として、税に関する物があります。 「上総・下総については納税額が半分で良い」という習慣があったようなんです。その理由が「亡国につき」という事になります。つまり「戦の弊害で土地が荒れ果ててしまったから免税」という事ですね(^^ゞ。 忠常の乱より前とする説では、既にその頃にはこの免税の習慣に従っていた、という記述が残っているそうなんです。 そうなると……その前の兵乱で思い起こされるのが「将門の乱(935〜940)」ですから、既に将門の乱をもって「亡国」として免税対象とされていたのかもしれません。 もっとも、将門と忠常の乱の間にも、国香の子孫は、良兼の子孫や良文の子孫と揉めてます(^_^;)。。合戦かそれに似たような事もあったかもしれませんし、将門の頃には既にあったとも見られている「群盗」によるものなのかもしれません。 「群盗」とは書いて字のごとく「群がって盗賊をする」という意味です。 このドラマでは冒頭部から、防人など労役のために動員される民が、それを嫌がって逃げ出し、荘園などに駆け込んでそこの雇い人として組み込まれる話が出ていました。 これ実際にどうだったのか、そんなにリアルにこの構図を肯定している著述に出会った事はありません(^_^;)。 しかし故郷を離れて遠い地で命を落とすかもしれない辛さという点では、徴兵制においても同様だっただろうと思います。 23話あたりで、「あぶれ者だが評判がいい」と半ば義賊のごとくでありながら、ドラマ全編を通して不安定な立場の鹿島玄道が「人々の荷物を運ぶ仕事をしている」と自己紹介する場面があります。 ちなみに鹿島玄道も、原作には無い登場人物です。 原作に出て来るのは鹿島玄明のみで、性格はドラマの玄道に近いですが、兄と弟に二分したのはドラマ設定ではないかと思います(^^ゞ。 で、この玄道のやってる仕事ですが、これもナレーション説明を入れて良かった気がしますが、これはいわゆる「イ就 馬(しゅうば)の党」って奴かな〜と思うです(違ってたらスイマセン(^_^;))。 「しゅう」が「イ就」で一文字です(^_^;)。漢字変換が出ないので二文字で出してます。 この時代は、貴族だか武士だか盗賊だか富豪農民だか、ちょっとワケのわからない人達が大勢いたようです(^_^;)。その一つが「イ就 馬(しゅうば)の党」でして、運輸業をやってるんですが、特に公的に認められた職業ってわけでもないようで、どっちかと言うと「賊」に数えられている感じがします。 東海道で荷馬を襲って馬をかっぱらい、東山道で荷物を運ぶ仕事をする。東山道でかっぱらった馬は東海道に……およそ、こんな転用をやって一儲けしてたようです。 そうやって集積した富で田畑を耕作する費用を稼いだ、とも言われており、つまり子々孫々「盗賊」をやってたとも限らないようです。 こうした人達を「群盗」と呼び、あらゆる地域に満ちていたといわれますが、特に坂東は多かったようで、足柄峠などでよく出たそうです。 これよりだいぶ後の時代、源平合戦のドラマなんかで描かれる風景の一部に、物凄く狂暴な武装僧侶の姿も現われて来ます(だいたい山伏っぽいカッコをしてますね(^^ゞ)。つまり荘園を管理する中にも、強烈に武装していく必要があったわけですね。 その一方で、賊と言われる人を、同じく賊と言われた人が討伐もしたと言います。有名な弁慶なども、最初は賊っぽい事をやってましたね(笑)。将門の時代だと、田原藤太などは、その一人とされています。つまり武勇の点が買われたのだと思います。 律令による徴兵や、防人、検非違使といった人達を「武士」の原型と見るより、荘園の武装組織(ボディーガード)や賊および賊の討伐をした人が、むしろ原型に近いと言われるのは、こうした時代背景によるのだと思います。 このドラマでは「盗賊はむしろ民に支持されていた」と描くわけですが、そりゃ勿論、反乱を美化するためのナニでしょう(笑)。しかしどんな形であれ富を貯えた人を、目ざとく見付けてその配下となるような現象はあっただろうと思います。 盗賊は物凄く極端な例ですが、彼らとて根拠とする土地を失えませんから、本当にドラマにあるような構図……つまり民と上手く渡り合って根付いていく過程があったのかもしれません。 また今回で、ついに純友は、伊予の守・平維久と介の藤原正経とも決裂してしまいます。 これまでも、この二人の役人同志の遣り取りが凄く面白くて(笑)、一見すると「時代劇と言うより、現代の官僚や役人批判では?」という具合にも見えるんですが、実はこういう構図もやはりあった背景が推測できるそうです(^_^;)。 つまり自分の任期の間は、何しろ無難に波風が立って欲しくない一方、何の手柄も上げられないのも困るわけです。 無難に過ごしたい余り、守と介が互いに責任転嫁しあった挙句、海賊が他国の海域に行ったとなると、途端に「良かった良かった(^^)」と喜び合う辺り、当時も縦割り行政だった背景が伺える一方で、都に直接報告する立場の追捕使の部屋には、「自分が報告する!」と先を争って駆け込んだりするシーンなどに、当時の役人の現状がリアルに描かれていると思います(^_^;)。 要するに、最終的に都に帰る時期に「自分一代でこんなに復興させました( ̄^ ̄)」と報告するために、任期の最初は 「この国は未だに戦乱と荒廃の傷跡が癒えてない」と言っとくのが有利なわけで、まず「やっぱり全額納税は無理」とか言っておれば、国内での人気もそう悪くなく過ごせるわけですね(^_^;)。。 なので、「亡弊国」と言われた時期が長かったのも、もしかしたら虚偽報告が関わってる可能性もあるそうです。 しかし、それでも「将門の乱」が特別視される理由は、その平定に辺り、それまでの前例が改められ、その後の有事・人事・儀式などに対応する前例となった事が、後々まで「将門」や「将門の乱」を朝廷や貴族の記憶に刻ませた原因だろう、ということです。 現に、将門の乱の後、何かが起こったりするたびに、貴族の日記や報告文書類に、「(将門の乱という)先例に基づき」あるいは「まるで将門(の乱)のようだ」といった比喩用語として頻繁に例示・登場したのだそうです。 もっとも将門自身が火をかけたのか、将門は命じてないが兵が勝手にやったのか、ドラマのように源家側がやったのに、結果によって将門がやった事にされたのか、その辺りは検証の仕様がないのです(^_^;)。。 前回、ドラマと原作には殆ど違いがない、と書きましたが、ストーリー的には今回あたりもそうです(^^ゞ。 が、内容的には原作の方が「将門記」にやや忠実なのも前回と同じく、将門は積極的に放火してますが、一方のドラマでは「敵側が行なった事を将門のせいにしている」という立場を取るなど、ちょっとした違いがちょくちょく見られます。 しかし要は、一度燃え広がったら消火の術がないわけで、燃え尽くされるまで放置するしかなかったという事ですね。 今回ちょっと注目したのは25話で、将門の爺(父の代から仕える郎党)が、「農事は兵事に優先するべき」と泣くシーンです。これを将門側が言ったか、将門の敵側が言ったかもこの際、あまり問題にする気はなくて、それよりオボロながら思い浮かべる古代〜中世初期の通念ではなかったか、という点です。この辺りはドラマのオリジナルです。 古代、田畑は神聖な場で、それを冒す者は悪の対象(神ならば悪神)に見立てられていました。 祝詞などにも悪事として数えられていますよね? それをすご〜く昔の神話として思い浮かべたり、狩猟民と農耕民に分けた話に持ち出すのもいいんですが(^_^;)、「合戦によって田畑を荒らす事」と言われると、肉迫して罪深く感じます。 このドラマに描かれる将門が、何かと言うと「民のため」と言い、彼らを戦から解放して田畑に帰してやるシーンが頻発する一方で、そうやって少数になった兵力だけで敵を完膚なきまでに叩きのめす様子を、後の戦国時代あたりと見比べると、「将門を理想的な領主(良い人)に描きすぎ」「将門の武勇を強調しすぎ」に見えるかもしれませんが(^_^;)、まだ重層的な武士団が形成されてない時代、これぐらい生産事に気を配ったり、ホントに一握りの忠臣とだけ戦闘行為をする事は、そう掛け離れて有り得ない誇張でもないのだと思います。 将門が気を使っているのは農事についてだけではなく、前回19話には将門を頼って坂東に来た菅原景行が農耕をしたがるのに対し、「川底から浮き上がった土地だから、小石が多い」と述べるシーンがありました。 これが今回24話になると、既に土地に定着した菅原景行が、都にいた時の彼とはまるで違う、貧相な農夫のようになって、しかしそれなり楽しそうに暮らしている様子が出て来ます。 つまり都からやって来て坂東に定着する彼らにとって、農事以前に土地の開発・開墾が重要だったわけです。 大変な努力をして開発した土地で、やっと農事も営めるというのが現状だったのではないかと思います。 盗賊は退治する、開発もする、開墾もする、水害にも対処しなければならない、農事もする、朝廷や貴族には貢物・贈り物を欠かさない、それらの行為が無駄にならないよう、適度に学問も積まなければならない、そんな中で、ついてくる兵の数も少ない時代に、部下に気を配りながら戦争もする……スーパースターでも難しい事をやってるわけですね(^_^;)。 しかし、そうした中で、恐らく一番忌み嫌われたのは一過性の暴力そのものよりも、生産手段を長期に奪ってしまうほどの暴挙であった事は間違いないのではないかと思います。 その最大の暴挙が放火合戦です。敵に壊滅的な打撃を与えるために、その領地や田畑、領民の住居を焼き払う方法です。 ヒーローだから強く理想的に描いてるのではなく、もしかしたら、これぐらい気を使っていたかもしれないのに、それでも尚、将門(あるいは将門の乱)は「パンドラの箱をあけた男(時代)」である点が、後の歴史から見ると重要なのかもしれません(^^ゞ。 ドラマでは、その将門にパンドラの箱を開けさせる画策を裏でする純友一派(笑)。大変な連中に見込まれた将門ですが、この辺りも原作では「将門が策謀にハメられる」と描き、ドラマでは「純友が将門に惚れぬく」と描くなど、ちょっとした違いがありますが、この辺りは「海と風と虹と」を読むと、ドラマに沿ってるのかもしれません。まだ「平将門」しか読めてませんが(^^ゞ。 この時点では将門を更生させるべく、ぜひ貞盛に頑張って欲しいわけですが、貞盛が提案した「土地の得分を取る」というのは、一種の主従関係ではないかと思います(^^ゞ。 これはもうちょっと後の時代によく見る事ですが、この時代に見立てて言えば、つまり貞盛が主で将門が従。 従の立場を上手く使って「上前をはねる」事で利益があったようで、寄進して主人となって貰うなんて事もあったようです。 ま、結局の所、大変ではあったのでしょうが、将門以降の時代になると、荘園のボディーガード=武士にもそれなり旨味があって、繁栄していったわけですね(笑)。 以上、2008/09/08 |
|
|