<2007年・城主のたわごと3月>



2006年9月「会津〜米沢編」第二弾。2日目(^^)。

福島は鶴ヶ城と麟閣・御薬園・天寧寺・大龍寺、そして山形・白布温泉へ♪





     
  会津〜米沢編・第二弾(^^)。2日目の会津「鶴ヶ城」の続きから。



<鶴ヶ城、2(続き)>

じゃ約束通り、4階と5階の展望をお届け(^^)。
5階は4階よりちょっと高いだけなので、実際には4階から撮った写真を主に(^^ゞ。

まず北方面↓には、会津若松駅があり、ちょっと拓けた一帯。中央より右には磐梯山の裾野が見えてるかな(^^ゞ。続いて右手前に始まるのが飯盛山から背あぶり山あたりにかけての山脈。

まずは北〜北東方面(パノラマ2枚)

↑この北方面を東京から来た我々は、←まずこういう具合に入って来て、↓こういう具合に市内に来たワケ(^^ゞ。

次は東方面。今回わりと行ったあたり(^^ゞ。
左から飯盛山〜背あぶり山〜天寧寺〜東山温泉にかけてかな。↓

北東〜東方面(パノラマ2枚)。

北西〜北〜北東方面には他に、興徳寺(蒲生忠郷の墓)、甲賀町口門跡、滝沢峠、妙国寺、旧滝沢本陣、そして白虎隊関連の飯盛山方面などがある。

そして東南方面↓。背あぶり山と東山温泉、奴田山〜吹矢山〜淡路山と峰で続き、その向こうポックリとやや遠めに大戸岳(南会津)が聳える。続いて楼の向こうに黒く小高いのは、岩崎城(芦名氏)のある向羽黒山ではないかと(^^ゞ。
また山の手前には、今回の旅行で行った「東山温泉」「松平廟所」「天寧寺」のある方面(^^)。↓

東南〜南方面(パノラマ2枚)

この方面は標識絵図で見た限り、会津風雅堂、芦名家花見ヶ森廟所、小田山、田中玄宰の墓、西軍砲台跡、善龍寺とも書いてあった。

そして5階から、南西〜西〜北西(パノラマ2枚)

↑会津芦ノ牧温泉、日新館天文台跡、蒲生秀行廟、長岡藩士長岡藩士殉節の碑、などがある。
「〜〜がある」と書いて来たけど、ここ会津若松には前回も書いた通り、名所旧跡が大変に多い(^_^;)。かいつまんでと言っても、どれを書いたらいいのかよく判らない(笑)。

最後は西〜北西方面。(パノラマ2枚)

この辺りかな〜。かなり遠い所だけど「神指(こうざし)城跡」というのがあって、かの関ヶ原に到る前、家康に逆らった上杉景勝(&直江兼続)は、その時ここ会津を領地としていたから、この地が討伐される事に決定した(^_^;)。

その直後に石田三成が近畿方面で反旗を翻したため、家康は来る途中で反転し、ここには到らなかったが、上杉家としては迎え撃てるように準備をしていた。その一環が神指城。
西軍敗退が決まり、建設途中のままその跡が残っているらしい。

この後、我々は米沢に向かう意気込みもあり、この日の最後に向かうだけ向かってみたけど、途中で日が暮れたのでやめた〜。。

今度はお城とその近くにちょっと目を移して方角を見てみよう(^^ゞ。
前回も出した城内見取り図。カクッと90度廻して(笑)、北が上に向くようにしてある。→

つまり下が南になるわけだが、その南に長い廊下「南走長屋」が続き、途中に「鉄(くろがね)門」が組み込まれている。

この「鉄(くろがね)門」は「表門」とも言われ、「帯郭」から「本丸」内の奥御殿に通じ、北向きの多門櫓城門で、扉や柱で鉄が包まれていたところから鉄門の名がつけられている。門の石垣の仕法は「切込ハギ」と呼ばれ代表的な遺構の一つとして知られている。

これがその「南走長屋」と「鉄門」(パノラマ3枚・ほぼ180度)。

←天守閣の上から見るとこうなる。南に伸びた先の楼は「干飯櫓」という。
後で中も通ってみるねっ(^^)。
↑こっちは北西にある売店コーナー。前回の入ってきた時に、人力車とかがあった所(^^)。

売店付近(パノラマ2枚)。

北には大勢が登れるように石段を設けた「武者走り」があり、北東には「本丸埋門」がある。
埋門(うずみもん)は本丸奥御殿の北側から本丸帯郭に通じる枡形の城門で、城内の他の門や建築物に比較して低い門構え。大手口が東であった築城当時は表門であったが、1639年の加藤明成による改築後は裏門となっている。本丸奥御殿の勝手口としても重要な門。

そして東に昨夜泊まった「東鳳」(^^)。
城内の東南には茶室「麟閣」。

東方面と麟閣には後で行くねっ(^^)。では下に降りて、長い廊下(南走長屋)を行ってみよう〜♪

まず売店を通って廊下をさらに行き
カドを折れ「鉄門」の上を通る。

この「鉄(くろがね)門」では、戊辰戦争当時、松平容保が自ら采配を振ったそうだ。
今では鉄門の端に籠が置いてあって、子供がキャッキャ言って乗って行ってた(^^ゞ。

そしてまた廊下の先には
狙撃兵が!(゚.゚)
「干飯櫓」を出た(^^ゞ。

廊下の途中に新選組の踏み込んだ京都「池田屋」の模型が置いてあり、ちょうどそこに係員の方がいらしたので、「これは(^_^;)」と聞いたら、係員の方も「ま、こういうのも置かないとアレで(^_^;)」といった風情でいらした(笑)。
たぶん近藤勇の墓が会津にあるのと、斉藤一が会津に最後まで残った事に由来するのだろうと想像。ちなみに斉藤の墓も会津にはある(名を「藤田」と改めた)。で、「干飯櫓」にはそういったコーナーもあるにはあった(^^ゞ。

「干飯櫓」から「鉄門」と「天守閣」を振り返る(パノラマ2枚)。

続く塁の先には「月見櫓」跡
塁から降り芝生庭園から城を見上げる

「月見櫓」は敷地の東南端にあり(今は跡地のみ)、お月見をした所(^^)。
その傍には仙台出身の土井晩翠「荒城の月」の碑があった。

友達同志で歌の話をしたり、罰ゲームや眠気覚ましで、何でもいいから一曲づつ歌えという段に及ぶ時、ふと誰かの口から「荒城の月」という声が出ると、廻りじゅうから「荒城の月!」と、笑いとも恐怖とも驚愕ともつかぬ反芻の声が飛び出る現象によく会う(笑)。
そして必ず一人か二人「でもあの歌好き」と言い出し、それまでさんざん目をひん剥いたり、のけぞったり鼻血を押さえる仕草をしてた者まで、一人残らず同意するという図にも同時に出くわす。

「荒城の月」とはそういう歌だと思う。
私も「葬送行進曲を遥かに凌ぐ、どこか血も凍る雰囲気」ゆえに好きだ(爆)。

その「荒城の月」は、この鶴ヶ城の戊辰戦争で荒れ果てた様子をモチーフにしたのだと言う(;_;)。
なるほど、月と荒城に会津松平氏の末路が組み合わさって「昔の光いまいずこ」が掛かって来るのか、と思った。(音楽の教科で習う事なのかな、私は知らなかった(^^ゞ)

蔵跡と水路跡
御三階

↑いずれも天守閣の東方、芝生広場の奥にある。

「蔵跡と水路跡」
石の列は、二棟の蔵の基礎石と水路の跡で、「兵器蔵」であったと考えられる。
また、本丸への表門となる鉄(くろがね)門が、北出丸・西出丸方面から直接見えないように、ここにあった蔵で隠す構造になっていた。防御のためのこうした工夫を「枡形」という。

「御三階」
数奇屋風の楼閣状の建物で、城内の他の建物とは趣が異なり、密議の場として使われていたといわれる。
戊辰戦争後、鶴ヶ城の取り壊しが行われる前に、七日町の阿弥陀寺に移築され、現存。



<鶴ヶ城内・茶室「麟閣」>

天守閣の4〜5階からも見下ろせた「麟閣」に到る。

城内東南、茶室「麟閣(りんかく)」に入る〜♪
蒲生氏郷と千少庵

天正18年(1590年)豊臣秀吉の怒りに触れた茶道の祖、千利休は、茶の世界から追放された後に自害。

会津領主、蒲生氏郷は「自分が京都にいたら、利休を死なせることはなかった」といたく、その死をいたみ、利休の茶道が途絶えるのを惜しんで、利休の次男少庵を会津に匿った。
少庵は氏郷のために茶室麟閣を造ったと伝えられ、茶室内の赤松の床柱は少庵自らけずったものと伝えられる。

また千利休には長男の道安がいて、これも難を逃れたようだが、後のいわゆる三千家は、いずれも少庵の孫から出た。
それには氏郷が徳川家康とともに千家復興を秀吉に願い出た結果、少庵が京都に帰って千家を再興し、宗守(武者小路千家)、宗左(表千家)、宗室(裏千家)の三人の孫によって、今日の茶道の基礎が築かれるに到ったからである。

ちなみに蒲生氏郷じしんも「利休七哲」と言われ、信長に見出された頃より茶道に通じ、茶道を取り巻くあらゆる文化にもよく精通していたと言われる。

まずは入って正面。パノラマ4枚(180度以上)
↑この右の路地を進む

入ってスグ右「寄付」
進んで「腰掛待合」と「中門」

「寄付」は客が待ち合わせる場所。
「腰掛待合」は待ち合わせの済んだ客が「中門」を入って、亭主の迎えを待つ所。

さらに進むと「露地」と「蹲踞(つくばい)」があり、その先、正面に「茶室・麟閣」→

いま前に子供達がいる両面の襖が開いている部屋が「鎖(くさり)の間」で、その右奥に「相伴(しょうばん)席」が備わっている。

又この並びに「躙口(にじりぐち)」があり、入った所を「三畳台目席」という。

この建物を裏まで廻り、さらに庭園に路地は続く。

「鎖(くさり)の間」↓、右の白い戸の奥が→
「相伴(しょうばん)席」

麟閣手前の石伝いを辿った横に「躙口(にじりぐち)」。入った所が「三畳台目席」。↓
さらにこの上部は見事な藁葺き屋根↓

横合いを廻り裏へ↑

麟閣の裏。庭の風情を味わいながら茶を楽しむ様子が伺える(右は一部拡大)

麟閣の周囲をまわろうとした時、先に来ていた子供達の一人が、
「俺たちみたいな日本の良さがわからない子供が、こんな所を見てもいいのかな〜」
と戸惑いながらつぶやく声に出くわした。

「カッ、カワイイ(≧▽≦)!」と私は心の底から感動し、きっとあれは会津の子供達だろうと今でも信じている(笑)。
少庵さんもきっと「さあさあ、おいでなさい」と、喜んでお迎えになった事だろう(^^)。

さて麟閣を抜けて、芝生の庭園の小道をさらに進み、振り返る。↓

左「麟閣」、右事務所、さらに右には茶処の席

事務所で頼めば、この茶処で抹茶とお菓子が頂ける(^^)。
亭主はここがとても気に入って「お抹茶とお菓子(^。^)」とリクエストしたが、「実は次も庭園巡りの予定なのだっ(^。^)」と、綱を引っ張ってここを去った(笑)。

去る前に、ちょっと気になった事を……(^^ゞ。
この麟閣、「再建」とあったので、てっきりどこか別の所(お寺とか)に造られた茶室を、明治以降、城が破却されて敷地に余りが出来たとかで、現代になってこの鶴ヶ城に移したのかと思ったのだけど、実は戊辰戦争の後に鶴ヶ城が取り壊される際、森川善兵衛という薬種問屋の人が惜しみ、自宅に移築して長く保全してきたものを、つい最近の1990年になってから、この鶴ヶ城の元の場所に戻した、という事らしい。

実は庭園内に小さな牡丹があり、これは蒲生氏郷の子の秀行から、家来(だと思う)森川若狭守重則という人が城内の牡丹の木を拝領した事に由来するという。
蒲生氏は3代忠郷の死去により断絶となり、森川家は浪人となりながらも、この牡丹を守り、旧重臣らと集まる折には牡丹を愛でて旧主を偲んだ、という伝えがあって、1992年にこの麟閣に移植したらしい。

同じ「森川」という姓なので、もしかしてこの麟閣と牡丹には関係があるのかな、蒲生氏の家来が会津に土着して、何代か経って、麟閣も牡丹も(持ってた人同士は枝分かれしてるかもしれないけど)元に戻したのかな〜というのが「ちょっと気になった事」なの(^^ゞ。

あと、お城のあった当時は、宰相之間という所から廊下伝いに茶室に通じていたらしい。他に雉の間、芙蓉之間とあわせて三室ある「金之間」という御殿があったそうだ(その礎石が残っている)。



<会津松平氏庭園「御薬園」>

地図A←中心点の所。鶴ヶ城のすぐ北東方面。

御薬園」正面(前は広い駐車場)。

駐車場から咲いてる草花(^^)
園内の見取り図

「会津松平氏庭園」は、その名の通り旧会津藩主松平氏の別荘で、もと藩の薬園のあったことから、「御薬園」の名で親しまれている。

見取り図で見ると、右下部分から入園して、下の「薬用植物標本園」と、上の庭園の間を通る道筋になっている。
上の庭園には広く「心字の池」(「心」の崩し字を象った池)に満ちて、左上に「心」の左の点「鶴ヶ清水」、右上に「心」の右の点を象る池があり、広がる中央の池には食い込むように「亀島」という浮島がある。
だいたい「心字の池」の外側を巡り、「鶴ヶ清水」を超えた所でこの「亀島」に寄るルートがあり、その後はまた元の外周ルートに戻って一周を終え、右の建物「御茶屋御殿」に到達する、というコース。

じゃ入る(^O^)。↓正面の事務所で券を買ったら、すぐ左に道を折れ、小さな門を潜る。→

門を入ると、すぐ小さな庭に囲まれ、前方には「薬用植物標本園」が見えるが、その手前で小さな庭の左に、まず「重陽閣」という建物に出会う。

これは昭和天皇の次弟宮、秩父宮さまのご成婚(1928年9月28日)に際し、妃殿下、勢津子さまがご結婚の報告に帰郷され、その時に宿となった東山温泉「新滝旅館」で、別棟に新装された木造二階建ての建物。

この御薬園に移築されたのは1973年。

重陽閣」(入ってスグ左・パノラマ3枚・ほぼ180度)

勢津子さまは、藩主松平容保の四男で初代、参議院議長をつとめた松平恒雄氏と信子夫人の長女として、明治42年(1909)9月9日、重陽の節句に英国でご誕生。19歳の時に秩父宮さまとのご縁組が整い、ご成婚。
思うにこの「重陽閣」というおめでたい名は、勢津子さまのお誕生日と、ご成婚の9月に由来してるんだろうね(^^)。

皇室に由来するこうした建物は全国にあると思われるが、この「重陽閣」には特に重要な意味合いがある。
会津にとって皇室との結び付きが大変に大きな意味を持った時代であったからだ。
京都守護職として孝明天皇の篤い信任を得たにも拘わらず、戊辰戦争以来60年もの長い月日、いわれなき汚名に晒され、悔しい思いを禁じ得なかった会津の人々は、このご慶事に狂喜と言えるほどの慶びに沸き立ったのだ。

現在、重陽閣向かって正面左手には妃殿下お手植えの松が、また右手には御顕彰碑があり、二階には妃殿下の数少ない御真筆の扁額が残されているという。

「重陽閣」を過ぎて先には「薬用植物標本園」が長く続く(パノラマ2枚)

「重陽閣」の隣の敷地には、会津以外の「地方・外来種」の薬草が65種植えられ、その手前の池を挟んで、さらに手前には「会津産種」の薬草199種が並んでいる。
さらに先(→)に進むと、「栽培種」の園地が続き、以上3園地で約400種が植えられている。

この植物園は1959年、江戸時代に薬草栽培をされた地の跡地を整地して、薬草園として発足された。東北でも貴重な歴史を経た施設。

その元である江戸期の薬草園は、会津松平氏、二代藩主正経が1670年、聖徳太子の施薬院にちなみ、貧民の施療や疫病対策を兼ねて、別荘地であるここに各種の薬草の栽培を試みたのが始まりで、のちに会津全土へ広く奨励し「御薬園」と呼ばれるようになった。

またここの野草「ノウゼンカ(ノウゼンカズラ)」にちなんで歌われた、篠田悌次郎の句碑があった。

磐梯は遙けく青し凌霄花(ノウゼンカ)

「凌霄花」は薬草園の左側に咲く「強烈な色と、朝露に咲き夕べに落下する様から、白虎隊に通じるものがある」花だそうで、「遥けく青しは、歴代の藩主も見ただろうという思いがある」などと碑について書かれていた。

碑は昭和48年に「野火」会によって建立された。篠田悌次郎は東京の出身で、俳人「野火」を主宰した。
祖父の岩崎鎌蔵は戊辰戦争の時、江戸町火消の一団を引き連れて、鶴ヶ城に籠って戦った。
また父は、会津藩士の秋月悌次郎の世話になったことから、篠田はその名にあやかったといわれる。

「秋月悌次郎(゚.゚)」
この名は小泉八雲の「東の国から」にも出て来るので私も知っている。
話は九州に飛んで恐縮だが、戊辰戦争では敵方であった官軍でも、ことのほか秋月の評価が高かったため、八雲も一時期を過ごした熊本第五高等学校(熊本大学)で、ともに教鞭を取った。

もっとも秋月は、当時の八雲には「雲の上の存在」だったと思われる(^^ゞ。
八雲が日本に来た時代は既に戦は遥かな昔となり、苛烈な戦争を戦った秋月の老後は、実に温和で泰然とした人柄をもって、非常に多くの生徒に敬慕され、八雲をして「神のような人」とまで称された。

中でも「九州の学生とともに」という作品では、文章をそのまま長々と引用したくなるぐらい「日本武士精神の模範」として海外に紹介され、多くの関心と感動を得たと思われる。
八雲は「仏と違って神」と、わざわざ区別してまでその神々しさを強調している(^^ゞ。

この秋月に学校で親しく声を掛けられ、後日祝いの品(恐らく八雲の長男誕生の祝いではないかと)を頂いた感激を、八雲は古い日本人の持つ礼儀と品格の美しさとして、プレゼントの内容(梅の盆栽と酒と自筆の漢詩であったらしい)まで詳しく書いている(笑)。

想像するに秋月と八雲の間には、躍進だけを目指す明治の日本教育の現場にあって、互い密かに「昨今には珍しい気骨の持ち主」と認め合っていた感じが仄見える。それだけに、
「神のような人が、自分ごときの慶事を覚えていてくれて、手数のこもったプレゼントをくれた!」
という喜びに溢れた文章で、何度読んでも微笑ましい(^^)。色々と大変だったであろう日本における生活で、八雲にはずいぶん励みになっただろう。

さて、この長い薬草園の背後、つまり今まで通って来た道の右側には、広い庭園が広がっている。↓

↓庭園(パノラマ3枚・ほぼ180度)。左に見える通路を行く。

庭園の築造年月が明らかでないが、目黒浄定という人の作で、江戸時代中期の作庭手法をよく伝えている。遠州流。
中央に池を広くとり、中島(亀島)をおき茶亭「楽寿亭」を設け、池の奥は左に女滝、亀島の向こう岸に男滝がある。東山連峰の風景を豊かにとり入れ、石敷路をたどって池畔をめぐる風致も変化に富んで、園造式の技法により、園路を進むにつれて庵の変化を楽しめるよう工夫してある。
江戸時代の大名庭の形式による山水庭として優れた庭園であり、文化財保護法による名勝として保護されている。

この「進むにつれて変化を楽しめる工夫」というのは随所に感じられた(^^)。

←庭園に入ってまず目に付くのは亀島にある「楽寿亭」。
これを通り過ぎながら、女滝のある池の端に向かって行く。↓

遠ざかるにつれ、亀島への橋が見られる↓

池の端に近付くと、左の「女滝」は今はまだ隠れていて、右には実はもう一つ「鶴ヶ清水」という池地があり、その奥の小さな建物の屋根が木の間にチラと見える。→

←だいぶ端に来ると石造の「三重塔
ちょっとしたアクセントで周囲の緑を引き立てる庭園作りの妙味を極めている。
↑そしてようやく「女滝」が見えて来る。

女滝」上から撮影(パノラマ2枚)。その脇に通り道が続く。

池の端からは「楽寿亭」も↓、ちょっと行き過ぎると「御茶屋御殿」も↓よく見える。
↑池の端にある「石灯篭」の向こうには、秩父宮妃ご成婚記念の松もあった。

やがて「楽寿亭」も「御茶屋御殿」も両方見えるほど端に来ると、亀島の出っ張りが見える。この辺りには昔は「舟着き場」があったそうだ。
池を少し離れて奥まった所に通路は続く。→

この辺りに「与謝野晶子の句碑」も残っている。

通路の先には東屋風の小さな建物↓
戻って亀島「楽寿亭」に続く橋を渡る→

昔は舟を出して周囲の庭園を鑑賞したようだから、この橋の下なんかもスイスイ〜ッと通ったんだろうね(^^)。
あとここでは2月、雪の中を「絵蝋燭まつり」が行われ、雪の湖面を蝋燭の火が囲み、「楽寿亭」が幽玄の中に浮かぶ光景が美しいと聞く。
あーーーっ、さぞかしキレイだろうねっ(≧▽≦)。

さて「楽寿亭」(数寄屋造り)に来ると、中には入れないが部屋の中はよく見れる。
1636年に出来、3代正容によって命名。以後、藩主や重役たちが、納涼・茶席・密議・などのために用い、書院・御慰所としても使われた。

戊辰戦争では、西軍傷病者の診療所にもあてられたので、辛うじて戦火を免れた貴重な建物でもある。
北側の濡れ縁には戊辰戦争の際の刀傷が今も残る。

楽寿亭」内部
戊辰戦争の時の刀傷

中には掛け軸があり、日新館における「童子訓」(松平氏5代容頌の著)の一節が書いてあった。
「人の子たるもの父母常に居給ふ畳に仮初にも居べからず。道の真中は尊者の通り給ふ所ゆゑ片寄通るべし。我家の門とても中央は通るべからず。君門はなほさらのことなり」

何しろ「邪魔だ、端に寄れ」と(^^ゞ。あ〜いいねぇ。公園でも公道でも駅でもこれを掛けて欲しいものだわ(爆)。
今でもこういう教育がされてるのか、さっきの実に謙虚な可愛らしい子供達を思い出した(^^)。(でもこの辺りで端に寄ると、ボチャンと池に落ちるから気を付けてね:爆)

亀島から見える周囲「心字の池」。

亀島から戻って、先のルートを行く。

朝日神社
左「御茶屋御殿」と振り返る「楽寿亭」

この「朝日神社」は窺い知る限り、この御薬園のある場所で一番古い痕跡ではないかと思われる。

もう超えて来てしまったが(^^ゞ、ここに到る途中に「鶴ヶ清水」という池(「心」の左の点に当たる)があり、そこは芦名直盛の時代(1300年代ごろ)、野生の鶴が十数羽いた。
その頃、近くの農家の喜助という者が病に冒され、朝日老人という白髪の人が介護した。喜助は快癒したが、それを見届けた朝日老人は世を去った。喜助は朝日老人を葬り、祠を建てて「朝日神社」を、病を癒した霊泉として「鶴ヶ清水」と名付けた。

この伝承は長くこの地にあったのだろう。芦名盛久はここを別荘地にしていたようだが、その後長く戦乱で放置され、改めて会津松平氏によって「御薬園」(病を癒す薬草を栽培する地)と庭園別荘地に選定された所以になったようだ。

←さらに先に進むと道が左に食い込んで「枯山水」を迎える。
その辺りから振り返ると「楽寿亭」と、今度はその右に渡り橋が見えてくる。↓

そして「心」の右の点に相当する池(木橋の右・パノラマ2枚)。

池には大きな鯉が沢山(^^)
そして「御茶屋御殿」に到着(亀島から撮影)

「ここでお抹茶とお菓子を頂くの〜(^O^)/!」
「ワンワンワン!▼o・ェ・o▼」
←というわけで、ベルを鳴らして係の人にお出まし願い、中に入れさせて貰い、オイシイ御茶タイム(#^.^#)。
↓お抹茶と黒胡麻風味の羊羹。美味しかったよ〜♪

ちなみにここ「御薬園」では、今も健康にいい薬膳料理が食べられ、薬草茶や喉飴も売っている(^^)。
料理の方はさっきの「重陽閣」で、会席・薬膳・法要の膳で2000〜4000円ぐらい。宴会(夜)は5名から。入園料も込み。

薬草茶は、この「御茶屋御殿」の裏に売店があって、ハブソウ、ハトムギ、クコ、柿の葉、サンザシ、カワラケツメイシ、イチョウ、アカマツ、チンビ、クマザサ、甘草、朝鮮人参、ドクダミ、弟切草などを、20種類以上にも及ぶそれぞれのブレンド茶で、体調や体質にあった物を選べる。

ちなみに薬草の中でも特に朝鮮人参は、三代正容が貞享年間(1684〜1687)に試植し、1800年代、家老の田中玄宰が、出雲から大量の朝鮮人参を買い入れた。
5代容頌をはじめ多くの抵抗を受けながらも、保科正之いらいの風潮を変える藩制改革を成し遂げた田中は、ここでも栽培のみならず、薬効の研究や偽物との鑑別など、その後の医療や制度に通じる偉業を果たした。

←お茶を喫しながら見る池と「楽寿亭」、その背景には「背あぶり山」(^^)。
↑ご馳走様〜と去る「御茶屋御殿」。

ここは市民ボランティアで歴史講座もやってるらしく、結構1日過ごせそうなスポットだと思った(#^.^#)。



<天寧寺>

地図B←だいたい中心点のある辺り(^_^;)。
これまで廻ってた所からそう遠くなく、徒歩で廻る人でも来やすい所だと思う。
この周囲は「会津の歴史を訪ねる道」という指定ルートで、程良い狭さで車がブンブン通るでもなく、いかにも歩くのに気持ち良さそうな散策路がある。

ここに来た理由は、事前に知った限り、芦名氏にゆかりの寺がここしか見付からなかったから(^^ゞ。
どうもこの辺りの多くの寺は、あまりガイドに載ってない感じがするが、まぁ会津若松は名所旧跡が大変に多いので、そういう事情も勿論あるだろうね(笑)。

到着「天寧寺」(パノラマ2枚)。

萬松山、天寧寺は、1400年代の11代芦名盛信の建立と多額の寄付により芦名菩提寺として、会津にきた南朝の忠臣・楠正成の孫、傑堂禅師が創立。曹洞宗。
かつては末寺33カ寺、12の寺院、雲水は千人をかぞえたが、伊達氏の侵攻で焼失。この本堂の礎石に痕跡が残るのみという。

で、芦名に関してはそれだけで(^^ゞ、案内版には芦名の事は触れておらず、それより来た途端「はいコチラ」とばかり、矢印によってドンドン「近藤勇の墓」に行かされる(笑)。

ちょっとだけ特筆しておくと、この寺はわりと高台にあり、駐車場からは会津若松の町が一望できるのだが、近藤の墓に行くと、さらにもっと高い所(……ってか山だなあれは:笑)に到達するので、風景はそこで出させて貰おう。

寺の右に登り道が始まっていて、まずは墓地に向かう。

枝分かれがあり、案内版では「左に近藤勇の墓、中ほどに家老田中家の墓所、右に家老萱野父子の墓」の道筋が書かれていた。

萱野父子については寺の前に説明版があり、またこの道中にも右の通り「会津士魂」という作家・早乙女貢さんの建てた碑があって、そこにも説明があった。→

近藤の墓まで行ってみて「距離がある(^_^;)」と悟ったので、この枝分かれ道をもう一方にも行くのは諦めた。

帰って来て調べた所、どうもこの萱野父子の墓は、やはりかなりの距離であるらしい(^_^;)。
子の方の墓はすぐ判るという事だが、父の墓が見付からなかったという記述も見掛けたので、頑張って行っても途中で断念したかも。。

というわけで、墓参は適わなかったが、この萱野父子について書いておく。

父・萱野権兵衛は、戊辰戦争の時、会津藩の国家老で実際責任者として激務にあたり、その後の敗戦処理に際しては、城明け渡し、藩主父子や藩士の助命嘆願などに力を尽くし、自ら進んでその責任をとり、1869年5月18日、江戸にて切腹した。

子・萱野乙彦は権兵衛の次男で、敗戦の責を負った父の姓を名乗れず、母の姓に改め「郡長正」と名乗った。
1870年小笠原藩(福岡県)の「育徳館」に留学し、会津藩士子弟7名とともに教育を受けた。
ある日長正は母から戒めの返事を受け取り、それを落として、小笠原藩士(小倉藩)の子弟に大衆の面前でののしられ、会津の面目を保つため、1871年5月1日に切腹。16歳。

父の萱野権兵衛についてはこの通りなのだが、子の郡長正については諸説あるらしく、ネット上でも色んな論説を見掛けた(゚.゚)。

まず上に書いた筋立てだと、母に書いた手紙には「(会津名産の)干し柿を送ってくれたら、みんなも喜ぶ」とあるらしく、それに対して母の手紙には「斗南藩(東北の下北半島)の会津藩士は皆、貧窮して飢えているのに」となじる言葉があるともいう。長正は母の教訓を忘れまいと手紙を常に携帯していたともいう。

会津からの留学生は文武に優れていたので、日頃から小倉藩(福岡県)の子弟達に妬みを買っていて、手紙を元に「会津は餓鬼道に落ちた」と罵倒された話、長正は切腹の前に、剣道の大会に出て次々と圧勝して会津の面目を施した、という話がつくらしい。

その一方で、長正を切腹に追いやったのは同じく留学していた会津藩士の子弟だったという話、長正達が戊辰戦争中の小倉藩の身の処し方を非難したので、小倉藩の教師が「会津藩の再興に励め」と教え諭した所、自分達の知らない苦労を背負って世話をしてくれた小倉藩の恩義を改めて知り、報いて謝罪の意を顕すために切腹したという話も見掛けた。

実は、白虎隊の生き残りが長州に連れて行かれ、後に「死なずに済んで良かったな」と言われた途端、おもむろに切腹しようとしたという話も見掛けた事がある。

このように「会津と言えば切腹騒動」になるのは、実際に白虎隊に知られる通り、そうした気質があったからという感じもするし、他方、長く賊軍の汚名を着たまま各地で孤立して生きざるを得ず、自殺に到るほどの困難を「気質」で片付けられているだけという感じもして、賊軍ゆえ汚名に脚色されたのか、切腹ゆえ美談に塗り替えられたのか判らない(^_^;)。

また母子の手紙は存在しないという話も見掛けたが、斗南藩の窮乏は事実であって、藩士の命乞いのため切腹した萱野なのに、斗南に行かされた藩士達が飢え死にするのでは、家老の妻が嘆くのも、家老の息子が思い詰めるのも、個人的には「無理も無い」と思える。

長正は、戊辰戦争では母子ともに自害する直前で敗戦が決まったとも言われ、元々父の後を追って死ぬ心をどこかに秘めていたのかもしれない。
事件の起きた小倉では、長正を手厚く葬り、毎年その死を悼み、会津武士の死に様を称えて今日でも脈々と伝えているという。

さらに行く。途中の看板に「獅子桜」とあって、恐らく「天寧の彼岸獅子」について書かれてたのだろうと想像する。
これは春の彼岸の18日から24日まで、蚕養(こがい)国神社に舞を奉納し、さらに市内を巡って舞うもので、舞は「庭入り」「大桐」「弓舞」「幣舞」「袖舞」を代表として、獅子は太夫、雄・雌の三名でそこに幣舞小僧が付き従う。

獅子舞ではあるけど、よく見掛ける胴体部分に二人ぐらい入ってるのではなく(あれは西日本が元らしい)、一人で一体を担当する(東日本に多かった型らしい)。

当地で見た写真では、獅子の髪が真っ黒で何か恐ろしげでもあり、パッと見が「ナマハゲ」のように感じた(^^ゞ。
戊辰戦争ではこのナリで敵の包囲を突破し鶴ヶ城に入ったので、松平容保から誉められ、特別に「葵紋」を下賜されたそうだが、いきなりコレが現われたら、何が来たのかわからず、驚いて思わず道を譲ってしまう気もした(笑)。

さて! 近藤勇の墓は……
行っても行っても標識が続く!

まだねっ、まだ行くのねっ(笑)。それにしてもよく案内を欠かさない事(゚.゚)

確かに途中で「こっちでいいのかな(^_^;)」と不安になる道ではあるけど、その不安に答えるように「近藤勇の墓→コチラ」が出て来て、すっっごく念の入った案内に感心した!
まぁ〜ここにはそれだけ人が来るんだろうなぁ(^^ゞ。

で、到着。細い道を行き、植え込みのある所で右に登っていく。
周囲には凄く沢山の案内版などがあり、墓には参拝記帳のノートなど置かれて人気を物語る。

近藤勇の経歴を書いた説明版を読んで驚いたのは、会津の出来事とはそれほど密接でもない天然理心流や道場の事、隊士の事、そして京都「池田屋」に到る過程の記述などが、物凄く詳細にビッシリ書かれていた事!

←左・近藤勇の墓、右・土方歳三の碑
土方の墓らしきは「近藤勇没後120年慰霊祭記念・昭和63年4月25日」とあった。
↑眼下に臨む会津の町

説明版も文章も膨大だったが、だいたいまとめさせて頂く(^^ゞ。
近藤勇(藤原昌宜)は、1834年10月9日、現在の東京都調布市に宮川久次郎の三男として生まれた。幼名は勝太。
15歳で天然理心流の近藤周助の代稽古をつとめ、周助の依頼で17歳で近藤家に養子入りして、近藤勇と名乗り、試衛館を継いだ。

沖田、土方、山南、原田、藤堂、井上、永倉(客分)を率いて上洛し、新選組を結成の上、1863〜1867年の5年を経た。
中でも1864年6月20日、京都御所に放火し、朝廷を取り戻そうと図った長州などの志士を惨殺・捕縛した「池田屋事件」における活躍が有名。
しかし1868年の鳥羽・伏見の戦いでは、新式火器の前に敗走、江戸で甲陽鎮撫隊を編成して甲州に乗り込んだが敗戦。流山に再び集結した時に、元隊士の密告により薩長に捕らわれ、土佐藩谷千城の厳命で斬首に処せられた。命日は4月25日。

4月4日辞世
孤軍援絶作俘囚、顧念君恩涙更流
一片丹衷能殉節、●陽千古是吾儔
靡他今日復何言、取義拾生吾所尊
快受電光三尺剣、只将一死報君恩
(●は「唯」の「口」が「目」)

この墓は、松平容保の京都守護職時代に新選組がその配下にあった事から、会津藩の手で建立された。
墓石には「貫天院殿純忠誠義大居士」の法号と、その上に丸に三つ引きの近藤家の家紋が彫られている。

遺体は、胴体が東京三鷹市の龍源寺に埋葬された(「貫天院殿」が「心勝院」に、以後は「大勇儀賢居士」と続く)。
首は京都三条大橋の下に晒され、持ち去られたとも言われ、愛知県岡崎市本宿法蔵寺に「首塚」がある(「純忠誠義大」の部分が「純義誠忠」になってるらしい)。

近藤の「局長」のすぐ下で「副長」の任にあった土方歳三義豊は、流山で近藤に袂別し、その後の転戦の途上、この会津でも戦闘に参加した。
その際に「天寧寺に逗留しこの墓に参詣した」「近藤の遺髪(あるいは遺品)を埋めた」「仮埋葬した」「首塚を建てた」「戒名の書写を松平容保に依頼し、この地に墓碑を建立した」と色々な説が書かれていた。

土方はその後、北海道箱館(函館)一本木付近にて被弾して戦死。1869年5月11日。
この慰霊碑には「歳進院殿誠山義豊大居士」とある。

近藤勇の墓は他に、東京都板橋区東口駅前の処刑の地にもあり、そこに土方の墓もある。
また、その板橋駅前の寿徳寺境外墓地にある墓碑があり(諱が近藤勇「宜昌」とある)、これは隊士・永倉新八が発起人となり松本良順や斉藤一らの協力を得て造立された。



<大龍寺>

お寺の前に咲き群れるコスモス(^^)。
そして「大龍寺」に到着→
地図C←この辺。だいたい近場を廻ってる(^^ゞ。

藩祖保科正之によって開かれた由緒あるお寺で、山形より正之に従って会津入り した機外禅師が開山。
京都高尾・嵐山より移植した「大龍寺のかえで」や、先ほどの「御薬園」でも紹介した目黒浄定作の庭園があるそうだ。

山門への石段
城壁のような寺の石垣
鐘楼

入ってスグ顕彰碑(お墓かな)で「伊東正義」の字を発見。後で会津出身と知った(゚.゚)。
一度ぐらい内閣総理大臣をやった感じに思える人だが、実際その職についた事はない(^^ゞ。つまり「臨時首相代理」を果たし総理を待望されつつ、かたくなに固辞した。真面目で清廉な印象の残る人だった。
会津かぁ、道理で、と納得(「ならぬことはならぬっ!」とか言ったのかなぁ)。

←山門くぐって正面に大きな本堂。

↓境内の檻には、なんと白と天然色のクジャクがっ(゚.゚)。

本堂に「幽霊の足跡」というのがあるらしく(゚.゚)、ちょっと見てみたかったが、言えば見せて貰える物か判らなかったし、そろそろここでタイムアップ。
少し暗くなって来て次に向わないとヤバイので、「小笠原長時の墓」だけ拝んで去った。

小笠原長時と室と息女の墓
長時は信濃守護で、松本城(深志城)城主であったが、武田信玄との戦(塩尻峠)に敗れ、奥州に落ち延びて芦名氏を頼った。

実は最初この寺に小笠原長時の墓があると知って「あ〜じゃ上杉氏の会津転封にくっついて来たんだな」と単純に思った。というのも、この名は上杉謙信を頼った信州豪族の一人という認識があったためだ(^^ゞ。

で、それはその通りなんだが、どうも謙信の死の前後、小笠原長時は放浪していたらしく(^_^;)、最後に頼ったのが芦名(村上→上杉→三好→上杉→芦名)という事らしい。景勝に放り出されたのか、「御館の乱」で反景勝(北条景虎の味方)に廻ってたのか……。。
長時の三男貞慶が松本城に復帰した一時期があり、そのため帰国がかなう矢先、侍臣坂西氏により殺害された。

長時は礼法・弓・馬術を極め、いわゆる小笠原流を大成した祖と言われ、足利将軍を指南してた事もあったという。1583年2月25日没。
400年法要記念の石碑があり、漢詩が刻まれていた。

曽是南矛北戟天
間関千里亦因縁
英魂不死今猶昔
日炙雨淋四百年

当初めざしていた「芦名氏ゆかりの寺」には、この墓を通して何とか出会えたわけだ(^^ゞ。



<夜道を一路、山形県「白布温泉」へ>

↑実は、この後でさっきも言った「神指(こうざし)城」(建設途中だった上杉の城の跡)に一度向ったんだが、場所がわからずウロウロしてる間に日も暮れかかって来たので諦めた(^^ゞ。

亭主は当初、会津には殆ど思い入れがなかった癖に、来てみたら去りがたかったようで(私もだけど(^^ゞ)、「もう一泊会津ってワケには行かないよね〜」と残念そうだった。

既に日も暮れ始めていたので、湖面は殆ど見えなかったが、せめて猪苗代を廻ろうという話になって、喜多方には出ず、猪苗代からいきなり北上する山越えルートを使った。地図D 会津若松(地図)→猪苗代湖(地図)→五色沼(地図)→白布温泉(地図

この夜泊まる予定の白布温泉の人も、これまたとても親切で「ずいぶんな山道ですので、くれぐれもお気をつけて。ゆっくりおいで下さい」と優しく答えて下さった。
……本当に結構な山道だった(゚.゚)。「日がある内だったら、この辺りも良さそうな感じだねっ」と、これまた残念がりながら(笑)、霧の深まる県境を越えて白布に入った。ここはもう山形県(^^)。

到着した時はトップリどころかだいぶ夜更け。8時過ぎてしまった(^_^;)。。あ〜〜スイマセ〜ン!!

わ〜いお腹空いたーっ! おおおお米沢牛だぁ!!(爆)

というわけで、白布温泉から以降は次回に続く(^^ゞ。次回で終われるかチト不安になってきた(^_^;)。

<つづく>

2007年03月07日(2016/04/14:地図(ヤフー→MapFan)張替)
 
     






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