<2003年・城主のたわごと5月>




は〜、出来た出来た。5月終わっちゃうかと思いました(^_^A)。

ちょっと長いけど、館山(無理やり)終了編であります(笑)。




     
  さて、約束通り館山城レポ開始(笑)。



<館山城・博物館>

9時開館。それまでに昨晩夜明かしした駐車場にもう一度戻って来る。
車を下りると、明け方地元の方々がお惣菜市場を繰り広げていた広場を通り抜け、ダラダラ坂を上がって、まず博物館を見学。

縄文時代から始まって、この安房が「阿波」と同じ音である事や、出土品が多い事から、ずいぶん古くから人が渡り住んでいたことが説明されていた。
前の晩トンカツ屋さんで見掛けたお客さんや店員さんには、何となく松戸あたりの人とは少し違う感じがしたのを思い出す。顔と言い体つきと言い、人柄も、大らかな感じの人が多く、それが何となく海外旅行にでも来た気にさせられたが、この別世界がそれほど古くからあったというのは感慨深い。

里見氏の時代はさすがに展示物も内容も豊富だった。
里見氏は1400年代中頃に安房にあらわれた義実を祖として、成義、義通、実堯、義豊、義堯、義弘、義頼、義康、忠義と続いたが、従来いわれてきた流浪の果てに安房に来た説は否定され、管領上杉氏を牽制するために足利氏に送り込まれて来た、という説が今では有力視されているとあった。

また義通の後を継いだ弟の実堯は、義通の子の義豊に殺され、この義豊を実堯の子の義堯が殺して乗っ取り返し、里見氏は直系から傍流に家督が変わったために、それまでの歴史を改竄されたとあった。この義堯から北条氏との40年にわたる抗争が起きる。

義弘の代に北条とは和睦し、その次の義頼が優れた政治家で、1585年秀吉が関白になると、すぐこれに服属した。
しかしその次の義康は、秀吉の小田原征伐の折、足利公方のために鎌倉を取り返そうとして秀吉の怒りに触れ、上総を召し上げられた。家康が上総に入って来たのは、このタイミングのようだ。

家康が豊臣征伐のために大阪の陣の陣触れを発する一ヶ月前、里見忠義は大久保忠隣との連座の罪を着せられて、家康に伯耆倉吉へ移封される。表向きは3万石という前触れだったが、実際には囚われの身にすぎず、忠義が死ぬと、実子の無い事を理由に里見氏は取り潰され、館山は徳川の勢力によって統治された。

安房一国になったとは言え、海上ルート確保によって交易も防衛拠点も優勢な里見一族は、豊臣氏を討とうとする徳川家にとっては危険な存在だったに違いない。
案外里見を除きたいがために、大久保の方がチャチな濡れ衣を着せられたのではないかとすら思えて来た。
自分以上に確かな新田の子孫にして、代々関東の覇者という点も、家康にとってはヤバかったかもしれないし(笑)。



<館山城・天守閣>

博物館では紙甲冑の会場が設けられ、そこで甲冑の試着会をしている様子だった。私達は売店で書籍を買うと、さらに坂を登って天守閣に行ってみた。
すると、城のある広場でも、紙甲冑の人が観光客に鎧を着せて記念撮影していた。→

天守閣の中は『南総里見八犬伝』の史料展示コーナーになっていて、NHKでやった人形も展示されていた。子供が喜んで、親に質問しながら見ていた。
ところが1階のテレビが置いてあるコーナーに行くと……そこには何とも異様な熱気が立ち込めていて、なぜか大人ばかりが詰め掛けている。

よくよく近付くと、『新・八犬伝』(昔NHKでやってた人形劇)が放映されていて、見ている大人達は何となく年代が一定している(笑)。
テレビの前から動かなくなった両親を、子供が「もう行こうよ」と何度も催促しに来るのに、親どもは子供の要請には上の空で、もはやかつての子供時代に戻りきってテレビの前にクギ付け!
城とは人をタイムスリップさせる建物だと、この時ほどつくづく感心した事はない(笑)。

天守閣最上階は展望台となっていた(いずこでもそうだろうが)。四面の風景を撮影。↓
最後の写真にある海の近さには、本当に驚いた。天守閣からこれほど近くに広い水面を見たのは、琵琶湖に建つ長浜城以来だろうか(湖見えたっけ)。

天守の側にあった案内板には、以下の事が書いてあった。

「 館山城跡は里見義康公・忠義公、居城跡で、房総における里見氏終焉の地であります。  館山市は由緒あるこの地を永く記念するとともに広く皆様に楽しんでいただくために城郭様式の博物館を建設しました。
  建物は城郭研究の権威・藤岡通夫工学博士(故人)の考証によるもので二重櫓に入母屋の大屋根をかけその上に小望楼をのせた天正年間の天守の姿にしてあります。

竣工 昭和57年3月31日
開館 昭和57年10月30日
館山市立博物館」

さて、ここを出たのが、そろそろ正午ごろだったろうか。そろそろお腹も空いて来た。



<館山城・茶室>

天守閣を出て階段を降りると、すぐの場所に茶室がある。何となく中を覗いていたら、女性が出てきて、
「これよりお茶会がありますが、予約は取られてますか?」
と聞かれたので、
「いいえ(^_^;)」
と答え、慌てて出て行こうとしたら、その女性、
「今日は子供の日ですし、予約は無くてもいいですよ、どうぞどうぞ」
と中に招き入れてくれた。

……子供の日だから、というのはどういう意味だろう(^^;)。
そういや前、子供の日に、子供料金で仙台青葉城の博物館に入れて貰った前科があったな(爆)。

中では柏餅が振る舞われ、おいしい濃茶を頂き、その後つづいた茶器や香、書の鑑賞会などにも仲間に入れて貰って、こたつ夫婦は上機嫌で茶室を出た(笑)。

博物館とは反対の方向に下りて行くと、やがて以下の標識に出会う。↓

これが世に聞く「八犬士の墓」かと思い(笑)、歩いて行くと、墓に到る前に下におりる階段を見つけ、降りてみた。



<館山城・御殿跡>

下の写真の通り、何とも美しい庭園風の風景が広がっている。ここは御殿の跡が見付かった所らしい。以下の案内板があった。

「市指定史跡 館山城跡(昭和35年6月16日指定)

伝 義康御殿跡

  館山城は房総里見氏第九代義康が築城し、第十代忠義公が伯耆国(鳥取県)の倉吉に移されるまで、27年間里見氏の居城となっていた。
  館山城跡については、昭和52年度、53年度、54年度と三次にわたり学術調査を行ったが、城山公園梅園造成を行うにあたり、この地区が義康御殿跡と推定されるため、特に昭和61年度、第4次の発掘調査を行った。その結果、5間×4間(約66平方m)、または、5間×5間(約82平方m)の建物跡などが立て替えられた状況で発見された。
  ここに示したのは、発見された建物の一軒で、その位置には「石」を設置して表示したが、すべて「礎石」を用いた建物跡ではなく、一部は掘立柱を併用している。
  この建物跡で、ここがただちに義康公の御殿跡ときめることはできないが、館山城の一時期における中心的な建物跡ではないかということはできよう。

館山市
館山市教育委員会」




<館山城内・八遺臣の墓>

やがて、「八遺臣の墓」に到着。

まず上から見下ろせる。↓ 下に降りると、8個綺麗に並んでいる。↓
↑この人影が見えるだろうか。このオジサン、まるで墓守のように、お墓の前で我々が降りて来るのを待っていたのだ。

そしてごく自然に「このお墓はね」と語りかけてくれたのだ。
この時には特に違和感も無かったし、特別印象に残る記憶になるとも思ってなかったのだが、今振り返るとこのオジサンに聞いたいろいろな話は面白かった。
この城は広いので、ここに来てから、ただジャンジャン写真を撮って前に進むだけだったのが、このオジサンの説明で、しっかり脳裏に館山城と里見氏の歴史が残って帰れた感じがする。

このオジサンは、元は東京に住んでいて(今でも船で東京にいけると言っていたが)、ここが暖かいので引っ越して来たらしい。
もっともこの辺りに元から縁のあった人なのだろう。ヤケに城の事に詳しく、少しゆっくり話を聞きたい気すらした。 特に、
「この尾根の先に、戦になったら密かに移動できたと言われる道があって……」
なんて話。……この辺りの郷土史家じゃないのかっ?(笑)

オジサ〜ン! 又来るからね〜!(爆)

さて案内版。↓

「八遺臣の墓

  大坂城の豊臣方との決戦を目前にした徳川幕府は、関東御府内外様大名取潰しの策を回らせた。この策により改易を命ぜられ、伯耆の倉吉に移された房総里見氏十代忠義は、憂悶のうちに元和八年(1622)29才で倉吉在の堀村に卒した。この悲運の主君に従って殉死した八人の家臣は、その氏名は不詳であるが、四字の戒名の上と下に必ず心・賢の二字が配されているのは、何を暗示しているのであろうか。慈恩院に伝えられた話によると、房州にあった里見氏の遺臣が主君忠義と八人の殉死者の遺骨を房州に持ち帰るべく猟師の姿に身をやつして、遥々倉吉の大岳院の墓から蛸壺に分骨して帰り、ひそかに館山城の南麗(「麓」の間違いでしょう)に埋めたのが、この八遺臣の墓であるという。この八人の殉死者が、八犬士のモデルであるとも伝えられている。

平成3年2月 館山市」


猟師に身をやつして元主君の遺骨を迎えに行く。……単なる忠臣物語に思えそうだが、この地に来てしみじみと、ただの個人的主従感情では済まない事だとわかる気がして来た。
この地に素晴らしい繁栄を齎した時代への郷愁と、その名残を求める熱意だったに違いない。



<崖の観音(大福寺)>

館山城を出ると、午後を回っていた。
「海の家〜!」
と我々は合言葉のように叫びながら車を飛ばす。
……つもりだったが、さすがはGW。出るや大渋滞に見舞われた(汗)。

ここに来る時、前日の事だが、下の写真にある建物が目に入って気になったのを記憶していた。
夜になって買ったガイドブックによると、ここには観音堂があるらしい。
しかし到着して改めて見てみると、見れば見るほど物凄い建物のように思われる。ガイドブックには行基が717年に開いたとあった。
行基だ? ホントかっ?! と、腹の空くのも忘れてつい訪れる。

かなりの坂道を上がって行く↓ 岩に張り付いている建物が見えて来る↓
やがて案内板に出会う。

「磨崖十一面観音立像

この像は、大福寺背後の崖面中段に、石龕(石の厨子)をつくって像容を浮彫りにした磨崖仏です。像を覆う観音堂が断崖の中段に飛び出すように建てられていることから、一般に「崖の観音」とよばれ親しまれています。
像高は131mで、舟形の光背を背に、二重蓮華座の上に立っています。磨耗が激しいので表情はよくわかりませんが、頭上に菩薩面を刻み、左手に水瓶をもつようすや、着衣のひだなどが確認できます。膝の下にひも状の太いひだをつくり、腰の幅を広くしたスタイルに、平安時代中頃の様式が窺えますが、全体の痛みがひどいため、制作年代を確定することはできません。
寺伝では、漁民の海上安全と豊穣を祈願するために作られたとされています。

館山市教育委員会」


と書かれた案内板を通り過ぎ、本殿らしきお寺が見えて来る。紋は桔梗紋だったかなぁ……。→
何しろ、この前を通り過ぎると、さらに上り坂があり、上りきるとさらに昇る階段がある。

これだ。↓先に建物が見える。 階段を登る前にちょっと横を見ると、もう海が……↓
建物の中に入れた。
おおっ、眼下に広がる海、海、海だぁ〜!(笑)

思わずベランダ(って言い方は無いだろ:笑)に出てしまう。
まあ何しろ、これだけ高い場所から足下に一面の海を見たら思わず壮大な気分になってしまう。

ちょっと下手クソだけど、下のはパノラマ状にくっつけて見た写真。イビツでスイマセン(^_^;)。↓

この建物は、あの海から帰って来た漁民にもいつも真っ先に目に入っただろうなぁ、とつくづく思った。



<エピローグ(笑)>

出し物はコレだけです(笑)。

結局海の家は昼ご飯タイムを終了してしまった(涙)。
その後は富浦までいき、前日も来た「道の駅」のある辺りで、お寿司屋さんに入って美味しく旬の寿司を食べた(#^.^#)。

「道の駅」にも寄って、やっと枇杷ソフトクリームにありついた(笑)。
この「道の駅」、外にもテーブルと椅子を置いてるので、横の風景など見ながら、ちょっとコーヒータイムを過ごしたのを最後に……後はエンエン渋滞に巻き込まれて帰ったのだ(汗)。
帰り道、亭主がどうしても眠くなってしまい、海の家の駐車場に入って仮眠を取った。
起きて、その海の家を覗いたら、「あと二人なら出来ますよ」と言ってくれたので、昼ご飯は逃したが、夕飯はやっと浜料理を堪能〜(#^.^#)。

その後も真夜中まで、エンエン渋滞の中を家路に着いたのであったぁ〜(笑)。

<つづく>

2003年05月30日

 
     






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