<2019年・城主のたわごと8月>




2018年4月、上州レポ第2弾。藪塚温泉〜赤城山〜岩松(太田)

享徳の乱(後半)の激動を生きた、新田岩松氏の軌跡を追う!




     
  前回から、2018年4月に行った「古河〜足利〜新田」編に入っている(^^)。

前回の分は……↓

〜おしながき〜「埼玉〜栃木南編
「5月のたわごと」(古河〜足利〜新田1)
■茨城県古河市〜栃木県足利市〜群馬県太田市
<まずは「古河公方(古河総合)公園」を目指す>
<満福寺(古河公方・足利成氏の墓)>
<古河から三毳山に向かう>
<「三毳山神社」(里宮)と「三毳不動尊」>
<城山公園(佐野城跡)>
<佐野「天命」(天明町)〜足利「只木山」(多々木町)>
<足利(栃木県)〜新田(群馬県太田市)> 
<「台源氏館跡」(新田義貞・誕生伝説地)>
読んでねっ(≧▽≦)!(既に読まれた方は今回のに進んでネ(^^))

前回は、冒頭のみ、地元の桜祭りの様子をレポし、後は↑の通り、まず古河(茨城県)に出て、ほぼその緯度を東から西にズンズン進んだ。

その途上、三毳山・佐野・足利を経ながら、話は享徳の乱初盤一年の戦歴を案内した。
続いて、太田市(群馬)に向かうにあたり、新田岩松氏の歴史を南北朝期ごろまで話した。

最後に、一日目の宿に向かう途中で、今回に引き継いでいる(^^)。

今回は前回の流れを受け、その後の新田岩松氏に焦点を当てながら、前回、途中までで切り上げた享徳の乱の中盤〜後半に話を進めたい。

話は、あっちこっちの地域に跨るが、画像は、薮塚温泉から赤城山に向かい、赤城山で昼食を取り、下山して、再び太田市に戻るまでの風景をお届け(^O^)//

太田市に戻ってからは、「青蓮寺」「義国神社」と、新田岩松氏の史跡巡りを行い、その残りは次回に引き継ぐ。



<藪塚温泉(1日目夜〜2日目朝)>

まず、7年前(この旅行から6年前、レポートは2013年1〜8月)に始めて訪れた時、現地で撮影した写真に字を書き入れた画像があるので提示する。↓


前回の最後、↑ちょうど真ん中あたりの「台源氏館跡」(地図)を訪れた。
その後、宿に向かって車を走らせてる所で、今回に引き継いだ。

今回は、その宿に到着する所から始める。
↑で見ると、上から四行目「やぶ塚温泉」とあるのが、今宵のお宿でありんす(^_^A)

その途中に「金山城跡」(新田神社)があった(↑地図にもある)。
ここには、前回(2012年)訪れた時にも立ち寄れなかったが、今回も残念ながらカットする事となった(>_<)。
太田市は名所旧跡が多いので、共に後の楽しみに残したのさっヽ(`Д´)ノ←負け惜しみ

さあ!行け行けドンドン!宵闇ものともせず、宿(と今宵の夕飯(#^.^#))に向かってまっしぐら!
チャップン。到着→
群馬でも指折りの名湯、藪塚温泉に今夜はお泊り。出迎えてくれたのが、この「ぐんまちゃん」のポスター(#^.^#)

この旅は、前回も書いた通り、三年ぶりの宿泊旅行。
……となると、亭主の希望は勿論、「温泉&山ドライブ」なので(笑)、私も久々にリキ入れて温泉宿を探したの(^^)。

この藪塚温泉(地図)は、「新田義貞の隠し湯」と言われるそうで、それだけでも充分そそられた♪
そのうえ、最後に通った太田市から、山ドライブに選んだ赤城山に向かう、ちょうど移動ライン上にあって便利なのと、それほど高額でなかった事にも気を良くした(^^ゞ

まずは……凄く楽しみにしてた、旅館の夕飯(≧▽≦)!<超久しぶり!
夕飯専用の個室に案内して頂き、次々と並べられたのは……

前菜(つけだし)・煮魚・刺身で一杯やって
鍋料理・煮物・天ぷらと進んで……
締めに、フルーツ・ご飯・漬物・汁物( ^,_^)φ″

我々は翌朝にはここを発ち、赤城山に行ってしまうが、宿の前の駐車場に、絵地図入りの案内板があり、この薮塚周辺に、「勝負沼」「温泉神社」「北山古墳」「西山古墳」「白蛇観音」など、観光地っぽい絵が書かれていた。

観光の目玉は、「スネークセンター」(ヘビ専門の動物園)と、「三日月村」なるテーマパーク。
「スネークセンター」は、もしかしたら、「白蛇観音」にちなんで作られた?

「三日月村」は、小説(笹沢佐保)とドラマの『木枯し紋次郎』の故郷として語られる、「上州新田郡・三日月村」を再現した、江戸村のような所のようだ。
わざわざ、「再現」というぐらいだから、「上州新田郡」までは実在の地名でも、「三日月村」は、創作上の架空の地名だったのかな(^_^;)。

太田市に泊まると、我ら夫婦は、朝夕のお膳を前に、ご飯に味噌汁をかけてみたり、箸を握って口にかきこんでみたり、食後に爪楊枝をブラブラ咥えてみたあげく、

「木枯らし紋次郎、上州新田郡三日月村の貧しい農家に生まれたと言う。
10歳の時、国を捨て、 その後一家は離散したと伝えられる。
天涯孤独な紋次郎が、なぜ無宿渡世の世界に入ったかは、定かでない」

↑これを唱えるのだ(笑)。 *ど〜こかでぇ〜だ〜れかがぁ〜♪*

お部屋から見えた外の夜景(パノラマ4枚180度以上)

温泉にもタップリ浸かったし(((つ^o^)つ
そろそろ、おやすみなさぁ〜い(*´0)ゞファァ~~

翌朝、同じアングルで撮る(笑)(パノラマ4枚180度以上)

おはようございまちゅ\(>_<)/<ノビッ

これより朝風呂に入り、朝ご飯を食べ、荷物を片付けて出掛ける支度をし、お会計して出発するのだが……。

実は今回は、これより行く赤城山の話は一切せず、前回から引き継ぐ、新田岩松氏のその後と、享徳の乱中盤・後半に話を進めたいと思っている。

赤城山と赤城神社については、前に訪れた折にずいぶん話したので、今回は素晴らしい風景(山や森や湖)を背景に、上州の中世史を語るのも良きもの(#^.^#)と思うからだ。

<前に訪れた時のレポ>
2013年1月<東北道〜北関東道>以降
2013年2月・全文
2013年3月・全文
2013年4月・全文←赤城山はこの後半から
2013年6(5)月・全文←この前半まで
2013年7(6)月・全文
2013年8月・ほぼ全文


もう一つ、要らん事を言うと、赤城山の売店で買った、小冊子によると……。

赤城神社に関しては、大洞地図)・二の宮地図)・三夜沢地図)の内、「どれが本社」という論争が古来からあるそうだが、その考え方自体が見当はずれだという。

藪塚温泉のホテル↓到着時は夜だったので朝に撮影
ホテルのラウンジの壁に「太平記」のポスターが!→

それは、赤城山赤城神信仰が、かなり古くからあったためで、「神が神社に住まう」という理屈が営まれる前から、既に麓の各地に勧請が行なわれていた。
太古における信仰では、神は一定の場に留まる事なく、自由に行き来する存在であるからだ。
(実際、大洞の赤城神社は、最近まで今の位置より南の方に社があったのを移動している)

その点、全国の本社論争などある神社は、「神の住まいは定まっているもの」とされた時代以降に起きた信仰スタイルに基づいて、格式を整えているのだろう。

山の神の移動と言うと、季節によって、山にいる時と里に下りる時を分ける信仰スタイルを思い出す。
この点は赤城山も同様だが、一般的には、冬の間は山にいて、春になると下りて、田畑に恵みをもたらすと考えられる。(2009年1月<磐梯山慧日寺資料館>内

ところが赤城山では、冬の間は里におり、春になると山に入ると考えるようで、これを「山開き」の語源に当てはめて書かれていた。

いずれにせよ、山の神とは、麓にいて信仰する対象であり、山の神を祈るのに、誰もがむやみに山に分け入る事が必ずしも正解でなかった。

そういう時代は長く続き、これより語る時代も、当然その範疇にあった。

それが今は、女性でも登れるし、ドライブコースも出来て、その景観を楽しめる時代になった。

それゆえ今回も、これから山頂の大洞赤城神社まで行くわけだが、その風景を見ながら、赤城神社の謂れや伝説・信仰など語ると、いかにも「この風景の中で信仰されたんだな」と思われそうな所は、確かに難点かも(^_^;)。

ホテルの朝食はバイキング→
こたつ城主の朝ご飯(#^.^#)

こたつ亭主の朝ご飯。亭主食い過ぎっっ(≧▽≦)。。

「要らん話」はこの辺までにしておくが(笑)、この先の赤城山の道中、むしろ、「神の視点から見た、下界の人々の歴史」と受け止めて聞いて頂けるとありがたい(^^)。

と言うのも、上州では南端新田氏族にとっても、赤城神社は重要な信仰対象だったと思えるからだ。

私の知る限りでも、新田義貞を含める5代の当主の内、4代(政義・政氏・基氏・義貞)と、傍系の大館家氏が、上に言った、「三夜沢赤城神社」に残る年代記に、修復・参詣・逗留・神馬奉納などを行なった記録がある。

政義┬政氏−基氏−氏光−義貞
   └家氏(大館)

新田氏の慰霊と跡地知行を任された岩松氏は、こうした祭祀の伝統も引き継いだのでは……。

そんな事を想像しつつ、このあと語る岩松氏の歴史に、新田氏の影がチラチラする所や、上州の広い範囲に及ぶ戦歴に言及していきたい。



<藪塚温泉〜桐生市南西部〜赤城山麓>

では、出発(^^)。道は藪塚から桐生市に僅かに入りつつ北上し、赤城山の麓を西に横断して、赤城山の南西部から山頂の大沼を目指す。

宿の東は長く続く森林道
やがて見えて来る町と山の風景

新田岩松氏は、上杉禅秀の乱(1416〜17年)の時、当主の満純が禅秀の娘婿の一人であったことから、戦後、鎌倉公方四代・持氏(成氏の父)により、満純が捕らえられ、鎌倉で殺された。(「上杉禅秀の乱」については→2014年1月<加須市「龍興寺」(持氏・春王丸・安王丸の墓)>内

そのため、満純の子・家純(当時は土用松丸)は、幼くして諸国を放浪し、美濃守護・土岐持益の元に蟄留して成長した。

この家純から起きる系譜を「礼部(れいぶ)家」と呼ぶ。
新田岩松氏は、これで滅亡してしまうわけにもいかないので、この先は、満純の甥・持国の系譜「京兆家」が、「礼部家」と分裂・対立していく事となる。

岩松満国┬満純−家純(礼部)−明純−尚純−昌純
      ├満春−持国(京兆
      |     ↓      ┌宮内少輔(次郎)     
      └満長=持国(養子)┴成兼(三郎)

満純の父、満国は、満純の所領と惣領職を、まず自分の手元に取り戻し、孫の持国(当時は土用安丸)に直接譲った、といわれる。


山岳地を背景に広がる街並
今、桐生市のこの辺(地図

ここで注目すべきは、 満純の弟・満春とその世代がまだ健在だったのに、満春のさらに子である持国に家督が飛んだ点である。

ややこしいのは、満純・満春・満長兄弟とする系図を見る一方で、従兄弟(父同志が兄弟)とするもの、又従兄弟(祖父同志が兄弟)とする物まであるらしく、詳しい血脈関係が不透明な点である(*_*;)。。

さらに面倒くさい事に、先に殺された満純は、実は新田義宗(新田義貞の三男)の実子ともされ、これは、岩松満国の妹が新田義宗に嫁いで、満純を生んだのを、満国が養子に迎えて跡取りにした……とかいうもののようだ。

実は満純の上に「満氏」という嫡兄がいたが、これが早世したので、妹の子(満純)を養子に貰った経緯があるとかいうんだけど……。

これ本当ですかね?(^_^;)。。

嫡男が早世したので、その弟に家督を継承という点までは、どこにもよくある事で、特に訝しいとは思わない。



首を傾げるのは、その弟が「妹の子を養子」あたりと、兄弟・従兄弟・又従兄弟と、系譜が多岐に渡るあたり……何となく裏を勘ぐってしまう。

新田岩松氏は後年、横瀬氏に下克上され、その地位を殆ど横領されてしまう。
その過程において、正しい系譜の伝承が乱されたという線も考えなくない。

というのも、実はこの横瀬氏にも、「新田義宗の子孫」という家系伝承がある(^_^;)。。
学術的に真正面から信用される向きは感じないが、横瀬氏は最終的に極めて重要なポジションを放つ氏族なので、後でこれも話そう。

ただ、もしかするとこれも、元・主家の新田岩松氏にあやかる(その地位を系譜的にも凌ごうとする)意識の顕れから出た伝承だったり?……とか思っちゃう(笑)。

となると、元の伝承を構築した所の、新田岩松氏を直視する必要がある。
……と思うと、「火の無い所に煙は立たない」→「火がある所だから煙が立った」→「うやむやにしたいと思った時点が一番怪しい」という地点に立ってみる必要が出て来る(^_^;)。。



とりわけ「変(^_^;)」と感じるのは、他に岩松氏の男系譜がいるのに、それを排除して、わざわざ新田義宗の子孫を正嫡に据えている点だ。

例えば新田義宗が、何らか大きな勢力か権威か人脈を持つ、当時の実力者であれば、「そういう事もあったかも(^_^A)」と素直に思えるが、幾ら名の知れた英雄豪傑であろうと、次代にほぼ滅亡に至った家系である。

しかも新田義宗の生前といえば、まだ南朝の残党として各地でゲリラ活動をしていた頃だ。
一方、前回も述べた通り、岩松氏は当初から足利氏についていた。
幾らその出身地を共にする同族とはいえ、敵に妹を嫁がせる風景が具体的に目に浮かびにくい(^_^;)。。

勿論、南北朝の間では、双方から和睦のための通話が試みられ、接触が無かったわけではない。
そうした中、両勢力の結節点にある新田氏岩松氏の間で婚姻が試みられる、という一幕も、ありそうな感じはする。
いやむしろ、合一の前段階、婚姻によって調停を進める案が出るのは、有効とすら思う。


左車窓に平原、前方は山岳地帯が見える

ただ、それなら婚姻するだけでいいかも?
新田義貞の子孫を取り立てたいなら、別に分家を興させればよくないか?
自分の家の流れを排除してまで、他家男系の血筋を、家督に据え続ける必要などあるだろうか?
(この辺に関しては、後でちょっと考察を加えたい)

しかし「妹の子を養子」というのも、男子が絶えた家系にはちょくちょく見る例だ。
他の弟たちは、養子を入れた後に生まれたのかもしれない(^_^A)。

それでも尚、首を傾げるのは、他の男子の系譜は史上から一切(※)消えてしまい、養子から継いだ系譜だけが何代も家督継承したあげく、まんまと下克上されて廃れてしまうからだ。
(※、この点についても、後で補足を加える)

しかも、新田氏と岩松氏の間で、代々を通じて縁談を重ねて来たとかならともかく、よりによって「満純」一人に限られてる点が、都合が良すぎる。どこか胡散臭い(^_^;)。

満純と満春や満長を、「兄弟かも」「従兄弟かも」「又従兄弟かも」とするのも、然りである。


アップダウン道の左に見えた「ぐりーんふらわー牧場・大胡」(地図)の風車↓

結局は何もかも、「禅秀の婿」であった「満純」を、他の家族の多くから切り離し、出来る限り遠い所に置いて、連座を避けようとする時期があった、と思えて仕方ない。

そのように感じる根拠は、やはり家督継承が不自然な点にある。
先に指摘した通り、家督は次弟・満春の手に渡ったのではなく、イキナリ、そのさらに子の持国に飛んだ。

それだけに終わらない。
持国を、満春のさらに下の弟・満長の養子につけてから、当主に据え直すという、実に手の込んだ経過を踏んでいるのだ。

岩松満国┬満純−家純(礼部)−明純−尚純−昌純
      ├満春−持国(京兆
      |     ↓      ┌宮内少輔(次郎)     
      └満長=持国(養子)┴成兼(三郎)

何のための紆余曲折か。


まだ桜や菜の花が咲いてたり、レンゲも同時に咲いてたり……

一説に、「祖父・満国が孫の持国に所領の譲状をしたためはしたが、これが鎌倉府(持氏)の容認を得られなかった」とする考察がある。

その点、「満長鎌倉府と親密な関係にあった」というのだ。

そこで、満長がまず満国の所領を有しておき、満国→満長→持国と譲与……つまり、間に満長を通す事で、幕府や鎌倉府(持氏)の心象を和らげ、相伝を成立させ得た、というのである!

……なんだ、やっぱり、全ての原因は、「禅秀与党の嫌疑」にあるんじゃないか(^_^;)。。

人ンチの相伝に、鎌倉公方でも阻止する権利など表面上はないから、祖父から孫へ譲るのは可能なんだけど、心象が悪いと、「禅秀与党ヽ(`Д´)ノ」を口実に急に討伐の兵を差し向けられかねない

繋げて私の考えを言うと、禅秀の乱に加担した疑いの濃い年長者ほど憚る所があった、という事なら、当時の状況が急に思い描きやすくなる(`・ω・)
なぜなら、禅秀の舅筋・武田家も、同じような回りくどい道を模索させられているからだ(汗)。


(項目は変わるけど、享徳の乱と新田岩松氏の話は続きます)



<赤城山を登る(南西ルート)>

前に赤城山に来た時は、宿泊所との兼ね合いもあって、上りも下りも、途中に「三夜沢赤城神社」を経る山道(山頂の南東)を通ったが、今回は南西から登っていくルートを通った。

見事なハナモモの花が並ぶカド↓
赤城道路に入り、馬事公苑(地図)を通る→

上杉禅秀である武田信満は、乱と同時に自刃。
嫡男の信重は出家して、高野山に隠遁。
家督は、禅秀の乱に加担してなかった事が明確な、信満の弟・信元に廻ったが、これには男子がいない。
そこで、信満の次男・信長を一度、信元の養子扱いにしておき、信長の子・伊豆千代丸を家督に据える事で、難を乗り切ろうとした。
(2005年・石和川中島合戦絵巻レポート1<流浪の甲斐守護、武田信重>
2007年10月<真里谷城跡>内


この甲州武田氏の例(判断基準)を、新田岩松氏に宛てはめてみると……。

禅秀の婿で、乱に加担した岩松満純は死刑。
その子・家純の家督は無効。
満純の弟・満春は、乱に加担してないか疑わしい。
しかし満春の子・持国なら、年齢的に加担したとは見なせないので、乱に加担してない満長の養子にして……。

ね、丸きり一緒でしょ(^^ゞ。


飲食店の幟が立ち並ぶ一帯(地図
さらに山の森林道を登ってゆく

武田家の嫡男・信重は高野山に隠遁し、やがて鎌倉公方の持氏に従うより、京将軍6代・義教に近づいた。

同じように、岩松氏でも満純の嫡男・家純は故郷を去り、美濃の土岐氏のもとに蟄留していた所、やはり義教に召し出され、義教の元で元服した。

結城合戦では、武田信重が東下し、上杉方に与したように、岩松家純も上杉方で参戦し、ともに春王丸・安王丸を討つ側にあった。

そして逆に、現地に居残った支流・持国が大いに運動して、成氏を擁立し、享徳の乱がおこると、真っ向から上杉方(とそれに属する岩松家純)を敵に回し、成氏の与党として活躍した。
(憲忠殺害直後の持国は、鎌倉山内の上杉邸に夜討ちをかけている)

同じく武田氏でも、信重の弟、信長は成氏が鎌倉公方になると、すぐ成氏の与党となった。

そして前号に書いた通り、享徳の乱の特に初盤一年において、武田信長岩松持国は、眩しい程の働きぶりで、上野国と鎌倉の上杉氏を、大いに揺さぶるのだ。


周囲の山頂が見える高さに到達
辺り一面、白樺林に取り巻かれる

以上、禅秀の乱をキッカケに二流に別れ、片方が幕府+上杉方につき、もう片方が鎌倉府(古河公方)につく有様、武田と岩松はソックリである。

ただ、上総武田と新田岩松では、違う所もある

甲州武田氏は、兄の信重と弟の信長が、同じ戦場で戦い合った事は流石にないが、新田岩松氏は、礼部・京兆の二流が戦地で激突している。

兄弟(武田信重・信長)と、従兄弟(岩松家純・持国)という、関係の深さの差もあるかもしれない。

武田信長は成氏の政権には、最初(鎌倉公方時代)から参加しているものの、その父・持氏のために目立って戦場に働いた話を聞かない。
持氏の時代の信長は、鎌倉府との戦いに敗れて捕えられ、鎌倉に出仕した事がある程度だ。(その後、出奔して行方不明になったが、京にいたと見られている)

対して岩松持国は、自身が大将となって、禅秀与党(京の幕府から見れば、京都扶持衆)を退治する軍の先頭に立っている。


かなりのピンカーブが連続するので、どの方角を向いてるか不明(笑)

永享の乱で、鎌倉公方・持氏が滅ぶと、続く結城合戦では、武田信重岩松家純も、京幕府+上杉方に加わり、春王丸・安王丸の敵となって、その攻撃に加わった。

この時、武田信長は兄・信重側に属したと見られており(少なくても、春王丸・安王丸の味方をした形跡はない)、信長が関東公方側の武将となって現れるのは、成氏が鎌倉に還御し、鎌倉公方となった時からだ。

対して岩松持国は、結城合戦でも引き続き、鎌倉府側にあった。
永享12年(1440)4月17日、小山城の攻撃は、岩松持国・桃井憲義・結城氏朝らが行なっているのだ。
(この当時の小山氏当主・小山持政は、永享の乱の頃から、幕府+上杉方だった)

一年後に結城城は落城する事となり、桃井憲義は戦死、結城氏朝は自害。春王丸・安王丸は連行され、美濃国の垂井で殺された。

しかし持国は、彼らと共に結城城への籠城はしなかったようでこの敗戦による死没者(戦死・自害・刑死)に名を連ねない。


山頂に近づくと、ナントまだ残雪が!
やがて大沼が見えてくる〜♪

結城合戦の直後に起きた「嘉吉の乱」で、敵の総統・6代将軍義教が死去すると、早くも岩松持国は、鎌倉府再興を目指して、万寿王丸成氏)を新鎌倉公方に据えるべく、その副状を発給している。

もう一つ岩松と武田の違いを言うと、享徳の乱の初盤で、武田信長は上総国に移住し、以後、上総武田氏長南・真里谷)を房総に種まいたため、甲斐国における兄一族との職掌・所領争いから脱皮できた。
(2005年・石和川中島合戦絵巻レポート1<流浪の甲斐守護、武田信重>/2007年10月<真里谷城跡>内

対する岩松氏では、礼部・京兆の二流は、相変わらず上野国の座席争いの渦中に残留しており、これが抗争を回避できない根本事情だったようにも思える。

享徳の乱初盤における持国の活躍については、前回述べたので、今回はその後の岩松氏に進むが、先ほど述べた「岩松二流同志の激突」シーンだけあげておこう。

一つは、今も言った、結城合戦(1440〜41年)が上げられると思う。

結城合戦は、結城城に立て籠もる前に、各所で前哨戦があり、具体的に家純と持国が戦場に居合わせた時期は特定できない。


まず大洞方面を通り過ぎ
正面に小鳥島赤城神社」が!

が、家純は結城城を取り巻く上杉方として陣配置されており、一方の持国は、落城時はともかく、先述通り小山攻撃に率先して参加し、戦後は万寿王(成氏)擁立に活動してる点から、終始、鎌倉府側であった事は疑いなく、この合戦において両岩松氏が敵味方に別れて対峙した事は間違いない。

享徳の乱(1454〜)に関しては、前回も述べた初盤一年において、享徳4年(1455)6月、上野国の「三宮原合戦」、同年7月、同国の「穂積原合戦」が該当する。
持国は鳥山氏・桃井氏と組み、家純は新野氏・渋河氏などの一族を率いた。
(2019年5月<佐野「天命」(天明町)〜足利「只木山」(多々木町)>内

両戦とも、家純の属した上杉方の勝利だった。

発端の成氏側の有利な展開に対して、上杉方からの巻き返しが有効化してきた頃で、憲忠亡き後の関東管領・上杉房顕(憲忠の弟)が関東入りし、特に上野国では猛攻を仕掛けた結果だった。
持国らは力の分散を減らすべく、戦線を手放し、成氏の居る足利に撤退・合流している。

このように岩松持国は、持氏・成氏と、二代に渡る関東公方(鎌倉・古河)を支持しており、それはすなわち、朝廷を背景にした幕府・上杉連合と戦い続けた、という事でもある。


沼を廻り込んで小鳥島(岬)に……
到着。水鳥が泳いでる(^^)

彼がこのように頑張る理由は、礼部家との抗争だけが原因でもなさそうだ。
武田信長のように、別れた家事情の解消のため、ヨソに土地を移すのでは済まない事情が、上野国一帯にあったから、という気もする。

前回、享徳の乱の初盤一年の戦歴を書いた(^^ゞ
そこでも述べた通り、享徳の乱において、上野国内の争奪戦は重要にして熾烈だ。

それは、上杉氏とその家宰・長尾氏の勢力基盤である事と、越後(も上杉氏の地盤)から鎌倉に至る通り道にあたる点も小さくないと思う。

だから上杉氏は、上野国には出来る限りの勢力を確保したいのだが、当地の大名・国人らは、上杉氏が地場を押し広げて来る(浸食される)事に圧迫を感じ、押し返したいと願っただろう。

上杉を叩くための旗頭鎌倉・古河公方)が、全く居なくなってしまうのでは困るのだ。

そのせいか、結城合戦までは、幕府+上杉方についていた小山持政も、成氏が鎌倉公方になると、享徳の乱に先駆けた江の島合戦からは、成氏の与力となってしまっている。

(項目は変わるけど、享徳の乱と新田岩松氏の話は続きます)



<赤城神社(小鳥島)>

今回は、赤城神社については書かないと言ったが、ごく略歴だけ(^^ゞ

赤城神社は、先史時代から信仰されていた形跡が伺われ、中腹の「三夜沢赤城神社」(地図)からは、500年代の土器が発掘され、祭祀に使われた鏡や剣の模造品、信仰対象らしき巨石も発見されている。

ここ「大洞赤城神社」も古くからあったが、大沼に来る前にあった場所は特定できてない。
黒桧山地図)の中腹か、地蔵岳地図)だったのではないかと見られている。

大洞には、大同元年(806)に遷座され、以後、1164年間、鎮座していた。
近年まで長くあった社殿は、江戸初期に再建されたもので、300年近くたって老朽化し、赤城山の厳しい環境による荒廃も認められたため、1970年、この小鳥島に再建された(地図)。

この小鳥島には、以前は厳島神社があったようだ。
(「神道集」の赤城姫の話の最後に、「小鳥島」の地名が確認できるので、南北朝期にはこの名で呼ばれていた事がわかる)

ここには社殿の他に、土の下から埋鏡が見付かった事を示す石碑も立っているが、この埋鏡奉納は、この大沼で、平安期から江戸時代まで続けて行われた神事だった。

以上。話は、岩松氏の歴史に戻る(^^ゞ

かつては島だった「小鳥島」。土砂の堆積で岬になった(パノラマ4枚180度以上)

武田信長にせよ、小山持政にせよ、朝敵の汚名を恐れず、成氏軍に加わった力点の一つに、鎌倉府側に立って尽力し続けた岩松持国の存在感は小さくなかっただろう。

その岩松持国幕府+上杉方に寝返った時、周囲は動揺しなかったのだろうか。

前回も述べた通り、享徳の乱初盤に顕れた天命・只木山の地名が、再び顕れた時(文明3年=1471)、岩松氏はそこを占領しており、それも上杉方として登場するのだ。

ただしこの時、岩松持国は、(恐らく)この世の人ではなく、岩松家の当主は、礼部家の家純に定まっていた。

経過を述べる。

前回書いたトコまで遡ると、乱初盤の一年(1455年)は、成氏側も上杉側も、互いに「敵を討ち逃した!」と悔しがりながらも、成氏は古河に落ち着き、上杉は五十子に陣を構えて、その後の長期戦の基盤を、まずは各々確保した。

大きな鯉が餌を食べに来る(笑)
境内に入ります(^^)

その後もまぁ色々あったが(特に房総)、それもそのうち書く機会があったら……という感じで(笑)、総合的には膠着状態

(1457年頃までに)、太田道灌江戸城を作るし、幕府は古河公方に対抗できる足利氏の支流を送り込むべく、将軍(8代)義政の兄・政知堀越公方)の東下を決定。
主に、幕府+上杉方が、長期戦への対応に本腰を入れ始めた。

そして長禄2年(1458)3月、幕府は岩松家純を通じて、岩松持国に幕府につくよう説得を開始する。

ちなみに、ほぼ同時期、武田信長に対しても、幕府から同様の工作が行なわれていたと見られ、この2年後(1460)に出された御内書に、その旨が書かれているが、それに応じる事なく、信長の消息は史料から消える。御内書を受理した前後に他界した、と見られている。

しかし岩松氏においては、具体的に折り合いがついたと見え、同年(1458)5月、持国は説得を受け入れ、幕府軍に寝返るのである。(「長禄の和睦」)


次々と社殿が現れて来る(パノラマ4枚180度以上)

交渉の論点は、家純の支配下にあったと見られる権利の内、
@持国の父(「大光」とされ、実父の満春か、養父の満長を指すようだ)の知行
A世良田家の音寿丸の知行
B慶雲寺(鶴生郷)の寺領
と、どれも新田庄における権益のようだが……。

……だからぁー(^_^;)。
美濃やら京やらに蟄居しとっても、こういう利権を家純が掌握してて、地元が持国の命令に従わないやら、イザ地元で内戦が始まると、長い事、地元を離れてる家純に付き従う一族・家臣がワンサカおるやらの実態が、こういうトコに顕れるわけよ。

どうも私には、家純の握るこの実力の源泉に、動かしがたい惣領・嫡流の血筋がモノを言ってる感じがして、「新田義宗の子孫」は、一時的な(満純一代の)隠れ蓑みたく思えてしまい……。

そりゃ家純の背景には、京の室町幕府(将軍・義教義政)がいるんだから、持国が幾ら地元で「自分が家督!」と言っても、いう事聞かない連中がいるのも頷けなくはないけど……。


建物の一つに綺麗なトイレ施設も
窓からは湖面と赤橋も見える

ここで、さっき「後で考察」とした部分を書く。

新田氏の南朝活動は、成氏の父・持氏が幼くして、そのさらに父・満兼の死去に遭った頃、新田義貞の末裔らしきが捉えられ、鎌倉で処刑されたのを最後に聞かなくなる。

新田庄とその周辺には、残党やその子孫が戻ってきたり、帰農したり、許されて仕官を得たりしてた……と想像する。
そういう人々の旗頭に、「新田義宗の子孫」が必要……とかいう風景なら思い描いてみなくもない。

11年ほど後になるが、文明元年(1469)、岩松家純が金山城を完成させ、その落成祝いの席次に、一族や譜代の家臣の他に、五十子の陣の折から抱え込んだ牢人衆の存在が注目されている。
一族間の内戦を勝ち抜くために、従来の身内周辺のみに頼らず、外からも武力を引き込んだ様子が窺い知れる。

勿論それでも、岩松氏の子孫を押しどけてまで……の説明に足りない事には変わらないが(^_^;)、岩松家の分裂抗争に終止符を打つべく、岩松家の枠外(新田氏族全般)から加勢を呼び込む装置として、「新田子孫」の名乗りが有効……という線ならアリかも(笑)。


真ん中の建物(社務所)からは、本殿の側面が見られる

案外、武田と同じく、「禅秀与党」と目され共に苦労した千葉氏(も禅秀の娘婿)につけられた知恵だったり(爆)

(千葉氏は、広い範囲に一族の裾野を広げているが、重なる範囲で、平将門の子孫伝承が残る事が指摘される。千葉氏から出た相馬氏が「将門子孫」を称している事を原因と見る一方、各地に四散したとされる将門係累・残党の吸収も疑われる)

その一方で、先ほどあげた新野氏・渋河氏のように、岩松の一族や家臣が、故郷に戻って来た家純に従っており、一族・譜代の座席を占めているのだが、ここで、先ほど述べ残した、同じく新田義宗末裔を名乗る、横瀬氏について書いておきたいと思う。

横瀬氏は、武蔵七党横山・猪俣党の流れで、小野姓を称した。
猪俣党の甘糟光忠の子に、惟忠という者がおり、横瀬氏を初めて称した。
惟忠は足利氏被官で、鎌倉後期、足利氏の所領奉行人の中に確認できるそうだ。

それが新田庄横瀬郷だったといわれ、上野国に含まれながら、利根川を隔てた武蔵国側の土地だったようだ。


←伝説の赤城姫の絵姿が描かれた御朱印帳!
(赤城姫の物語は→2013年4月<二泊目・赤城温泉に到着、赤城山の夜>内以降/5月<赤城山頂"大沼・小鳥島"「大洞赤城神社」>内以降)
↑社務所の脇道を進むと、いよいよ隣の本殿(拝殿)の正面に出られる。

この惟忠からなる横瀬氏(「家伝」によると、横瀬時清)に、新田義宗(義貞ともいう)の子・貞氏婿養子に入った、というのだ。
(2013年3月<金龍寺>

<横瀬氏>
貞氏−貞治−貞国−国繁−成繁−景繁−泰繁−成繁−国繁(由良氏)

……義宗は南北朝期、武蔵国にも活動の股を大いにかけていたから、この手の伝説の素地にはなりやすいかも(^_^;)。

同じような婿入り伝承を持つのが、同じ新田系族を称する徳川氏で、南朝残党への探索追及が厳しいため上野国に戻れず、三河で松平氏に婿入りして云々と(笑)。
(2013年2月<得川氏・新田岩松氏塁代の墓>内

何しろ、この貞氏は、先に書いた「上杉禅秀の乱」では、鎌倉公方・持氏に従ったと言い、その功により、新田庄に土地を与えられたようだ。
(当時の鎌倉府の使節に、横瀬と名乗る者が見えるそうだが、貞氏との関係は不明)

このように、持氏時代の横瀬氏は、まだ新田岩松氏と運命を共にしてなかった(^_^;)。


本殿正面。立派だなぁ(^人^)<パンパン
これは小鳥島の多宝塔
平安〜室町期の「埋鏡」「納鏡」がこの地中から発見された↑

横瀬氏が岩松氏に付き従うのは、貞氏の子・貞治(良俊とも)からのようで、それも岩松家純が京から関東に戻って来てからのようだ。

岩松満国┬満純−家純(礼部)−明純−尚純−昌純
      ├満春−持国(京兆
      |     ↓      ┌宮内少輔(次郎)     
      └満長=持国(養子)┴成兼(三郎)

ただし、この頃の横瀬氏は、まだ、岩松礼部家のナンバーツーと言える程の存在にはなっておらず、その前に京兆家との拮抗が当面の課題となっていた。

その京兆家の、持国はその後、どうなったのか……。
上杉方に寝返るのに、その子の次郎(宮内少輔)と三郎成兼)も伴ったが、一年も経たない、翌長禄3年(1459)2月には、三郎(成兼)が成氏方に戻った。

上杉方に留まった持国は、同年(1459)11月には、家純と共に、上野国「羽継原合戦」「海老瀬合戦」で、成氏の軍勢を破り、上杉方に成果をもたらしたようだ。


神道集の赤城の神は竜神。御手水の竜も湖を泳ぐかに見える

しかし、この戦は上杉方の敗北に終わり、その打撃もあって、翌年(1460)、今川範忠は鎌倉を引き払い、駿河に帰国してしまう。

そして、寛正2年(1461)、持国と次郎の父子は、家純に殺されてしまうのだ。
その理由を家純は、「持国が成氏方に内通したから」と述べている。

「死人に口なし」。持氏は殺されちゃったので、内通が本当か嘘かわからない(^_^;)。

戦の駆け引きには長けていても、根が実直な東国武将に比べると、親を殺されて苦労し、放浪し隠れ潜んで育ったあげく、京将軍に見込まれ、「尊敬する人は」と聞かれると、速攻で「足利義教!」と答えちゃうような家純は、とんでもなく老獪な謀略家になっていた感じがする。
(その後の展開と合わせて見ても)

こういうと、持国は、奉公を決めた相手のために常に全力で戦う、竹を割ったような清々しい性格の持ち主のように聞こえるけど、このグッチャグチャに揉めて荒れてる戦乱の関東で、そんな人いるかな(^_^;)、という底意地の悪い疑いが頭をもたげないでもない。


神殿の前は、ゆったり水を湛える大沼(パノラマ4枚180度以上)

……というのも……。
影響の小さくなかろう岩松持国が寝返った時点でも、古河公方成氏の包囲網が狭まったとまでは言えず、実際、成氏が究極の苦境に立ったと見なせる事件が起きるのは、持国の上杉寝返りより13年も後の、文明3年(1471)、先ほども言った、岩松氏が天命・只木山を占領するにいたった一件なのだ。

近頃では、この一件を「児玉塚陣の戦い」と呼ぶそうな……。φ(。。)m
(詳しい内容は、これより順を追って入ります(^_^;)ゞ)

だから、家純の言う「持国が古河公方に通じようとした」というのは、持国のもう一人の息子・成兼(三郎)が手引きしたか何かで、100%嘘ではないかもしれない。

それと持国は、上杉方に寝返る前、成氏相手に、先般の権利関係について依頼を持ちかけていたようだ。
上杉方の方が条件が良かったからか、叛乱勢力の成氏では実行性が不安定だからか、それとも家純の力に押されがちだったからか(この可能性が強そう(^_^;))、上杉への服属を決めたが、それは同時に、家純の家督を受け入れる結果に陥っただけだっただろう。


社殿から見て正面の対岸は
(拡大)かつて社殿のあった大洞

一見、節操なく見える、この転向劇だが……。
実は、常陸の佐竹氏などになると、もっと転向の頻度が凄まじい(^_^;)。。

しかし、その根底事情が、新田岩松氏に非常に似ているのだ(^_^;)。。

佐竹義人(義憲・義仁)は、元々、山内上杉憲定(上杉禅秀の前の管領)の次男である。
佐竹氏に養子に入り、男子のいない義盛の跡継ぎとなったが、これに一族の山入与義が異を唱えて以後、佐竹×山入100年に渡る抗争になる。

義人(義憲・義仁)は、出身が山内上杉氏なので、上杉禅秀の乱でも、その後の持氏による禅秀与党(京都扶持衆)退治でも、山内上杉が鎌倉公方の管領であるから、鎌倉府を支持した。

永享の乱に至って、はじめて山内上杉氏が持氏と袂を分かったので、佐竹義人も持氏を離れ、上杉の属す幕府方に属した。

山内上杉との結びつきを理解してれば、ここまでは、わかりやすい。
ワケわからんのは、ここからである(^_^;)。


(項目は変わるけど、享徳の乱と新田岩松氏の話は続きます)



<赤城山大沼、大洞観光街>

小鳥島の赤城神社から、車でチャチャッと元の方向にバックし、ここ「大洞」で止まる。

大洞赤城神社は小鳥島に遷る前、長くこの辺りにあったので、今もこの区域には貸しボートやワカサギ釣りの宿、土産屋、食事処などが並んで開業しており、いかにも「観光地」の風情を醸している(#^.^#)

大型駐車場から入るこの路地↓を、沼に向かって進み、右折した所で、この日のお昼にした(^^)
その途中のお食事処&お土産屋さんの前に、「おっきりこみ」鍋を食べる「ぐんまちゃん」の幟(^O^)→

結城合戦で、佐竹義人はなぜか上杉氏につかず、鎌倉府(春王丸・安王丸)の側についた。
が、成氏が鎌倉公方になり、江の島合戦が起きると、ここでは上杉方につく。

享徳の乱が起きると、成氏は真っ向から上杉を敵に回しているのに、佐竹氏は成氏の勢いに乗じて、成氏側についている。
しかし成氏の古河公方が成立した頃には、又、幕府+上杉方に戻っている。

このようにワケわからん行動になってしまう理由は、「上杉方にいくと、ライバル(山入)がいるから」と解釈できる(^_^;)。。

佐竹にとっては山入、岩松・京兆家にとっては、礼部家がそれだ。

山入氏礼部家も、終始一貫・幕府+上杉方だった。
上杉陣営から見れば、最初から従っている者(山入・礼部)を差し置いて、昨日今日入って来た新入り(佐竹・京兆)を優遇するわけにいかない。


何を隠そう、こたつ城主は、大の「ぐんまちゃん」ファン(爆)
こちらはさっき通った「馬事公苑」の看板(拡大)↓
路地を←こう来て、カドを←こう右折する→

そこに佐竹や京兆岩松が靡くということは、当然、ライバル(山入・礼部岩松)の風下に置かれる憂き目に遭う。
これは 単純なプライドの問題では済まない。

先に示した通り、それが自分の父の遺領であったり、檀家になってる寺の持ち分なんかが、ライバルの手に渡るわけだ。
そこに住んでる家族は住む所を失うし、父祖伝来の家来なんかは全部、ライバルの家来にならないと、扶持(給料)を保障されない事になる(^_^;)。

家来ごとゴッソリ敵に取られたあげく、その家来たちが新しい主人に、「前の主人を殺して来い」とか言われる図もありそうだ(^_^;)。
ちょっと忘れ物を取りに来た元家来さえゾンビに見える、「極めて深刻な事態」と言って過言でない。

勿論そんな事にならぬよう、事前に十分な交渉を行うだろうし、幕府が乗り出す姿勢に、その保証の裏付けは感じるが、家純による粛清という結果が、何より礼部・京兆の不一致を物語っている。


一番端のこのお店でお昼ご飯(^^)
出入口のガラス戸から見える大沼

ところで、ちょうどこの時期を潮目に、時代は次々と新展開を遂げていくのだ。

まず、寛正3年(享徳11年・1462)に、成氏の嫡子・政氏(古河公方2代)が生まれる。
翌・寛正4年(享徳12年・1463)、成氏が乱の当初から追いかけまわしていた張本人、長尾景仲が死去。子の景信景春の父)が後を継ぐ。

文正元年(享徳15年・1466)、関東管領・上杉房顕(憲忠の弟)と、その父・上杉憲実が死去。
山内上杉家は跡が絶え、越後の上杉房定の子・顕定を養子に迎え、管領に就任。
同年、足利荘に、足利長尾景人が入部。

応仁元年(享徳16年・1467)、京に、応仁の乱が勃発。
この乱の西軍となる将らと成氏の間に、都鄙合体の交渉が持たれていたが、乱の開始で、無期延期となる。
同年、扇谷上杉持朝も死去。

これだけ立て続けて世代交代が連発すると、乱の関係者も減り、起こった当時の因縁も、だいぶ薄まってしまったのではなかろうか(^_^;)。。
もう幕府なんか無視して、勝手に和睦しても良さそうに思うが(笑)、ばら撒かれた二派の対立図がある以上、そうもいかない。


店内は大沼の写真とこたつがお出迎え
水槽には、大沼名産のワカサギが!

そこで、成氏側に戻った岩松持国の子・成兼(三郎)がどうなったか、見てみよう。

岩松満国┬満純−家純(礼部)−明純−尚純−昌純
      ├満春−持国(京兆
      |     ↓      ┌宮内少輔(次郎)     
      └満長=持国(養子)┴成兼(三郎)

持国のように殺されずには済んだものの、持国が上杉方に保証された所領は、当然ながら、持国が殺された時点で闕所となったか、家純の元に一円化されたハズで、成氏側にいる成兼のものになるわけではない。

だから、まずは武力で家純をどけなければならぬ所、成兼は、鳥山氏の領地に強入部(武力に物言わせた押領(^_^;))した家来がいたらしく、再三にわたって成氏から退去するよう、命じられている。

この鳥山氏とは、持国が上野国の緒戦を戦っていた頃から、盟友のように共に名を顕わしていた、あの鳥山氏じゃないかなー。同じ新田系で、里見氏などに近い一族だ。
成氏が何度も調停に入っている所を見ると、当然、古河公方派だろう。


←こたつ亭主注文「赤城うどん
↑私の注文「赤城汁」(すいとん)

↑4月だったが、赤城山は流石に寒く(残雪があったもん(^_^;))、この具タップリ汁は、体の芯まであったまって、まぁ美味しかったコト!
他に、おっきりこみや、名物のワカサギフライや、イワナ定食なんかもあったわ〜。
(うどん・そば・ラーメン・カレーに限らず、焼き肉・ヒレカツ・フライなど定食も豊富だった♪)

その鳥山氏の領地、「内島郷」というそうだが、地図を見ると、太田市(新田庄)の東部に「内ヶ島」(地図)があり、同市の北西に「鳥山」(地図)なる地名もあるが、これらだろうか?
もしそうなら、岩松氏の関連史跡は、同市の南西部地図)に集中してるものの、そこからどちらも、それほど遠くないなぁ〜という感想を持つ。

持国父子を失った新田庄では、家純の影響力が上回っただろうから(元々、家純に従う者もいたようだし)、成兼は窮し、近くの他人の所領に押し入ってしまったんだろうか……。

成兼は、成氏の下す紛争解決の命令には従っていたようだが、まさにこの応仁元年(1467)4月を最後に、成兼の存在は、記録から消えてしまう
松寿丸という男子がいたが、父子ともにその後どうなったのかわからない。

「家純に放逐された」とする説もあり(wikiでは、その時期を1469年としている)、応仁2年(1468)の上野国・「毛呂島・網取河原合戦」を機に、家純に新田庄を掌握されてしまったようだ。

ただ、ここで先ほど述べた「補足」を書いておくと……。
あくまでも伝承の範囲ながら、二ヶ所、成兼その子孫らしきが篭った、とされる城跡があるようだ。


大沼も見納め。「赤城の山も今宵限りぃ〜(パノラマ4枚180度以上)

一つは、栃木県宇都宮市の徳次郎(とくじら)(新田より、ずーっと東)で、伝説にあらわれる「新田徳次郎」が、岩松成兼(かその子孫)ではないか、とする説。
(徳次郎城は宇都宮氏の城だったようで、ネットでは、徳次郎を「宇都宮氏の家臣」とする説も散見する)

もう一つは、wiki情報で、群馬県安中市(新田より、ずーっと西)にある後閑城で、城主の後閑氏がそうだという。
後閑氏は、後に武田信玄に従い、武田滅亡後は後北条氏に属し、小田原征伐とともに没落したようだ。

徳次郎は、宇都宮や日光に行く時によく通るし、後閑のある安中は、昔、信越本線でよく通った辺りなので、「懐かしい(*´ω`*)」と思ったり(笑)。

これにて大沼を去るので、湖面を見ながら最後に語ると……。
この景色を見て、『日光山縁起』の日光の大蛇赤城の大ムカデの怪獣対決を思った。

赤城山のある上州方面では、赤城の神を「ムカデ」とはせず、むしろ「大蛇」「龍神」としているし、龍神祭りなど行う所もあるんだけどね……。

前も言った事ながら、赤城の神(ムカデ)が、小野猿丸に目を射抜かれて退散するシーン。
これは、新田義宗が「うつぶしの森」で、目を射抜かれて戦死した事と関係あるんじゃないかな、と。(2013年7(6)月<「うつぶしの森」(白佐波神社)>

岩松・横瀬の両氏が揃って、「新田義宗の子孫」と言い張る背景に、何か、この伝説モチーフとの相関事情が匂う気がしてね……(`・ω・)

(項目は変わるけど、享徳の乱と新田岩松氏の話は続きます)



<赤城山下山、太田市方面に向かう>

そして、先ほどから「順を追って(^^ゞ」と約束した、文明3年(1471)、「児玉塚陣の戦い」となる。

この事前(前年の1470年)に、幕府・上杉方から、岩松氏・武田氏に続いて、又しても内応工作が行われた。
このたび狙われたのは、小山持政、小田光重、佐野愛寿丸で、いずれも誘いに応じて寝返り、上杉方を引き入れる作戦に参加するのだ。
(ただし依然、古河公方方には、佐野氏の当主・盛綱、小山氏も「下方」なる者が残っており、岩松氏同様、分裂したとみられる)


赤城山を下山する。↓まず出会う残雪。

まず、前哨戦として「三島合戦」が入る。

古河公方派は同年3月、箱根山を越え、三島に向けて、堀越公方政知の攻略に乗り出した。
攻め手は、小山(下方か)・結城氏広・千葉輔胤(あるいは孝胤)。
一方の堀越公方側は兵数が少ないため、駿河・今川氏に加勢を頼んで、三島に古河公方勢を食い止めに出たが、敗色濃厚となった。

ところが、そこに上杉氏の家臣が加勢に加わったため、返って古河公方側が崩れ、引き揚げた所を、新管領の上杉顕定や、宇佐美孝忠など多勢に待ち伏せされ、小山、結城、千葉は兵力を次々と失いながら古河まで帰った。

著しく兵力が損なわれた古河公方勢に、上杉方は猶予を与えず、同年5月、長尾景信(景仲の子)・景春・忠景(景信の弟)が大軍で古河城を攻める事となる。

この長尾勢を誘導したのが、先に寝返った小山・小田・佐野で、これに京兆家を葬った岩松家純・明純(家純の子)、北武蔵や上野の一揆勢も、五十子陣から出撃して加わり、まず、新田荘足利荘と進んだ。

最終的に陣を張ったのが「児玉塚」なので、ここから先を「児玉塚陣の戦い」と呼ぶとしようか(^^ゞ


行きに同じく、白樺林の合間を今度は下る

述べて来た通りの経過により、この時の岩松氏に京兆家の影は全く見えず、岩松家純・横瀬国繁の主従が完全に主導していた。

最初、横瀬国繁は太田市東部にある知行地の矢場(この辺かなぁ→地図)・大蔵に陣を構えるつもりだったが、先鋒の行軍が進み過ぎて、足利市の只木山(だいたいこの辺→地図)まで達してた。
これが前回も言った通り、再び只木山が歴史に名を顕わす瞬間ね(^^)v

だが味方の兵力分散を危ぶみ、その中間に集結する事となり、大窪(足利市。この辺かな→地図)に陣取り、そこから出撃した。

一方の古河公方側が、足利で拠点としていたのは、八椚(やつくぬぎ)(この辺?→地図)で、城に篭っていたのは、赤見氏佐野一族)、加胡氏大高氏などだった。

上杉方はこの城をさんざん攻め立て、佐野氏から寝返らせた家臣・山越氏が地の利に明るいのを頼りに、城兵らを北麓に追い招き、全滅させた。

続いて、古河公方側の舘林城地図)を攻めた。舞木氏の家臣・赤井氏が守っていた。
城は三方を湖に囲まれ、北のみ陸で、上杉軍は東北を囲んだが、城方には夜になると、古河・結城・佐野・小山の援軍が来るので、上杉軍が交替で見張った所、舟着きは止み、城内の士気も衰えて、自ら開城した。


行きに同じく、次々とピンカーブ地帯を、これまた下る

次に上杉軍が取り掛かったのは東方、栃木県の岩舟山地図)の(かぶと)で、佐野盛綱が立てこもっていた。
頂上が見えない程の高山で険阻きわまるため、長尾忠景の軍が攻め落とせずに引き返し、佐野荘の赤塚陣に数百の兵を置いて、甲城からの出撃に備えた。

上杉軍は、さらに古河方面(東)に進み、「児玉塚」に陣を張ったというが、この場所がよくわからない。だいたいこの辺かな(^_^;)→地図
古河のスグ北、小山氏の領内、中泉荘の西水代郷だそうで、小山持政の寝返りが、いかに上杉方に有利(古河方に不利)だったかを物語る(何せ小山は古河のスグ隣ですから(^_^;))。

岩松氏は、先ほどの只木山(だいたいこの辺→地図)を改めて超え、前回も行った天命地図)の宿に陣を取って、甲山より西方の唐沢山城地図)を取り囲んだ。
甲山・唐沢山ともに難攻不落の山城で、佐野盛綱の指揮下で籠城が固く、これが最後まで、上杉軍にとって不気味な存在感を醸していた。

しかし、足利荘では赤見城・樺崎城佐貫荘館林城・舞木城が、上杉軍によって落城したため、古河城の防衛ラインは崩壊し、古河公方成氏は古河からの退去を決意。
船で下総佐倉千葉孝胤を頼って落ちた。結城氏広が供したともいう。

この時、古河城地図)も一時落城したと伝える記述(鎌倉大草紙)では、古河城では、沼田、高、三浦などが防戦したが、長尾景信は兵を入れ替えながらの余裕の攻撃だったので、多勢に無勢。6月24日に落城……となる。


尚も残る雪の塊がコッテリ
森林道を、これも今度は下る

ただ現在では、「落城はしてなかった」という見方が有力のようで、やはり、唐沢山城の佐野盛綱に退路を断たれる危険が濃かったため、上杉方も詰め切れなかったと見られている。

落城説では、房総の里見氏・武田氏(長南・真里谷)・原氏の他、近辺の成氏派が、成氏の守護のために大勢集まって来る。
上杉方はこれらの退治に廻ったが、成氏方には、野田(古河)・梁田(関宿)・佐々木(私市)の他、那須結城などが熱心に与力したため、翌・文明4年(1472)、千葉氏の元から出撃した成氏が、みごと古河城を奪還……となる。

……事実、文明4年(1472)春、成氏は古河を回復したばかりか、常陸・上総・下総(結城)・安房・下野(小山・宇都宮・佐野・那須)・上野(佐貫)の大軍を率いて、早くも、足利荘に出撃している。

いくら広範・大規模な支援を受けたとはいえ、これほど短期間に態勢を立て直し、反撃を開始したとなると、なるほど、「古河城は落城にまでは至らなかった」と見るべきかも(^_^;)。

利根川を挟んで、上杉の本陣は五十子陣地図)、成氏の出張った本陣は、大館八幡宮地図)の河原と、双方対峙。
上杉方が利根川を北に超えて出陣。 北方の金山城地図)と、古河公方の本陣を挟み撃ちの形成を採った。


まだ桜の咲く山を下り
土産屋・食事処の一帯も下り

金山城はゲリラ戦法をとっており、朝・夜・雲雨時の奇襲や、忍者なども使った通路遮断が主だった妨害行為だが、敵方であれば非戦闘員(運搬や工事などの人員)でも討ち、糧道や旅泊でも襲い、武具や馬の略奪も行なったという。

これで、二か月余りで成氏軍を撤退させたとする一方、その金山城から成氏方に内通者が出た、という噂が広まった。
疑いをかけられた岩松氏は、上杉顕定の求めにより、複数の人質を出す事ともなった。

翌年の文明5年(1473)に、長尾景信が死去。
長尾氏には、景信の弟・忠景と、景信の子・景春との間に家督争いが起き、忠景の家督を不満に思った景春は、文明7年(1475)に五十子陣を引き払って、鉢形城に篭り、文明8年(1476)に謀叛の軍を興す。いわゆる「長尾景春の乱」である。

五十子陣は、景春の軍勢によって壊滅。
陣に篭っていた上杉方の面々(越後上杉房定・山内顕定・扇谷定正)は、各々の拠点に散るしかなかった。

文明9年(1477)は、叛乱を起こしている景春との戦(武蔵・相模)のため、上杉方は費やされ、古河公方退治どころじゃない。。
その甲斐あって、長尾景春は何とか叩きのめしたものの、この機に今度は、岩松家純が、突然、古河公方に寝返るのである(笑)。


赤城山麓の観光地を過ぎると
なだらかな麓の坂道・遠い山脈

古河公方が大館八幡原に陣取りした戦いの時、岩松氏に内通の噂が立ち、上杉氏に人質を出す一件があった。
その折のシコリでも残っていたのだろうか?

しかし家純は、これまで一貫して幕府・上杉方だった。
持国のように、一度も敵方に寝返った事はない。その彼が……である。

しかも、文明9年(1477)と言えば、応仁の乱もようやく終結しかかってる頃だ。
終結に向けた動きはもっと前からあったから、「そろそろ終わる」という気配が、東国にも伝わっていたかもしれない。
上杉方にいた家純なら、尚更そういう空気を感じ取れる立場にいたはずだ。

もうちょっと頑張っていれば、京の混乱も収まり、長く幕府方にあった功績が認められて、ビッグな恩賞に預かれそうな、そんな時期に思える。

案の定、家純の子・明純は、これに異を唱えて、子の尚純と共に上杉方に残留し、幕府への忠誠を示そうとした。

ところが、これに対して家純の取った態度に、また驚く。

明純を義絶したのだ。
共に古河公方成氏の元に従わないなら、親でも子でもない、というわけだ。
ちょっとやそっとの浮気でも、度重なる戦乱による疲労でもなく、底に一本通った鋼のような硬い決意をもって、幕府と上杉を見放したのだ。


←いよいよ下ると、下界の街並みも見え
↑自動車道のまま、大鳥居を潜る

この原因は色々言われる。
一つは五十子陣の崩壊である。もう一つは、長尾景春だ。
打ち負かされて劣勢になったとは言え、景春はこの先も各地に拠っては、何かと叛乱の残り火を執拗に点火し続けた。

景春が鉢形城を出たとは言え、その温存基盤の前線に岩松氏は位置する。防波堤にされかねない。
上杉方の機密情報も、成氏方にダダ漏れになっただろう。

岩松家の統一実現に原因を見る意見もある。
ライバルだった京兆家を完全に駆逐した今、もはや錦の御旗は必要ない、という見方も出来よう。 *滝汗*

実は、この前後、全く同じ行動を取った者がいる。
山入義知である。

常陸・山入氏は、前述の佐竹義人に対抗した与義の後、その子の祐義も、さらにその子の義知も、三代続けて、幕府・上杉方だった。
それが応仁の乱が起きた頃(1467年)から、古河公方側の勢力の中に名を出すそうだ。


上州は周囲どこでも高山に囲まれてて、ふとした瞬間に山が現れる。
↑こちらは岩松に向かう途中に見た。赤城山の方向かな、と思って撮った覚えが……

山入氏の場合、ライバルの佐竹氏が競合し続けており、統一されたとは言えない。
武蔵や上野と違って、長尾景春の乱にそれほど影響を受ける地域でもない。

応仁の乱によって、京の幕府が、東国への影響力を低下させた事が原因とする意見がある。

実は同じような傾向は、岩松家純にも言われる。

古河公方成氏は生年不詳ながら、推定では、家純が成氏に寝返った頃は40代前半ぐらい。関東公方に就任してから、既に30年ほど経っている。

既に相当な貫禄を持ち、と言って老人とも言えず、先もまだまだ長そうである。
これほど長く関東公方としての地位を保ち、次代の公方政氏)も順調に成長している事実に、幕府+上杉方の限界を認めずにいられなくなったのではなかろうか。

そもそも長尾景春自身、同じような勝算があって、上杉体制に反旗を翻したと言えないだろうか。

結局、多くが成氏から上杉に寝返りを打ったものの、それらが軌を一に行なった試しが無いため、成氏は常に永らえ続けた。
そうやってダラダラ長引かせて、まるで京の勢力が衰えるのを待ってたかのようだ(汗&笑)。


(享徳の乱と新田岩松氏の話、ここで一先ず終わりますm(__)m)



<青蓮寺(新田岩松氏居館跡)>

今号、冒頭で提示した絵地図の画像をもう一度、出す。↓


7年前に訪れた場所は、赤い字で塗ってあり、今回行くのは、中央下側「青蓮寺」とその周辺である。
この青蓮寺からその左端「新田荘歴史資料館」までの範囲を押し広げた絵地図を、今回写真に撮ったのが↓

←これです。

今回行く「青蓮寺」とその周囲をピンク色に塗った。

一方、黄緑色に塗った左のが「長楽寺・世良田東照宮・歴史資料館」などある一帯。

中央の黄緑色は「明王院」。

この絵地図は、他の史跡もいっぱい載せてる、良い絵図面だ(^^)

↑上のピンク色に塗りつぶした絵地図を拡大すると、こうなる→

だいたいこの通りに並んでおり、これより、「青蓮寺」「義国神社」「金剛寺」「岩松尚純夫妻の墓」(萩公園)の順で訪れる。

実はこのすぐ南(金剛寺の下に走る道路のすぐ下)に、「岩松八幡宮」があり、行けば良かった(時間は充分あった)のだが、場所や謂れを今イチ知らず、行かなかった(>_<)<失敗。。

<前に訪れた時のレポ>
2013年1月<東北道〜北関東道>以降
2013年2月・全文
2013年3月・全文
2013年4月・全文
2013年6(5)月・全文
2013年7(6)月・全文
2013年8月・ほぼ全文


以前、ここ太田市で、平安〜南北朝期の新田氏の史跡巡りをした初日、この「青蓮寺」に近い「義国神社」をさんざん探したが見付からず、諦めて宿に向かった事がある(つД`;)。

あの時は、日暮れ間際で暗かった。
「明るい時間に来れば見つかるかも」と期待して、日の有る内に来た結果、今回は見つかり、お参り出来た(^人^)。

ただ、広範囲に散らばる新田氏の史跡の中で、青蓮寺と義国神社が近い事を、特に深く考えずに来た。
青蓮寺に限らず、今回、訪れた新田岩松氏の史跡は、この義国神社の近くに集中している。

この事実は、大きな意味を放っていた。
「義国神社」に祀られる「源義国」は、新田氏と足利氏、両方の祖だから、その住まい没地・墓所)がどっちにあるかは、両氏のどちらが嫡流(惣領)であったかに関わる要素とも考えられると同時に、最終的に岩松氏の管轄となった点も、今回は注目したい。

青蓮寺」(地図)に到着(^O^)


義国の住まいとして、歴史上、長く証拠史料とされて来たのは『尊卑文脈』のようで、そこには「足利別業に籠居」と書かれている。

ところが『尊卑文脈』は、室町幕府の3代将軍・足利義満の政権下で書かれ始めた物である。
当時、新田氏が南朝とともに没落していた事を考慮する必要もあろう。
「足利別業」を信じてみるとしても、はじめ足利に籠居して後、現在地に住んだ可能性もある。

というのは、南北朝より古い源平合戦のあった、寿永2年(1183)、義国の孫で、仁木氏細川氏の祖にあたる義清が、備中(岡山県)水鳥の戦いを前に、祖父・義国等の供養のため、山城国の山背中西寺に、大般若経を奉納しており、その奥書に、「上野国・新田住・式部大夫・加賀介・従五位下・義国」と記されているそうだ。

しかも、この義清(矢田判官)は、新田氏ではなく、足利氏を興した義康の長男である。
このように、足利氏側の記録にも「新田住」と認められている点は、顧みられるべきだろう。

立派な仁王門から入門
木像の仁王様

又、ここ「青蓮寺」は、源義国の創建と伝わる。

ただし青蓮寺があった場所は、現在地より東方(岩松山跡)だったようで、江戸初期、村人により、青蓮寺がここに移建されたという。

現在地はそれまで、源義国の館の跡地だった。

それが足利氏でも他の新田氏でもなく、岩松氏の相伝地となった経緯を述べよう。

義国が住んだ当時、ここ岩松は「いぬま」と呼ばれ、義国の子・新田義重も居住し、南方に石清水八幡宮を勧請したと伝えられる。

正木文書」(群馬県史資料編・※)によれば、建保3年(1215)、鎌倉幕府は新田義重の嫡男・義兼の譲状に基づき、その妻である義兼の後家(新田尼)を、岩松、下今居、田中郷地頭職に任じた。(この「新田尼」の出身はわからなかったが……)



貞応3年(1224)、新田尼は、孫の時兼邸と岩松郷を譲渡
嘉禄2年(1226)、鎌倉幕府は、時兼を岩松郷地頭職に任じたという。

(※この「正木文書」は、岩松氏の子孫が姓を正木と変えて、本多正純の家臣となり、そのまた子孫から、吉田梅庵の養母が出て、代々所持していた先祖伝来の書籍群を、新井白石の仲介で幕府に寄進し、江戸城の紅葉山文庫に保管されていたのを、岩松氏の子孫・慶純が書写して完成させたもの)

この時兼こそ、岩松氏の初代である。
前回も述べた通り、その父は足利義純、母は新田義兼の娘だったが、義純が北条氏から妻を娶るにあたり、母が離縁されたため、息子の時兼は母の実家・新田氏の元で育てられた。

そもそも義純も、岩松中邸に義兼の娘と結婚生活していたようだから、母子は離婚後も、そのまま中邸に住み続け、成長した時兼が、本邸に移ったようだ。

以後の岩松氏も代々、居館として用いたとされ、発掘調査でも、中世の掘立柱建築の跡が多数発見され、有力者の居住地である事が立証されている。

山門をくぐると目前に本堂↓
お寺の山門から本堂まで、奥に細長く続いてるが、この左隣には墓地がズラリと並んでる。
本堂の中→

一方、元は岩松山にあった「青蓮寺」は、「岩松山(がんしょうざん)義国(ぎこく)院」と称し、創建は源義国だが、開山は源祐律師と伝わり、当初は律宗であった。

弘安4年(1281)頃、四代・源心律師の代に、時宗の祖・一遍が関東を布教するのに帰依し、時宗に改めている。

歴代の岩松家に崇敬されたが、文亀年中(1501〜1503)、岩松尚純家純の孫)は政務を家臣の横瀬氏に譲り、連歌師・宗長を招くなど風流の道に入り、宗長の日記にこの寺の存在が書かれるとともに、尚純の自画像青蓮寺に秘蔵されている。

天正3年(1575)、金山城主・由良(横瀬)成繁桐生入部のとき、青蓮寺を移築したため、寺運は衰えた。

が、江戸時代になると、三代将軍・徳川家光より、「義国院追善料」として、御朱印25石の寺領が与えられて以後、寺運はまた盛んとなった。
(徳川家にとっても、、義国を祖とする事になってるので)

本堂内(パノラマ4枚180度以上)

享保年間(1716〜1735)、疫病が流行したため、江戸白金の松秀寺から「地蔵尊」を勧請したところ、効験があったので、日を限って願をかければ満願の日にかなえられるとして、「日限(ひぎり)地蔵」が境内にあり、縁日(四の日)に願かけの人々が訪れる。

また、間引きの悪習をいましめた「間引き」の絵馬二面が奉納されている。

青蓮寺に所蔵の寺宝は、
@正親町天皇の宸翰
「岩松山」「青蓮寺」「寿宝庵」の三幅で、寿宝庵は岩松尚純(静喜)の妻の開創
A岩松尚純・自画自讃の画像
文亀元年(1501)に書かれたもので、中世武将の面影が偲ばれる、史料的価値の高いもの。

新田一族を称する徳川氏についても、案内板に以下の事が書かれていた。

青蓮寺の門を出ると……
周囲は広大な大草原が広がる

徳川氏の先祖が南北朝時代、上野国より出奔した時に、時宗僧に姿を変えたことについて「三河後風土記」に次のように記されている。
「前文略……藤沢遊行 岩松青蓮寺に旅宿ありしかば其の弟子となり 有親 親氏 泰親三人とも名をかへ姿を改め給う……以下略」

以上の事から、古くから新田氏関係の由緒ある寺であることが知られる。

さて、青蓮寺を出ると、付近に、いよいよ「義国神社」を探したε==(((`・ω・)ノ
わりと近くにあるんだが、周囲は広い平原(田園や草原)が続くため、意外とパッとは見つかりにくい(^_^;)。。

時折、何本か背の高い樹々が見える所があるが、そのどれが神社かと迷うので、捜し歩く時間を充分に確保して来訪するのが望ましい。
所在地は、「太田市岩松町甲503番地」である。

平原に佇む木立の一つに
義国神社」(地図)の小さな祠がある

義国は新田・足利の祖でありながら、その事跡については資料が少ない。

義国は、八幡太郎義家の第三子として生まれた。母は藤原有綱の娘である。
叔父(義家の弟)の新羅三郎義光+常陸大掾の平重幹の連合軍と、嘉承元年(1106)に合戦した事が「永昌記」にある。
(2014年8月<「花園神社」B本殿>内

帯刀長(たちはぎのおさ=皇太子を警護する役人の長)となり、式部大夫・従五位下・加賀介に叙任された。

が、晩年の久安6年(1150)、藤原実能と洛中に行き会い、無礼を咎められて、馬上より落とされたため、義国の郎党等が復讐のため、実能の館へ放火した。
その結果、勅勘を受け、別荘地に引きこもったのだが、その引きこもり先を「足利」と記された件については前に書いた。

祠の裏には、石枠の後方に、義国のお墓とみられる石の祠があり、赤い花びら(椿?)が降り注いでいた
↑墓石の後ろには、新田庄の平原と上野国の山並み。義国はこの地で永く、新田・足利の子孫たちを見守り続けたんだね。(お参り出来て良かった(^人^))

義国の(新田義重の母)は、上野介敦基の娘で、長子の義重より新田氏が、次子の義康より足利氏が始まった。

義国は、仁平4年(1154)3月16日、出家して荒加賀入道と号し、久寿二年(1155)6月26日、没した。
法名は「青蓮寺殿梅翁大居士」。

祠の裏手には、義国の供養塔と称せられる五輪塔の残欠があり、その没年が記されている。
祠前には観応2年(1351)の碑がある。
この「観応の板碑」については異説もあるが、南北朝史研究には欠くことの出来ない貴重な資料。

源義国を祭神とするこの祠は、久しく「義国天神」と称され、村人によって崇敬されてきた。
元文4年(1739)正月、八代将軍・徳川吉宗は、「義国院祭祀料」として、白銀五枚を奉納し、遠祖の霊を追祀したという。

明治10年、群馬県より神社号を交称することを許された。



<次回は……(予告編)>

←次回はここ、「金剛寺」から。
前号の予告でも書いた通り、「金剛寺」「岩松尚純夫妻墓所」、富岡氏ゆかりの「小泉城跡」「龍泉院」を今回やり終えられなったので、それらをやる。

お話し的には、この太田市においては、引き続き、新田岩松氏のその後になるけど、前号(5月)と今号(8月)連載してきた「享徳の乱」は、今回で殆ど話し終えたので、次回は余波という感じになるかな(^^ゞ
お楽しみに\(^O^)/

その後は……そうですね。日常編になる。
どれぐらい行けるかな。う〜ん不透明(>_<)。。

例によって、関連リンクはまた後日。
今回のは、出来る限り途中にリンク貼って来たので、今後も、前のリンク漏れレポの順を待たず、気付いた時点で、ちょくちょく追加で貼っていくかも(^_^;)ゞ

<つづく>

2019年8月4日

 
     




ホーム