<2020年・城主のたわごと5月>




2018年6〜11月、初夏〜晩秋まで一気に駆け抜けます(^O^)

最後は、長くお待たせ、第一回オフ会関宿レポ




     
  冒頭は例によって宣伝(^。^)、↓

〜おしながき〜「古河〜足利〜新田編」(2019〜2020年)
「5月のたわごと」(古河〜足利〜新田1)
■茨城県古河市〜栃木県足利市〜群馬県太田市
<まずは「古河公方(古河総合)公園」を目指す>
<満福寺(古河公方・足利成氏の墓)>
<古河から三毳山に向かう>
<「三毳山神社」(里宮)と「三毳不動尊」>
<城山公園(佐野城跡)>
<佐野「天命」(天明町)〜足利「只木山」(多々木町)>
<足利(栃木県)〜新田(群馬県太田市)> 
<「台源氏館跡」(新田義貞・誕生伝説地)>↓

「8月のたわごと」(古河〜足利〜新田2)
■群馬県太田市・前橋市
<藪塚温泉(1日目夜〜2日目朝)>
<藪塚温泉〜桐生市南西部〜赤城山麓>→
<赤城山を登る(南西ルート)>
<赤城神社(小鳥島)>
<赤城山大沼、大洞観光街>
<赤城山下山、太田市方面に向かう>
<青蓮寺(新田岩松氏居館跡)>
<義国神社(源義国の墓所)>
<次回は……(予告編)>↓

「1月のたわごと」(古河〜足利〜新田3・千葉北西部)
■2018年4月初旬・群馬県太田市・邑楽郡、茨城県古河市
<金剛寺>
<尚純萩公園(新田岩松尚純夫妻の墓所)>
<小泉城跡>
<龍泉院(富岡氏菩提寺)>
<古河の日帰り温泉で風呂&夕食(^_^A)>
読んでねっ(≧▽≦)!(既に読まれた方は今回のに進んでネ(^^))
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そして、東北・北関東の旅もヨロシクね!

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各種お得な交通手段
「お得に東北へ行こう!」

リンク貼ったけど、「東北観光博」は自民政権はやらないみたい。「閉幕」になってますた(^_^;)。
旅*東北」なるサイトが後を引き受けてるっぽいけど、バナーがない(^_^;)。。
東北の歴史」というページが史跡巡り向きって事みたい(説明が殆どないけど。。)

この前も……、

松戸の中根城跡・上本郷城跡・上本郷館跡ウォーキング(2017年4月号)、北総の龍角寺に松戸戸定邸(4〜6月号)、東京の清澄庭園・手賀沼の鷲野谷城跡(8月号)、松戸の根本城跡、萬満寺(9月号)、茨城の東林寺城跡(2018年1月号)、船橋の米ヶ埼城跡、東京の秋葉原〜湯島聖堂〜聖橋〜駿河台(同8月号)、東京・駿河台〜皇居〜平将門首塚(同11月号)、印西の笠神城跡(南陽寺)・小林城跡(2019年2月号)

など、小ネタ史跡巡りはあったので、ご覧になりたい方はメニューからどぞ( ^^) _旦~~

あとは、その前からの流れ通り……↓

〜おしながき〜「埼玉〜栃木南編」(2018年)
「4月のたわごと」(千葉北西・埼玉〜栃木南1)
■8月・埼玉県川口市、栃木県栃木市・佐野市
<川口「長徳寺」、@裏門〜本堂>
<川口「長徳寺」、A三重塔〜仁王門>
<川口「長徳寺」、B仁王門・参道・山門>
<東北道で茨木まで移動>
<皆川城址>
<金剛寺(皆川氏菩提寺)>
<佐野市葛生、お昼ご飯(^O^)>
<佐野氏菩提寺「本光寺」>
<佐野氏本城「唐沢山城跡」に向かう>
「6月のたわごと」(栃木南2・東京)
■8月・栃木県佐野市
<「唐沢山城跡」到着、@枡形・天狗岩>
<「唐沢山城跡」、A竜神宮・大炊井・神橋> 
<「唐沢山城跡」、B神橋・桜の馬場・南城> 
<「唐沢山城跡」、C本丸・二の丸・三の丸>
<「唐沢山城跡」、D和合稲荷・組屋敷・避来矢山>
<唐沢山を降り、西に向かう>
<「興聖寺」(清水城跡)>
<樺崎寺跡〜佐野やすらぎの湯(^_^A)>
読んでねっ(≧▽≦)!(既に読まれた方は今回のに進んでネ(^^))

もういっちょ前のも出しておく↓

〜おしながき〜
武蔵千葉氏編
湯島天神(天満宮)編
2016年「4月のたわごと」(東京板橋)
■10月・東京都板橋区
<板橋区郷土資料館@「武蔵千葉氏展」>
<板橋区郷土資料館A「旧田中家住宅」>
<赤塚城跡「本丸〜滝不動」>
<「松月院」(伝・武蔵千葉自胤の墓)>
2017年「2月のたわごと」(東京湯島〜千葉北西部)
■8月・東京都千代田区・文京区
<「湯島天神(天満宮)」@〜参道両脇〜>
<湯島天神(天満宮)A〜社殿・男坂・女坂〜>
■8月〜9月・千葉県柏市・松戸市
<夏から初秋へ>

前回で3回に渡ってレポしてきた、2018年4月の「古河〜足利〜新田」編が終わり、あとは、地元の公園やお寺、そして春から夏にかけての花々のリレーで、4〜6月を駆け足でお届けした。

今回も駆け足を引き継いで、6〜7月をパパッと通り過ぎ、8月の花火と真夏の夜空……。
途中に、亭主の緊急手術&入院(それも2度に渡り)を交え、9〜10月も駆け足は続き、ハロウィンの街や、秋めいてゆく風景を流しつつ、11月の茨城「千勝神社」の後はいよいよ……。

第一回、関宿オフ・レポート\(^O^)/<ヤンヤ
すご〜く遅くなりましたが(笑)、ようやくアップです!
(珍しく今回は<つづく>じゃなく、ちょうど切り目よく終われてます:笑)



■千葉県柏市・6〜11月(2018年)
<6〜8月、野馬の牧跡の風景(^^)>


前回は、4〜6月の花々をリレーでお届けした所で終わった。
今回は、引き継いで、6〜8月の風景から入りたい。

←手賀沼まわりの水田(日没)
↑こちらは住宅街の畑、全体は↓

こんな感じ。土から菜っ葉が出て来た所(パノラマ2枚)

↑これが7月に入ると、ド〜ン!↓(パノラマ3枚180度以上)

↑この左に見える木立の連なりは、例の松戸市内に残る「野馬除土手」(地図)。
前からこの辺にも残ってるのは知ってたが、ちょっと奥まった所にあり、道幅が狭く、曲がり角など急角度で、車で通るにはすれ違いが大変(^_^;)。。

ただ、ウチあたりは、まだまだ残ってる農地や森林など緑の豊富な光景が、ある時急に宅地造成されて、風景が一変する事もよくある。

なので、出来るだけ写真に撮るようにしている。
市の展示会などで、懐かしの松戸の風景展みたいのをやるが、「残念ながら、写真が無くて、以前の風景をお見せ出来ない」みたいな記述を見たり、話に聞いたりする事もあるので。

↓背の高くなった菜っ葉。土を覆っている
夕焼けに照らし出される土手と畑→

お次は、松戸の八柱から常盤平に向かう「桜通り」の途中の歩道に、ポチッと建ってる「金ヶ作陣屋」の道標↓

すごく小さいが真ん中に立ってる白い棒↓(パノラマ4枚180度以上)

「金ヶ作陣屋」は、葛飾郡金ヶ作に設置された江戸幕府の陣屋。小金牧などを管理していた。
ここに立ってる道標には、字数の関係でこれ以上の事が書かれてると思えないが(スイマセン、記述をちゃんと撮影してません)、ナントWikipediaには詳細が調べ上げられていた(゚.゚)

概要を書くと……。
元は用のある時だけ、江戸から代官が来るのみだったのが、享保8年(1723年)から、ここを活動拠点とし始め、陣屋が置かれた。
時代背景として、八代吉宗が馬の育成を重視した事、新田開発を推進した事が関与したと見られている。

小金牧の管理には、代官によって野馬奉行らが組織され、陣屋には白洲も設けられて訴訟業務が行なわれた。
享保17年(1732)に内部不正によって削減され、伊奈忠逵の支配下で、その出張所となったが、翌18年には存続を認められた。

寛政5年(1793年)、11代将軍・家斉の生母の縁類、岩本正倫の支配下となって元治元年(1864年)まで過ごしたが、幕末は騎馬奉行などの間を転々として、明治維新廃止された。

この岩本正倫は、江戸時代に作られた高級バター菓子「白牛酪」の製造と販売に携わった人物で、小金牧・佐倉牧とならぶ、峯岡牧がその産地であったらしい。

目印は道路向かいの「クリスタルスポーツクラブ八柱」(地図)かな。(いつまで在るかわからんけど)→

この「白牛酪」って、文献に名を残すのみの、今では作られる事のない幻の銘菓。
家斉の子沢山は、この菓子パワーによるものだぁ〜!というもの(笑)。

民放のテレビ番組で、この菓子作り再現をやってて、原料の牛乳を出す牛選びからして、「今は現存しない種」とかいう挫折が待ってて、その果てに、何とかかんとか再現されたのが……

濃厚な味わいのキャラメル!
って感じだったなぁ。食べてみたいわ〜♪

てわけで、最後に来たのがここ「ひづめ公園(パノラマ2枚)

地図←ここです。あたりは、牧や「野馬除土手」があったので、「馬」「放牧」にちなんだ公園とか彫像・レリーフなどが多いエリア。

この「ひづめ公園」の他に、「白馬公園」「野馬公園」「たてがみ公園」なんてのが周囲にある。

野馬や牧に関連した話題なので追加(^^)



<8月、大森〜千葉NT、花火(^^)>

前回(2020年1月)も取り上げたが、お初は2018年8月だったかな……φ(。。)m
大森交差点(地図)から、鹿黒南地図)を通って、千葉ニュータウン地図)に抜ける道。

昔情緒が残ってて、観光地っぽいムードもあって気に入ってるので、近年よく通るコースになっている。

大森から鹿黒に向かう4号線

途中、亀成川を渡る「鹿黒橋
鹿黒南」十字路を右折

↑ここまでの区間が、観光地情緒しててお気に入りコースなんだが、最後の写真に見た通り、イキナリ巨大なビルが立ちはだかる。

前回も紹介した通り、「グッドマン」という物流施設で、同じような建物が、バーンバーンと次々に現れ、この広大な平野に工場地のような一帯が出来ている。
ネット情報を見ると、まだまだ新しいビルが建つ予定が発表されてて、いつ立ち並び終わるのか、どこまで広がるのかわからない(^_^;)。。

4号から右折後、189号→61号とジグザグしつつ千葉ニュータウンに向かう。

以前から、宗吾方面とかうなぎロードへの行き帰りに、千葉ニュータウン&国道464号線はよく通っていたが、特にそこが目的で行く事はあまり無かった。

それが、ちょうどこの時期ぐらいからだったか……(何しろレポするのが、この通り二年近く後なので、記憶の曖昧さハンパない(^_^;))。
千葉ニュータウン&464号線じたいによく行くようになった。

464号線の左右に、巨大ショッピングモールがドカン・ドカンと次々に建ち並んで来ている。
「巨大ビル」とか、「超高層ビル」と言うより、そういうビル数軒を囲んで、多くの飲食店群や商店、遊興施設などが軒を連ねる「街ごとショッピングモール」が、ド〜ンと建設されている。

この国道沿いに5箇所ぐらい出来てる(^_^;)。
(そのような群れとは関係なく建っている飲食店やスーパー、ホームセンターもいっぱいある)

この時期から、その中の一ヶ所に用があって、ちょくちょく行くようになったのをキッカケに、行きつけの店なども出来たのだ。
そのうち、そーゆー写真も出て来る機会があるかも(^_^;)ゞ<宜しゅう

さて、この夏も、打ち上げ花火にうまい事タイミングがあって、写真が撮れた(^。^)v

バシバシッ!ポ〜ンポ〜ン、ド〜ン!

ド〜ン!シュルシュルー!パッ!「は〜なや〜(^O^)」

さてさて、夏も夏、真っ盛り。ここ毎年の傾向ながら、この年の夏も長く暑く厳しかった。。

←南国のような熱帯夜空に浮かぶ月
↑同じく、熱さに溶けそうな月と夜雲

近頃は、暑さも物凄いながら、夏の長さに閉口する(-_-;)。。
前から、4月に台風みたいな暴風が来たり、5月に夏ような陽気が来る一時期はあったが、この頃は、6月中旬あたりから真夏が始まるんだよねー(*o*)

日没直後に出たラピュタ雲
中に鋭い稲光が走り廻ってた

長い事カメラを構えたわりに、稲光の走った瞬間をシャッターが捉えられず、雷光は写せなかったが、ツイッター上だと、その瞬間をとらえた写真が何枚も上がってて、「この世の終わりかと思った〜」といった声も見られた。

ただ、それほど恐ろしゲな様子だった、というより、そういう言葉を発したくなるぐらいスゴイ光景だった、という感じ。

やっぱ花火とか稲妻とかは、動画で撮るべきなんだろうね(^_^;)。ホント一瞬だもんね。
動画を撮る習慣が身についてないんだな〜、と我ながら思う(笑)。



<8月〜10月、亭主の緊急手術&入院・長引く暑さ>

さて、この晩夏、亭主が仕事中に突然倒れ、救急車に運ばれて、都内の病院に緊急入院した。

とある、都内の病院
最寄り駅から行き帰りの路

自営業となった亭主は、一人で登板(講師業)する事もあるが、この日は運よく、元請け会社の担当の方が一緒に出てて下さってた。
その方が私に、この急を電話で報せて下さったので、この事態を知れた。

取り合えずの処置を施された亭主から、夜になって電話が入ったが、その夜は入院となり、翌日、緊急手術の段取り。

私は手術の前に辿り着いて、亭主に会え、付き添って手術室へ……。
手術から戻って、麻酔睡眠から覚めた亭主を見届けて帰宅し、亭主もその翌日にはタクシーで家に帰って来た。

ただ、この時の手術は緊急の処置(人口チューブ挿入)のみで、体内の病原を取り除くのは、家の近くの病院で行なう事となった。
その予約を取りに行くと、結構な予約いっぱいで、あるいは仕事と日程が重なってしまうなどで、結局、手術は40日以上も先になってしまった。。。

「焦っても仕方ない。それより今年の夏は、まだ、大事な事が済んでなかった」と亭主。
その「大事な事」というのが……

かき氷を食らう事である!
付き合って紅茶を飲む私(^_^;)。。

急に倒れてウンウン唸ってたのは、つい先日の事。
この時も、まだ病気が治ったわけでもないのに、抹茶ソースのかかったかき氷に、さらに小倉餡ソースをタップリかけて、「フハフハ!キーン!」とか言いながら、氷の山を次々と制覇してゆく亭主だった。。

抹茶と餡をスプーンで氷に馴染ませては、目を輝かせて、口に運んでゆく亭主に、
「明日からメニューから外そうと思ってた所です」
とお店の方。(ここは確か、新鎌ヶ谷駅に近い、イオン(地図)の喫茶店)

すかさずスマホで、本日の日にちを確認する亭主。
「やっぱり、9月に入る前に食べないとダメだとわかった!」
と強く頷いて、店を去るのであった(^nn^)<フキフキ・ゴッソサン♪

サルスベリも見納め
夕空もそろそろ秋月かと思いきや

いやいや、9月もまだまだ熱帯夜が続いた(パノラマ4枚180度以上)

その後は手術日を待ちながら日を過ごしたが、9月になっても、初秋というよりは夏続行で(^_^;)、亭主の体調不良も、この苛酷な暑さが原因してるように思えた。。

実は亭主、この年は春も救急車を呼んだ
突発的な腰痛(ギックリ腰)で、ピクリとも動けなくなってしまい、やむなく……。

亭主はわりとしょっちゅう腰痛症状が出るんだが、最初にやってからは気を付けていて、症状が出かかると、サラシを巻くなどで未然に防いで、救急車を呼ぶほどの状態になったのは初めてだった。

喫茶店「アンチーブ」から眺める秋の田畑
足元には可憐な野草たち

↑(一部拡大)↓
↑(一部拡大)トレニア↓

いずれにせよ、個人事業主になると、サラリーマン時代と違って代わりになる人がおらず(裁判員制度なんかでも、よく聞く話だが(^_^;))、休むわけにいかない所がキツイ。。

今回も、緊急手術で入れた人工チューブが合わず、仕事に出るのは勿論、家で事務作業してても、かなり辛そうだったが、休むと、金が入らないどころか違約金取られるんで(これ違法にしろよ)、仕事はし続けねばならぬ現実。。
(ただ、この痛みについては漢方の煎じ薬で、驚くほど改善した!)

で、待ちに待った手術の日を迎える。

手術が済むと、執刀医が取り除いた病原を見せてくれた。(亭主はまだ麻酔睡眠中)
手術後の処置とベッドしつらえをする間、見舞家族は外に出され、戻ってきて亭主に再会。

病棟から眺める外の景色(パノラマ3枚)

検査とか手術などで入院とかするたび、ちょっと思う事なんだが、見舞家族って、医療関係者の方々にとって、わりと邪魔かもな〜と(^_^;)。。

介護要員の方も、施設とか病院でよく見掛けるようになったが、家族への対処に手が回り切れない感じがする。

これを書いてる現在、世界も日本も新型コロナウィルスの大流行中で、尚更思う事なんだけど、こうした現場は、そもそも人手が極端に足りないので、邪魔にならないよう、それぞれが心掛けないといけない、と強く思う今日この頃である。

その後もしばらく入院した後、退院できたが、人口チューブは入ったまま、又ぞろ仕事・仕事の日々の始まり(^_^;)。。
(チューブが取れる頃まで、今回号レポでお伝えできます!!ww)



<10月、パスタ屋・ハロウィン・秋の木下街道>

未だ完治には至らぬまでも、手術&退院を果たした亭主は、先の緊急手術(仮)&入院後に食った「カキ氷」の解放感を、次はどこに見出したか……。

六実の「パスタ・ナポレターナ」(地図
テラスでも食事が出来る(^^)

店名からお察しの通り、スパゲティとピザの専門店(#^.^#)
この場所には前、「ジロー珈琲」の軽食&喫茶店があって、建物はそのまま引き継いだように見えるんだが、前と明らかに違うのは、飲み物が全てセルフサービスになってる点。

店内もウッディな壁と床で、気軽にパスタ料理が楽しめる(パノラマ2枚)

「ジロー珈琲」っつーぐらいだから、前はコーヒーがメインメニューだったのが、今のメインはパスタ類で、飲み物はテキトーにどうぞってスタイルで、むしろその気軽さがウケてるのか、客の入りは、前より長続きしてる気がする(笑)

今年(2018年)も街を彩るハロウィン
オバケにカボチャ

魔女にコウモリ
トリックオアトリート!(ノ゚∀゚)ノ⌒・*:.。. .。.:*・゜゚・*☆

玄関の灯りもパンプキン♪
場面変わって、秋の木下街道をお届け

木下(きおろし)街道は、千葉県市川市を東西に走る14号線「鬼越2丁目」交差点(地図)から、北東に向かって始まる道路(県道59号・市川印西線)。

市川・船橋・鎌ヶ谷あたりまでは、交通量の多い普通の幹線道路だが、白井市に入って「白井」交差点(地図)あたりから先、しばらく古い家並みが残って情緒がある。

……実は上の写真、ちょうど良い街並みを、既に過ぎてしまった辺り(地図)なんだが(^_^;)、その先も良い風景が続くので、一緒にドライブしよう(^O^)

「神崎川」を渡る先に丘陵が見え
上り坂、途中(右)に祠↓がある

ドライブと言えば……近況(この当時のw)・パート2.

実は、亭主の手術入院(2度目)の直前、車を買い替えて、我が家には新しい車(と言っても中古だが)が来た。

車を替えたのは、ちょっとしたコスリの修理費が思いのほか高くついた事がキッカケだった。
が、そもそも、だいぶ使い込んだ車で、他にも多々の補修(機材取り換えなど)の必要性を指摘される事が年々増えていた。

そのたび財政と相談し、高額な補修を先延ばししながら過ごしてたが、「そろそろ限界かなー(^_^;)」と、購入を決心した。


前の車は、この9年前(今からだと11年前)の2009年、交通事故で大きな損傷を負い、廃棄するしかないと言われた。
加害側の方が良い保険に入ってくれてたお陰で、無事に修理できて戻って来たが、それから9年も乗れたと思えば、車冥利に尽きてくれただろう。

これで本当にお別れになるので、 その前に撮影会をしようと、これまた手賀沼の野原の駐車場でバシャバシャ撮影をして、さんざん別れを惜しんだ(;_;)。。<これまでありがと

近頃は、車種なんかからもリスクが及ぶんで、画像は出さないが……。

印西市の浦部に差し掛かった辺り(地図

一方、新しい(と言っても中古の)車が来ると、さっきの「パスタ・ナポリターナ」の駐車場で、バシャバシャ撮影した(笑)。(これも画像出しは控えるが)

それ以来、新しい車で初めて通る道では、「ここは、〇〇チャン(車につけた名前をチャン付け呼びしてる)初だよね」と言いながら、走るようになった。

と言うのも、窓から見える風景が、前の車とかなり違って、凄く新鮮で、久しぶりに来たと感じたり、場所によっては、初めて来た所のように感じる事すらあるんだよねぇ。

同じく浦部、「松下山公園」に差し掛かるあたり(地図

この浦部の界隈は、ちょっと山奥の風情があって、将門がらみの伝説があったり、「浦部せんべい」なる幟が建ってる店があったりで、ここも観光地っぽい所で気に入ってるんだよねぇ。

車で通ると、どこも一瞬で通り過ぎてしまうので、今イチそういう風情が醸し出せてないが、今後もカメラを構える事を心掛けたいと思う!

やがて、右に「松下山公園」が見えて来ると、左に手賀沼に至る平野部がド〜ン!と広がり始め、晴れた夕方には、地平線に筑波山がクッキリと浮かび上がる。

←左手に手賀沼を囲む平野部
↑ハロウィンっぽい月夜(゚.゚)

かくして、ハロウィンの10月も過ぎ去り、亭主の闘病生活もようやく終わりが近づいて来た。



<11月、千勝神社>

この近年、ちょくちょく行くようになったのが、茨城県南部の龍ヶ崎や牛久沼。
これも、先ほど言った千葉ニュータウンと同じく、ちょっと遠出して、買い物&ドライブに使う事が増えたコース。

買い物や外食などで行くのは龍ヶ崎だけど、帰りに牛久沼を見に、軽くドライブ(*´ω`*)

「白鳥通り」から牛久沼を見下ろしながら、6号線と合流する地点(地図

いつもは、↑このままスルスル〜と沼まで下りてって、牛久沼水辺公園地図)で、白鳥見ながらブラブラ歩くんだけど、この日は、日が暮れてゆく中、沼を廻ったらしい。

夕闇と夕焼けの中、水辺を道行く

う〜ん。
これ書いてる日付は、2020年の5月で、新型コロナウィルス蔓延の最中。緊急事態宣言くらって、家でじっとしてる毎日なんで、こういうドライブ写真など見ると、心が洗われたり晴れたりなんかする(笑)。

さてさて、そうこうして到着したのは、千勝神社地図)↓

←鳥居を潜って石段登って、境内へ
↑デカ絵馬(笑)。今年の干支は戌▼o・ェ・o▼

前に来た時は、酉年の絵馬だったから、一年ぶりだね(2018年1月<千勝神社>
でもここには、もうちょっと頻繁に来てたと思う(^_^;)ゞ

ただ、来る時はいつも、ちょっと遅い時刻で、社務所のお守りコーナーなど、すっかり店じまいしてて、お守り等を頂けた試しがない。。

本殿の向かって右脇、「山根彦神社」「稲荷社」「龍神社(パノラマ3枚ほぼ180度)

正確に言うと、本殿「千勝神社」は、その裏手に奥社が控えており、その(向かって)右隣に「山根彦神社」が並んでいるので、ここでは、そこへ向かう道筋に鳥居があり、その右手前に「稲荷社」と「龍神社」の祠が並んでいる。

ちょっと近づいてみよう(^^ゞ

奥社に「山根彦神社」、手前に鳥居。その右に「稲荷・龍の両神社」

だいぶ暗かったので、この日は参道を行き来しただけにしたが、この神社は、社のある高台は山の風情が濃厚だし、階段を下りてゆくと、周囲は広大な田園地で、穏やかな風が吹き渡って、すごく心地よい(^^)

地図で地形を見ると、低地は昔、湖があったんじゃないかという感じがする。
神社を水が取り巻いていて、港や水運の集積所だった所に神様が祀られてたんじゃないかな。
(前も同じ事を書いたけど(^_^;))

明るい時間なら、周囲を歩いたりドライブを楽しむんだけど、この日は真っ暗だったので、真っ直ぐ夕飯を食べに……↓

ほうとう屋さんに来た(*´ω`*)
ほうとう・和食「分福」(^O^)

うふうふ。
オイチイほうとう鍋〜(^O^)

ここのは具材の種類が豊富で、ナント言ってもウチら好みの味!

お店にあった、付近の飲食店マップ入り小冊子に、この分福さんを含めた多くの店舗で、龍ヶ崎の新名物「コロッケ」連盟の事が書かれていた。

中を開くと、コロッケの種類は各お店ごとに異なり、色んなお店を訪れ名物メニューを食べよう(^0^)/!という運動らしい♪

後日、この龍ヶ崎コロッケについて、確かNHKの昼番組で取り上げてたし、たった今、民放の午後番組でも特集してるのを見た所(`・ω・)
ネット検索でも、「龍ヶ崎コロッケ」にプラスして、「コロッケフェスティバル」「コロッケ倶楽部」「コロッケ祭り」「コロッケ横丁」と、次々と出て来る(笑)。



<「関宿城博物館」(第一回オフ会@)>

お待たせしました。いよいよ、関宿オフの始まり始まりー\(^O^)/<ヤンヤ

こちらはまだ松戸市(^^ゞ
「森のホール」前の紅葉樹

この通り、季節はスッカリ晩秋。(とってつけた感満載の演出)

亭主のチューブは無事に取り外されて(^_^A)、いよいよ待ちに待った、オフ会の日!

オフ会が行なわれるに至った経過については、この時期の「ご挨拶」に書いたので、ここでは省略(^^ゞ→「今週のご挨拶とお知らせ」2019年2月

千葉県の左上(北西)端、長細い先にある関宿を訪れるのが、この日の目的(^^)。
関宿は、埼玉県茨城県との県境地帯にある。
茨城県方面に県境を越えて、スグに出会う「道の駅さかい」(地図)で、まずは合流。

まず、建物に入る前に、小野寺維道さま(「新・小野寺盛衰記」)に会えた。
小野寺さんも、亭主と同じ病気を患った事がおありで、出会いがしら、しばし「大変なんですよね〜」「そうそう!」と、病気話で盛り上がる(^_^;)。。<そんな年齢になったんだなぁ我々も

建物に入って、店内レストランに座を取っている内に、畠山義綱さま(「能登畠山氏・七尾の歴史」)から電話が入ったので、座を立ってキョロキョロ探しに行く。

畠山さんとは初めてお会いしたのだが、会うなり、ワッと話が盛り上がって、まずまずのスタート(^_^A)。
(あ〜そういや、何かスゴイ久し振りだなぁ。オフ会の話を書くの)

美味しくお昼ご飯を終えて(^nn^)、各々、道の駅で買い物して、その場でプレゼント交換もしちゃって(笑)、四人(小野寺さん、畠山さん、亭主と私)で、再び各々の車を移動させて、やってきたのが……↓


関宿城博物館」(地図)到着
こちらは見学後(夕方)

ちなみに、このオフ会レポには、メンバーの写真は出さない(^_^;)ゞ
ここ数年(か十数年)のレポでも、時たまやるオフでの人物写真のアップは、極力控えている。

個人情報保護より、近年はむしろ、防犯上の懸念を優先している。
このオフ会メンバー間での遣り取り(オフ当日に限らず、事前・事後のメール連絡)でも、

「ウチらがHP作った頃は、そういうの無かったよねー!」
「今はネットで知り合った人に会うと、殺されちゃう時代だもんね〜(>_<)」
という話がちょくちょく出る(^_^;)。。

身内同志だと、つい、「あの頃は良かった」「今の人は知らないだろうが」の論調になりがちだが、裏を返せば、本当に限られた時代の限られた人だけが偶然、時代の恩恵に浴した、とも言えるんだよね(^_^;)。。 *神様ありがとう*


←さて、イソイソと博物館の門を潜る
↑右にあらわれるのは、木船と「蛇籠」(じゃかご)。
蛇籠は、竹を亀甲形に編んだ円筒状の籠

この籠の中にを詰めて川底に入れ、川の流れを止めたり弱めたりなど、主に河川改修に使う。
名称の由来は、「形が蛇に似ているから」とか、「昔から川には蛇の伝説がつきものであったから」という説がある。

この河川改修というのは、多分、江戸時代かと(^^ゞ。
利根川の付け替え工事は、徳川家康が来てから行われたとされていた。

ただ、この地、関宿の領主・梁田氏は、室町〜戦国期にも、この辺りの水流管理を行っていたと見られており、河川工事の前身が、簗田氏によって成された土台があったかもしれない。
(入植してきた徳川幕府が、その後を受け継いだ……という事もありうるんだね(^_^;))

いずれにせよ、この関宿が水流の地である事を、この木船と蛇籠が出迎えて物語る。

現在もこの工法は、護岸・根固め・水制・床止め・耐震・擁壁・排水などに用いられ、素材は、竹に代わってメッキをした鉄線になっている。
近年は防災ばかりでなく、「多自然型の川づくり」への要望から、多様な生物の生息空間(ビオトープ)作りに役立っている。

「カッピー」なるゆるキャラw
入場(城)し一階づつ上がり、最上階に到着!

かっぴー」は見ての通り、お侍風のカッパのゆるキャラで、館内のアチコチに「かっぴーをさがせ!」という絵が貼られていた。クイズか何かなんだろう(^^ゞ。(答えるとシールでも貰えるのかな)

やはり江戸川利根川の合流地(実は他にも、宮戸川・大川など、細かい水流もある)であり、各国の県境が接する一大水運地であり、夥しい水害を潜り抜けて来た歴史的な場として、泳ぎが達者な河童が相応しいのだろう。(って、ゆるキャラにマジレスかよww)

ところで、右の写真では一気に最上階に行ってしまっているが、実は一階づつ、話に花を咲かせながら、ユッタリと来ている(^^ゞ
入口付近のさっき見た「蛇籠」に始まり、ロビー付近の模型展示など見るたび、早速、博物館談義が始まった(笑)。


確か、北東〜南東方面だったかと(パノラマ5枚180度以上)

↑この左端に見える、お堂のような屋根を囲む紅葉樹の森を、こうして上から覗き込みながら、「さっきの“鬼門除け稲荷”ですかねぇ」などと言い合った。

「さっきの……」とは、外にあった付近地図に「鬼門除稲荷」というのがあり、見つけた時に、「何だろうこれ」とみんなで言い合ったのだ。

だから天守から見えたコレを指さして、「これが鬼門除稲荷ですかねぇ」と言い合った。


これかどうか……位置的に違う気もするけど、グーグル地図で見ると、今いる博物館の南東方面に「稲荷神社」らしき(地図)があり、ストリートビューで確認できる写真が、「観光野田市」というHPに載ってる「鬼門除け稲荷」と、ほぼ一致するので、今になって特定できた(^o^)v

同ページによると、「寛文9年(1669)に建立」された神社という。

今いる博物館は城風の建物だが、 実際の関宿城があったのは、現在地よりちょっと南だったから、当時の城地にとっては、その稲荷社が鬼門(北東)にあたったのだろう。

ところで、実はこのレポに取り掛かる前に、「第二回オフ会」が挙行され、しかもそれすら過去へと遠のいている(≧▽≦)。。。
(つまりこのレポも、亀レポ通り越して化石レポになってるワケだが……:汗)、

「第一回」「第二回」を通じて、しみじみ痛感したのは、やっぱり、歴史……それも中世〜戦国史が好きな人らと一緒にこういう場に来ると、話の向きと言い、見方と言い、地元の歴史好きオジサンやオバチャンらとは、全く違うっ(≧▽≦)!

歴史好きな人らにも、実は各々違いがあると思う。
仏像の写真や御朱印を集めるお寺・神社巡り系の人もいれば、ゲーム・アニオタから入ったコスプレ好きな人もいる。本格的に城や城跡めぐりを極める人も近頃では少なくなさそうだ。

この会合では、全員が模型を丹念に見るタイプで(笑)、一度見始めると、あれがこうだ、これはどうだ、と結構話が尽きないのが楽しかった(^0^)
博物館や城の遺構の見方でも、一緒に見歩いて参考になる点が互いに多かった!

地元の会合とかだと、「ふ〜ん」と言ってサッと通り過ぎたり、こっちは一生懸命見てるのに、関係ない話をベチャベチャやらかす人がいるのよ(^_^;)。。

どんな風に違うかは、後に述べるとして……( ^^)//


北方面(パノラマ2枚)。スグ先が県境(江戸川・利根川の合流点)

この関宿城には前も来たし、ここの領主・簗田氏については、永享の乱〜享徳の乱の、特に古河公方がらみの回でわりと話して来たので、今回は主にその先の時代を……(=^m^=)
(お城自体の話は、後で城跡に行くところで話します)

まず関宿城は、享徳の乱の起こった康正元年(1455)、簗田持助が配置されて始まる。
以降、代々の簗田氏が本拠地とし、古河公方足利氏の筆頭家臣(外戚)として、河川水上交通を掌握。軍事的にも要衝地として重視されてゆく。

で、チョチョッと間が空いて、最後の古河公方と言える、五代・足利義氏の頃。
すなわち、永禄元年(1558)、義氏が関宿の主として移り住むこととなり、簗田氏は関宿城を開け渡して、古河城へと移った。

これは、長年に渡ってこの地に影響力を持ち、古河公方の外戚でもあった簗田氏を、この関宿から切り離し、この地域を後北条氏の勢力下に置くための布石であった。

ただし、博物館に展示される、義氏から簗田晴助に宛てた書状では、舟路の妨害を禁じ、従来通りの舟通行税の徴収を認めるなど、関宿や古河における簗田氏の権益が保証されており、簗田氏の力の強さがうかがえる。

(このあたりは、後北条氏が簗田氏を思い通りに操るため、といった論調に書かれる所であり、つまり古河公方義氏も、その思惑通りに動いてる事になる)

南西方面(パノラマ2枚)

ところが、永禄3年(1560)、上杉謙信(当時は長尾景虎)が、関東管領として関東に南進し、次々と関東諸城を攻略。
翌永禄4年(1561)、北条氏康・氏政父子のいる小田原城にも攻めに来て、攻略はならなかったものの、義氏の対抗馬として、足利藤氏を擁立。

義氏の母が北条氏綱(二代)の娘であるのに対して、藤氏の母は、簗田高助の娘。
なので謙信による、簗田氏と相談することや、関東について不案内なので意見を言って欲しいこと、簗田氏を見放さない事などを書いた起請文が、館内に保管(個人蔵)されている。

つまり、この流れによって、永禄5年(1562)、再び、関宿城には簗田氏が戻って来て、元通り本拠とするようになった。

次いで、元亀元年(1570)には、武蔵への進出を図った武田信玄が、簗田氏と手を組む。
相馬要害を簗田氏の望み通りにすること、証人の出頭を必要としないこと、難事があっても見放さない事を書いた起請文を、これまた館内に保管(個人蔵)されている。

北条氏康、武田信玄、今川義元、上杉謙信らの関東をめぐる対立や駆け引きの中で、簗田氏は、後北条氏との3回にわたる「関宿合戦」の末、天正2年(1574)に関宿城を開城し、水海城に逃れ、再び関宿に戻ることはなかった。

以後、関宿は、徳川家康の関東移封(1590年)まで後北条氏が治めた。
家康の関東入り後も、引き続き、経済的にも軍事的にも重視されたため、譜代大名が配され、4人の老中を輩出し、「川番所」という関所も置かれた。

紺糸威胴丸具足(江戸時代)
↑一階は、宿場風の模擬展示場で、中央に帆を高くあげた、廻船風の舟の模型がド〜ンと置かれている。

2006年1月号で、最初に関宿藩の歴代藩主を書いた。↓

1590年に後北条氏が小田原に滅ぶと、関宿には松平康元(久松・家康の異父弟)が4万石で入城。これが1616年に美濃大垣に転封されると、松平重勝(能見)が3年在城の後、遠江横須賀に転封。
1619年に小笠原、1640年に北条、1644年に牧野、1656年に板倉、1669年に久世(※)、1683年に牧野、と目まぐるしく変わり、1705年に久世重之が三河吉田から5万石で入ってから以後は、明治まで9代久世氏がようやく安定支配した。

↑と、こんな風に書いている。
このうち、二度に渡って藩主となった、久世氏による、老中奉書や連署奉書、藩主書状などが、館蔵および館保管(個人蔵)となっている。

一階に降りると、宿場町・帆立船の模擬展示がされ、「水上交通」が語られていた。
さすが関宿の資料館という感じがする(^^)。
4人とも、こういう模型・模擬展示が大好きで、見回りながら指さしてウキウキ喋るので、いつもならそれほど注目しない説明も、丹念に読んで意見を言い合ったり♪

(こういうとこ、地元の大人数の会合で行くと、専用案内人をつけて貰えたり、撮影禁止の展示物の撮影をさせて貰えるなど、メリットもある反面、時間に追い立てられ、説明に頷くばかりで興味の低い人ばかりだったり、質問する人がいても何か的外れでウンザリさせられる(^_^;)。
一番ウンザリするのは、高い料金をふんだくられる点:爆)


これは香取神宮の船頭だね
船の裏に廻ると船漕ぎ人が(笑)

「香取神宮の」と言ったのは、12年に一度の「式年大祭」(神幸祭)で、水辺を走らせる御座船の船先に、この鳳凰を見るから。
ただ、香取神宮の資料館にいくとこれに出会うので、ここにあるのは、レプリカじゃないかな(^^ゞ。

特に、「水神信仰」についての記憶が濃い。
上に提示した写真の通り、撮影を禁止されてないコーナーだったので、写真も撮ってあるから、ちょっとご紹介。

この利根川流域は、航行の安全とともに、疱瘡(天然痘)除けを願う「アンバ信仰」が広く分布していたという。
信仰の中心地は、茨城県稲敷市の「大杉神社」だが、千葉県でも、確かに北部に近づくと多く見るような感じがある。

各地の河岸仲間が奉納した天狗や絵馬・額が数多く掲げられている。

アンバ信仰の発祥地は、「阿波大杉神社」で、関東にも各地に分社があり、やはり水運関係者の奉納が多い。太鼓なども奉納される。
また、ここの神輿は船の形をしている点が特徴で、こうした船神輿は、利根川や江戸川の流域にも見られるそうだ。

また、上に言った「香取神社」の系列だと、この関宿に近い「境香取神社」(地図)も、こうした水系を頼りに生きた人々の信仰を集めたそうで、境内にある「水神宮」には、船の錨が祀られているという。
お昼ご飯を食べた「道の駅さかい」に近かったので、行ってみても良かったネ(≧▽≦)!



<「関宿城跡〜宗英寺」(第一回オフ会A)>

予定通り見終わった後は、色々廻れる所をストックしておきはしたが、あまり予定づくめで場を廻すより、「その場のノリ」を優先させる流れに任せていたら、案の定、「さっきの案内板にあった地図だと、元の城があった場所があるハズですよね〜」みたいな話になった(笑)。

案内板にあった地図。↓こちらは昔の地形
こっちは現在地図→

(↑字が小さいので、例によって、上から字を書きこんである(^^ゞ)

@〜Gについて、案内板には、

@総合高札案内板
A川底を浚う(浚渫)
B関宿城の曲輪
C武家屋敷の区割りと教倫館
D関宿城大手門と城を囲む土塁・堀
E関宿関所と棒出し
F船橋随庵と随庵堀
G日光東往還と利根川の渡し

と説明されてたが、@は、今までいた「関宿城博物館」のある所(^^ゞ。

そして、BCDに城地があった痕跡が残る……という事なんだろうが、今、注目して貰いたいのは、両方の地図にある「」のマーク。
そこには元、「本丸」があったようで(左図)、現在地図でも、ほんの僅か、田畑地に出っ張っている箇所がある(右図)。
そこで「遺構があるのかも。行ってみよう(`・ω・)」という事になった。

……もっともウチら夫婦は、トイレとか行ってて、その間に畠山さんと小野寺さんの間で話がついてて、私らは後について行っただけ(笑)


歩くうちに見えて来た本丸跡
振り返ると博物館は遠くにチョコン

博物館から続く土手の上の道を行ってたんだが、途中から土手腹を降り始めたんで、足のあまり強くないこたつは、亭主のフォローで何とか下りた(^_^;)。。
でもこうして振り返ると、どうも博物館に行く途中の道から、ここまで歩いて来れる路地が伸びていたようだ(^^ゞ。


さっきの絵図の通り、関宿城は、あの博物館からちょっと離れた今いる辺りにあった。

関宿城については、その起源が明確ではないようだ。
先ほども述べた通り、享徳の乱の起こった康正元年(1455)、簗田持助が配置されたようなんだが、その簗田氏がこの地に城を築いたのは、長禄元年(1457)が確実のようだ。
(その間の2年間が、どういう状態だったのかわからないって事かね(^_^;))

関東平野の中心に位置し、水上交通の要衝であることや、乱流する大河を天然の要害とする強固な守りを持つことから、「この城を手に入れるのは一国を得ると同じ」とまで称され、戦国時代には、たびたび争奪戦が繰り広げられた。

簗田氏による支配を100年ほど経たのち、天正2年(1574)に後北条氏、天正18年(1590)、小田原征伐により、徳川家康の関東移封後、家康の実弟・松平康元が二万石の領地を与えられ入封。
以後、板倉氏、牧野氏など江戸幕府でも要職に就く大名が配され、宝永2年(1705)に久世重之が入城してからは、明治維新まで久世氏が藩主を務めた。

跡地に立つ関宿城の石碑と野原(パノラマ4枚180度以上)

江戸時代を通して現存したから、簗田氏のいた頃の縄張りとは違ってるだろうが、地形はたぶん変わらないんじゃないかな。

江戸時代の関宿城は、野田方面から北上する日光東往還の街道沿いに展開し、そこに寺院や神社が密集していたため、江戸幕府は、河川交通の要衝地と見て、ここに関所(川番)を設置し、関宿藩に管理を任せていた。

城はまわりに土塁・築地塀を巡らし、さらに周囲を利根川・江戸川・逆川の天然の濠に囲まれた堅牢な平城で、城の南側には、家臣団の屋敷があった。

江戸中期よりは、利根川(当時は「逆川」と呼ばれた)と内濠に囲まれた「本丸」「二の丸」「三の丸」の配置だったようだ。

(山形大弐(1725〜67)の「主図合結記」による。
山形は尊王論者で、兵学講義の資料として、諸国の城郭縄張り図を収集した。その写しが大名や旗本家に流布したといわれる)

江戸後期になると、「本丸」は利根川を背に、御三階櫓と呼ばれる天守閣があった。これは寛文11年(1671)に江戸城富士見櫓を模して再建したもの。
経緯については→(2005年12月<関宿城>内
この本丸を囲んで、「二の丸」「三の丸」がある他、「発端曲輪」「天神曲輪」が出て来る。

ちょっと後退して改めて見ると……
(拡大)田畑地に遺構がせり出すのが判る

あまりいっぱい書き入れると、地図が字だらけになるので入れなかったが、「諸国当城之図下総国関宿」には、本丸の北の「三ケンヤ」(三軒家)に、文字通り3軒の屋根が描かれ、久世広之の頃(1670年代)に開墾された、と伝わる。

開墾前は水流地・湿地のみだっただろうから、↑この本丸跡と接する農地も、元は水辺だったんだろう。

さらに、幕末の慶應2年(1866)、「下総国関宿城絵図」にも、元文2年(1737)の絵図の写しとして、上とほぼ同等の建物名が確認される他、大手門や各門の名称、城下町の家並み、寺社名も詳細に記録もある。

明治2年(1869)の版籍奉還後は、明治政府に管理が移され廃城となり、一部が民間へ払い下げられた。
市内には、埋(うずめ)門(市指定有形文化財・東高野)や、本丸御殿(実相寺客殿)などが現存し、城地は現在、本丸の三分の二が関宿城跡(市指定史跡)として残されている。

さて、この後は、博物館に隣接の庭園や公園を巡る案も持っていたが(前に行ったレポだと、2006年1月<関宿城・周囲の「にこにこ水辺公園」が相当>、日暮れ時間が迫ってもいたので(11月って日没が一番早いんだよね(^_^;))、残り一箇所で行くとなると……

やっぱここかなぁ?
博物館から近い「宗英寺」(地図

博物館から近い距離で、どんなガイドでも載ってる名所と言えば、この「宗英寺」と「実相寺」と「鈴木貫太郎記念館」あたりは確実かな。
(前に行ったレポだと、 2006年1月<実相寺>〜<宗英寺>が相当)

地図見ると、他に「光岳寺」「昌福寺」「大龍寺」「福寿院」「雲国寺」「吉祥寺」「金龍院」と、さすが藩の中心地だけに、寺だけでも相当な数がある(神社もほぼ同数あるかな)。
太字にしたのは、野田市の観光案内ページに説明が載ってたもの。

だが、残念ながら行った事がなく、人を連れて行く自信がなかったので(^_^;)、前に行った「宗英寺」にお連れした。

車を三台連ねて走り、ここの駐車場にポポポンとインした時には、
「こういう事やるの、凄く久しぶり(#^.^#)」と思った。石和に合戦とかしてた頃以来かなー。
(その後も各種のオフには参加したが、車移動のあるのは多くなかった気がする)
まぁ、二酸化炭素問題とかも気にして、このタイプの行動を控える意識もあったが、そう頻繁でないので許して貰いたい(^^ゞ


「宗英寺」境内に入場。この参道の左手に↓
古河公方・四代・足利晴氏の墓」→
台座石に刻まられる字は、かなり摩滅ぎみながら、「永仙院殿」と読めそうなのは、晴氏の法号かと(^^ゞ

足利晴氏は、永正5年(1508)宇都宮で生まれ、12代将軍・義晴から字を賜り、晴氏と名乗った。
家督争いや 戦国末期の関東覇権争いで、北条氏との戦いに明け暮れたが、直接の家臣団を多く持ってないため、敗戦が多く、天文14年(1545)、子の義氏に家督を譲り、関宿に隠居。永禄3年(1560)5月27日享年52才で死去。

一度目の来訪から、ずいぶん経っていたので、晴氏の墓のある場所も、墓の形などもウロ覚えで、最初にこれを見た時、「この石塔だっただろうか(・・;)」と不安になった。

いつもなら、引き返してしまう所だが、今回は私が案内役……。殆ど迷う事無く、庫裏に行ってドアベルを押して、出て来た声の方に聞いたのだが、とんでもなくツッケンドンに、「そこにあるでしょ!」と追い返されてしまった(^_^;)。。

小野寺さんは、そういう応対もアリな感じに察していらしたようだが(笑)、どういうのか、千葉県の観光地で、こういう反応を示す人がたま〜にいるのよ(^_^;)。
だいたい、歴史上の人物の墓に、標識一本立ってないトコから、この冷たい反応は想像できなくもなかったが……。(ただし、教委の説明版は入口にある)

何しろこの答え方では、詳しい事を聞きたくても聞き出すのは困難だが、薄暗がりの中、台座の字も読みにくく、写真写りもすこぶる悪かった。
というのも、どうも現在持っているデジカメは、かなりの暗がりでもそこそこ撮る能力はあるんだが、逆に明るいと色が飛びやすく、暗い所でもブレが大きく、帯に短し、たすきに長し。。

最終手段で、家に帰って画像検索した所、この同じ台座に晴氏という刻印もある事がわかった(;▽;)
どなたかは存じませんが、ありがとうございます。(案外このツッケンドン住職の仕業だったり:爆)


←この大きな植木は、古河の「鳳桐寺」でも見た形式。(2015年5月<鳳桐寺>

そこもやはり古河公方の開基(成氏とも義氏とも言われる)と言うから、何か繋がりがあるのだろうか?
(ちなみに、ここ「宗英寺」は禅宗(宗派はわからなかった)、古河の「鳳桐寺」は日蓮宗)

この植木の大きさを示す比較対象に、こたつが近くに立つと、「顔が入らないよう後ろ向きで」と、ご配慮頂いたり、オフ会だな〜とみんなで笑った(笑)。

宗英寺は、慶長元年(1596)創建で、山号「観照山」、院号花林院」。
足利晴氏の他、船橋随庵の墓・松平康元の墓や御位牌等も蔵。

船橋随庵(関宿藩士・経済・土木学者)
寛政7年(1795)関宿にて生まれる。本名は船橋穀信と称し、隠居後、随庵と名のる。
壮年より藩の用人となり、嘉永元年(1848)中老となる。
同年今でも随庵堀などと呼ばれる堀(水路)の大治水工事(関宿〜野田間)を始め、数年の歳月をかけて完成させる。
この治水工事により水害がほとんどなくなり、作物の収穫高も飛躍的に上がったという。明治5年4月15日享年78才で死去。

松平康元(初代関宿藩主)
天文21年(1552)尾張国で久松勝俊の長男として生まれる。康元の母・お大の方伝通院)は、徳川家康の母でもあり、家康、康元は異父兄弟
若い頃は兄・家康とともに戦に明け暮れたが、天正18年(1590)徳川家の江戸入城の時、2万石にて関宿城を賜り、13年間城主を務め、慶長8年(1603)年享年52才にて死去。

これにて、オフ会の予定は無事に終了\(^O^)/

続いて「良かったら、軽く何か食べませんか(^^ゞ」という話になって、お二方に勧められ、今度は「道の駅ごか」(五霞・地図)に車移動ε=(┌ ̄_)┘

ただこの後は、話に夢中で、写真は撮ってない(テヘペロ)

なので、頂き物とお土産を→
小野寺さんから「豆らっか」(クッキー風せんべい)、こたつ家から猿島茶ティーバック、畠山さんから「金の木の実」ナッツのヌガー風菓子
ありがとう\(^O^)/

「道の駅ごか」では、売店はしばらくやってたが、飲食店が、残念ながら店じまいor売り切れor閉店ギリギリ前で、何とか頼める残り物をゲットして、4人でテーブルを囲む。

色んな話したなぁ〜。互いに行った事ない城跡の話を聞きあったり、私と畠山さんは、亡くなった林六郎光明さまと交流があったので、その話も小野寺さんに説明したり……。(メールでだいたいは話したんだけど、改めてって感じで)

城跡の話では、お二人から、茨城県の小田城の話をたくさん聞いて、次はそこかな〜とこの時思った。(結果は、群馬県の金山城になったけどね:笑)

地元の歴史会合の話も出た。
一定世代のリタイア組に占拠されてるため、平日の真昼間とかに開催される事が多く、参加がままならないので、最近は行ってないという話も……。

これ、ウチの方も同じ(^_^;)。
この頃から、私はそれ以外にも、肌に合わない事がドンドン増えて来て、結局、今年度は会費を払ってない。

細かい事を言うと、あれこれあるけど、大雑把な1点を言うと、丸きり「企業生活の延長」って感じなんだよな。
全体の構成といい、集まる人々やその統率の仕方といい……。


せっかく仕事をリタイア出来て、これから自由な毎日を送れるっていうのに、わざわざ社則みたいの作りあって、お互いを締め付け合うと言うか……。

自己実現だか承認欲求だか満たす場にしてる感じ。


←こちらの画像は、オフ会の後、帰りの道中、亭主と二人で入った「すぎのや本陣
オフ会の画像の代わりに提出(^_^;)ゞ

自己実現は別に悪いと思わないんだけど、そこに周りを巻き込むのは辞めて欲しいなぁ、と。
具体的に言うと、自分らの作って来た「歴史」を、後から入って来た人間にもやらせようとする。

それが地域の祭り(神輿担ぎとか、太鼓打ちの練習とか)なら、多少厳しくても仕方ないと思えるんだけど、せいぜいここ10〜20年以内に始めた事なんだな(^_^;)。(下手すると5年経ってなさそうな「仕事」まである)

私なんか神経質な事言っては難を避けてたけど(笑)、私より年下の男性なんて、年がら年中、滅私奉公に使われたあげく、差別的なあだ名で呼ばれたりしてた(^_^;)。。
でも当人は気にして無さそうなんで、私だけ肌が合わないんだぁ〜って。。。

特に年下世代については、「歴史に興味がない人たち」とか最初から決めつけ、見下してると言うか……。(会員数激減して、焦って言ったんだろうけど)

でも私の目から見ると、どう見ても、ネットで知り合った歴史系の人らの方が詳しく調べてるし、だいたい年下世代を色々言うわりに、自分らが年下があげてるネット情報を読んで教えあってるだけってどうよ(^_^;)。。

さっきは、好きな時代が中世〜戦国期だから、他の歴史好きと視点が違うような事を書いたけど、ただ中世〜戦国期好きだけ集まれば、今回のオフのように楽しめるのかと言うと、本当に決定的な違いは他の所にあると思う。

やっぱり、WEBサイト(ホームページ)を作成・主催してる人と、そうじゃない人の違いよ。
所詮、人の作った場所に間借りして、言いたい放題言ってる人は、どっか信用できんよ。
(この点に関しては、今回のオフでも、ちょっと懐メロムードながら語られた)

ただ、当団体にも、今言ってきた言葉から匂う悪気とかは、たぶん全然無くて(笑)、自分が社畜だったから、みんなもそれを求めてる的な浅い考えなんだろうね(^_^;)。

会費だけ払って、送られてくるパンフ類だの貰うだけで、会合に全く参加しない会員も大勢いるんで、出るのがしんどかったら、私もこの手で凌げばいいかって一時は思ったんだけど……。

←亭主「天ぷらつけ麺」↓城主「けんちん鍋」

こういう団体って、県だの市だのから、色々貰ったり優遇されてるな〜と思う事も多く(^_^;)。。
それって、地方税から出てるわけよね。
それだけで十分にぶんだくられてるのに、その上、会費も払って応援するとかあり得ないわw。


あと、どうも恣意的な金の使い方されてるな〜と感じる面も多々。
こういうの見ると、私らの払う税金も、その大方は、この手の場に群がる人らのいいように使われてるんだろうな〜と思う局面を、直に感じてしまった。


世のため、人のためと言いながら、善意の人から吸い取って、無料でアゴで使って……利権とかカルト団体って、こんな風に簡単に出来ちゃうんだな〜と……。

ここ数年、ネトウヨは若い貧乏人から、だんだん都内近郊の経済的に余裕のある中高年説が言われ出したり、市中にクレーマーが増えた話を聞くけど、もしかしてって思っちゃう(爆)

最近、芸能人の自殺がキッカケで、過剰なSNS中傷が問題になってるけど、言いたいことを言わせない風潮というのは、もっと怖い。
何かそれこそ、一定の世代や一定の立場にある者だけが得するように、無理に仕向けられてる感じがしてさ( ̄▽ ̄;)。。。

ははは。書いちゃった(^^ゞ
でも、ちょっとスッキリした〜(((つ^o^)つ


えと、最後に寄った、この「すぎのや本陣」は、美味しく食べ終わって、お勘定に行ったら、そこにお店の紹介文みたいな額が飾られてて、その分に「平将門」の名がある事に驚いた。

そういや、ずいぶん前、このお店が将門の子孫筋の人が経営してるんじゃないか、という噂を聞いた事があるのを思い出した(´・ω・`)

後で調べてみた所、どうも将門の本拠地のある猿島がエリアであるらしく、土地への感謝から、その地元の英雄伝説にあやかっている、という事のようだ。

支店によるのかもしれないが、「将門御膳」なんて立派なメニューもあるらしい(今度頼んでみたい(`・ω・))



間が空き過ぎて、レポ感覚が掴めない内に書き始めたが、何とかいつもの調子を取り戻せたかな(^^ゞ。

現在、コロナ禍により、手洗い・換気・消毒など、特に外から帰宅した時など大ワラワで、そういうのだけで凄く時間使っている。

ただでさえ、病状回復のために、ネット時間削減されてるのに……。

というわけで、非常にレポ具合が遅れてます。
通常通りだと、次は、2019年1月ごろまで行けそうなんですが、この調子でやってると、いつも凄く過去のレポやってる事になるので、どっかで割愛せざるを得ないんだろうな〜とは思ってます(^_^;)。<やりたくないけどね〜割愛は

冒頭でも述べた通り、今回は珍しく、<つづく>の出ない回となりました。
うまい具合に切れたんだね(笑)。

次回もお楽しみに(^O^)/~

(例によって、関連リンク貼るのは後日とします。これも凄くサボっちゃって、どうなることやら)

2020年05月29日
 
     






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