<2020年・城主のたわごと1月>



2018年4月、上州レポ第3弾・最終回は、岩松(太田)と小泉城。

後半は日常編で、松戸の自然公園と印西「龍水寺」など(^。^)




     
  前々回から、2018年4月に行った「古河〜足利〜新田」編をやっている(^^)。

前2回は……↓

〜おしながき〜「古河〜足利〜新田編
「5月のたわごと」(古河〜足利〜新田1)
■茨城県古河市〜栃木県足利市〜群馬県太田市
<まずは「古河公方(古河総合)公園」を目指す>
<満福寺(古河公方・足利成氏の墓)>
<古河から三毳山に向かう>
<「三毳山神社」(里宮)と「三毳不動尊」>
<城山公園(佐野城跡)>
<佐野「天命」(天明町)〜足利「只木山」(多々木町)>
<足利(栃木県)〜新田(群馬県太田市)> 
<「台源氏館跡」(新田義貞・誕生伝説地)>
「8月のたわごと」(古河〜足利〜新田2)
■群馬県太田市・前橋市
<藪塚温泉(1日目夜〜2日目朝)>
<藪塚温泉〜桐生市南西部〜赤城山麓>
<赤城山を登る(南西ルート)>
<赤城神社(小鳥島)>
<赤城山大沼、大洞観光街>
<赤城山下山、太田市方面に向かう>
<青蓮寺(新田岩松氏居館跡)>
<義国神社(源義国の墓所)>
<次回は……(予告編)>
読んでねっ(≧▽≦)!(既に読まれた方は今回のに進んでネ(^^))
(スイマセン。リンク切れてました(^_^;)。繋げ直しました。m(__)m<ペコ(2020/01/15)

前々回(5月号)は、古河(茨城県)に出て、ほぼその緯度を東から西に進んだ。
途上、三毳山・佐野・足利を経ながら、話は享徳の乱初盤一年の戦歴を案内した。
さらに、太田市(群馬)に向かい、新田岩松氏の歴史を南北朝期ごろまで話した。
(訪問地は↑「おしながき」の取り(^^ゞ)

引き続く前回(8月号)は、宿泊した「薮塚温泉」から始まり、赤城山に向かった。
山頂の「大洞赤城神社」参詣、周辺売店で昼食の後、山を下りる道々、前々回話した、新田岩松氏のその後(上杉禅秀の乱・永享の乱・結城合戦)と、これまた前々回話した、享徳の乱の続き(中盤〜後半)を、合わせて詳しく話した。

みたび太田市に戻って来て、新田岩松氏ゆかりの「青蓮寺」、新田氏と足利氏の祖・源義国墓所「義国神社」をお届けの途中、今回に引き継いでいる。

今回(12月号)はその続きで、やはり新田岩松氏ゆかりの「金剛寺」と「尚純萩公園(岩松尚純夫妻の墓所)」を、まず巡る。
続いて東方面に帰っていく途中、邑楽郡の「小泉城跡」と「龍泉院」に立ち寄り、夕飯&入浴に古河の日帰り温泉で、このツアーレポのエンドとする。

その後は日常編に戻って、地元・松戸の「21世紀の森と広場」、印西市の「瀧水院」など、近隣レポしながら、4〜6月の花々の画像もお届けしたい(^^)。



■2018年4月初旬・群馬県太田市・邑楽郡、茨城県古河市
<金剛寺>


ここのレポは、ちょっと枝葉ネタになる。前回の続きは、この後に続けるからね(^^ゞ。

この「金剛寺」は、手持ちのガイドブックに、
「南北朝時代、岩松氏の隆盛時代の基礎を築いた、岩松直国が開祖した寺」
とあったので、訪ねてみたのだが、行ってみると……。

ガイドブックの記す通り、「国道沿い」のトラックがブンブン走る大きな道路に面する敷地(地図)が在るには在ったが、そこは「寺」と言うより、ただの小さな公園だった(^_^;)。。

←滑り台とブランコのある周囲に、桜の木が数本立つ、至って小さな敷地(^_^;)

ただ、敷地のカドに、道路からも見える小さなお堂の傍らに、藤棚と教委の案内板があり、小さい墓所を挟んで質素な建物(集会所?)もあった。

その案内板を提示↓

太田市指定重要文化財
圓仏および妙蓮の板碑
指定年月日 昭和50年10月8日
所在地 太田市岩松町525番地

この板碑は二基とも同型のもので、石材は緑泥片岩(秩父青石)を用いた武蔵型板碑である。
圓仏の板碑は、高さ147.5p、中心部の巾34p、妙蓮の方は、高さ145p、中心部の巾34pである。
二基とも、蓮華座上の月輪(がちりん)内に弥陀の種子キリークが彫刻され、その下、左方の月輪内に観音の種子サ、右方に勢至サクが力強くほりこまれている。
更にその下に次の銘文がきざまれている。

右志者為沙弥圓仏逆修
正和四季乙卯八月時正
善根出離生死證大●也
右志者為比丘尼妙蓮逆修
正和四季乙卯八月時正敬白
善根出離生死證大●也
逆修=生前にあらかじめ自分のために仏事を修して冥福を祈ること。
●=菩提の略 正和四季=1315年

沙弥圓仏については系譜不明であるが、妙蓮の夫と思われる。
比丘尼妙蓮は、金剛寺開基と伝えられる岩松直國への譲状(弘安5年・1282)に見られる藤原土用王で、岩松時兼孫女であろう。
銘文は、達筆な行書で書かれており、圓仏妙蓮夫妻が生前極楽往生を願って、彼岸の中日に建立したものである。
種子、蓮華座、銘文等の刻法は、鎌倉時代の特徴をよく現わしており、形も大きく、石造美術としても優秀であるとともに、史籍の欠を補う資料である。

昭和52年3月 太田市教育委員会
(「●」は変換不能の字で、草冠の下に「ザ」と書いて、点を一点無くした形)

この案内板には、この「板碑」の写真が載ってないが、2012年に訪れた歴史資料館で買った資料集には載ってて、かなり立派な物で欠損なども殆ど無い感じに見えた。

今回は、この案内板に出て来る「藤原土用御前妙蓮)」なる女性について述べよう。

まずは前々回から出している、新田岩松氏の系図をご覧あれ↓


↑新田氏と足利氏の間に生れた「時兼」が岩松氏の初代で、そこから三代まで続き、その後は前々号に、↓

「経家」の後は、私の知る限りだと……、

┌経家−直国−満国
└頼宥

となるのだが、wikiを見ると、

┌経家
├頼宥−泰家−満国
└直国

こんな風になってて、どっちが正しいのかな……。


↑と言った。
ガイドブックに、この金剛寺を開基したとある「直国」が、「経家」の弟なのか、子なのか、弟を養子にしたのかはわからないが、いずれにせよ、「直国」は「経家」の後に連なり、前回、話を起こした「満国」が、さらにその後に連なる当主である点は間違いなかろう(^^ゞ

ここで、もう一度、岩松氏の発端となった初代「時兼」に戻りたい。
「時兼」は、新田氏の娘と足利義純の間に生れたものの、離縁された母と共に新田氏に養われ、父系と断絶したがゆえに、「岩松氏」を起こした。

この「時兼」からは、上の系図の男系とは別に、女系を辿る以下の相伝が発生している。


つまり、時兼には「経兼」という息子の他に、「とち御前」という娘がいた。
「経兼」と「とち御前」の関係は兄妹か姉弟だろう。

相馬義胤の娘・「土用御前」は、「とち御前」の生母ではあろうが、「経兼」の生母だったかは、私は知らない(^^ゞ)

道路から見えたお堂(子安地蔵堂)
その隣にしつらえられた墓所

この「とち御前」が「藤原某」に嫁いで生れた「藤原土用王御前(尼妙蓮)」が、夫であるらしき「圓仏」と共に、この「金剛寺」の案内板に出て来るのである。

……と言っても、「土用王御前(妙蓮)」が、岩松直国に譲状した事、岩松時兼の孫娘である事が記されるのみで、その間を埋める父母や祖母の名は書かれてない。

私が父母や祖母の名を知ってたのは、この「藤原土用王御前(妙蓮)」に対して、「千葉県柏市の土地の一部が譲与された」と、我が地元の資料に載ってたからだ(^^ゞ。
千葉県北西部なんかに相伝されるからには、母方の相馬氏の土地だろう。

柏市の藤心および、手賀東方の下柳戸(いずれも、その一部だろう)であるらしい。
(2008年12月<六所神社(柳戸砦跡)>内
つまり、「とち御前(真如)」や「藤原土用王御前(妙蓮)」は、相馬氏からは千葉県北西部の地を、岩松氏からは上野国の所領を、それぞれ受け継いで子孫に伝えた。

相馬氏は、1336年に、相馬(泉五郎)胤康が戦死し(南北朝の動乱によるものだろう)、相馬氏は胤康の子・胤家が後を継いだが、千葉県にある今言った所領は妙蓮の時代、新田岩松領として継続したと推測されている。

近寄っていいか迷う建物だったが(^_^;)
近寄ったら「金剛寺」らしき扁額が!

「金剛精会」……ですかね(゚.゚)
医療団体とか研究会なんかに、よく見る会名に思えるが……。

地図サイトには、この辺りに「集会所」を示すものも見かけるので、寺としては廃止されて、宗教施設とは別の建物として機能してるのかもしれない。

一見すると、すっかり民家の風情で、誰か住んでる感じすら受けたので、近寄るのを躊躇ったんだけど、この扁額が無かったら、ここが「金剛寺(跡)」かも判断できなかったので、近づいてみて良かったかも(^_^;)ゞ



<尚純萩公園(新田岩松尚純夫妻の墓所)>

前号では、新田岩松氏の話を、家純の代まで話して来た。

家純が、嫡子・明純の反対にも関わらず、上杉陣営(京幕府側)から離脱し、古河公方成氏に寝返った話は、前回書いた通りである。

家純は、明純に勘当を申し渡し、一族被官を集めて神水三カ条を誓約させ、壁紙の執行者に横瀬国繁宗悦)を指名する。
これが、横瀬氏が岩松氏の筆頭執事として確定する初見と言える。

以後の新田岩松氏は、横瀬氏に下克上される経過をたどる。


家純の後は、明純の子・尚純が家督を継いだ。
(家純に勘当された明純は生没不詳だが、尚純と行動をともにしていたような記述を多く見る)

家純の死(1494年)を迎えるや、翌年(1495)には、尚純と横瀬国繁の間に争いが起き、岩松氏の一族・家臣の多くが尚純についた。
(この折の横瀬氏は、国繁の子・成繁に代替わりしており、尚純と争ったのも、成繁とする記述が多い)

が、古河公方成氏・山内上杉氏・佐野氏などが介入し、尚純は退去して、尚純の子・夜叉王丸(昌純)が当主となり、横瀬国繁(これも恐らく成繁)をその名代とする事で落着した。

これは、家純による「神水三箇条の誓約」の時、横瀬国繁を指名した流れによるものだろうが、尚純の妻(秋吟尼)が佐野氏から嫁いでいるので、その血を受け継いだ昌純の家督相続が、何らかの効果(影響)があったとも見れるだろう。

由緒ありそうな旧家
平原の向こうに浮かぶ山並

しかしその後、横瀬氏の専横を嫌った昌純は、陰謀を企て、横瀬泰繁に攻められて自害。享禄年間(1528〜31)と伝える。
岩松氏は、昌純の弟・氏純が継いだが、これもまた横瀬氏の圧迫を強く受け、自殺に至ってしまう。

だが、尚純自身はこのような悲劇を知ることなく、永正8年(1511)51歳で没している。

尚純は金山城主としては、三代目にあたる。
隠居後は岩松に遁世し、「梅核静喜」「静喜庵(じょうきあん)」と号して、生涯を連歌の世界に生きた。
が、それまでの、武将としてもその地位は高くかわれており、小笠原資料に、京都将軍の命により、小笠原光康が新田治部大輔に属して戦ったことが記されている。

その一方、尚純の連歌も早くから世に表われ、奇しくも城主を追われた、明応4年(1495)成立の『新選菟玖波集』に、「関東新田治部大輔源尚純」として、9句も選ばれている。

新田岩松尚純夫妻の墓所「萩公園」に到着(地図パノラマ2枚

尚純の母すなわち明純の妻は、室町幕府の重臣(政所代)、蜷川親当(にながわ・ちかまさ、号は地蘊)の娘である。

蜷川親当は、一休宗純との親交で知られる人物で、アニメ『一休さん』に出て来る「新右エ門さん」のモデルと言われている。

父・明純が、どのようにして蜷川親当・父娘と出会ったかは定かでないが、祖父・家純が上杉禅秀の乱後、幼くして故郷を追われ、京の将軍・六代義教の取り立てを得た経過もあって、父・明純は京に生まれ育ったようだ。

明純・尚純が、家純の取り決めに従わず、上杉+幕府方に身を置こうとしたのも、畿内(あるいはその周辺)に生まれ育った、こうした下地が一因したのかもしれない。

中に入る。東屋や石碑が並ぶ、中央に墓石が建つ(パノラマ4枚180度以上)

また蜷川親当は、連歌師・宗祇の「七弟子の一人」とまで云われた人物でもある。
(今回の旅のはじめに、古河公方成氏の墓とともに、同じ宗祇の弟子・猪苗代兼載の墓をお参りした事を思い出す)

こうした祖父を持つゆえであろう。尚純は、同じ宗祇の弟子・宗長(1448〜1532)とも親交が深く、尚純の隠居後、宗長が東国に旅して綴った、「東路の津登(つと)」の一説には、永正6年(1509)8月17日の条として、以下の事が記されている。

「明る朝、利根川の舟渡りをして、上野の国新田の庄礼部尚純隠遁ありて、今は静喜かの閑居に五六日、連歌たびたびにおよべり」
(※礼部=新田岩松氏は、上杉禅秀の乱後、「京兆」家と「礼部」家とに分かれ、家純の系譜を「礼部」と呼んだ)

また、この宗長の記に「岩松道場にして所望」とある「道場」は、前回レポした、あの青蓮寺のことである。

尚純の連歌に関しては、また先述の「新撰菟玖波集」9首の歌の他、著書に「池水草」「連歌会席式」をはじめ、多くの作品があり、室町時代連歌の指導者として高く評価されている。

宗長の訪問は、1509(永正6)年に「静喜庵」に対してであり、数日滞在して「両吟百韻」を詠じ、かつ「終日閑談忘れがたき事のみなるべし」と、その親交ぶりがうかがわれる。

岩松青蓮寺に伝来する自画像(県重文)は、文人としての尚純の風貌とその筆跡をよく伝えている。
夫人の秋吟尼は、栃木県佐野の佐野越前守の娘で、夫とともに金山を出て岩松に移り、寿宝庵主として余生を送り、夫に先立って亡くなった。

墓はいずれも五輪塔で、一辺が約4メートル四方の土壇上に立てられているが、欠損が著しく後補されている。
地輪に刻まれている銘文は次の通りである。

貞松院殿 秋吟
尚純君塚 尼君
永正八未年 明應八待未
十月十五日 八月二六日
善福寺
施主

太田市岩松町は、この史跡を保存するため、「全町史跡公園化事業」の一つとして「尚純萩公園」と名付け復元整備した。

以上をもって、新田氏の里ともお別れ(ノ_・。)
他にも訪れたい史跡は数あれど(特に岩松八幡宮は近かったので、頑張って行けば良かった)、日暮れ時が刻一刻と迫るので、一先ず今回は引き上げることとした。



<小泉城跡>

最後に寄ったのが、ここ「小泉城」。
帰りのルート上にある城だったので寄ってみたんだが、だいぶ日も暮れて来て、ここから先は残念ながら、あまり映像がクリアじゃない(^_^;)。。

小泉城跡」は石垣に囲まれた公園(地図パノラマ4枚180度以上

この小泉城は、延徳元年(1489)富岡(主税介)直光が縄張りをしたことに始まるという。
手持ちのガイドによると、富岡氏はここを拠点に、古河公方に仕えたという。

以後、富岡氏が6代に渡り、約100年余の居城として栄え、威容を整えた。
現在の城跡は、後北条氏の傘下に入ってから改築されたものと考えられる。
天正18年(1590)、豊臣氏の小田原攻めに対し、後北条方とともに破れ、廃城となった。

↑見ての通りの平城で、本丸、二ノ丸、三の丸からなり、中心部は回字型をもつ囲郭式。県内でも有数の城跡。

←上が北。上部を取るのは東部小泉線。その右に「小泉駅」。
(暗くて字がブレ、見づらかったため、いつも上書きする字も入れられなかった(^_^;))

本丸の水堀土塁、三の丸の一部と水堀と土塁が良好な形をとどめ、本丸北東隅の「櫓台跡」と西南隅の「折り」と「櫓台跡」は、正面、北面、西南面を防護する横矢櫓の備えを残し、戦国期城郭の特徴をよく伝えている。

富岡氏初代の直光の事は、ネット上に、「結城氏朝の弟・久朝の子」とも見受けるから、築城年代が古河公方成氏の生前にあたる点から、この城地を得たのも、成氏の兄たち(春王丸・安王丸)の戦った、結城合戦以来の功、という線が想像される。

そもそも享徳の乱に至った核たる原因に、上杉勢力に対する、結城氏らの抵抗感を思い出す。
が、その一方……。

それにしては、築城年が、成氏の晩年(成氏の没年は、1497年)に近い事、享徳の乱は既に終わり、長享の乱の真っ最中である事……。

さらには、新田岩松氏の金山城が近距離な上、小泉城の築城後4〜5年で、岩松尚純が金山城を出され、横瀬氏主導体制になった事、佐野氏の息のかかった当主(昌純)を立てた事などを思い合わせると……。

古河公方による、何らかの布石として打ち込まれてたり……という感じもしなくない。

ただ、この城跡公園や、この後に行く菩提寺(龍泉院)に、歴史に詳しい説明が乏しかった事や、城や城主の富岡氏についての知識が私に無い事もあって、これまでの流れで、メインは横瀬氏の話を続けたいと思う(^_^;)<途中にちょっとだけ富岡氏も出て来るんで

入り口を入ると、駐車場の先に控える濠と石橋(パノラマ4枚180度以上)

隠居に敗死、自害と、家来・横瀬氏の下克上に追い立てられ続けた新田岩松氏だが、滅亡してしまったわけではない。
先に述べた氏純の後も、子孫は続いた。

が、戦国時代の岩松氏は横瀬氏の専横の中にあって、固有の事跡を全く感じられない時代が続いた。

その一方、戦国期の上野国には、上杉、武田、後北条の勢力が進出してしのぎを削り合った。

金山城は、後北条氏方の城として重要度を増してゆき、横瀬氏は由良氏を名乗って、東は舘林、北は桐生、西は伊勢崎付近まで勢力を広げまくり、一円支配した。
見事なまでの戦国大名への成長そのものと言っていいだろう。

横瀬氏は、よくある関東武家と同じく、謙信が現れると越後上杉氏につき、ジワジワと後北条に寝返り、上杉と北条の間に越相同盟が成立すると、再び上杉と誼を取り戻すが、この同盟が破綻すると、再び北条につく……というパターンをなぞった。

その由良氏(横瀬氏)を抱き込んだ後北条氏も、苛烈な戦国抗争の中で、由良(横瀬)氏に対し、ついに金山城の明け渡しを迫って来た。

水濠(橋から見下ろす)を渡り
土塁(階段付き)の間を入場

この時、後北条氏が味方につけたのが、この小泉城地図)の富岡重朝秀長とも)という。
小泉城のこの動きにより、天正12年(1584)、金山城地図)は後北条氏に明け渡され、由良(横瀬)国繁(※)は、先んじて(1572年)攻略してあった桐生城地図)に居城を移した。

(※ 貞氏−貞治−貞国−国繁−成繁−景繁−泰繁−成繁−国繁−貞繁)

1590年、秀吉による小田原征伐を迎えた時、横瀬氏は後北条氏の小田原城にいた。
ただし、金山城の明け渡しの際、それに従って北条氏の小田原城に人質となった国繁に反し、その母・妙印尼が、国繁らを捨て、孫の貞繁を擁立して抗戦したので、秀吉はこの妙印尼の働きに対して、常陸国の牛久城を与えたという。

後に国繁は、徳川家康に取り立てられて牛久に行き、そこで没している。
その後の横瀬氏は、徳川と同じ新田一族の子孫として、高家に列せられたようである。

一方、この小泉城にあった富岡氏は、どうなったのか……。
後北条氏に従っていたため、小田原落城と同時に、この城も廃城となり、大名としては終了したようだ。

このすぐ後に富岡氏の菩提寺にも行くので、続きの話はそこで(^^ゞ。

公園は本丸をグランドに仕立てた芝生広場(パノラマ3枚ほぼ180度)

金山城と小泉城は近距離にあり、どちらも規模は小さくない。
両城の間に目立った戦闘の話を見ない点、どちらも謙信の上杉氏には靡く一方で、後北条氏の版図に属した点から、協調・共存・共闘してたのだろう。

もちろん、横瀬(由良)氏の支配領域は、小泉城を遥かに超える広大な、しかも一円支配だった点を思えば、富岡氏は横瀬氏に気圧されがちだった事は想像しうる。

さらに、金山城の由良氏からは、跡が絶えた長尾氏に養子入りが行なわれて、舘林城地図)には、国繁の弟・顕長がいたため、殆ど由良氏に包括されてただろう(^_^;)。

逆に、その小泉城を拠点に攻められたら、金山を開城するしか無かったのも頷ける。
後北条氏が目をつけそうな点にも思える。

小泉城のある、この邑楽郡の地域マップに「休泊堀・休泊川」がある。該当しそうな所を地図に探すと、「治水碑」(地図)なる旧跡があり、ストリートビューでは庚申塔が見えるが……。

休泊川は小泉城のすぐ西を、南北に流れる川で、城の濠水も、川からひいたと思われる近さにある。

四方を囲む土塁から見下ろす濠の水(パノラマ4枚180度以上)

堀も川も、「大谷休泊」の名からついたのだろう。
休泊は、平井城の上杉憲政に仕える武士だったそうだ。

憲政は後北条氏との戦いに敗れ(いわゆる河越夜戦だろう)、平井城に逃げ戻ったが、その後は振るわず、武田・北条の勢力拡大を前に、持ちこたえ困難と見て上野国を落ち、越後の上杉謙信を頼った。

大谷休泊と休泊堀」(PDF)
↑によると……。
主人を失った休泊に、(その頃やはり謙信に味方していた)横瀬氏から声がかかった。
休泊はこれに仕え、戦働きよりも、治水事業で功績をあげた。
これが「休泊堀」で、戦国期に由来を持つ治水事業として、今日に伝えられている。

こうした川や湖に関する水害対策や灌漑などになると、広い面積を一円的に支配する領主が現れないと、効果的に成し遂げる事は難しい(^_^;)。
下克上もあったし、近隣への圧迫も想像できるが、横瀬氏による広域支配が、こうした利益ももたらしたのも、また事実だろう。



<龍泉院(富岡氏菩提寺)>

暗くて、撮影した写真の文字などが、ブレてしまい(^_^;)、困っていた所……。
大泉町: 龍泉院」(@「群馬県:歴史・観光・見所」より)
↑このサイトに、この寺の事が詳しく解説されているのを発見\(^o^)/
かいつまんで要点を書くと……。

天文3年(1534)、小泉城主・富岡秀信(3代)が梵海正音(茂林寺4世)を招いて開山。
初代・直光(祥平院)、二代・秀光(龍泉院)の戒名から、「祥平山・龍泉院・富岡寺」と号し、富岡家の菩提寺とした。(曹洞宗・本尊は釈迦如来)

天正18年(1590)に小田原の役で、北条方だった富岡秀朝(6代)の小泉城は落城。
その後、秀朝は大坂の陣で幕府方に属し、松倉重政(日野江藩)に従軍したが、大坂方の真田幸村の隊に討ち取られた。
富岡氏の後裔は、福井藩や高崎藩に仕えたそうだ。

龍泉院」(地図)参道
元和元年(1615)の山門

龍泉院は庇護者を失って一時衰微したが、山門は元和元年(1615)の物を残す↑
寛永年間(1624〜1645年)、領主・小栗忠政が再興。名を「白山寺」と替え、幕府からも庇護されていった。
現在の本堂は嘉永3年(1851)に再建されたもの。
他、直光手植えの昇竜松、直光室「おふじの方」手植えの藤などもある。

この小栗氏は、鎌倉公方持氏による「上杉禅秀・与党退治」で落城し、三河に落ち伸びたあの小栗氏だろう。戦国期は徳川家康の家来衆になっている。
山岡荘八の『徳川家康』(小説)にも、小栗氏の登場頻度はかなり高いんだよね(^^ゞ。幕府の譜代大名の一人と言える。

以上、知らない事が多い上、写真が今イチで、小泉城や富岡氏については詳しく書けなかったが、この先は、地域と時代背景をやや俯瞰して書いてみようと思う(`・ω・)

後北条氏が金山・舘林由良兄弟(国繁・顕長)に対し、城明け渡しまで要求する背景にある、天正12年(1584)という時代と、そうまでする(出来る)事情を述べてみたい。

嘉永3年(1851)再建の本堂
堂内

「天正12年(1584)」と言えば、信玄が死に(1573年)、謙信も死に(1578年)、武田は滅び、信長も滅んだ(1582年)後である。

関東人が、信長・秀吉・家康を意識したキッカケは、武田家が滅亡した時点と言える。
武田が居なくなった途端、甲信地域は空洞化し、急に織田信長肉薄して感じられたからである。

それまでの関東は、上杉謙信の関東遠征に、ずいぶん頼って来た。
関東の動乱に対し、越後の上杉氏が何かと出兵して対処したのは、それこそ享徳の乱など、遠い過去だ。
戦国真っただ中の謙信の時代には、国主が地元に席を温めないなど、非常に危険であり、困難も多かった。

それでも、関東武士らは謙信の出馬を願ってやまなかった。
そして謙信が越後に帰るたび、彼らはズルズルと後北条氏に帰属して、次に謙信が来てくれるのを、ひたすら待った。
その点においては、この地域、すなわち横瀬氏も富岡氏も大差はなかろう(^_^;)。

小泉城主・富岡秀信(3代)供養塔
可愛らしいお地蔵・三兄弟(^^)

一方、この構図において、甲州武田氏は、どういう存在だったか……。
武田・今川・北条の、いわゆる三国同盟により、武田は後北条の味方であり、有名な川中島合戦でもわかる通り、上杉とは敵同志であった。

当然、関東にとっても、謙信が来ない隙を狙っては攻め込んで来る、まさに侵略者という位置づけである。
ここ群馬県においても、武田と同盟関係ある真田氏などは、侵略者以外の何者でもない
(長野では英雄でも、県境を越えて群馬に入れば、真田の評価は、180度変わる(^_^;))

一時期、武田が三国同盟を破って今川を攻めたので、後北条は怒って、武田と手を切り、上杉と手を結んだ事もあった(越相同盟)。
信玄が死に、謙信が死んで、武田勝頼上杉景勝の間に縁組があったりもした。

里見氏佐竹氏を筆頭とする反北条連合は、このように北条と繋がってない時期の武田氏とは、手を組む事もあった。
しかしこれらは、裏を返せば、やはり、北条を誰かにどうにかして欲しいからである(笑)。

お掃除するお地蔵さん
分福たぬきの像(^^)

だから武田が滅べば、関東の人達が気にするのは、武田の後に出て来る勢力が、北条と手を結ぶ気なのか、それとも叩いてくれるか、なのだ(笑)。

ところが、急浮上した信長は、武田の滅亡から僅か三ヶ月後の本能寺の変で滅んだ。
関東人が信長を意識した期間は大層短かった。
信長の送り込んで来ていた滝川一益も、信長の死後、長くは関東甲信に居なかった。
だから関東人にとって、本能寺の変の真相なんてどうでもいい(笑)。

しかし、武田が滅亡した跡地を誰が埋めに入るかは、物凄く重要なのだ。
(小泉城の富岡氏も、滝川一益に、しきりに信長死後の展開を訪ねたらしい(^_^;))

そして、甲信地域を瞬く間に手中に収めたのは、徳川家康だった。
だからみんな、一斉に家康に靡いた(あるいは靡こうとした)のだが……。

残念!家康は、北条氏直に娘を嫁がせたりなんかして、どうも期待の筋と違って来た(^_^;)!
(家康も、そうでもしないと武田の二の舞になりかねなかったけど)

そこで、家康が敵対し始めた、羽柴秀吉に望みを託すようになっていったのだ。

暮色濃厚になる龍泉院の境内→

一方、北条氏政は、天正正午の乱の終結により、徳川との婚姻関係に意を強く持ち、上野国に得た権利に乗じて、唐突に関東制覇の総仕上げを急ぎ始めたのである。

天正11年(1583)に厩橋城攻略。
翌12年(1584)の沼尻合戦(後北条×反北条連合)が行なわれ、和睦で終わった直後、突如、後北条氏は、金山城(由良氏)と舘林城(長尾氏)を攻撃したのである。
(先述の通り、金山城は、由良国繁の母・妙印尼が籠城して戦ったが、開城に至った)

この「天正12年(1584)」は、秀吉と家康が、これと同時並行で、小牧長久手の合戦を戦っていた年である。

翌々14年(1586)は、1月に佐野宗綱が戦死。
4〜5月に皆川広照が後北条方に与し、11月には佐野氏の唐沢山城が、氏政の弟・氏忠を養子(当主)として迎え入れ、12月、宇都宮氏(佐竹側)は二荒山神社を焼き払われる。

←さらば上州! これより古河に戻る

この時期の佐竹氏は、奥州の伊達政宗との戦いにも力を割かれる苦しい状況となり、その常陸国からは、江戸崎城(土岐治氏)、龍ヶ崎城(土岐胤倫)、牛久城(岡見治広)が次々と北条方になり、残る多賀谷重経が辛うじて佐竹方で持ちこたえていた。

そして、この12月に、ようやく秀吉の「惣無事令」が発布された。
秀吉は秀吉で、家康との戦は決着がつかず、これとの和睦交渉に費やされたあげく、関東より先に、九州征伐に乗り出した。
秀吉も、家康を上洛させようとアノ手コノ手で苦労してたし、その家康が北条と婚姻関係を結んでいたため、北条に多少の猶予を与える必要もあったのかもしれない。

そして、北条氏が「惣無事令」に違反して、名胡桃城を攻略したため、真田昌幸に訴えられ、これを理由に小田原征伐(1590年)となった経過は、よく知られる通りである。

以上が金山開城に至った、天正12年(1584)の関東戦国における背景(裏事情)である。

北条を誰かにどうにかして欲しい
これが、秀吉の小田原征伐に対して、関東の多くの諸家がまるでヤル気を出さず、秀吉軍が到着すると、次々と雪崩を打つように開城してしまう根底心理なのだ(^_^;)。



<古河の日帰り温泉で風呂&夕食(^_^A)>

この旅行で最初に寄った古河まで戻った。すっかり夜になっていた。
日帰り温泉でゆったりお風呂に浸かり、夕飯を頂いて( ^,_^)φ″家に帰った(^_^A)

古河の日帰り温泉「いちの湯」(地図パノラマ2枚

ところで、小田原征伐の仕置により、横瀬氏が牛久城に移ると、新田岩松氏純の子・守純は、関東移封後の徳川家康の前に姿を現した。

家康は、足利氏や新田氏とは同祖と自負していたため、江戸幕府も、その領地を徳川家の先祖の地として保護した。
それゆえ、岩松氏も太田氏下田島に居館を得て、代々続いた。

特に新田氏の当主が描く「猫絵」は、ネズミ捕りの効能が謳われたり、養蚕の守り神として人気を得た事で知られる。

そうそう、この「猫絵」が厄除けに役立つと思われてた、という俗信についての記述(資料集の)に並んで、思わぬ記事を見つけてしまった!それは……。

駐車場(パノラマ2枚)、前に古河に来た時も、ここで夕飯&入浴したの(^o^)

例の日光赤城神戦ネタである。
だいぶ前だが、日光の大蛇()に敗れた赤城の百足が、故郷の上野国に逃げ戻り、浸かって傷を治したのが「老神温泉」と知り、イソイソと温泉宿に泊まりにいったものである(笑)。

ところが、その老神温泉では、「ムカデを祀る神社とか無いんですか」と、地元の観光案内に聞いたら、あっけなく否定されたんだよね(^_^;)。

後日、その時に泊まった旅館から頂くメール通信で、当地で長く「龍神祭り」を行ってる、という話を読んで、「日光も赤城も、地元では竜を祀るもんなんだな(´・ω・`)」と思ったんだが……。

このほど、同資料集において、「百足の絵馬」(図柄)が、「赤城神社の信仰圏における百足信仰を知る手がかりになる」という記述を見つけた!(2012年に買った本から、7年も経った今頃:笑)

←亭主「もつ煮込み定食」↓私「ニラレバ定食」

旅行二日目の夕飯を美味しく頂き( ^,_^)ф、温泉にもタップリ浸かって(((つ^o^)つ、ご満悦のエンディングとなった♪

今回の旅路は、古河から新田の途中風景をじっくり味わうのが目的だったし、さらに赤城山までと、全体的にドライブが多かったため、歩きはあまり多くなかった気がする。

その割に、その後ずいぶん長く体調も(数値的にも)好調が続いた(゚.゚)。
温泉が良かったのか、長時間ドライブで体調が良くなる事もあるので、そのためか、それとも3年ぶりの宿泊旅行で、凄くリフレッシュしたのか……(笑)。

といった所で、古河〜足利〜新田(赤城山)の旅も、これにて終わる(^_^A)<お疲れ



■4月中旬〜6月・千葉県松戸市・印西市・我孫子市・柏市
<松戸市「21世紀の森と広場」@「つどいの広場」まで>


↑4月中旬の写真から。
これまでも、ちょくちょくレポに取り上げた地元のこの公園、今回はちょっと詳しめにやる。

まず案内図を出そう。
例によって、文字が小さいので、上から字を書き入れてある。濃いピンクの字がそうだ。↓


↑入り口は「南口」「西口」「中央口」「北口」の4か所がある。
メインは左下の「中央口」で、今回はここから入る。

「中央口」は、「森のホール21」のエントランス前広場と繋がっていて、道路を隔てた向こう岸には、「松戸市立博物館」もある。
(道路周りの画像は→2018年8月<松戸、博物館&ホール周辺の紅葉>

「中央口」から階段を降り、大きな門を入り、緩やかな坂道を下る。
(この辺の写真は→2018年1月<「松戸市立博物館」と「21世紀の森と広場」の通路>を)

最初に出会うのが、右に広がる「光と風の広場」。
(「光と風の広場」の夜間イベント→2014年1月<ホタル観賞会@21世紀の森と広場>

「光と風の広場」を右手に見ながら、公園を横断する道路(橋)の下をくぐって「水とこかげの広場」に入る。

今日は、この「水とこかげの広場」から始めよう。

先の展開を言っておくと、さらに前に進んで、一度、大きな池「千駄堀池」に近づき、そこから左に折れて、「みどりの里」「里の茶屋」「つどいの広場」まで進む。

そこで折り返して、「つどいの広場」「里の茶屋」「みどりの里」と戻って来て、また「千駄堀池」に近づいて、「管理事務所」「カフェテラス」という順路。

これが、「光と風の広場」の左側面の道から、橋の下を潜った所→
前に広がるのが「水とこかげの広場」。

そのさらに先に見える建物が、「管理事務所」「カフェテラス」。

橋の下から出て、さらに先に進んでみよう↓
下を流れる小川を中心に、前後をパノラマ状に撮影(パノラマ4枚180度)

ロングに退いて見る。左・管理事務所、右・橋(パノラマ4枚180度以上)

この先の「千駄堀」は、この公園が出来る前……私が子供の頃は、付近の子供たちがザリガニを取りに、藪の中をかきわけて入る、奥深い森の中にある湿地にあった。

千駄堀池」に到達。建物は「管理事務所」と「カフェテラス(パノラマ3枚ほぼ180度)

昔の千駄堀には、私も友達に誘われて、1〜2度来たことがあったが、こう綺麗になってしまうと、元がどういう場所だったか、全く思い出せない(^_^;)。。

しかし、今でもここの生態系は市と市民に大事にされており、湖の奥には野鳥など天然生物がいる場(「いきものたちの谷津」「自然生態園」)などがあって、室内から望遠鏡で野鳥の様子をコッソリと見られる「観察舎」もある。
(池の奥の方、桜の季節→2017年11月<馬橋〜八ヶ崎ウォークE、子安神社〜21世紀の森と広場>

そちらも、そのうち行く(レポする)チャンスがあれば、その時お届けするとして、今回は、この池の左(向かって)に進んでみよう。↓

みどりの里」に進んで来た(パノラマ4枚180度以上)

この辺りも、元は立派な旧家を含めた農村地で、そこにちなんで「里」となったんだろう。
今見ている背には、「縄文の森」と呼ばれる小さい丘が立ち塞がっていて、森林の奥に縄文時代の住居が再現されており、営業時間には中に入って体験見学が出来る。

さらに←に進んでる。花壇が綺麗(^。^)(パノラマ4枚180度以上)

最初にこの公園を紹介したのは、2005年……14年も前だね(^^ゞ。
この「みどりの里」〜「つどいの広場」は、よく写真に映ってる。
(その頃のレポ→2005年3月<松戸21世紀の森と広場>

さらに←に進み、「つどいの広場」に来ている(パノラマ4枚180度以上)

どっちかと言うと、「光と風の広場」や「木もれ陽の森」(東側)はお子さん連れ・ファミリー向けかなー?
対して、こちら南西エリアは、大人向けと言うかシニアも多く、一人でいる人、昼寝してる人、本読んでる人、せっせとマラソンしてる人をよく見る。

円周の端まで来た。折り返しを←さらに進む(パノラマ4枚180度ぐらい)

「つどいの広場」を端まで進むと、道は折り返しとなり、さらに行くと、さっき来た逆コースとなる。



<「21世紀の森と広場」A「千駄堀池」まで戻る>

今後は、広場の向こうに、小高い丘の上の森が見えて来る。

「つどいの広場」の背後に見えて来る「生命の森(パノラマ4枚180度以上)

さらに進む(戻る)と、「つどいの広場」の入口あたりに来る。

このベンチの天井、春には見事な藤棚になるの(^^)(パノラマ4枚180度以上)

ちょうど藤の花が咲いてる頃のレポがあった☆彡 ↓
(2013年11月<常盤平〜八柱「元禄まつど村」と「21世紀の森と広場」>内

次の「みどりの里」エリアに又来た(パノラマ4枚180度以上)

↑左の高架線は、JR武蔵野線。(最寄りの駅は「新八柱」)
ここにも「南口」という入口があり、入って来る人もいて、ちょっとゆったりめの空間になっている。

また、この外に雰囲気のいい和風旧家が見え、公園が出来る前のこの辺りの風景を懐かしむ住民も多いんじゃないかと(^^ゞ(公園が出来る前は、どんな風に変わっちゃうか心配しただろうね)

又「みどりの里」に来た(^^)(パノラマ4枚180度以上)

さっき言った通り、最初にこの公園をレポしたのは2005年3月号で、この「みどりの里」の風景を紹介した。(その頃のレポ→2005年3月<松戸21世紀の森と広場>

この「みどりの里」には、入口付近に小さな飲食店があり……↓

←「里の茶屋」という。

メニューは、蕎麦・うどん・カレー・飲み物など。
詳しくは→「里の茶屋」(@「21世紀の森と広場」より)

メニューには書いてないけど、確か前はここに、シャボン玉液と吹き具のセットや、釣り餌(釣り道具も?)売られてて、子供が買って、ここの小川でザリガニを捕ったり、シャボン玉を飛ばしあって、キャッキャ遊びまわってた(^^ゞ
(夏休みとか春休み限定の売り物かもしれないね:笑)

茶屋の背後にある高台は、案内図で見ると、「親緑の丘」あたりだろうか……。

時々レポに出す、この「21世紀の森と広場」(地図)は、松戸市でもっともメインの場と言っていい。

松戸の行政施設(市役所・税務署・保健所・地方裁判所・法務局・市民会館など)は、市の西端・松戸駅周辺に集中しているが、その代わりって感じに、「市民の文化と憩いの場」的に提供されているのが、この市内中心(八柱〜常盤平)エリアなのだ。

途中から道が二手に分かれる(パノラマ4枚180度以上)

周囲に大型のホール・博物館・図書館を建て並べて、音楽や演劇の鑑賞、博物館や図書館での学習などの傍ら、ブラリと自然散策を楽しめる距離に、この公園がある。

同じ名所や近場でも、私らも、よく行く場所、それほど行かない場所があるが、この公園に来る事は、そこそこ多い方だと思う。
なので、ここの写真は凄く沢山撮っているのだ。

その割に、この「たわごと」では、「いつか使おう」と思うだけで、写真はフォルダ内にドンドン溜まる一方なのだ(^_^;)。。
来ると長くいる事が多く、自然豊かで綺麗な風景にあふれているから、いる間じゅう写真を撮りたくなって、勢い、写真がいっぱい、いっぱい、ある(笑)。

川に群れる鴨さん達
自然な形を残す小川

いつかこの公園を、真正面からキチンとレポートしよう、と何度か思った事があるが、恐らくそんな機会はないだろう(^_^;)
来る頻度も写真もいっぱいありすぎて、一度で伝えきるなんて、不可能な気がする(笑)。

例えば、この「縄文の森」↓
説明はさっきした通りだけど、松戸に戻って来て、自動車を買ったばかりの頃、上の方まで行って喜んだわりに、その後は1〜2度行った程度。だから写真も無い(^_^;)ゞ

レポするなら、途中の山道も含めて、ちゃんと写真を撮りに行かなきゃならないのに、公園に来ると、いつも同じ、この辺ばかり来て、その時に居た場所の写真ばかりが中途半端に増えていく。

この丘は「縄文の森(パノラマ4枚180度以上)

しかし近頃、それでも「中央口」付近のトンネルとか、公園の外の博物館とか、公園に入った辺りのモニュメントなど、少しづつ公園の各所をレポする機会があった。
今回もこの西側エリアをまとめてレポできた(^_^A)

これで、残す所がやっと半分以下になったので、今後も折々に、頑張って撮影したり、レポしたりしていければいいな、と思えるようになった(^^)<ヨロシク

で、一番最初にこの公園をレポした時に、この「みどりの里」の写真を出したのも、この辺りばかり写真を撮ってしまうのも、この公園の中で自分的には、この「みどりの里」が、一番この辺りの昔の風景を留めている感じがするからなのだ。
日々風景の変わる新興住宅地から、「これが地元の風景です(^0^)」と見せるのには、この辺りが最適に思えるからだ。

公園内に残る長閑な農園や……
千駄堀まで繋がる小川の風景

この公園が、失いつつある松戸の原風景を残す(あるいは再現)する目的で作られた事は、「中央口」から入って、坂を下った所に立っている建立碑文に書かれている通りである。↓

     
  21世紀の森と広場

 昭和40年代から昭和50年代にかけて、当時の松戸市は人口が著しく急増し、都市の基礎整備も追いつかず、生活環境も悪化していく傾向にありました。21世紀に向かって、本市の将来像を明確にしておかなければ、取り返しのつかない状態になると感じておりました。こうした状況の中で、本市のほぼ中央に位置するこの千駄堀地区は、樹林地に囲まれたの入り組む独特な景観を構成しており、谷頭には湧水が多く見られ、植物も豊富で、小動物も数多く生息する変化に富んだ地域として存在しておりました。
 「この地域の持つ固有の自然環境を守り育てていくこと自体が、市民の生活環境を豊かにし、ここを拠点として松戸市の都市空間が新たに創造されていくことにつながる。また、次代を担う松戸市民にも継承していく責務がある。」との認識から、この地を市域全体の核的空間として、大規模公園を建設することを決意致しました。そして、20世紀最大の事業として、どんな困難があっても成し遂げる覚悟で、輝ける未来に希望を抱き「21世紀の森と広場」と命名致しました。
 その後、地権者170余名の協力のもとに、面積50.5ヘクタールを昭和56年1月都市計画決定し、同年6月都市計画事業認可を得て事業に着手しました。
 以来10余年、幾多の難題を克服し、今、市制施行50周年を迎えたこの年に開園するに至ったことは、ひとしお感激も新たにさせてくれます。「21世紀の森と広場」が子々孫々に至るまで市民に愛され続ける公園として育っていくことを祈念して、ここに開園記念モニュメントを建立致しました。

 平成5年4月吉日 松戸市長 宮間満寿雄
 
     

この先の、千駄堀と花壇やカフェテラスのある一帯に戻ると、昔の田園&沼地風景から一変、モロ都会型「市民公園」風に創り直されてるが、これはこれで居心地の良いスペースになってはいる。↓

再び「千駄堀池」前まで戻って来た(^_^A)(パノラマ4枚180度以上)

↑こちらが「管理事務所」で、室内では展示などを行っている。ここをズズイと通り越し↓

↓「カフェテラス」に至る前に水面が始まる(パノラマ3枚ほぼ180度)

この「カフェテラス」は軽食喫茶で、メニューは……。
カレー・ハンバーグ・ピラフ・オムライス・パスタ・うどん・そば・ラーメン・おにぎり・焼きそば等の軽食。
ケーキ・アイスクリーム・あんみつ等のスイーツ、コーヒー・紅茶など飲み物( ^^) _旦~~

詳しくは→「カフェテラス」(@「21世紀の森と広場」より)を。

水とこかげの広場」から
管理事務所」にかけての花壇♪

以上(^nn^)<フキフキ

今後、これまでレポしてこなかった「縄文の森」や、「光と風の広場」「木もれ陽の森」、「千駄堀池」の奥の方や「観察舎」なんかも、折を見てレポしてみたいと思う!
(思うだけ、約束はしないww)

以上、関連事項は(珍しく同時提示)
■21世紀の森と広場
2005年3月<松戸21世紀の森と広場>
2013年11月<常盤平〜八柱「元禄まつど村」と「21世紀の森と広場」>内
2014年1月<ホタル観賞会@21世紀の森と広場>
2017年11月<馬橋〜八ヶ崎ウォークE、子安神社〜21世紀の森と広場>

2018年1月<「松戸市立博物館」と「21世紀の森と広場」の通路>
2018年8月<松戸、博物館&ホール周辺の紅葉>



<印西市「龍水寺」>

やはり4月中旬。

手賀沼や木下周辺にドライブする事がよくある。
ある日、木下から、64号線(千葉臼井印西線)を南東方向に行く道すがら、堂宇の一部が見えて、「行ってみよう(・0・)/」と寄った。

到着。「龍水寺」(地図)→
(右の山門柱には「天台宗」とある)

このお寺、実は道を挟んで向かいに、「薬師堂」の境内があって、見学するような史跡は、全部そっちの方にある(^_^;)↓

左にその「薬師堂」、右の屋根は山門(パノラマ3枚ほぼ180度上)

この↑薬師堂のある境内には、後で参拝するとして、先に向かいのご本堂↓にε=(┌ ̄_)┘

ご本堂の手前には、真っ赤な花がたくさん咲いて綺麗(^。^)

ここを参拝した日は凄く曇ってて、全体的に写真ブレが多く、せっかく写した案内板の字が、残念ながら読み取りにくかったり読めなかったりで、今イチの出来になる(^_^;)。。

場所はウチからそう遠くないので、また訪れて、ちゃんとレポし直したいが、今日の所は取得できた範囲で……(^_^;)ゞ

本堂の奥の観音像
住職さんのかな。古くて立派な墓群も

本堂のあるこちらの境内は、主に墓地があり、上の大きい観音像も、実は墓地の中に立ち並んでいる。
隣の薬師堂の境内にあった歌碑の案内板によると、今は薬師堂の敷地にある梵鐘も、江戸時代にはこの本堂の脇にあったそうで、火災によって移したという。

……というこのお寺、創建はいつなのかわからなかったが、薬師堂の薬師如来像は平安後期の作、梵鐘も南北朝の銘があるという事……。

確実に思えるのが、梵鐘が本堂脇にあったという、その江戸時代で、歌人の一茶の日記に、この龍水寺を訪れた事が、梵鐘の話とともに書かれているそうだ。

境内に入る前から、奇声が聞こえて来て、「どこどこっ?!(`・ω・)=3」と探したのが、この鳥小屋の鳥サン達(笑)!
この通り、孔雀にダチョウにフラミンゴと、千葉県にいる事を疑うワールド級の光景(^_^;)!

小さくしたり色や明度をあれこれいじって、辛うじて上手く撮れたのだけ出しているが、残念ながら、これもかなりピントが合わなかった。
でも孔雀は白いのも何羽かいたのよ〜〜。

では、道の向かいの薬師堂にも行ってみましょう(^0^)



<龍水寺「薬師堂」>

山門を出ると薬師堂が見えるが
ちゃんと正面から入ろう(^^ゞ

先に見た通り、この「薬師堂」(地図) は、龍水寺の通りを挟んだ向かいにあるが、この通り、流水寺とは別の山門があって、改めて入門し直すようになっている。

この山門が、また立派な仁王門で、通路の左右に「木造金剛力士立像」が置かれている。

吽形像
阿形像は金剛杵を振り上げて五指を広げる構え。

阿形像のこの構えは、平安以降の金剛力士像に多いそうで、筋肉や裳裾の翻りに極端な誇張がなく、全体の力強さを保つ作風から、鎌倉末期に遡ると見られており、県内の金剛力士像では、弘長3年(1263)の銘の橘善寺像、万満寺像(国指定)に次ぐ古作との事で、県の有形文化財に指定されている。

又ネット上には、この金剛力士像は、室町時代の製作ではないかと推測されているものも見掛けた。

参道の先には薬師堂
間近に来て見上げる

この薬師堂の建物自体について、境内の案内板のどっかに記述があったのかもしれないが、先に述べた通り、濃い曇りの日で、読み取れなかった字も多く(^_^;)、お堂についてはわからなかった。(記述に書いて無かった可能性もある)

が、本尊の薬師如来像については読み取れる。
……と言っても、お堂の中に入って拝像できたわけではなく……(^_^;)ゞ

格子戸の隙間から内部が撮影できただけだった(^_^;)。

←フラッシュのオン・オフ各々の写真をソフト上で組み合わせて、だいたい全体が見れる写真に合成してみた。(写真4枚合成)

この通り、内部にはさらにお堂(厨子)があり、恐らくこの中に薬師仏が安置されてるのではないかと……。

仏像は、薬師如来立像で、像高96.5センチ、木造、材質はヒノキ科針葉樹に彫刻を施してから、一旦割り、中を刳り抜いた後に仕上げる、「割矧造」という技法。

制作者と制作年は不明だが、丸みを帯びた柔らかな表情から、1000年代前半の定朝様(定朝は仏師の名)の特徴が見られるため、平安後期の1100年代頃の作と推定。

薬師如来像はお目にかかれなかったけれど、格子戸の隙間から見える堂内は美しい装飾に彩られ、天井絵も厨子も色鮮やかだった。

宙を舞う羽衣の天女の絵柄(あいにくピンボケ気味だが(^_^;))

もう一つ、この境内に梵鐘があって、写したんだが、これもかなり写りが悪いので(^_^;)、出すのは控える事とする。
(次に訪れる事があったら、ちゃんと撮影に臨みたい)

その梵鐘には、建武5年(1338年)の銘文が刻まれているという。つまり南北朝時代だね(゚.゚)!

この梵鐘の事を、小林一茶が「七番日記」に書いている。

一茶は、布川(茨城県利根町)の回船問屋の主人、古田月船を同道して、瀧水寺を訪ねており、 文化8年(1811)4月1日の句として、

如意輪も目覚まし給え時鳥

と詠んだ。

薬師堂を側面から撮影
山門を振り返る
確か梵鐘は、この参道の右の方にあったと思う↑。

一茶は、この5年前にもこの寺を訪れており、その時、梵鐘の「建武五年(1338)戊寅八月八日」とある銘に疑念を持ち、再度訪れて、謎が解けたという。

この時、一茶が抱いた疑念というのがどういうものなのか(南北朝時代の銘を偽物と思ったのかな)わからないが、私もこのほど撮影が上手く行かなかったので、また来なきゃならないから、人を二度は訪れさせるお寺なのかもしれない(笑)。

この梵鐘は、先にも触れた通り、本堂の脇にあったものを、江戸時代、火災によって、こちらの境内に移したという。

ここより、そこそこ近い距離に「龍腹寺」があって、前に訪れた事があった。
龍腹寺の方は、龍の体を三分割した伝説(龍角寺・龍腹寺・龍尾寺)に基づく寺名によるものだが、「」を地名にする点が通じるので、何か関係がありそうで面白いな、と思った。



<4〜5月の花々と風景>

お花のリレーで、まず5月まで行く(^O^)!
場所は(上に示した通り)、だいたい松戸・我孫子・柏の各市内の風景から。

八重桜が咲き始め……
タンポポは花と綿帽子が半々

利根川の土手沿いには菜の花
こちらはツツジかな

←柏市の街通りを囲む花壇
手賀沼周辺の自然林に咲く天然の藤の花↑

←フェンスに咲き群れる真紅の薔薇
道路脇に植えられた花々↑

こちらは花じゃなくて、下手賀川の白鳥たち→

実は手賀沼・手賀川の白鳥はしょっちゅう見てて、写真もいっぱいあるんだが、近頃は珍しい風景じゃなくなってるのでレポでは割愛してる(^^ゞ

久々の宿泊旅行から帰って来てからは、こうして近隣を気晴らしドライブする程度で日が過ぎたと思う。

「ご挨拶」を読むと、その前の年から続けて、山岡荘八の『徳川家康』(全26巻)を読んでたようだ(笑)。

←立葵(タチアオイ)背景の雲もイイ感じ(#^.^#)
↑金糸梅(キンシバイ)
いつも「これ何ていう花だけ(^_^;)」と思うんだな(笑)

続けて、5〜6月も行こう(^0^)↓



<5〜6月の花々と風景>

←印西市の広大な原野に、ドカドカ次々と建っていった巨大ビル群(地図)。

グッドマン」なる物流施設らしく、WEBサイトを見ると、オフィス・工場・倉庫などの賃貸空間のようだ。

巨大ビルとは言え、広大な平地なので、2〜3個ぐらいまでは、ポツポツの印象だったが、近頃は視界を塞ぎつつある。

ただこのルート、お気に入りの道に続くので、この光景を見るとカメラを構える用意をする(笑)

突然、昔ながらの蕎麦屋・飯屋の点在する観光地っぽい風情に変化(^^ゞ

さっきの「グッドマン」あたりから大森交差点(地図)までの間の4号線が、ちょっとだけ旅行気分を味わえるコースなんだよね(#^.^#)<エヘ

さて、この先も、前に続いてお花めぐりだけど、お花と言うより、「アジサイめぐり」だな!

アジサイにガクアジサイ、青が綺麗(^O^)

上の右のとこの左の青いのは、六実の野馬除け土手に咲いてた奴(たぶん)

同じく六実あたりのハナモモ並木通り。ドッグランの周囲

一つの株で青と紫など、色が混合してるのもイイよネ〜!

私はアジサイは青いのが好きだけど、近頃は白いのもよく見て、素敵だな〜と思う。
上の右みたいに、基調は白で、水色やピンクが混ざってるのなんか見甲斐があるよね〜♪

このガクアジサイも、花びら(実はこれがガクなんだけどw)は白くて、ツボミ(実はこっちが花)が青いのがイケてる!↓
こちらは線路沿いに咲くタチアオイ→
夕闇に仄かな薄ピンクが灯って美しい

さてさて、次回は……。

もうもう凄くレポが遅く、ついに一年半以上も前のネタになってる(;_;)。。
でも頑張るからねっ!ヽ(`Д´)ノ

引き続き、日常編・近隣レポ、お次は6月〜11月まで(2018年)行けるかな、と。
夏は打ち上げ花火、秋はハロウィンの写真などがある(^^ゞ。
そして11月、凄く久々のオフ会関宿に行った時のレポが、やっと始められるかなっ(笑)。

例によって、関連リンク貼りは後日(`・ω・)
(これもドンドン遅れて来ちゃってるケド。。。)

<つづく>

2020年01月05日(01/15一部修正)
 
     





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