<2007年・城主のたわごと4月>




2006年9月。「会津〜米沢編」第3弾。3日目最終回(^^)。

山形県は白布温泉、米沢、そして小野川温泉から。




     
  会津〜米沢編も今回で三度目(^^)。
この旅行のお土産編のみ次回に廻すとして、東北旅行レポは今回で最終回。

先にお断りしておくと、史跡巡り的な旅程としては、すでに終わった会津若松よりは薄味(^^ゞ。

と言うのも、会津は観光用のHPから、泊まった東山温泉の宿にも地図・パンフレット類がギッシリあって(笑)情報が充実していたが、米沢については観光HPがわりと簡素で(^^ゞ、また泊まったのは米沢から距離のある白布温泉だったから、そこで米沢情報が豊富に得られないのは仕方ない、という事がまず言える。

次に、米沢は一度きりだが20年前に来た事があって、子供の頃に来たきりの会津若松よりは土地勘があったが、入って行った方角が前と違い、もしかして他に案内なりあったのかもしれないが、正直、今回の旅行では殆ど勝手がわからなかった(^_^;)。

というわけで、この三日目については、米沢は旅程の一部として、朝の白布温泉と夜に寄った小野川温泉を交えてお届けする。



<3日目朝・福島県境(桧原湖)>

前回「白布温泉」到着で締め括ったが、何せ夜だったので(^^ゞ、周囲の風景は全く見えなかった。
それで翌朝「昨夜はどんなルートを通って来たんだろうね」と、ちょっと引き返してみた☆ミ

←現地の案内版

白布温泉には「中屋」「東屋」「西屋」といった旅館があり、山奥の温泉情緒タップリ(^^)。

ここから一度、福島県境……つまり南までバックする。地図A
県境まで戻ると「桧原湖」が見られる(^^)。そこまで戻ってみよう。

情緒豊かな温泉街を抜け南へ
やがて県境に向かう山道に

山の上の方だけ明るいのは、日当たりの加減もあるだろうが、実は上だけ紅葉しはじめてるから(^^ゞ。
9月の後半、ちょうど早い紅葉が始まる所だと、日当たりや寒暖の違いで、このように高所と低地で、紅葉の具合に差が出て面白いよね(^^ゞ。

高所に差し掛かると霧が発生
やがて紅葉が見られる(^^)

さらに上に登っていくと、周囲は早い紅葉の色合い(#^.^#)

本当に霧が出て来る所はまだ緑色で、わりと明るい場所だともう紅葉になってるんだよね(笑)。

霧は雲となって目線の下に降り
だんだん空も晴れた一帯に

福島県と山形県の県境まで戻る途中、東に温泉地帯が延び、「天元台ロープウェイ」(地図B)が延びた先に「天元台高原スキー場」があって、白布温泉でもスキー場の案内があった。

言い換えれば、スキー客しか来ないような、かなりの山奥(^_^;)。今通ってる道路も「冬季は通れない」とかいう話も聞いたが、そう考えると、秋も早めに来て正解だったかも(笑)。

←さらに上に行くほど紅葉が増し、同時に晴れて来て、車を寄せて下界が見下ろせる見晴らし台に出会う。↓

見晴らし台からの眺め(パノラマ4枚・180度)

↑もうちょっと左がわに行ってみると……。↓

モウモウと吹き上げ、揺れ動く霧雲の様が(パノラマ2枚)

いま見ている方角は来た方を振り返っている感じだが、これより先に行くとスグ県境に差し掛かり、県境を過ぎてスグに桧原湖が見える一帯に行き会う。↓

福島県にちょっと入ると、見下ろせる桧原湖

この桧原湖あたりは湖が多く、小野川湖、秋元湖、そして五色沼といった名所があり、そこを横断するルートは、その名も「磐梯吾妻レークライン」と名付けられている。地図C

これをもって、今度こそ完璧に福島県とはおさらばじゃっ。



<白布温泉に戻る>

ここからが昨晩入って来た視点となる(^^ゞ。福島県と山形県の県境を越えて米沢に真っ直ぐ行く道で、その途上に「白布温泉」を通る、というルート。ドンドン坂を下って行く道程となる。

今度は逆に下っていく。またドンドン霧が出て来る(笑)。

さらに霧の中を降りて行くと
滝が見える一帯が……

「芳澤不動尊」という滝
さらに温泉宿に向かう

実はこの後、白布温泉の街を抜けて、そのまま米沢に向かった。
でも、まだ白布温泉のレポをしてないので、ここで挿入する。

白布温泉には昔ながらの温泉旅館が並び、その中の「中屋別館不動閣」に泊まった。地図D

さっきの温泉街に戻って来る
「中屋別館」入口

入口から入ってきた道。左に「不動閣」の建物(パノラマ4枚・180度)
↑この「不動閣」の緑屋根の建物が宿泊棟。

逆側(パノラマ4枚180度)

↑突き当たりの建物↓その左には→
「中屋の不動尊」

この「中屋」は囲碁の"本因坊戦"が行なわれる場所として、知る人ぞ知る名所であるようだ(^^ゞ。

私は囲碁とか将棋ってまるで素養が無くて、安くて静寂な山間の雰囲気で、温泉はあるし米沢にも出られるし、予約の電話に出た方が親切に応対して下さったので選んだ。
だから、入ったら亭主が、「ああっ、あの本因坊やる所かっ」と言ったのには驚いた(笑)。

突き当たりの萱葺風作りの建物には、内部も和洋折衷ながら昔風のインテリアで、いかにも囲碁とかさすのに良さそうな落ち着いた雰囲気(^^)。↓
そこから隣の細長い建物に繋がる通路→

通路の先の建物はこんな外観で、宿の入口がある(^^ゞ。(パノラマ2枚)

食堂(朝食のみ・夕飯は宿泊室)や、会計ロビーや休憩室・待合室はこの棟にある。

山菜中心の朝食
古風な民家調の待合室

入口を出ると、不動尊のある周囲に斜面の庭園(パノラマ2枚)

ここの温泉は室内のを「オリンピック風呂」と言う。
1964年の東京オリンピックの時、聖火のリレーが山形県を通過し、県庁のバルコニーに聖火台が置かれて点火式を行なったのだが、ちょうどその時にここに大浴場が出来たので、その聖火台をもらって風呂に展示してあるからだ。

一方の露天風呂。これがスゴイ!(^^)

入口はバンガローのような竹で作られた脱衣所(パノラマ2枚)

温泉は含石膏硫化水素泉で、胃腸・呼吸器・皮膚・神経・動脈硬化・運動麻痺・神経痛・関節痛・糖尿・ノイローゼなどに効能。

入ると、この通り向こうは山!
露天と言っても「外気に触れるだけ」って温泉が多いが、ここはホントに「山中で猿と一緒に入ってる気分」がそのまんま(笑)。

朝風呂は特に最高の気分(^^)。

下を流れるのは最上川(^^)。ここが始点(源流)となるらしい(パノラマ2枚)

白布温泉は、古くから蔵王(山形)、信夫(福島)と共に奥羽三高湯のひとつとして知られてきた。標高900mと高いので、白布高湯温泉と呼ばれてきたが、信夫高湯とまぎらわしいので、近年白布温泉と呼称を統一した。

正和年間(1312〜16)、出羽の住人・佐藤宗純が諸国を巡った折に発見したといわれ、一説には、同じ正和年間に関の猟師が白斑の鷹の湯浴みするのを見て発見したとも伝えられる。

慶長9年(1604)上杉景勝の宰相直江兼続が、江州・泉州より鉄砲師を招き、約10年間ここで一千挺の鉄砲を製造させた。その記念碑がある。

この「中屋」とともに「東屋」「西屋」のあわせて三軒は、文政年間(1818〜29)に再建された萱葺入母屋造りの堂々とした構えである。湯量は豊富で、浴槽には湯が溢れるように流れ出ていた。

←すごぉ〜く明暗が出て撮りにくかったので、ナント4枚連携(笑)。こんな風に下は川、上を見れば山が前を塞いで、これでは獣にしか見えないから、女風呂でも安心ね(笑)。

右上の絵は、階段に飾ってあった色紙。地元らしく上杉謙信の絵が描かれていた(^^)。

宿泊部屋から写した隣の山(パノラマ2枚)

ここは「白い猿」が出るのでも有名らしい。ロビーにカワイイ白猿の写真があった(^^ゞ。
宿の人の話では、どうして白いのか不明なのだという事だったが、これも上杉謙信のイメージっぽいから、お猿さんも謙信公を尊敬してるのかもしれないねっ(笑)。

前日は会津若松を去りがたかった亭主も、ここで朝を迎えると、今度は「ここにずっと居たい」と言い出す(笑)。
会津でもゴージャスな雰囲気で良かったが、ここもまた亭主が大好きな山間の野趣タップリだった(^^)。宿の人も「デジカメが無い!」と慌ててる私(笑)に付き合って、一緒にオロオロしてくれたり、とっても温かい雰囲気だった(#^.^#)。



<米沢へ向かう>

白布温泉を超えてからも、米沢まで、それまでと同じくドンドン下界に下りて行く具合になる。

白布温泉を超えてからは、山を下って行く道筋を辿る

そして田園の広がる里村に到達

白布温泉から米沢までは、まずはこんな道のり。→地図E 今おそらく「関」の辺りではないかと。


今出しているこれらの写真で、当時の感動を伝えることは難しい。
というのも、「見入る」というか「味わう」と言うか、この一帯の村風景は、写真を撮る手を休めて眺めていたからだ。
ただしその時の感動を、このシャッターチャンスを外した数枚の写真を見るだけでも思い出すから不思議だ(笑)。

ここにはそれほど写ってないが、屋根の形が変わっているようにも感じたし、田畑や森林の色というか形というかが、関東あたりまでの風景とは違って感じる。そのくせ、

「長野や群馬に似てる気がする」
という言葉も、夫婦でほぼ同時に出た(笑)。

無茶苦茶にコジツケで言うなら、米沢の上杉氏は多く北信地方の豪族を従えていたから、そういう影響でもあるのだろうか(笑)。
村落の風景というのは、自然を現出しているようでいながら、実は人工の造営美である事は言うまでもないから、もしかしたら丸きり見当ハズレの妄想でもなかったりして?(^_^;)

でもしばらく行く内に「長野や群馬とも違うかな〜」と思った。
運転しながらなので、あまり一点を見つめるわけにもいかない亭主、「アレを撮ってくれ」とやがて注文した。

藁干し(稲干し)の光景である。あとで出そう(^^ゞ。

私の方は、仙台あたりは何度も行ったが、この米沢はまだ二度目である。前に来た時も思ったが、この山形よりさらに先の秋田や青森あたりまで行った子供の頃を思い出した。
仙台のある宮城県と、この山形県は、地図で見れば横並びで、しかもこれから行く米沢あたりは南に出っ張っているから、宮城県よりは関東に近いハズだが、私は仙台あたりより東北の色合いを強く感じる(^^ゞ。


次に行こう。地図F←これで米沢市街に到達する。
「関」の方から北上して来て、まず「船坂峠」とある辺りの交差点を右折する。ちなみに直進(やや左折?)した「小野川温泉」には米沢に行った後に寄る。

右折後すぐトンネルを越える
再び田園風景が右側に

そして、これが亭主が撮って欲しいと言った藁干し

これって何て言うんだろう(^_^;)。。農業のことや用語をよく知らないので、とりあえず「稲の干し方」で検索してみたら……ナント、やはり「東北地方の独特の干し方」として、他にもすこぶる変わった干し方をしてる写真を出してるサイトもあり、しかしその内の一つにやはりコレがあった(笑)。

自分が写したこの写真では「毛皮(か蓑)を着膨れした人」に見えたのだが、他のサイトのを見ると「長毛種の犬」のようにも見える(笑)。

ちなみに「稲の干し方」と言ってる人が多い所を見ると、もしかして専門用語はナイ?(笑)
(それぞれ独特の干し方そのものを指して名前がついてるのは見掛けたが)

↓拡大して見よう。
さて、いよいよ米沢市街に入って来る。→



<米沢「上杉神社・松岬神社」「上杉博物館(伝国の社)」など>

上杉神社」(上杉氏の居城跡)の濠(パノラマ2枚)

米沢に入るや「あれ? あれ? あれ?」と言ってる内にココに来た(^^ゞ。
地図G。私が前に訪れた時とは来る方角が反対であったので、妙な気持ちになったのだと思う。
つまり前は電車で来たから、方角は「米沢駅」……つまり神社の東から入って来た。
一方、今回は道路を北上して来たから、南から町に入って来たわけだ。

車で来るとなると地図係は全て私だから、無論ここに到達する前にその事に気付きはしたのだが、それにしても「イキナリ知ってる所に出た」の印象は免れない(^_^;)。

それと、もう一つだけ言うと……現地の方には大変申し訳ないのだが、「あ〜やっぱり20年前とはすごく変わっちゃったなチョー残念!」←コレである(^_^;)。。そこまでは感動しまくりだっただけに、そら恐ろしく都市化した米沢には。。

パノラマ3枚(180度)。何とか神社の正面(こっちの方角から来た→)

まずは、この辺りだけ拡大した地図Hを(^^ゞ。
丁字路の突き当たりに「上杉神社」があり、↑で手前に見える道路を挟んで向かい右側「松岬神社」の敷地とあわせて、元は米沢城の本丸のあった場所である。↓

←に「上杉神社」。上杉神社から見て向かい左に「松岬神社(パノラマ2枚)

「松岬神社」には「産業教育の祖神・上杉鷹山公を祀る」と書かれていた。

←「松岬神社」正面
上杉景勝、上杉鷹山、細井平洲(鷹山公の師)、直江兼続、竹俣当綱、莅戸善政(二人とも鷹山を支えて米沢藩の復興を志した功臣)の6柱を祭神とする。明治36年上杉神社の摂社として二の丸世子御殿跡に創建。
これら6人についてはおいおい述べて行こう。

まず米沢城について述べる。1189年に奥州藤原氏が源頼朝に滅ぼされると、鎌倉時代の山形県では、この置賜地方と寒河江荘に大江広元、大曽根荘は安達盛長、成生荘に二階堂氏、小田島荘には中条兼綱、大泉荘と海辺荘は大泉氏平が地頭に任命された。

これらの有力御家人は、当初は自ら現地に入るのではなく、一族や家臣から代官を派遣していたが、この分布図から、大江・大泉といった、その後の勢力図の基盤が生まれはした。
←この米沢城は鎌倉時代の初期(1238年とも)の築城と言われるが、起源は明確でない。

鎌倉幕府重鎮、大江広元の子、時広が置賜(長井の庄)で長井氏を称して統治。以後、広房まで約200年間、長井氏支配の拠点として、米沢城に居館を構えたと伝えられる。

鎌倉中期以降は地頭自ら現地に移住するケースが出た。それがこの置賜の長井氏、寒河江の大江氏、小田島氏、大泉(武藤)氏などで、南北朝争乱期を迎えると、出羽全体で南北の対立が激しくなり、特に大江氏、そして北畠氏も絡んだ南朝側は羽黒山の衆徒と結んで勢力が強大だった。

福島県に勢力を張っていた伊達氏も、始めは南朝側だったが、八代目宗遠が北朝(武家方)に転じ、1380年、長井氏を滅ぼして、ここ米沢城を領有するのである。
伊達氏は領有の各地に居城を構え、戦略上転々と本拠を移した。

また大泉(武藤)氏は、大泉荘を越後守護の上杉氏に渡す事となり、以後は地頭上杉氏の代官のような立場で越後と関わって勢力を伸ばした。

また南北朝から室町時代にかけて斯波兼頼が山形入部し、南朝方の大江氏を下してより、兼頼を祖とする最上氏が後に山形県全体に大いに勢力の塗り替えを迫る機運を形成する。
また武藤氏は、1532年に大宝寺(鶴岡市)から尾浦(大山城)に本拠を移し、やがて由利郡(秋田県南部)や最上領への進出を繰り返す事になる。

こうして山形県に、北部の武藤氏、中央の最上氏、南部の伊達氏、という強大な勢力が出来る中、伊達稙宗は陸奥国守護職に、その子15代晴宗は奥州探題にまで任じられ、1548年には晴宗が本拠を伊達郡からこの置賜郡米沢城に移し、戦国期の永禄年間(1558〜1570)には本格的に米沢城を築き、領国経営の拠点にしたと考えられる。

濠を覗き込むこたつ亭主(^^)
大きな錦鯉がたくさんっ♪

独眼竜として有名な伊達17代政宗は、この米沢城で生まれたという。
その頃になると、武藤氏は最上義光の扇動によって起きた庄内国人一揆で横死し、伊達政宗と最上義光は対立しながらも、互いに戦力の伸長をはかり、政宗は会津の芦名氏を破り戦国大名として大きく飛躍。豊臣秀吉の命により1591年、岩手沢城(後の岩出山城)に移封された。

移封後、米沢城は秀吉の将であった蒲生氏郷の持城となり、氏郷の家臣蒲生郷安が城主となった。郷安は近江国松ヶ崎の人なので、米沢城を「松ヶ崎城」といったとも伝えられている。

ちなみに、ここを「上杉神社」とも「松が岬公園」ともいう。

1598年、秀吉の命で、氏郷の嗣子秀行を宇都宮に移り、上杉謙信の後継者、二代景勝は、越後春日山城から会津120万石に転封を命じられたが、その時、ここ米沢城には上杉景勝の重臣、直江兼続が配された。

つまりここ米沢城は、まず直江兼続が領地とし居城とした場所で、会津に入封した上杉景勝は、会津黒川城(若松城・鶴ヶ城)を居城とし、文武両道に秀でた第一の家臣、直江兼続を領国経営の第二の要である米沢城の城主とした。

また直江兼続は、秀吉から直接、三十万石の領地を与えられたとはよく言われるが、この領地がその三十万石に相当する(^^ゞ。

兼続は、豊臣氏から見れば他家の重臣(つまり陪臣)なのだが、伊達家の片倉景綱、毛利家における小早川隆景、細川家の松井康之など、秀吉の時代には、こうした「有名な陪臣」がよく取り沙汰される。
それは秀吉が、気に入った人に直接領地を与えた(というか、ヘッドハンターと言うか)事があったからかもしれない(笑)。 直江兼続はその代表的な人物と言える。

←案内図(左に90度回転してみた(^^ゞ)。右の敷地を下から入ってスグ左↓「招魂碑」に登る。

登って左に跡碑↓
突き当たり正面に「招魂碑」→

ここ(本丸東南隅の堤上)は「上杉謙信公祠堂(御堂)」があった跡地である。

つまりそれまで謙信の遺骸は、謙信の死んだ越後の春日山城から、1598年、謙信を継いだ上杉景勝が会津120万石に転封された時に、黒川城(のちに若松城・あるいは鶴ヶ城)に鄭重に移されていた。

それが、1600年の関ヶ原合戦に先立ち、西軍となる石田三成と呼応して、上杉景勝が会津で家康を相手に挙兵したので、関ヶ原における西軍の敗退を受けて、西軍に加勢の罪により、120万石から30万石に減封され、会津から移転させられて、1601年、重臣、直江兼続の領地に来たわけだ(^^ゞ。

そうした景勝主従の拠った場所こそ、ここ米沢城であり、同時に謙信の遺骸も米沢城内に移された。

江戸時代は、藩祖・上杉謙信の霊骸を安置した御堂(祠堂)がここにあり、中央正面に謙信の遺骸を安置し、その左右に善光寺如来と泥足毘沙門天像を奉置していた。

その後は歴代藩主の位牌も祀り、最も神聖な場所であった。厳重な掟が定められ、二の丸に置かれた法音寺、大乗寺などの真言宗寺院21ヶ寺が交代で奉仕した。また、謙信の命日には歴代藩主が参拝し、第9代藩主治憲(鷹山)が3日間の断食をして降雨を祈願した所でもある。

今は「招魂碑」の立地とされており、これは幕末1868年に始まった戊辰戦争のもので、従軍して参謀を努めた斉藤篤信(後の山形県師範学校初代校長)が、稲穂の芯を束ねた特製の大筆で書いた。
主に新潟方面で西軍と激戦の末に戦死した米沢藩士280余名と、明治10年(1877)におこった西南戦争の戦死者52名を慰霊するため、明治11年(1878)4月に建てた。
その後、日清・日露戦争で戦死した将兵の霊も合祀。

毎年2月に開催される「雪灯篭まつり」の鎮魂祭は、この地で執り行われる。

「招魂碑」の高台を過ぎると、左に庭園風の斜面↓に「伊達政宗生誕の地」の木碑と、上杉鷹山の言葉「なせば成る、なさねば成らぬ何事も、成らぬは人のなさぬなりけり」を記した石碑が並び、斜面の手前に上杉鷹山の銅像。→

いま気がついたけど(^^ゞ、この斜面庭園(といま勝手に命名)、さっき泊まった白布温泉「中屋」でも見掛けたね。
これは……もしかしたら、上杉鷹山時代の発案だろうか(爆)。

というのも、ここ米沢における上杉鷹山は、見ようによっては謙信と並ぶ偉人に思え、だいぶ前にNHKがやった正月時代劇で鷹山を扱ったドラマを、ちょうどこないだ時代劇専門で再放送してくれたので見た(^^ゞ。

そこでは、貧しくなった米沢で鷹山みずから庭に作物を植えて、米沢の産業復興を試みるシーンがあった。
庭を畑にしてしまったら、庭職人の腕を振るう場所が無くなるので、「狭い場所を利用して……そうだ、そこの端の斜面にでも作れ」←ありがちな感じ(笑)。

上杉鷹山は、9代目の藩主であるが、秋月氏から迎えた養子で、しかし上杉氏とはまるで血筋が繋がってないわけでもない。
鷹山の母・春姫は黒田長貞の娘であり、そのまた母・豊姫(鷹山の祖母)は、上杉4代藩主綱憲の娘であった。つまり上杉氏より女系を二代経て鷹山に伝わるのである。上杉氏系図

……ちなみに、現地米沢では謙信を初代と数えるから、その分だけ後ろにズレて綱憲を「5代」、鷹山を「10代」と書かれていた。
でも紛らわしいので、ここでは二代景勝を藩祖(つまり初代)と扱わせて頂き、「4代」「9代」と書いた(^^ゞ。
(他については、なるべく現地の案内に従うでつ)

上杉鷹山は、窮乏の渕にあった米沢藩を、卓抜な発想と大胆な政策によって再建した江戸時代随一の名君として知られ、米沢藩にとっても中興の名君。
1751年7月20日、高鍋藩主秋月種美(三万石)の次男として誕生。幼名松三郎または直松。
宝暦10年(1760)、上杉重定(8代)の養子に迎えられ、明和3年(1766)治憲と改名。翌4年(1767)17歳で米沢15万石の藩主となる。

……上杉景勝がやってきた時は30万石だったのに、なぜ15万石に減ったかについては、後で書く(^^ゞ。

幼少から折衷派の儒者細井平洲に師事し、実学一致の経世論を身につけ、藩主となるや大倹令、産業開発・藩校興譲館の創立、政務の革新などを断行し、隠居後も政務に参与して再建に務めた。
米沢織・米沢鯉・深山和紙など鷹山の興した産業は現在に伝承されている。

1785年養子治広(8代重定の次男)に家督を譲って隠居し、鷹山と号した。民主政治の原点を示した「伝国の辞」は、このとき新藩主治広に与えたものである。
1822年3月12日没。春秋72。上杉家廟所に眠る。

後にアメリカ大統領35代J・F・ケネディが、日本人記者団の質問に「日本の政治家で最も尊敬している人」として答えて有名になり、そこから日本でも行政改革の先駆者として名が高まった。
ゆえに米沢でも「上杉鷹山公像」を建立したそうだ。

いよいよ正面、上杉神社の鳥居をくぐる(#^.^#)。↓
その手前右の広場には「上杉謙信公」像→

上杉謙信公家訓
心に物なき時は広く体泰なり。心に我儘なき時は愛敬失わず、心に欲なき時は義理を行う。心に私なき時は疑うことなし。心に驕りなき時は人を敬う。心に誤りなき時は人を畏れず、心に邪見なき時は人を育つる。心に貪りなき時は人に諂(へつら)うことなし。心に怒りなき時は言葉和らかなり。心に堪忍ある時は事を調う。心に曇りなき時は心静かなり。心に勇ある時は悔やむことなし。心賤しからざる時は願好まず、心に孝行ある時は忠節厚し。心に自慢なき時は人の善を知り、心に迷いなき時は人を咎めず。

お手水が虎っ(゚.゚)!
鳥居の奥にまた鳥居

↑お手水の水を出すのは竜神が多い気がするが、ここでは謙信の俗名(虎千代・景虎・政虎・輝虎)の「虎」が聖水を下さる(#^.^#)。

さて、まず上杉家の話からいこう。上杉家は藤原高藤の庶流の流れをくむ鎌倉以来の名家で、紋は「家紋」と「莫紋」の二種類があり、どちらも「竹に雀」の図柄。

家紋が「竹ニ飛雀」(雀をかこむ笹の葉は三葉)、幕紋が「根竹ニ飛雀」(笹の葉がたくさんある)で、建長4年(1252)、勧修寺家を出て丹波に「上杉の庄」を賜った重房が上杉氏を創立。公家であった実家の紋を武家上杉のものとして使用したことによるとされる。

こうしたわけで、「竹に雀」紋は他の公家にもみられるが、武家での紋としては上杉が最初のもので、上杉や蒲生の前に米沢城を使っていた伊達氏も、紋は「竹に雀」だが、これは上杉氏が越後を本拠地としていた時代、伊達氏へ贈与したと伝えられる。

その後、寛政12年(1800)、米沢藩が幕府に「紺地日の丸」と「毘の旗」とともに「竹に雀」の両紋を届け出て、今に伝承されているが、紋の中の「雀」二羽は向かい合いながら、狛犬や神城山門の仁王尊と同じように「阿うん」の形で、口の開きに特徴がある。

そして本殿に到着。いよいよ参拝(^^)。ここのご祭神は、もちろん上杉謙信公。

謙信は1530年01月21日、越後守護代長尾為景の次男(一説に三男)として、越後春日山城に生まれた。幼名は虎千代、元服して平三景虎と称した。

七歳のとき春日山林泉寺に預けられ、名僧天室の教えを受ける。謙信の生涯を貫く深い信仰心はこのとき培われたものと言われる。

1543年、14歳の景虎は兄晴景の命で林泉寺を離れ、越後平定に助力する。晴景に代わって長尾家を継ぎ、春日山城主となったのは19歳の冬であった。
以来、戦いにあけくれる日々を送る中でも、攻めれば必ず勝ったが、侵略戦はなく義戦にのみ赴く武将であった。

1561年の川中島合戦も、信玄に侵略された信濃諸国を助ける義戦であり、謙信が戦術家としての天賦の才を謳われる一戦であった。
この年、関東管領上杉憲政の養子に迎えられ、上杉政虎と改名して管領職を引継ぎ、同年冬、将軍足利義輝の一字を賜って輝虎と改める。謙信と称するのは41歳の1570年からである。

謙信は毘沙門天を深く信仰し、軍旗に「毘」の一字を用いた。出陣に際しては神仏の加護を願い、天に代わって世の邪悪を払う「武蹄式」を執り行った。生涯女性を近づけなかったのも信仰上の信念によるものと言われる。

こうした謙信にはじまる米沢上杉藩であったがゆえに、領内に広く幕末まで今日に伝わる上杉士魂を育みつづけ、かたくななまでに一つの道を求め、功利に流されず、人としての名を尊ぶ空気が貫かれた。

また謙信は詩歌、連歌の道にも堪能で、書は近衛流の名手と称された。1577年、七尾城外で詠んだ「九月十三夜」はいまも親しまれ、戦国末期の群雄割拠の中で「越後の虎」と怖れられつつ、文武兼備の名将として、大儒者、藤原惺窩は、戦国の世に学問を好んだ武将5人の筆頭に謙信の名をあげている。

天正6年(1578)03月09日、関東平定の出陣を前にして病で倒れ、同13日越後春日山城内で逝去、享年49年間の生涯を閉じた。

同15日、大乗寺良海を導師とし荘厳に葬儀が営まれ、謙信の遺骸は甲冑を着せ、甕に納め、密閉して葬った。
(それが会津に行き、米沢に来た経過は前述の通り(^^ゞ)

関ヶ原の戦(1600)以後、米沢城に入った景勝は、松ヶ崎城を舞鶴城と改めたという。景勝は、城郭の改修、水濠、土塁の築堤、掘立川の造築、城下の町割り、整備など都市計画事業に力を尽くし、大事業の推進には直江兼続の秀れた見識と手腕があった。
慶長14年(1609)景勝、兼続の城下町づくりは一応完了したといわれ、現在の市街地の礎となっている。

徳川幕府に対する配慮からか、米沢城に天守閣はなく、本丸の東北、西北の高台に御三階櫓二基を建てた。本丸は東西75間、南北60間、本丸の周囲に堤を築きその外廓に濠を廻らし、堤の上の塀あるいは長屋を建て矢狭間を設けている。
本丸を囲むように二の丸が配置され、二の丸にも濠を廻らしている。

米沢に景勝が入部してから、明治2年(1869)、上杉氏14代茂憲が版籍奉還するまでの268年間、米沢城は上杉氏の居城として、政治、経済の中心であった。

その間、藩祖上杉謙信を米沢藩の精神的支柱とし続け、江戸時代は仏式によって歴代藩主を弔っていた。それが先ほどの「上杉謙信公祠堂(御堂)」があった跡地で、仏祭を厳修していた。

が、明治4年(1871)の廃藩に際し、仏式の祭礼を止め、祠堂のまま神祭に改め、鷹山を合祀の上、謙信、鷹山の二柱を祀るため、明治5年(1872)に創建。「上杉神社と」称し、神祭を行う事になった。

同9年(1876)には新たに神殿成り初めて遷座祭を行ない、謙信の遺骸を歴代藩主の眠る御廟所(歴代藩主上杉家墓所)に移した。
明治35年(1902)、往時の勤王の功により別格官弊社に列せられたが(鷹山公は新たに摂社として松岬神社を創立して正面濠の外に鎮座)先年の神社制度の改革によって社格を廃して現在に至る。

大正8年(1919)、米沢に大火が起こって上杉神社は消失。
同12年(1923)米沢市出身の建築者・伊東忠太氏の設計により再建され、今では境内に「稽照殿」、そして「市立上杉博物館」があり、重要文化財。美術品など数多く収蔵、展示されている。
例祭は4月29日(歿年三月13日を太陽暦に換算)。

この「上杉神社」は、20年前とそう変わったと感じなかったが、前はこうして参拝ついでに、ヒョッと神社の建物に入り、お宝を拝見して物凄く感動した覚えがあるが……。

資料館「稽照殿」(左端に屋根だけ見える)とその前の広場(パノラマ2枚)

今回は資料館に入ってみて、これもまた「あれ?」と思った。何か前とすご〜く印象が違う(^_^;)。

取りあえず↑の説明をしちゃうと、左に屋根だけ見えてるのが、その資料館「稽照殿」。
前の噴水広場には鯉の供養碑(^^)。池に鯉も泳いで、ゆったりした空間だった。
そして「稽照殿」の傍らに、「赤穂事件殉難追悼碑」があり、これについては今回わりと書きたいと思っている(^^ゞ。

で、まず「稽照殿」だが、これはいわゆる宝物殿で、上杉謙信、上杉景勝、直江兼続、上杉鷹山の遺品遺墨がほとんど。平安より江戸期に亘る絵画、書跡、刀剣、甲冑、武具、仏器、陶漆器、服飾類など重要文化財、重要美術品、県文化財を含む収蔵品をおさめ、建築は神殿を調和を保つべく、日本風の外観をみせた重層建築。午後2時まで。

謂れを見ると大正時代の建築と紹介されてるので、20年前に来た時もあったハズ(^_^;)。なので、「じゃ前に来た時は、補強工事中とかで入れなかった(゚.゚)?」とも思うし、「入ったのに今と印象が違う(゚.゚)?」とも思う。

いずれにせよ、私が前に来た時は、「謙信が織田信長に貰った赤いマント」「謙信愛用の琵琶・朝嵐」「同じく・馬上杯」を、ガラス越しじゃなかった、という思うぐらい、肉迫して間近に見た覚えがある。

単に、前は全くアテにしてなかった(謙信公祭りを見に来たついでに来た)のに見れたからなのか、そして前に一度見たから今回は前の「ビックリして、感動した」という感じがあまり得られなかったのか、ちょっと自分でも、この印象の違いを持て余している(^^ゞ。

一つ、思い当たる事を言うと、今はこの神社に到達する前に「上杉博物館」↓というのが出来ていて、そこに展示物が多少移転してるのだろうか、という事。
そう考えると、前に見た時の「所狭しとギッシリ展示されてた」という印象との違いが、そこに原因がある??

米沢市上杉博物館・置賜文化ホール「伝国の社(パノラマ2枚)

ちなみにこの「伝国の社」は、「上杉神社」の向かいで、「松岬神社」とは逆側の敷地にある。再び地図H

ついでに、「松岬神社」の奥の敷地に「上杉城史苑」という建物も出来ていて、そこで昼食を食べた(と思う(^^ゞ)。

亭主注文、米沢牛ステーキ丼
こたつ注文、ハンバーグ定食

結構なお値段だった(^_^;)。でも美味しかった(笑)。

この「伝国の社」と「上杉城史苑」は、ハッキリ言って「ハコモノ!」の一言に尽きる(爆)。
ま、この辺は仙台あたりも今時はそんな風潮なので、いいとする(それで、もう行かないんだけどね:笑)。

会津でもまずお城で概要を学んだものだから、こっちでも「まぁまずは(^^ゞ」とお勉強に入ったつもりだったが、まだ築5年だったかな……出来立てみたいな事情もあるとは思うが、どうも展示の仕方に問題を感じる。

各コーナーごとに部屋やパーツが分かれていて、こういう作りはどこでもわりと見掛けるのだが、部屋に入るごとに、歴史についての話が、始まる時代と終わる時代がそれぞれコロコロと変わる(^_^;)。。

具体的な事は覚えてないが、たとえるなら、先史時代から昭和時代までのコーナーがあれば、戦国期から江戸初期までのコーナーもあり、今度は室町時代から明治で、次は奈良時代から始まって江戸時代まで行き……とかゆう感じ(^_^;)。。
あまりに錯綜が激しくて、目がウロウロしてる内にトットと時間が経った(笑)。

それと、見るからにイチイチに巨額を投じてる感があった。。能舞台があって、こういうのは使い方にもよるが、上杉鷹山の映画というのを上演してて、ドラマには超有名な俳優が出て来る(^_^;)。。が、中身はすこぶる薄い(汗)。

ただし展示内容そのもの自体が悪いとは思わなかった。
つまり米沢に伝わる歴史自体には上質の物があるのではないか、という意味で、いちいちに興味を持って見れたし、作りに難を感じただけで、金がかかってるかもしれないが、「洛中洛外図屏風」のアニメ仕立てなんかは、当時の様子を再現しようという試みが大当たりで、何時間でもそこに居座って見ていたい楽しい企画だった(^^)。

それと感心したのは、郷土歴史本が多いこと。この上杉神社にも城史苑にも、売店には色んな本が売られていた。
こういうのを見つけて買うのが、私にとって旅の大きな楽しみの一つだから嬉しかった(^^)。
売店とか係員の人たちもみんな素朴にして親切で(^^)、これは20年前にはじめて米沢を訪れた時に感じた好印象と変わりがなく、この点は嬉しかった♪
皆さんの税金を上手に使って欲しい。

売店で買った米沢牛ひき肉入りの揚げパン→

亭主は会津若松で言った事を改めて認識するように、このパンを食べた時「東北、食いモン美味いじゃんっ!」と言っていた(笑)。

米沢と言えば牛ってぐらいで、地域の色合いを濃く語れる食物や産業が根付いたのも、元を辿れば、直江や鷹山といった懸命な人たちのお陰なのだろう。

しかし、上杉氏がたいそうな苦難の末に復興を遂げたと言えば、まるでそれまでがダメダメだったかのように聞こえるが、山形県全体で見ると、上杉氏のようなキチンとした基盤を持った領地は全然マシだった、とも思える。

特に最上氏が領したあたりは、最上が断絶した後は(それだけ広大な地域だったという事もあろうが)、もう江戸期〜明治を通してボロボロだったとも聞くんだなぁ。。
ま、その辺はまた長くなりそうだから、また山形県に来る事があったら、もっと北の方もレポしてみたいねっ(^^)。



<赤穂事件と上杉氏>

さっきの「赤穂事件殉難追悼碑」だが、この「赤穂事件」とは、あの有名な「赤穂浪士の討ち入り事件」である(^^ゞ。
有名だから、この赤穂事件については省略する。
さっき話しかけた「30万石から15万石に厳封」した所、そして前々回(2007年2月のたわごと)に「米沢に行ったら、保科正之について書く」といった点を含めて、上杉氏の話だけさせて貰う。

上杉家は、景勝(初代)の後、その息子の定勝(2代)、定勝の息子の綱勝(3代)と、いわゆる嫡子直系を保って来た上に、2代定勝には二人の妻と、たくさんの子供がいた。また上杉氏系図(^^ゞ

定勝の最初の妻は鍋島勝茂の娘(市姫)で、徳姫、虎姫、そして徳松という男子を得たが、徳松は早世した。
後添えに京都の近衛家司・斉藤本盛の娘(千姫・生善院)と結婚し、亀姫、3代綱勝、国松、三姫が生まれるが、国松も早世した。

子供はたくさんいても、3代綱勝いがいの男子は早世だった、という点がまず悲劇の第一歩と言える。

加賀の大聖寺藩前田氏に嫁いだ長女徳姫(前田利治室)は子を得ぬまま夫が死別。
次女虎姫(鍋島光茂室)は男子を生んだものの、これは佐賀藩鍋島家の後継だから養子には遣せない。
三女亀姫は、姉の徳姫の夫、前田利治が亡くなった後、利治の弟、利明に嫁いだが、こちらも子を得ぬまま夫が死別。

女の子達も上から3人までこんな具合だったから、これは3代綱勝と、その末妹の三姫でどうにかしなければならなかった、というトコが第二歩(^_^;)。

綱勝には、隣の会津若松から保科正之の娘(援姫)が嫁いで来たが、間もなく死亡する。実母による誤った毒殺という説が有力のようである。

保科正之は正室(菊姫)の後添えに、援姫の母(京都の加茂神社藤木氏の娘、お万の方)を迎えた。
援姫が上杉綱勝に嫁いだ後、保科正之の側室(おしほの方)の次女松姫が、加賀(百万石)前田本家と婚礼する事に決まった。

加賀前田本家となると、ちょっとそんじょそこいらの大名家とはわけが違い(^_^;)、殆ど徳川御三家なみの扱いを受けている家だから、幕府も支度金として、この結婚には特別に一万両を下賜した。
そこには3代将軍家光の弟として、そろそろ保科正之が幕府内で認められて来た、という経緯もあったかと思うが、お万の方は、「自分は(後添えとは言え)正室なのに、娘の援姫がたかが三十万石の上杉氏に嫁いで、側室の娘が加賀百万石か?」と思ったのだという。側室おしほの方は身分が低かったらしい。

そこで嫉妬から松姫の毒殺を試み、老女を自分の娘の援姫に遣わした。
老女は毒を盛る機会を待っていたが、援姫と松姫は母は違うが姉妹だから、松姫の輿入れを聞いた姉の援姫は、別れを惜しんで実家の妹を訪れた。

江戸時代の大名の妻は、江戸住まいが決まりだから、援姫は上杉氏の、松姫は保科氏の、それぞれの江戸屋敷にいて、わりと会いやすかったのだと思う(^^ゞ。

姉妹は毒殺の事など知らないから、松姫に差し出された膳を、松姫の老女が「長幼の序」を持ち出して、姉の援姫に先に薦め、援姫が箸をつけた結果、3日後に援姫はポックリ逝去(^_^;)。。1658年の出来事だった。

会津保科氏(のち松平氏)は、お万の方を幽閉の上、関係者十余名を処分。その後「女子のいう事を聞いてはならない」と戒めて、会津が男尊女卑に発展したのも、元はこの事件に遠因があるともいう。

綱勝は援姫の死の6年後、公家の四辻氏から後添えを得たが、綱勝もまた子を得ぬまま死亡する。
これもまた「吉良上野介による毒殺」ってな噂がある(^_^;)。

綱勝の末妹三姫は、一族家来の反対を押し切って吉良上野介義央に嫁いでいた。
反対の理由は、三姫の姉達はみな大名家に嫁いでいるのに、一人三姫のみが著しく石高に見劣りする吉良家だったからだ。
しかし綱勝は妹の婚姻を喜び、自ら吉良家に出向いて歓待を受けた。

そこから帰って来て即死した(爆)。これもまた変死と言われている。

この時点で血縁と言えば、三姫の男子(4代綱憲)しか後継が居なかったわけだが(ゆえに吉良が疑われる)、元々婚姻に反対の声があったからか、後継として幕府に届け出られてなかった。
藩主が死んでから後継の申し出をするのはご法度(申し出ても無効)で、親藩でもなく、元は西軍についた上杉氏など断絶されて当然だった。

そこで上杉氏では、保科正之の子、東市正を、援姫の弟だからという苦しいこじつけで、上杉氏の家臣達が養子にしたがる向きもあった。保科正之は将軍家の血筋であるからだ。
東市正に三姫の娘(も生まれていた)を妻に迎えれば、血筋としても問題はないという意見だった。

だが保科正之は、吉良氏から養子を取るよう諭してこれを退け、また既に援姫がとうに死んで、上杉家との縁は切れているにも関わらず、東奔西走して幕府の老中に働きかけ、幕府にも「綱勝の生前から吉良家から養子を入れる話を自分は受け取っていたが、うっかり幕府に届出が遅れた、上杉氏に手落ちはなかった」と、「自分の落ち度」にしてくれたのである。

これで30万石から15万石に減じられながらも、上杉家は何とか命脈を保った。
この恩によって、関ヶ原で敗退した側からは珍しく、上杉氏は戊辰戦争においても会津松平氏とともに賊軍側に肩入れし続けたのだった。

一方、吉良上野介が赤穂浪士に討たれた時、上杉氏は出兵すらしていない。
120万石から30万石、そして15万石に減らされた上杉家は、それでも多くの武士を解雇しなかった。
これが半農半士的な米沢独特の土壌を築きもし、一方で鷹山にいたるまで米沢が逼迫していく原因でもあったわけだが、その上杉氏に、吉良上野介は実父の立場から次々と出費を強いた(^_^;)。
元禄という時代の影響はあったにせよ、その膨大にして無意味な出費は、見てるだけで気が遠くなる(笑)。

こうした吉良上野介の評判は当時、浅野長矩と同じく饗応役についた津和野の亀井茲親も、指南役だった上野介への刃傷に及ぼうとしたとも言われていて、何かと恨みを買いやすかったのは事実だろう。
それでも、一時の饗応接待が終われば縁が切れる浅野長矩が刃傷に及んだ理由は謎だが、内匠頭が吉良を「討ち漏らした」と聞いた時、上杉の者達はどんな複雑な心境を持っただろう(爆)。

だが綱憲が上杉に養子に行ってしまうと、吉良家にも後継が居なくなるわけだ(^_^;)。
あの吉良上野介が、狡猾なジジイに見えるのも、もしかしたら「吉良家が絶えないように、自分一代が何とか頑張って現役を続けてないと」という思いに駆られたからかもしれない。

室町時代いらいの名門であろうが、高家として将軍はじめ、あちこち大名のコンサルトタントを勤めていようが、後が絶えては、サラッとお家断絶は江戸期の宿命であるから、仮養子ぐらいは取ってたんじゃないかとは思うけど(^_^;)。

吉良家では養子にやった綱憲に子(つまり上野介と三姫の孫)が生まれるのを待ちに待った。最初の長男吉憲は上杉5代藩主になるのだから、これは取り上げられない。やっと次男の義周を吉良家に取り戻して、これに上野介の後を継がせた。

ようやく安泰の波に乗った吉良家だったが、この義周は赤穂浪士の討ち入りに際し、浪士達とよく戦い重傷を受け、討ち入りの成功に江戸市中が拍手喝采するあまり、上杉家から遣された吉良屋敷内に手当てに来た医者も、人目を恐れて来なくなったという(^_^;)。

義周は輿に詰め込まれ、背の傷が化膿して熱を出しながら信州高島(諏訪)に流刑。
爪を切るのも髭を剃るのも、衣服を洗うにも幕府に伺いを立てる監禁の末、垢と虱にまみれて浮腫ができたという。父綱憲と祖母三姫があいついで死去し、義周も21歳で死去。

義周は重罪人とされ、墓はかろうじて流刑された信州高島城から一里離れた中州村、法華寺の杉林の奥に自然石が建っているという。



<宮坂考古館>

↑に行くのに、やっと米沢駅まで行った(^^ゞ。

おとぎの国のような「米沢駅

昔はもっと古めかしい駅だった気がする(^^ゞ。
しかし全体として可愛らしい印象が街全体に漂ってた覚えがあって、「古い街並みがこんなに残ってるなんて!」と驚きつつも、「昔の家って小さかったんだな〜」なんて思いながら歩いた気もする。

再び地図G←「東」と地名のある辺りに「宮坂考古館」がある。↓

宮坂善助さんが生涯をかけ、地域の隅々まで出向いて調査・収集を行なった事からこの名がついている。
特に戦後は旧藩の資料が散逸し、その保存に苦労があったのだろう。

上杉謙信の鎧、関東管領上杉憲政から贈られた刀、毘の旗、上杉景勝や直江兼続や前田慶次の具足、そして孝明天皇から拝領した錦地による、幕末、上杉斎憲の陣羽織など。

面白かったのは、最上川の船運図というもので、川と領内の詳しい地図なのだが、それが屏風絵になってた絵。
あと、石和でもよく見る米沢藩の古式砲術の火縄銃については、詳しく解説されていて、実際に持ってみても良い銃があったので、細めのと太めのを両方持ってみたが、太い方のは物凄い重さで(^_^;)。。持ちきれずによろめいた(笑)。

この鉄砲については、先に白布温泉で「直江兼続が鉄砲職人を招いて鉄砲を作らせた隠れ里」と知ったのもあって、何となく愛着を持って見た。
直江兼続は、1604年に江洲国友村から吉川惣兵衛、泉州境から泉谷松右エ門を招いて吾妻山中で極秘に鋳造させた。
当時は200余あった流派のうち、森重流、陽流、稲富流が伝わり、今でも古式砲術保存会が伝承しているのは、この宮坂善助さんの復活運動によるものである。
夕方5時まで。



<春日山林泉寺>

↑何となく自分の記憶として、謙信の墓だけはここにあった気がしてたんだが、来てみたら違った(^_^;)。。謙信の墓は「上杉家廟所」にある。
どうも、新潟の春日山林泉寺と記憶が混ざってるか、あるいは、今回は暗くなって行けなかったが、「上杉氏廟所」ともどっか混ざってるのかもしれない(笑)。地図

しかし、この林泉寺、前にも来た事は間違いなく、来たら来たで「あっ、来た事ある!」とは思ったので、もし多少の配置が違ってるなどあったとしても、あまり変わってないのだろうな、とは思った。

林泉寺→
この左の道をちょっと行ったら、突然記憶が蘇ったので、恐らく前は、この左の道の奥からテクテク歩いて来たのだろう。すると、こんな山門が見える。↓

林泉寺の山門(左の鬱蒼とした森に多くのお墓がある・パノラマ2枚

春日山林泉寺
上杉謙信の祖父長尾能景が、そのさらに父重景の菩提を弔うため、1496年越後高田(新潟県上越市)に開祖建立。 曹洞宗。
寺号「林泉寺」は長尾重景の法名、山号「春日山」は謙信が上杉家を相続した折、上杉家の氏神・春日大明神を祭ったことによる。
上杉景勝の米沢移封にともない、米沢に移ってきた(が、新潟の現地にも林泉寺はある)。
上杉氏歴代藩主の奥方や子女(26基)、上杉氏支侯(16基)、直江兼続、武田信玄6男信清など、上杉家重臣の墓などが数多くある。
斜平山を借景とした庭園は、米沢三名園の一つ。

山門をくぐる。うわっ、懐かしい!とここに来て初めて思った(#^.^#)。
上杉氏十代(9代(^^ゞ)鷹山公お手植えのしだれ桜→

鷹山の拝した春日大明神
と、ここで、タイムア〜ップ!(笑)
残念(^^ゞ。
この林泉寺に入ってから、いきなりドッと日が暮れた(笑)。

でもカメラではどうにも写らないが(ボロイし(^_^;))、本当に真っ暗になるまでは参拝を続行した。

直江兼続夫妻の墓、武田信清(信玄7男・武田家から嫁いで来た姉菊姫を頼って、上杉氏仕官)、そして先ほど述べた、義周を守って赤穂浪士と戦い、討死した新貝弥七郎などの墓が確認できた(^^ゞ。


義周を守って戦った上杉氏の者は、山吉新八郎(怪我、願い出て義周の供をして諏訪にいった)、左右田源八(討死)、新見弥七郎(討死)の3人。
村上甚五右衛門は逃亡、小林平八郎は浪士にからめ取られ、上野介の部屋への案内に駆り立てられ、嘘をついて逃れようとして首を討ち取られたという。

最後に地図。↓

未練たらしく城下町を車でウロウロし(笑)、「上杉家廟所」に辿り着く。門も閉まり、さすがに門の奥の森も真っ黒(^_^;)。
亭主「今度また明るい時に来れたら来よう」
こたつ「じゃおウチに帰ろう(^^)」
亭主「飯は米沢で食っていくっ。温泉にも入る!」

パラパラッと地図をめくったが、周囲は暗くてよくわからない(^_^;)。。
「小野川ってトコが近いかも」
と言ったはいいが、今イチ自信がないまま車を走らせると、道中に「小野川温泉コチラ」の標識がっ!
フラフラと標識の示す通りに行くと、地図にある道路に当ったので、米沢とはこれでおさらばっ!

このウロウロしてる時間帯、米沢の各所で、「何々家屋敷跡」っぽい案内版とか見掛けた気がする。やはり城下町なので、何度か来れば色々と見る所もあるのかもしれない。



<小野川温泉>

↑に行くには、再び地図F

到着すると、周囲は古い温泉街が続き↓
ヤフー地図(拡大)←道が二股に分かれていきなり狭くなり、分岐点には大衆浴場が進路を塞いでいる。→
最初ここに入りたいと思ったが、案内版に周囲の店の名と、そこに声をかけるように書いてあった。

しかし見渡す限り、どこのお店も閉まっていて、恐らくもう時間が遅いのだろう。
あとはどっかの旅館にでも頼むしかなく、一軒「旭屋旅館」という所に飛び込んで頼んでみた所、この辺りには日帰り温泉というのは無いらしい(^^ゞ。
でも気の毒に思って下さったのか、「特別に入って下さっていいですよ」と応じて下さった(^^)。
ありがとうございました〜〜m(__)m。
「旭屋旅館」さんの建物↓
ここに頼んでみようと思ったのは、出入り口に「小野小町の霊水」(湧き水)があったから(^^ゞ。→

「滝の清水由来」(小野川町町内会・滝の清水保存会)によると、
清水山の山麓より湧き出る自然の泉で、小野小町が当温泉を開湯して千年のあいだ絶える事無く沸き続け、冷水を飲むと「美人・長命・健康」になると伝えられ、遠路から「茶の湯・水割」に自然の味を求めて訪れる名泉。

という事だった。実際そうなんだろうなと思うのは、近所の人がこんな夜でもフラッとやって来て、次々とペットボトルに水を汲んでいく様子が、ちょっと駐車してる間にも見て取れたから(^^)。

この「小野川」という地名は、東北における小野小町伝説で知られる所で、これまでもテレビやネットで何度か目にした事はあったが、米沢とこんな近距離とは、来てみるまで知らなかった(^^ゞ。

いい湯だったぁ〜(≧▽≦)
小野小町・休み石
薬師堂

この旅行では、会津の東山温泉、米沢に来る途中の白布温泉と入って来て、正直どれも甲乙つけがたい!(笑)
が、この小野川温泉はややしょっぱい感じだったかな(^^ゞ。これまでの各温泉効果が累積してるって事も充分ありうるが(笑)、この小野川温泉が一番効いたかな〜。その時の体調とかにもよりそうだけどっ。

で、上真ん中の「休み石」というのは、温泉から出てお散歩してて見付けた。分岐点の所にある。
小野小町が京から父をたずねて旅をして来た。ここまで来るのはとても遠いので、疲れきって休んだ石という言い伝えがある。
休んでいると、薬師如来のお告げで温泉を発見した。小町は七日間湯池して(昔は温泉は医療だったのよね(^^ゞ)、疲れも癒え、元の美人に戻って、父と再会する事も出来た。
この古事にちなんで、この石に座って休むと美人になるという。

石の脇に細い路地があって、突き当たりにあるのが、薬師堂。
薬師についても書かれていて、「瑠璃光薬師如来尊」は小野小町の建立と伝えられ、霊験あらたかな湯の神を祀る。本尊は峯の薬師を祀ったもので、もと尼湯(がさっきの突き当たりの大衆浴場)の傍にあったものを1913年現在地に遷宮した。
子供の無病息災を願ってこけしを奉納する風習がある。
「前立薬師如来尊」は、1730年の開眼で、縁日は4月8日、8月8日、別当は長栄山金乗院(真言宗豊山派)。

一軒だけやってた「弁天食堂」
やっと食べれる米沢ラーメン(≧▽≦)

「米沢手もみちぢれ麺」という物らしいが、スープがコッテリ過ぎもせずアッサリ過ぎもせず、ちょっと振った胡椒の風味がよく映えて、いや〜聞きしに勝る、ものすごい美味しさでしたっ!(爆)

お店ののれんに不思議な字が幾つか書いてあって(^^ゞ、「あっあえ」「おしょうしな」「おわえなえ」「くだえ」「しょうじい」とあった。
「これは……方言(^_^;)?」
「それとも……メニュー(^_^;)?」
と夫婦で首を傾げた。米沢あたりだけに通用するメニューだろうか?(笑)

以上、初の東北レポはおしまい(^^)。

最後に東北旅行の感想。
ヒジョーに安易に設定した旅程(会津若松と米沢の組み合わせ)だった割に、この二つの土地が、思ってたよりすごぉ〜く縁が深かった事にちょっと感動した(^^ゞ。

次回はこの旅行の「お土産編」を冒頭に、11月に行った筑波山のレポ予定。その後のレポも続けられるかなぁ。まだちょっと未定(^_^;)。。

2007年04月14日(2016/05/02:地図(ヤフー →MapFan)張替)
 
     






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