<城主のたわごと・千葉の動乱>



千葉県の戦国史に必ず出て来る古河公方(^_^;)。

特に下総に関連する所だけ抜粋で取り上げてみる。




     
  以下、これまで書いて来た事をコピー&ペーストするだけで何とか作成(^_^;)。

基本的に千葉県(それも北部)中心。さらに、これまで行ったトコについて書いた文章をただ繋げるに等しいから、抜けも余計も間違いもあると思うが(爆)、いわゆる「千葉(および関東)の動乱」については、ワケがわからない人の方が多いと思うので、「だいたいの所」を「一読でわかる」物を作ってみた(^^ゞ。

「城主のたわごと」を読んでくれた人には、「あ〜これ読んだ、あ〜こんな風に繋がるのか」という具合になる事を狙っている。

そこんとこを取り合えず理解して貰い、詳しい部分については、もっと正確でいい内容を書いてるサイトに(文章は膨大・難解かもしれんが(^_^;))、以下の文章のアチコチをワード検索でもして、ここに書いた変な部分については「各読者の自己責任」で補って貰うだよ(笑)。



<戦国時代の頭痛の種、「古河×上杉」の構図>

関東の大乱は、京を中心に展開された、いわゆる「戦国時代」(応仁の乱・1467年〜大坂の陣・1515年)よりも早く訪れ、早く終息したため、大抵の人が関東の戦国時代に入った途端ワケがわからない(笑)。

しかしこの関東をどうにかしないとならない。京の足利将軍は15代義昭で終わったものの、これで足利将軍家が無くなったワケではないからだ(^_^;)。。
ここに「室町幕府の担保」としての関東足利家の権威があった事を、多くの人々は改めて認識した(そしてウンザリした)のかもしれない(笑)。

ちなみに「関東」という言葉を使ってはいるが、この時代この地域を指す範囲には、甲州や越後も含まれる。甲州と越後が含まれて、その間にある信州を無視するわけにもいかないから、「関東甲信越問題」と呼ぶのもいいかもしれない(笑)。

色んな人がこの問題に関わり、火消し役となって、この関東に乗り込んだ。
とかく謙信の関東出兵について色々言う人がいるが、武田信玄も上杉謙信も、ヒマさえ出来れば「ああ、あの問題がまだ(^_^;)」と思ってはいたに違いない(笑)。

つまり関東問題というのは、長い戦国時代の持病で(^_^;)、多くの政治家(大名)にとって常に「頭痛の種」であったのだ。

それを、家康が江戸に幕府を開き、それによって完全に戦国時代を終息させた。大袈裟な言い方かもしれないが、その事を理解しなければ、戦国時代を理解できたとは言えないのかもしれない(^_^;)。

まず頭に入れておかないとならないのは、「古河×上杉」の構図。
古河というのは「古河公方足利」氏であり、上杉というのは「関東管領上杉」氏で、どちらも内部では分裂する事が多いが、大まかな流れとしては、だいたい「古河×上杉」の構図を貫いている。

これに対して、足利家宗家である京の足利将軍家が絡み、しばしば討伐軍などを送り込む事態になるが、三つ巴と言っても、将軍家と上杉家が戦い合う事は、最初の「上杉禅秀の乱」の他には、あまりないかも(^^ゞ。反乱を起こすのは古河公方家であって、上杉はそれを鎮圧する立場にある(と思う)からだ。

とは言っても「関東を足利氏の支流が治める」というのは元々足利幕府が出来た頃から決まってる事なのか、反乱がデカくなって幕府が討伐軍を出したりしても、和睦したり子供を擁立するなどで、結局は関東の地位が大きく脅かされることもなかった(^^ゞ。

この曖昧な構図が、日本のど真ん中で繰り広げられている以上、「いつも日本のどこかに騒乱がある」という常態を払拭できない、と言っても過言ではないかもしれない(^_^;)。。

中でもよく消火に務めたのは北条氏である(笑)。しかしその北条氏も最後には「関東の火種」になってしまった(^_^;)。
このように関東という地は、「ミイラ盗りがミイラに(火消し役が火付け役に)なってしまう土地」であるから(苦笑)、最終的に消火した家康が幕府を開き(つまり半ば首都を関東にしてしまって)、やっと治まったのである(^_^;)。

徳川家康こそ、まさに「最大のミイラ」となった男かも(爆)。



<上杉禅秀の乱(1416〜1417)>

そもそも関東においては、足利持氏までは「古河公方」ではなく、「鎌倉公方」と言われていた。
これは足利尊氏の子、基氏が鎌倉に派遣されて御所をしつらえ関東を治めるようになって以来、脈々と受け継がれた京の将軍に継ぐ地位である。

持氏−成氏−政氏−高基−晴氏−義氏−氏姫

これに対して、上杉禅秀は鎌倉公方の補佐役である関東管領の家柄にあった。
関東管領上杉氏はこのころ、犬懸上杉氏という、上杉氏の宗家の流れが取り仕切っていた。

上司の持氏と部下の禅秀はソリが悪く、持氏は禅秀の家人から所領を没収したり、それに抗議して禅秀が関東管領職を辞職すると、これ見よがしに山内上杉氏から、憲基という禅秀のライバルを後釜に据えたりの嫌がらせを濫発。しまいには禅秀もブチ切れ、1416年持氏に謀反を起こす。これが禅秀の乱である。

この禅秀の妻は、甲州武田氏の出身で、これの兄弟に甲州の武田信重がいる。
武田信重は、武田信玄の5代前の武田家当主である。

信満−信重−信守−信昌−信綱−信虎−信玄

当時の武田家は信重の父、信満が当主にして守護だったが、娘婿が挙兵したので、武田家も当然禅秀の味方となった。
が、やがて関東を巻き込んでの大叛乱となったので、幕府もやっと鎮圧にかかる。

相手が幕府の組織する討伐軍だから、名目も立たず局面は不利。
禅秀は鎌倉で自刃。その妻(武田氏)も後を追って死に、武田信満も帰国した所を、持氏の意を受けた山内上杉憲基に追撃され、逃げ込んだ木賊山で自刃。

信重は高野山まで逃げ延びるが、甲斐は逸見氏に横領され、信重の弟、信長はこの逸見氏と戦うが、敗れて庇護を求めた相手が、このころに将軍に就任した京の6代将軍、足利義教である。

義教主導の足利幕府も武田氏を甲斐の守護と認め、1418年、信重の伯父(信満の弟)信元を守護として甲斐に任じ、信元に子がいないので、信長の子、伊豆千代丸を信元の養子に立てて信元に守護を任命し、信元が死ぬと、信重を守護として帰国させるが、逸見氏の力は持氏と結託して大きくなりすぎ、信重は自分の国に入れなかった。

武田信長が上総に進出をはかっていくのも、きっかけは、この武田家の不幸な出来事が始まりだったと考えられる。
信長が上総に進出すると、その子孫は庁南と真里谷の二家に分かれて領土を広げ、特に真里谷武田氏が後に下総・国府台合戦に関わって来る。



<永亨の乱〜結城合戦(1435〜1440)>

その後の持氏は京の将軍義教(6代)ともソリがあわず、やれ年号を使わないの、頂戴した諱を息子に名乗らせないのと逆らったあげく、管領を殺害(「永享の乱」1435年)。最後はついに幕府に討伐軍を起こされ自害に追い詰められる(1438年)。

これを機に流浪の甲斐守護、武田信重はやっと帰国がかなった。
苦労の果てに甲斐の国に戻れた信重だったが、戻ってから僅か12年後の1450年、黒坂太郎信光と交戦中、穴山満春に背後を衝かれ、館はその兵火で全焼。信重もまた、ここで自刃。
(一方、信重の子信守は病弱で国主の座について僅か5年後の1455年に亡くなった)

一方持氏の子には、次男の安王丸と三男の春王丸(長男の義久は持氏自害の同年死去)が、持氏の残党に守られて結城氏を頼り挙兵。が、二人は捕らえられて殺された。この事件が「結城合戦」(1440年)。



<享徳の大乱・武蔵千葉氏×馬加氏(1454〜1456)>

というわけで、四男の成氏が鎌倉公方となった。

持氏−成氏−政氏−高基−晴氏−義氏−氏姫

が、禅秀の乱で父、持氏と対立して旧領を失った武田氏、二人の兄である安王丸・春王丸を庇って脱落した結城氏、他に里見氏などの地位と本領を回復しようとして、やっぱり関東管領の上杉氏と対立した(^_^;)。

この頃、上杉氏には太田道灌の父、道真が家宰をしていて、道真は鎌倉御所と呼ばれる成氏の居館を襲撃した。
いちど江ノ島に逃げた成氏は「江ノ島合戦」で反撃し、1454年には管領上杉憲忠を殺害。以後、関東は「享徳の大乱」に突入。成氏は1455年に古河に御座を移し、「古河公方」と呼ばれるようになり、以後の系譜はみなこの呼称で通用するようになる(ってトコが不思議よ(^_^;))。

利根川は成氏にとって敵、上杉氏との境界線であり、何度も激しい戦いが行われた。
京の幕府も、別の鎌倉公方を立てる事を考え、将軍義教の子、政知を鎌倉に下向したが、政知は鎌倉に入れず堀越にとどまって「堀越公方」を名乗ったため、名実ともに関東は二大公方の乱立する事態となった。

1455年、千葉の宗家、当主の千葉介(胤直)、当主の弟(胤賢)、当主の子(胤宣)が千葉城を追われて自刃。(ちなみに千葉胤直の妻は、先に触れた上杉禅秀の娘であった)
下手人は当主の叔父・馬加氏(康胤)と重臣で小弓城主の原氏(胤房)だが、これらは古河公方、足利成氏の与党である(^^ゞ。
古河成氏には、里見、武田(上総)、結城などの与党がいたが、これに馬加が加わったわけだ。

一方、当主の弟(胤賢)の子が二人生き延び、逃げて「市川城」に上杉氏の支援を受けて落ちた。

しかし翌1456年、馬加や原らと宜しくやってた古河成氏に攻められ、結局兄弟は市川城を落ち武蔵(東京都)に逃げて行く。

又、だいたいの所、これをもって千葉県における千葉氏は終わったかな〜、という感じ(^^ゞ。
それで、信長・秀吉・家康が活躍した1500年代後半は勿論、その前段階で各地に群雄割拠した頃、そのトップランナー斉藤道三(1494年生)・毛利元就(1497年生)の時代にすら、千葉県からは「千葉ナントカの守」というビッグな大名が出て来ないのである(^_^;)。

しかし古河成氏と馬加氏に追い出された千葉氏の遺児兄弟のうち、弟を千葉自胤(よりたね)といい、武蔵国の赤塚に落ちた後、豊島氏が基盤とした石神井川流域を南に見て、東京の北部に根を張って活動開始した。
これを助けたのが、あの太田道灌である。



<長尾景春の乱、江古田沼袋・境根原・臼井攻城戦(1476〜1479)>

千葉・東京で傑出した戦国武将を選ぶと、この道灌の名が必ず上がるのは、1476〜79年にかけて、道灌を絡めた夥しい合戦の坩堝があるからである。

道灌の活躍はもちろん千葉と東京に限らない。それは道灌が戦った相手、長尾景春が関東じゅうを暴れ回ったからである(^_^;)。

長尾景春は管領上杉氏の家宰、長尾氏の子だから、当然この古河×上杉の構図においては上杉側だったが、父の死後(1473年)、家宰の地位を叔父に奪われ、その裁定をしたのが上司の上杉氏だったので、上杉を相手に謀反を起こし、1476年、本拠・鉢形(埼玉)で挙兵。

敵の敵は味方の論理で(笑)、景春は古河公方の与党に(^。^)。<ミイラ盗りがミイラに
景春は翌1477年、五十子(埼玉)の陣を囲んで攻め落とし、山内・扇谷のいわゆる両上杉ともに利根川を超え、上野国まで落ちる騒ぎとなる。

道灌は同じ上杉でも分家筋の扇谷上杉氏の家宰であったが、この五十子の合戦の時、ちょうど今川氏に起きた内紛(お家騒動)の調停に呼び出され、のちの早雲(が当時の今川家後見人)と会いに行っていた(^_^;)。

戻って来た道灌は、上杉本家に起きた騒動を鎮めるべく、景春が暴れるたびにこれを食い止め、あるいは退治し、景春の反乱に便乗した豊島氏などの勢力とも抗争に明け暮れる。
中でも有名なのは「江古田・沼袋の乱(1477・東京都)」だろう(^^ゞ。

豊島氏は平安末期から室町中期まで、東京を東西に流れる石神井川に沿って勢力を誇った。葛西氏、江戸氏とともに秩父流平氏で、豊島清光が鎌倉幕府創立の功臣だったため、頼朝の信頼もあつく、鎌倉末期には石神井を領有、本城の石神井城築城もその頃と推定される。

勢力範囲は現在の台東区、文京区、豊島区、北区、荒川区、板橋区、足立区、練馬区とその周辺に及んだ。
石神井城はその中でも、これらの勢力の最西の本拠と見られる。

豊島清光から五代下り、豊島氏は泰経を当主としていた。

1477年、長尾景春が武蔵・相模の同志と謀って、管領上杉顕定に謀反すると、その誘いに泰経は平塚城の弟、泰明とともに応じ、江戸河越の通路を断った。

これを知った江戸城の扇谷上杉定正の執事、太田道灌は(泰経の弟、泰明のいる)平塚城を攻めようとした。
これを知った泰経は、石神井を出撃。道灌の留守をついて一気に江戸城に攻め入ろうとした。
泰経の弟、泰明も、平塚城の救援のため練馬城(これも豊島氏の城)から兵を連れて行く。

道灌は豊島兄弟の動きを知り、攻めかけていた平塚城に火をかけるだけにして引き返し、両軍は江古田沼袋で遭遇。両軍激突。

また、「道灌の平塚城攻めは、最初から泰経を石神井から引き出すための囮作戦だった」といった記述も見た覚えがある。

無論どれがホントかは判らない(汗)。
特に泰経の弟、泰明がどこに居たのかわからない(^_^;)。まぁ続き行こうか(^^ゞ。

これが「江古田沼袋の乱」と言われる合戦で、道灌は得意の足軽を使った戦法によって、あるいは豊島氏の住する石神井川流域より北にいた、千葉自胤・信胤兄弟と豊島氏を挟み撃ちにして圧勝した。
自胤は道灌を応援することで旧領復帰を望んだんだろうね。

豊島氏は泰経の弟・泰明、板橋・赤塚といった一族150人以上という、この当時としては甚大な戦死者を出した。

道灌は即座に練馬城と石神井城も攻め、4月18日には豊島氏の本拠、石神井城も落城した。
泰経は平塚城(北区西ヶ原)に敗走。翌1478年1月25日、また道灌に攻められて小机城(横浜市)に敗走。その後の消息がわからない。

1478年になると、古河成氏と上杉氏の間に和睦が成立。
この和睦、古河与党(と言うか反乱同盟と言うか)となった馬加氏や長尾景春にとってはかなりイタイ(^_^;)。長尾景春なんかはその後も懲りずに暴れまくってる。

というのも、馬加氏は孫の代(孝胤)に至っていたが、和睦によって大義名分を失った所を「待ってました」とばかりに道灌が攻めてくるのだ(^_^;)。

この「馬加」だが、このとき既に「千葉介」を名乗って本家を乗っ取ってるから、文献には「千葉」で書かれてる物が多く、この辺りがややこしい(^_^;)。混乱を避けて元の「馬加」で書くね(^^ゞ。

あと、そうそう、こういう「上」が終戦を唱えても「俺にとってはまだ戦は終わってない」とかいう論理、これがこの時代の常識で(^_^;)、南北朝いらいの伝統かもしれない(笑)。

「俺がダメと言ったらダメ」とかいう「上の理屈」が通用するようになったのは、ようやく秀吉の頃で、これが長々と反乱公方家を抱え込んだ関東の、特に「要は実力」みたいな狂暴さで出て来た北条氏には通用しなかったから、小田原合戦が起きたとも言えるが(笑)、それはまた後で(^^ゞ。

この時に道灌は馬加(千葉)孝胤を討伐するため「国府台城」を築城したらしく、1478年12月、道灌は国府台城を本拠に出撃し、千葉(馬加)孝胤あるいは原氏を境根原(松戸市小金)の戦いで撃退。
敗退した孝胤勢は、一族の臼井持胤、俊胤の守る臼井城へ逃げ帰ったので、道灌は翌1479年、千葉自胤とも一緒に繰り出して、馬加孝胤の篭った臼井城(佐倉市)を攻めた。

この臼井城は千葉氏の一族、臼井氏の居城。支城に師戸城がある。
1114年千葉常兼の三男、六郎常康が初めて臼井の地を治めた。
ちなみにこれは、相馬氏とかが出て来るより、もっと前に枝分かれした家系になる(^^ゞ。

千葉常兼┬常重−常胤−師常(相馬)
      |
      └常康(臼井)

やがて14世紀中頃の6代城主、臼井興胤によって、城の基礎がおかれたと伝えられる(この興胤は臼井氏の中興の祖といわれる人物で、鎌倉の建長寺で育った)。

1479年1月、道灌の弟、太田図書助資忠と千葉自胤(武蔵千葉氏)の軍勢が臼井城を包囲したが、城の防備が堅固なため、いったん引き上げようとした時、城兵がどっと討って出て太田勢と激しい戦となり、遂に落城したが、図書助ほか53人がこの地で討死したという。臼井城の近くには「太田図書の墓」がある。

16世紀半ば、長くこの地の領主であった臼井氏は、16代臼井久胤までとなり、戦国時代の末期には原氏が城主となっている。

千葉常永┬常兼−常重−常胤−師常(相馬)
      |
      └常宗(原氏)

原氏というのも、千葉一族を遡って出た同族だが、千葉(馬加)孝胤とともに境根原で太田勢と戦ったと見られ、つまり臼井城は一度は道灌の側に落ちたが、その後、原氏に奪還されたと見られる。
臼井城での太田勢の勝利自体を疑う見方もあるようで(^^ゞ、確かに、コトの発端であったはずの、武蔵にいった千葉自胤の系譜が戻って来て千葉介に返り咲いた、とかいう記録も見当たらない(^_^;)。



<成氏と幕府の和解・道灌殺害・早雲伊豆進出(1482〜1491)>

成氏は、最後は越後守護の上杉氏の仲介で幕府と和睦した(1482年)。

しかし1486年、太田道灌は上司の上杉定正に殺され、混乱状態となった上杉氏は扇谷と山内に割れて揉め、再び関東は騒乱に飲み込まれる。

一方、幕府に派遣された堀越公方や、後に千葉県に関わって来る北条氏についてもちょっと(^^ゞ。

1491〜1493年ごろ、堀越公方・足利政知が病死し、跡を継いだ子の茶々丸が継母や異母弟を殺害の上、横暴を奮って領内を混乱させたとして、興国寺城の北条早雲が堀越御所を急襲。
これをもって「戦国時代の始まり」とする説(先に始まった「応仁の乱」(1467年)ではなく)は、こうした早雲の、いわゆる「下克上」を指して言う(^^ゞ。

早雲は、さらに最後まで抵抗した関戸氏を深根城に追い詰めて滅ぼし、瞬く間に伊豆を平定。この後の北条氏による関東平定にいたる第一歩を踏み出した。

が、二代氏綱に渡って北条氏は、まだまだ相模や武蔵で、楽しく戦乱に明け暮れる時代が続く(笑)。



<関宿の波乱・小弓公方義明と第一次国府台合戦(1538)>

持氏−成氏−政氏高基晴氏−義氏−氏姫

成氏の子、政氏は、分裂した上杉の扇谷についたり山内についたりしてたが、そのうち政氏も自分の子、高基と対立するようになった。

高基は持氏のいる古河を飛び出し、家来である簗田氏の関宿城に移った。場合によっては高基は「関宿公方」になってたかもしれない(笑)。

上杉も内輪揉め、古河公方家も内輪揉め、そこに付け込んで進出してきたのが北条早雲(笑)。この古河公方父子の対立は、そもそも早雲が裏で画策した結果とも言われている。

が、政氏と高基には政策上の違いもあり、政氏が鎌倉公方時代の体制や権利を行使したのに対し、高基は北条氏綱に縁組を申し出て、巧みに北条氏に擦り寄っている。

こうしてこの地域は、そろそろと第一次国府台合戦に近づいていく。

高基には義明という弟(古河二代政氏の次男)がいて、義明も「小弓公方」と名乗って独立してしまう(笑)。義明は「自分も与党が欲しい」と思い、中でも上総の真里谷(まりやつ)武田氏をアテにした。

この真里谷武田氏は、冒頭にあげた甲州・武田信長(信満次男)の子孫にあたる。
当主、武田恕鑑もこの足利義明を担ぐと、武田と争っていた原氏の小弓城(千葉市)を攻落。義明はここを「小弓御所」にした。

ちなみに後に信玄の武田24将に名を連ねる原虎胤は、この原氏の庶流の出で、この騒動で原氏は義明らに追い出され、一族は四散。虎胤は甲州武田信虎(信玄の父)を頼って、武田氏に奉公したという。

ところが勝利した側の真里谷武田も、武田恕鑑の息子が対立。兄(信隆)が富津に拠って北条と与し、弟(信応)は小弓義明を頼るなど、分裂してしまった。

城を取られた原氏は「小弓城奪還」を狙い、小弓公方義明の兄で古河公方の高基(古河三代)と、その子、晴氏(四代)を担ぎ、小田原の北条氏綱とも組んで、武田や里見と対抗した。

このころ松戸に基盤を作った原氏の重臣・高城氏をして、やがて松戸周辺が北条傘下となったのも、この流れからだろう。

また古河高基・晴氏親子にしてみれば、弟であり叔父である小弓公方義明の勢力が増し、脅威に感じるようになっていた。そこで、北条氏綱の娘を晴氏の嫁に貰っていたので、北条氏綱に討伐を頼んだ。

一方、小弓義明には、酒井氏や、房総の南にいた里見氏やらが従った。
強いて古河×上杉の時の構図にあてはめると、これをもって里見氏が古河にケツをまくった臭い結果から見ると、という感じ(^^ゞ。

里見氏は1400年代中頃に安房にあらわれた義実を祖として、

義実−成義−義通実堯義豊義堯義弘−義頼−義康−忠義

と続いたが、従来いわれてきた「流浪の果てに安房に来た」説は否定され、管領上杉氏を牽制するために足利氏に送り込まれて来た、という説が今では有力視されいる(と館山城の資料館にはあった)。

また義通の後を継いだ弟の実堯は、義通の子の義豊に殺され、この義豊を実堯の子の義堯が殺して乗っ取り返し、里見氏は直系から傍流に家督が変わったために、それまでの歴史を改竄されたとあった。この義堯から北条氏との40年にわたる抗争が起きた。

里見氏はここで北条氏と手を切り、小弓義明の娘(青岳尼)を嫡男義弘と婚約させた。
武田氏や酒井氏が里見氏の麾下となったのもこの辺りかと。真里谷武田氏は久留里城を持ってたが、1537年、この城には里見氏が入っている。(里見氏入城の時期には諸説あるらしい)

こうして第一次国府台合戦が始まった。
天文7年(1538)10月、義明+里見連合軍は江戸川の東に布陣、北条軍は西に対峙。
小弓公方義明は息子の義純や里見義堯をはじめ、逸見、武田など房総勢一万余騎を率いて国府台に陣を敷く。北に松戸の椎津、堀江、村上、鹿島の諸将を、南の市川国府台を本軍とし、義純、里見、堀口、正木、多賀などを配置。
対する北条氏綱(二代)は、遠山、根来(金谷斎)、松田、狩野、笠原などと二万余騎を従え、対岸に対陣。

この時、義明は矢切の渡しから江戸川を渡河してくる北条勢に対し、油断して出陣命令を出さなかったとも言われる。
義明+里見軍の南北二つの陣営は北条軍に分断され(たのか、挟み撃ちにしようと、敢えて通したら突破されたのか(^^ゞ)、北上して敵を迎え撃とうと突撃した義明は、すでに東に廻っていた北条軍に横合いを突かれ、激闘のすえ戦死、房総勢は敗退した。

おかげで原氏は小弓城を奪還でき、重臣・高城氏も北条側の勢力を頼みに松戸周辺に広く基盤を築いた。

小弓城に復帰した原氏や馬加(以降の)千葉氏はもちろん、味方だった武田氏も酒井氏も、この後は里見氏を離れて北条氏に属すが、里見氏だけは北条氏と戦いつづけ、しまいには上杉謙信まで引っ張り出す騒ぎになる。



<古河晴氏の反発〜第二次国府台合戦(1560〜1564)>

第一次から22年経ち、世の中はバリバリの戦国時代に突入。古河公方の権威はすっかり北条に飲み込まれつつあった(^^ゞ。

持氏−成氏−政氏−高基−晴氏義氏−氏姫

晴氏は家督を氏綱の娘との間に生まれた義氏に譲ったが、内心では「しまった、義明オジと組んでたら良かった」と思ったかどうか(笑)、北条と戦っていた管領上杉氏に同調したのを期に、簗田高助の娘との間に生まれた藤氏・藤政と古河城に籠り、北条3代氏康に反旗を翻す。
が、敗れて藤氏とともに捕らえられ、晴氏は相模に幽閉され、晩年は関宿城に戻って死んだ(1560年)。

危うし古河公方。反乱公方のブランドが、今やすっかり北条@下克上の手中に……(笑)。
そこで永禄4年(1561)、まだ長尾景虎と名乗っていた上杉謙信は、北条三代氏康に対抗、関東管領上杉氏を就任。 (この年が有名な第四次川中島合戦)

里見氏は、第一次国府台合戦で敗れた里見義堯の子、義弘の代になっていた。
この頃、武田・北条・今川(駿河)の間に三国同盟が成立した。
北条と対立を続けた里見氏は、この同盟に脅威を感じ、家臣正木時茂を外交官として、同じく三国同盟から除外されている上杉謙信に誼を通じ、里見義弘と謙信の間に同盟が成立。南北から北条氏を挟み撃つ同盟であった。

この時になると、北条氏綱の孫(氏綱の娘が古河四代晴氏に嫁いで生んだ)義氏が古河公方となりつつあり、謙信や里見氏は義氏とは異母弟の藤氏(母は関宿城主・梁田氏の娘)を推した。

というわけで、永禄6年(1563)〜7年(1564)にかけ、謙信は関東へ進出。知らせを受けた里見義弘は国府台に布陣し、岩付にいた道灌の曾孫、資正と康資の江戸城奪還(道灌の居城だったが北条側に取られていた)への兵糧支援に乗り出した。

ところがどうも兵糧の値段で折り合いがつかなかったらしく、それを高城氏が「今がチャンス!」と北条氏に知らせた。
チャンスってのは「謙信が来る前に攻めるなら今」という意味で、北条勢も兵糧は不足してたが、慌てて三日分のみ携帯し、江戸城も守らず、すぐ国府台に攻め込んだ。

こうして第二次国府台合戦が始まる。
同年(1564)1月5日、国府台の里見氏は、大多喜や勝浦の正木氏、太田氏あわせて兵8千。 対する北条氏康(三代)は、長男氏政(四代)、次男氏照、三男氏那はじめ、遠山、富永、松田など二万余騎に松戸の高城も加えて矢切台で迎え撃った。

里見軍は退散したと見せかけて北条勢をおびき寄せ、北条勢が「からめきの瀬」を渡河し台地をのぼりはじめた所を待ち受けて、上から急襲したという。北条勢は大打撃を受け名立たる名将も討ち取られた。

が、翌8日払暁、里見勢は油断して勝利の酒宴を開き、主が家来をねぎらいに行ったりしていたため、その所在が不明になったりなど軍隊指揮が取りにくくなっていた。ここを北条軍は里見の陣地目がけ一斉に攻撃をかけ、国府台城に攻め込んだ。

寝込みを襲われた城中は鬨の声に驚いて大混乱に陥り、鎧、太刀、馬の鞍を探し惑う声が飛び交い、武器や鎧にいっせいに群がり、それぞれ誰の物かも確かめず、ちゃんと身につけられない有様の内(「太刀一振り鎧一領に二人三人取り付けて我よ人よとせり合ひ、兜許りで出づるもあり鎧着て空手で出づるもあり」)に戦いに巻き込まれた。

里見義弘は馬を射られ、家来の安西に助けられて安房に敗走。正木や太田も上総まで何とか行けたが、里見広次、正木内膳らは戦死した。

「里見広次」は、里見義弘の弟、忠弘の子。「広次」「弘次」「弘継」とも書かれる。
里見弘次の末娘が、父の霊を弔うため、はるばる安房の国から国府台の戦場にたどり着き、悲しみのあまり「夜泣き石」に姿を変え、通りかかった武士の供養で泣き声がやんだ、という伝説があるが、里見弘次は15歳の初陣で戦死したので、ちょっと無理がある(^^ゞ。
が、弘次は美少年であったと言われ、敵の将・松田康吉はその死を悼み、のちに出家したともいう。

戦地であった国府台の近く、松戸市八柱の徳蔵院にも、戦没者弔いの墓地の名残として「藤塚稲荷」という祠が残っている。
ちなみに里見勢は戦死者5320(あるいは2120)余人、北条勢も3760(あるいは1700)余人と言われ、北条にとってもかなり無茶な勝利ではあった。

が、謙信が上州から常陸へ出陣して小田城を攻めていた時で、謙信はここを29日には落としている。少しでも長引いたら、既に多くの戦死者を出している北条氏にとって、滅亡の危機に瀕する時だっただけに、まさに危機一髪。
この地域はこうして北条氏の支配するところとなったのである。

だが謙信は里見義弘との同盟を疎かにせず、その後も永禄9年(1566)まで、毎年秋〜冬に越後を背に、足しげく関東に出征を繰り返し、里見勢もこれに呼応して毎年北進、北条を挟み続けた。



<北条氏の終焉(〜1590)>

持氏−成氏−政氏−高基−晴氏−義氏−氏姫

晴氏の子でありながら北条氏の血もひく義氏は、北条氏によって小田原に移され、鎌倉鶴岡八幡宮の参詣を強いられるハメになり、北条氏は義氏を補佐する名目で「副将軍」と自ら称した。

これじゃ「まるで北条の傀儡公方じゃん」と見るのも道理で(笑)、上杉謙信が藤氏を擁立したり、藤氏が死ぬと簗田氏が藤政を担いだりした。

簗田氏は関宿城を1457年に築城したと言われる。簗田成助の後、高助・晴助・持助と代変わりしつつ居城したが、この持助の時に上杉謙信に通じたため、1574年、北条氏照に攻め込まれ、関宿城を明け渡した。
関宿城は後北条氏の持城となり、古河勢力はすっかり北条に飲み込まれた(^_^;)。

ちなみに織田信長が出て来ないのは、房総にとってはどうでもいいから(笑)。思うに、最後まで畿内周辺でゴタゴタしてた信長にとっても、関東はどうでも良かった(^_^;)。

しかし家康にとってはどうでも良くなかった(笑)。
1582年に甲州武田氏が滅び、さらに織田信長が死ぬと(死因もどうでもいい:笑)、家康は俄然ヤル気を出して、甲州武田氏の跡地を我が物にした。
今思えば、これが「関東流」が通用した最後の例かもしれない(爆)。

一方、里見氏。

義実−成義−義通−実堯−義豊−義堯−義弘−義頼義康−忠義

義弘の代に北条とは和睦し、その次の義頼が優れた政治家で、1585年秀吉が関白になると、すぐこれに服属した。

秀吉は天下人の座に躍り上がり、1590年、小田原合戦になると、いきなりこれまでの関東の事情もガラリと変わる。
これがさっきも書いた「俺が終わりと言ったら終わり」という秀吉の論理で(笑)、小田原攻略というのは、さっきも書いた秀吉の「惣無事令」が根拠になっている。
北条はウッカリ上州の名胡桃城などというケチな山城に手を出し、名胡桃城を奪われた真田昌幸が「違反だ!」と騒いで、秀吉に訴え出た。

北条にしてみれば、「これまでこの地にはそんなの通用しなかった」と思っただろうが(笑)、秀吉は重箱の隅を突付いて小田原を滅亡に追い込む。
この小田原合戦(1590)をもって「戦国時代の終了」と見る説は、そもそも早雲が始めた「下克上の系譜による関東支配が終わった」事を指して言うのかもしれない(^^ゞ。

天正18年(1590)徳川家康が関東を治めに入った。
高城氏は北条氏に重んじられて、埼玉県の三郷市や神奈川県の綾瀬市や横浜にも領地を貰っていたが、最盛期の当主、高城胤辰が若死にして以来落ち目で、秀吉の小田原征伐(1590)では、大谷口城は浅野長政に攻められて落城。高城氏の家来たちは帰農した。

里見氏は義頼に代わって義康の代なっており、秀吉の小田原征伐の折、足利公方のために鎌倉を取り返そうとして秀吉の怒りに触れ、上総を召し上げられた。家康が上総に入って来たのは、このタイミングのようだ。

「公方のために鎌倉を取り戻そうとして」
まだそんな事やってる?という時代になってたが、これがこの土地の伝統なのだ(^_^;)。それが単に名目に過ぎず、何らか別の野心があったとしても、その名目ならまだ多くの兵士がついてくる土壌が残ってた事を、里見氏は領土を投げ出して証明してくれた(^_^;)。

さて、その古河公方家はどうなったか。

持氏−成氏−政氏−高基−晴氏−義氏氏姫

秀吉は古河5代義氏の娘、氏姫を小弓公方義明の孫と結婚させ、喜連川足利氏として子孫を残させ、これを「公家」という意味不明な立場に遇して(それが出来たのは関白だから(^_^;))、一方謙信死後の上杉家を、昔ながらの因習深い越後から切り離し、さっさと会津に転封した(^_^A)。



<里見氏の終焉(1590〜)>

義実−成義−義通−実堯−義豊−義堯−義弘−義頼−義康−忠義

館山城は房総里見9代義康が築城して以来、10代忠義が去るまで、27年間里見氏の居城となっていたが、家康が豊臣征伐のために大阪の陣の陣触れを発する一ヶ月前、里見忠義は大久保忠隣との連座の罪を着せられて、家康に伯耆国(鳥取県)の倉吉移封される。
表向きは3万石という前触れだったが、実際には囚われの身にすぎず、忠義が死ぬと、実子の無い事を理由に里見氏は取り潰され、館山は徳川の勢力によって統治された。

安房一国になったとは言え、海上ルート確保によって交易も防衛拠点も優勢な里見一族は、豊臣氏を討とうとする徳川家にとっては危険な存在だったに違いない。

大坂城の豊臣方との決戦を目前にした徳川幕府は、関東御府内外様大名取潰しの策を回らせた。この策により改易を命ぜられた里見忠義は、憂悶のうちに元和八年(1622)29才で倉吉在の堀村に卒した。

悲運の主君に従って殉死した八人の家臣は、その氏名は不詳であるが、四字の戒名の上と下に必ず心・賢の二字が配されている。慈恩院に伝えられた話によると、房州にあった里見氏の遺臣が主君忠義と八人の殉死者の遺骨を房州に持ち帰るべく猟師の姿に身をやつして、遥々倉吉の大岳院の墓から蛸壺に分骨して帰り、ひそかに館山城の南麗(「麓」かと)に埋めたのが、館山城に残る八遺臣の墓であるという。この八人の殉死者が、八犬士のモデルであるとも伝えられている。

また、国府台城は江戸俯瞰の地であるところから廃城。
臼井城は徳川家康の部将、酒井家次の三万石の居城となったが、1593年の火事によって城廓は消失。その後、跡地だろうか、酒井氏の1604年の転封まで使用された、とも言うが詳細はわからなかった(^_^;)。

関宿城には、徳川家康の母が再婚した先で生んだ子……つまり家康にとって異父弟の松平康元が1590年に4万石で入城。これが1616年に美濃大垣に転封されると、松平重勝(能見)が3年在城の後、遠江横須賀に転封。1619年に小笠原、1640年に北条、1644年に牧野、1656年に板倉、1669年に久世、1683年に牧野、と目まぐるしく変わり、1705年に久世重之が三河吉田から5万石で入ってから以後は、明治まで9代久世氏がようやく安定支配した。1995年に再建。


「こたつ城」内出典一覧
・2003年
「城主のたわごと」2003年5月<館山城・博物館>より
<館山城・御殿跡><館山城内・八遺臣の墓>より
・2004年
「城主のたわごと」2004年9月<松戸七福神巡り7、「寿老人=徳蔵院」>より

・2005年
2005年・石和川中島合戦絵巻レポート1<流浪の甲斐守護、武田信重>より

「城主のたわごと」2005年10月<石神井城>より
・2006年
「城主のたわごと」2006年1月<実相寺>より
<宗英寺>よりB<宗英寺>よりA
「城主のたわごと」2006年7月<八柱「藤塚稲荷」>より
「城主のたわごと」2006年8月<里見公園(国府台城跡)>Aより
<里見公園(国府台城跡)>Bより
・2007年
「城主のたわごと」2007年1月<臼井城跡>より

 
     





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