■ 最上義光 ■



(1546〜1614)

南北朝から室町時代にかけて、足利氏の一族で奥州探題となった斯波家兼の次子・兼頼が、羽州探題として最上郡山形を本拠とし、奥州藤原氏が滅亡した直後からこの地に来ていた大江氏(南朝方)を下してより、最上氏の祖となる。

最上氏は、伊達氏と同様に中原から離れた辺境の豪族であったが、北部に武藤氏、南部の伊達氏、という強大な勢力が出来る中、両勢力の中央に挟まって基盤を持ち、居城山形を中心として近隣の豪族を併呑し、徐々に大きくなって行ったが、その頂点が義光のときであった。

義光は天文15年(1546)、山形城に生まれた。11代目という。

父・義守と義光の軋轢から、一族が分裂抗争した後に義光が家督を継いだ。
一説に、父・義守は義光の弟・義時に家督を譲ろうとしたため、義光が反発したとも言い、また伊達輝宗らが干渉したが、義光が伊達氏と和解して当主となったとも、義光が弟・義時や庄内の武藤氏らを謀殺したとも言う。

義光は勇将の反面、謀略が得意で、近隣に勢力を拡げ、版図を拡大した。
伊達政宗とは仇敵同志の家と言え、長年にわたり抗争を繰り広げたが、政宗の母は義光の妹で、政宗とは伯父・甥の関係である。

義光の最大の危機は天正16年(1588)、芦名・佐竹連合軍を破って勢いに乗る伊達政宗と、越後の上杉景勝に挟撃され、孤立する。しかも念願の日本海進出も、上杉氏に庄内を制圧されて一時、挫折した。

この危機を、徳川家康を通じ豊臣秀吉に臣従することで乗り切ったと言われ、天正18年(1590)、豊臣秀吉が北条氏を小田原に討った時、小田原にも参陣、はじめて上洛して秀吉のもとに行き、本領を安堵されて、従四位下・侍従に任ぜられた。

以降、豊臣(大納言)秀次には娘の駒姫を側室とし、秀頼(この時期だと秀吉だろう)には三男・義親を、翌19年(1591)の奥州征伐(九戸政実の乱)の時から、二男の(左馬助)家親を徳川家康の近習として仕えさせるなど、全方位外交を展開する。

が、関白となった豊臣秀次が秀吉の怒りにふれ切腹したとき、娘の駒姫も首をはねられ、義光もあやうく所領を没収されそうになったところ、家康の助言で安堵されたため、家康と義光の親交は深くなった。

慶長5年(1600)、家康の子・結城秀康を援けて、会津の上杉攻めの先鋒となり、上杉景勝と交戦。この構図から関ヶ原では当然、東軍になったわけだが、いわゆる東北の関ヶ原においては、逆に、上杉勢の直江兼続に山形城に追いつめられ、苦戦する。
が、現地の関ヶ原において家康が勝利した事によって、庄内を奪還した。

慶長6年(1601)には、出羽庄内に由利領を含め、57万石の太守となり、左近衛少将となった。
晩年は酒田など後の繁栄港や、水路の発達など後の農業推進の基盤を形成したとも、病床についていたとも言われる。慶長19年(1614)正月18日、山形城で没した。69歳。

義光死後、子・家親や次の代・義俊のとき、子供らに内紛があり、家臣統制がままならぬため国政治まらず、本領を没収され、最上氏は改易の憂き目にあう。

一大勢力を誇った最上氏の丸ごと改易は欠損が大きく、こうした事は、何かと軋轢のあった地続きの小野寺氏も改易され同様だろうが、その後の山形藩は城主がめまぐるしく交替しては、領地減少の一途を辿り、天領のみ増加、他藩の飛び地が入り組んで、領国の枠を超えて商人が発達し賑わう地域のある一方、貧富の差も激しく、飢饉や一揆が多発、影響は最近まで長く残った。
こうした事柄は、史料などにも同様に(散逸や混同などの)影響を疑わずにはおれない。