■ 徳川家康 ■


(1542〜1616)

徳川氏の先祖は、家康が征夷大将軍につくころから創作が開始されたと見られ、その後の江戸時代にも、学者らによって脚色されて、結局、明確な所はわからない。

一説には足利尊氏に滅ぼされた新田氏の一族、世良田親氏が先祖であると言われ、親氏が流浪して三河に辿りつき、三河国加茂郡松平郷出身の小豪族、松平太郎左衛門の娘を娶って松平姓を名乗ったという。

親氏は近隣の村を従え、一族が増えると領地は三河一国におよぶほどになり、3代目、信光の代に岡崎に進出。しかし6代目信忠が横暴で酒色にふけったので、被官の豪族も駿河の今川氏や尾張の織田氏に行き、安祥の城のみに留まったという。

7代目清康(家康の祖父)は大永3年(1523)、13歳で家督を継ぎ、西三河一帯を回復して勢力を伸ばし、一代でほぼ三河統一を成し遂げるが、天文4年(1535)、守山で家来の阿部弥七郎に殺された。このとき、清康の殺された刀が村正であったという。

清康の子、広忠(家康の父)は、このときまだ10歳だったので、重臣が相談して今川義元の援助を受けた。義元は広忠を牟呂の城に入れたが、広忠が長じると三河を回復して岡崎の城に戻り、そこに家康は生まれた。天文11年(1542)12月26日、幼名竹千代。母は水野氏の娘(於大)。

竹千代が3歳ごろの時、母方の水野氏が織田方に離反したため、父広忠は今川氏に忠誠を示して、妻、於大を離縁。

天文16年(1547)、さらに6歳の竹千代も駿府の今川氏に人質として送られることになり、石川数正らとともに岡崎を出た。一行は三河田原で城主戸田康光の迎えを受けたが、戸田が尾張の織田信秀(信長の父)に通じていたため、船が着いたのは駿河ではなく尾張の熱田で、竹千代はその後二年間、織田信秀の人質として尾張に暮らした。

天文18年(1549)3月、24歳の父広忠もまた部下に殺され、松平氏の家臣は今川の庇護を頼るため、同年に起こった今川と織田の戦いで、安祥城にいた織田信広が捕えられたので、これと人質交換で竹千代を取り戻した。竹千代は一度岡崎に帰ったが、10日余りで今川氏の城下駿河に送られ、今川義元の下で人質生活をおくった。

松平氏の岡崎城には松平家の家来は、今川家の城代に城を譲り、領土はその代官に治められため、駿府の竹千代も岡崎の家来たちも、暮らし向きは貧しかったが、松平家復興の執念が主従の結束を強め、三河武士は忍耐強く精強であったという。家康の人生観や処世訓も、二大勢力にはさまれた経験ゆえに培われたと言える。

弘治元年(1555)、14歳で元服。次郎三郎元信と名乗り、翌年(1556)、元康と改める。16歳で今川氏の一門関口刑部親永の娘(築山殿、25歳であったという)を妻に迎え、今川氏輩下の武将に認められた。のちにこの築山殿との間に、長子、信康をもうけている。

この時点の元康は、未だ松平氏にとって不在当主のままだが、このあとの弘治2年(1556)、義元からようやく許されて一時岡崎の城に帰った。

永禄元年(1558)、17歳で元康は初陣し、敵を破っている。

永禄3年(1560)、桶狭間の合戦の折、元康は今川義元の西上の先鋒をつとめ、三河衆を率いて織田領に攻めこみ、丸根砦を落として大高城への食糧運搬に成功。そこで待機しているところに、義元が信長に討たれた、という報を受け取る。

元康はこれに乗じ、敗走する今川勢を助けず岡崎入城。城にいた今川の将兵もすべて駿府に引き上げ、ここに元康は自立を果した。

翌永禄4年(1561)4月、今川義元の子、氏真に見切りをつけて織田信長と同盟。名を家康と改めた。信長27歳。家康19歳。この同盟により、信長の娘の徳姫(五徳姫)を、長子信康の正室に迎える。

永禄6年(1563)、糧米の徴発が発端となって、家康の領国内で一向一揆が蜂起。不平をもつ豪族が宗徒に合流して家康に反抗。家臣も一向宗徒はこれに加わり、家臣団は真っ二つに分裂。のちに家康の謀臣といわれた本多正信も一揆方に加勢した上、かつて三河守護であった吉良氏の一族もこれに加担したので、ついには戦乱となり、ようやく制圧したものの平定には至らず、6ヶ月目に和議。

家康の旗差物にある「厭離穢土欣求浄土」は、家康がこの頃帰依した浄土宗の句である。

この後、ようやく東三河も含めた三河統一を終了。やがて朝廷とも通じて、徳川への改姓と三河守の称号を許され、名実ともに戦国大名となった。

信長と結んで西方に憂いもなくなり、甲斐の武田信玄と組んで今川領を侵略。元亀元年(1570)、浜松城を築城し、岡崎から城を移した。

同年、織田信長とともに、姉川において浅井、朝倉連合軍を大破。姉川で家康軍が戦ったのは朝倉軍だが兵数は徳川軍より多かった。

家康と彼の三河衆は、この姉川の戦いの通り、城攻めを得意とした秀吉や兵力差に勝ってから戦を始める信長や信玄とは対照的に、野戦に強く、これが兵数に勝る相手に対して効力を発揮する特徴がある点、謙信に近いかもしれない。

また家康軍は、あらかじめ戦場を想定するより臨機応変、敵の弱点を素早く突く傾向がよく見られる。姉川では、朝倉軍の右翼を突き破って勝因を掴んでいる。

しかしこの後の三方ヶ原は例外で、はじめ信玄との約束は、大井川を境として駿河、遠江は家康が取ることになっていたが、今川氏が追われると、信玄は駿河、三河に兵を進め、元亀3年(1572)秋、武田信玄は2万5千の大軍を率いて甲府を発ち、途中の敵を平らげながら上洛の途についた。

対する家康は信長からの援兵3千を合わせても8千足らずであり、12月22日、浜松城を出て三方ヶ原で信玄の軍と戦ったが、大敗して浜松城に逃げ帰った。

このとき、浜松城に帰った家康は城門を閉じようとする鳥居元忠を制してこれを開け放し、門の内外にかがり火をたかせて、引き上げてくる兵を収容すると、湯漬けをもたせ、三杯食べて眠ったという。

攻め入ろうとした馬場信房が、家康の計略を深読みするうちに、鳥居元忠が百余人を率いて攻めて出たので、甲州勢は退いたと『名将言行録』は伝える。が、武田軍が追って門を閉じられなかったとも、信玄が上洛を急いだため、家康を滅ぼす手間を省いたとも言われている。

家康はこの三方ヶ原の敗北で、信玄を意識し、信玄の戦略や戦術を教訓とするようになったという。

ちなみに家康の家臣団は、第一に三河以来の譜代家臣たちで、勇猛果敢で軍団の強さを支えた。東三河の酒井忠次、西三河の石川数正を筆頭に、忠次を含めた「徳川四天王」が他に、本多忠勝、榊原康政、井伊直政。

ついで、天野康景、大久保忠世、高力清長、鳥居元忠、内藤正成、平岩親吉、本多重次、松平康忠、渡辺守綱。譜代についで、小笠原長忠、奥平信昌、菅沼定政。

信玄は翌年(1573)、野田城を落城させた直後の4月、病のために伊那の駒場の陣中に没した。

信玄の後を継いだ勝頼は、天正2年(1574)の春、美濃明智、遠江高天神などの諸城を落として、一度は隆盛したものの、翌年(1575)5月、織田・徳川の連合軍に長篠の戦いで大敗。その後は衰退を重ねた。

この渦中、家康の長子信康に、信長から切腹命令が出たという。信長の娘で信康の正室であった五徳姫の告げ口が要因ともいわれ、また罪状としては、信康が武田と内通した容疑とも言われる。処分を要求された家康が泣く泣く築山殿を成敗し、信康は切腹したと伝えられている。

しかし、当の武田勝頼は、天正10年(1582)3月、織田・徳川の軍によって滅ぼされ自刃しているので、真相は闇の中としか言いようがない。

武田家滅亡後の同年5月、家康は信長に招かれて、信玄の麾下であった穴山梅雪を伴い、安土城をたずねて信長の歓待を受け、21日京都、29日堺、連日、茶会や酒宴での接待を受けた。

6月2日、本能寺で信長が家臣の明智光秀に討たれた知らせを受けるや、家康は、即座に宇治田原から信楽に、さらに伊勢を超えて岡崎に帰った。

この時、同行していた穴山梅雪は出発がおくれ、伊賀大和の大河原で武装土民の手にかかって殺された。落武者狩とも、家康の指図とも言われる。

又この、いわゆる「伊賀越え」において道中助勢した伊賀、甲賀の者たちを、この後の家康は用いたといわれ、諜報活動を束ねたとして知られる人物には、有名な服部半蔵正成がいる。

岡崎に帰った家康は、秀吉が山崎において光秀を討った知らせを聞き、浜松に引きあげた。

主君の仇討ちに成功した秀吉の名は上がり、織田家の世継ぎと領国仕置き定める、いわゆる清洲会議で強い発言力を持ったが、秀吉や柴田勝家が争っている隙に、家康は信長の旧領に手を伸ばし勢力を拡大。三河、遠江、駿河に甲斐、信濃を加えて、五ヶ国を支配する大大名となった上、武田の家臣団も輩下に加えた。

天正12年(1584)、織田家の家督を巡って、信長の第二子織田信雄が秀吉と争う姿勢に乗じて、家康は信雄と結び、小牧、長久手で初めて秀吉と戦い、秀吉軍を破った。

この戦いも野戦で、姉川同様、敵の秀吉軍が多勢だったが、秀吉が徳川軍の後方に別働隊をまわした所、家康はこれを急襲して打撃を与え、深追いせずに秀吉につけ入らせなかった。家康の戦法は調略をアテにせず、独力で大軍に勝つ事が多いが、多年、大勢力や信長の手伝い戦が多かったため、柔軟さが培われた結果とも言える。

しかしこのあと、秀吉は信雄と和睦したため、家康の勝利は無効となった。またこの時期、秀吉は家康の元を出奔した石川数正を自分の家来にしている。かわって家康の参謀格を務めた人物としては、一向宗に加担してからしばらく影の薄かった本多正信(のちにその子、正純も)がいる。

それでも急成長を遂げた家康は、天正14年(1586)、手狭の浜松城から駿府城に移り、秀吉に次ぐ覇者となっており、秀吉は臣従させるために、自身の妹、朝日姫を夫と離縁させて家康の妻の座に据え、家康からは次男、秀康を養子に取るなど苦心した。

天正18年(1590)、秀吉の小田原征伐によって北条氏が滅亡すると、秀吉は、家康を北条氏の旧領である関東へ配置換えさせる。

秀吉が、家康を中央、あるいは近くに存在させる脅威を回避したかったとは思い得るとして、北条氏旧領を統治させ、家康の力を削ごうとする狙いがあった、とよく取り沙汰されるが、これは実際どこまで当たったのか非常に興味深い。

確かに江戸はこのころ茅葺家が百軒ほどの寒村で、入江は城のすぐ下に迫り、城の規模は、道灌以降も上杉氏や北条氏も何らかの領国の一支城としていたのみで小さく、城内の北条氏城代、遠山景政の居館をはじめ家来の家などは荒れ果てていた。

しかし伊奈忠次や大久保長安らの起用で民政の安定をはかり、伊奈らは、利根川や江戸川などの大河川を見直して、「備前堀」などの水路を関東平野に張り巡らせ、銚子と江戸を結ぶ水利で交通網を完成させた。

さらに、黒衣の宰相の二人、金地院崇伝(臨済宗大覚寺派)と、南光坊天海(天台宗)。他に儒者、林羅山も関東経営には加わっている。

また、関東に入府後、家康には少なくても従属的な婚姻はなく、次男秀康を下総の結城氏の養子に入れ、関東圏を強化。四男、松平忠吉には、徳川四天王の一人、井伊直政の娘をめとらせて主従を強め、嫡子、秀忠の妻には、秀吉の命で、浅井長政の三女、小督(=お江与、母は信長妹のお市の方)を迎えている。

その上、文禄元年(1592)の朝鮮の役で家康は、肥前名護屋城には呼び出されたものの出兵を免れ、この時、他の大名と、経済力、および戦力に決定的な差をつけて蓄えを保ち、関東経営に役立たせている。

家康の領国は関東一円、石高で250万石にまで達し、譜代の家臣を領国の外に巡らせ、直轄地では武田氏、今川氏、北条氏の旧臣を代官に立てて戦も出さず、消耗度に影響しない支配を巧みに果した。特に、「武田の赤備え」を「井伊の赤備え」が継承し、武田氏の遺臣を大量に組み込んだ話は有名である。

またこの年は、江戸城西の丸の築城を開始。翌年(1593)一度完成をみている。

家康の関東経営に役立ったのは、経済面を担当した家臣や商人の頭脳であり、先に書いた伊奈忠次をはじめ、金座、銀座をひらいた後藤光次、佐渡金山、石見銀山奉行として、大量の金銀を生産した大久保長安。また、海外貿易に精通していた京の豪商、茶屋四郎次郎、堺の豪商、今井宗薫の存在も見逃せない。

さらに従一位、内大臣となり、前田利家、毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家などを含めた「五大老」に筆頭として就任。秀吉の死を前に、秀吉の一子、秀頼と家康の孫娘、千姫の婚約も取り交わされ、豊臣家においても、他の五大老より格が上となった。

慶長3年(1598)、秀吉が伏見城で没すると、家康は伏見城に入って政務を執り、生前の秀吉の法令を無視して、伊達政宗、蜂須賀家政などとの婚姻外交を露骨に推し進めて、個人の派閥を強化。多くの大名に謀略を開始して、反家康陣営には、あたかも挑発するかのごとく専横行動が、急激に増えた。

大老の一人、上杉景勝が領国の会津に戻ると、京への上洛を再三要請し、これに応じない所に、戦備を整えているという噂を聞きつけ、上杉討伐の口実とした。

慶長5年(1600)6月、家康は伏見を発ち、7月には江戸に入り、軍備して会津に向かったが、途中、石田三成の挙兵の知らせを聞き、7月25日、下野小山で諸将を集めて会議。

この時、家康に従って上杉討伐に参加の意をあらわした諸将は、浅野幸長、加藤嘉明、黒田長政、藤堂高虎、福島正則、山内一豊らで、8月5日、家康が江戸城に戻った時、彼らは家康より先に尾張の清洲城に急行し、8月14日までに集結。この間に家康は、江戸を離れずさらに味方を全国に集めた。

8月21日、家康を待たずに、福島ら東軍は西軍の岐阜城、信長の孫織田秀信を攻めて二日で落城させ、25日に赤坂に進軍。

9月1日、家康は江戸を出発。兵3万5千、息子、秀忠に中仙道から美濃へ入る別働隊3万8千を率いさせ、、自らは東海道を上り、9月13日岐阜城入り、9月15日、全軍7万5千の兵を関ヶ原、桃配山に布陣。

西軍は大垣城を出て、笹尾山の石田三成を筆頭に、小西行長、島津義弘、宇喜多秀家。南の松尾山には、朽木元綱、脇坂安治、小早川秀秋。東の南宮山には吉川広家、毛利秀元、長束正家、安国寺恵瓊、長宗我部盛親。それぞれ東軍を三方から囲むように布陣。総兵力10万8千。一方の東軍は、別働隊の秀忠3万8千軍が到着せず劣勢だった。

辰の刻(午前8時)に戦闘開始。午前中は西軍優勢だったが、午後に小早川秀秋の裏切りで形勢は逆転。東軍の圧勝で幕を閉じた。この勝ち戦も、やはり家康得意の野戦で、兵力は拮抗していた。

家康は天下の権力を握り、論功行賞として西軍大名91家を改易、減封、国替え。没収分の640万石。東軍の大名に報いる傍ら、徳川一門、譜代大名に加増して、徳川氏の直轄領を莫大にした。

この頃、イギリス人ウィリアム・アダムス(三浦按針)が、家康の家来になり、通商および外交を担当している。

慶長7年(1602)二条城築城。翌8年(1603)2月、従一位、征夷大将軍。江戸に開幕。翌9年(1604)には江戸城の大改築を試み、翌10年(1605)に将軍職を秀忠に譲ると、慶長11年(1606)、藤堂高虎に指揮をさせ、主に西国大名に負担を強いて江戸城の「天下普請」大工事に着工。江戸城は、面積において世界最大の城郭となる。

将軍家を我が子に世襲し、もはや遠慮のかけらもなく天下の諸侯を私事に使役しはじめた家康に、秀吉の遺言どおり、秀頼を盛り立てるつもりで家康に従っていた豊臣方は怒ったが、家康は65歳の老齢に達し隠居を果したようにも見えた。

しかし慶長12年(1607)、駿府城を築いて移った家康は、家臣たちに「大御所」と称され、膨大な直轄領を背景に、徳川家を中核とした江戸期の中央集権国家をすでに始めていた。

象徴天皇制を確立し、国内全ての人の階級を定めて、武家、公家、寺院に分けた細かい諸法度を作り、これを幕藩体制に組み込む政策を着々と推進。寺社には再構築を迫り、武家には、諸大名から巧みに自由を剥奪。慶長15年(1610)には名古屋の築城を開始し、江戸につづく大工事に財力が底をつく大名も現れた。

また、関ヶ原の前に問題になった婚姻政策は、戦後はさらに豊臣家を孤立させるべく、福島正則、加藤清正、池田輝政ら、豊臣恩顧の有力大名を相手に拡大。

家康は10男3女を得ている。内部には先の信康の切腹の他に、のちに六男忠輝の改易など問題もあったが、二代将軍秀忠を軸に、八男義直、九男頼宣、十男頼房(いわゆる御三家)などを布石とした強固な体制づくりを完成させている。

慶長19年(1614)7月、73歳になった家康は、方広寺鐘銘にある「国家安康」の文字が家康調伏の証拠として、大坂冬の陣を起こす。

冬の陣では、徳川をはじめとする東軍20万、豊臣方10万といわれるが、秀吉の残した大坂城はさすがに攻めきれず和睦。直後に大坂城の外堀を埋めさせ、防禦設備を破壊させるなど、終始強引策を進めた末に、夏の陣を迎えた。

豊臣方は機能を失った城に持ち応えられず屍を重ね、秀頼は落城直後に自刃。豊臣氏は滅んだ。

元和元年(1615)、家康は一国一城令を発布。大名の城は平地の居城以外、山城などすべての城塞を破壊させられた。

よく知られる逸話に、生前の秀吉が家宝を尋ねると、諸大名が各々の名器などを披露したが、家康は「命知らずの部下」と答えた、というものがある。しかし茶道は利休の弟子、古田織部に師事してわび茶をたしなんでいる。

また、晩年の家康は確かに鷹狩をよく行い、それは家臣の団結にも役立ったかもしれないが、たぶんに終生、健康に気をつかったとも思われる。家康が自ら漢方薬を処方し鍼灸を好んだ話も残っており、75歳の高齢に達した大坂の陣に、乗馬して出陣した事は、当時としても異例と言えよう。

元和2年(1616)4月17日、家康は鷹狩のあとにわかに発病し、三ヵ月後に駿府城で没っする。死の直前、太政大臣に任官。75歳。一説に、死因は鯛の天ぷらによる食中毒といわれる。

死後、家康は徳川時代は神君、権現様と神格化され、その裏返しに維新後は貶められた。

単に、慎重、隠忍、質素倹約の暗い印象を疎まれ、判官びいき的に受け入れられない面もあろう。講談、立川文庫などの影響を言う人もいる。

だが何よりも、幼少期より我慢と温良の人にある家康が、後年、些細なことから豊臣家を苛む姿に変貌するなど、一人の人間としては驚くほどに人格的な開きがあり、替え玉説、影武者説などが囁かれる所以も、一番の根拠はここにあるように思える。確かに一人の人間が最初から仕組んで歩んだ人生と見ると、受け容れがたい心情は否定しにくい。