<2012年・城主のたわごと2月>




2011年9月、東北レポ第二弾。会津若松(福島県)到着!

小野川温泉に1泊、米沢(山形県)「上杉家御廟所」など♪




     
  2011年秋の東北(〜北関東)レポ第2弾(^^)。
前回、「(連載)4回は行く」と書いたが、ちょっと見直した所、6回は行きそう(^^ゞ。

幾ら雨だらけでカメラが不鮮明・機能不全だったとはいえ、3泊4日ある。その前の年が2泊3日で6回行ったのに、それより少ないって事はさすがに無いかと(^_^;)ゞ。

今回は、1日目の続き。
まず磐越道を会津若松(福島県)に到達。しばし滞在後、米沢(山形県)方面に北上、途中の小野川温泉で一泊。

2日目は米沢に向かい、後は南下して、途中に小野川をもう一回通り、昼食をとった後、今度は喜多方(福島県)方面を目指す。



<1日目つづき。磐越道〜猪苗代湖の北岸>

前回は、主に東北道の車窓からお届けし、郡山で磐越道に乗り換えた。
亭主がそこまで読んで、「えっっ!! ここで……続く?!!」と仰天・絶句、呆然としていた。
「このあとは〜(TOT)? このあとは〜\(>o<)/?!」<バタバタ

まぁ亭主は旅行の先を知ってるから焦れてるだけだが(笑)、確かに、行きの高速の途中で<つづく>をやったのは、さすがに初めてだったかな(^_^;)。。

次々と現われる山々
高玉東トンネル(入口の白鳥(^^))

東北道を郡山で磐越道に乗り換え、わりとスグ、次々と山々が現われ、ほどなくこのトンネル地帯に突入する。

続いて高玉西トンネル
そろそろ猪苗代北岸。雨脚が強まる

トンネルは初めの「高玉東」「高玉西」(地図A)が、上記の通り、白鳥や水滴(波?)を象る入口で、ちょっと目を引く(^^)。
猪苗代湖のイメージでデザインされてるんだと、勝手に思ってるけど(^^ゞ。

「高玉東」「高玉西」の両トンネルの後も、「新中山」「鞍手山」「関戸西」と、トンネルを次々と潜って、ようやく猪苗代湖の北岸(地図B)に到達する。

色々トンネルを出た後も、次々と山が見えて来る

前回も書いた通り、この磐越道は高い山間と湖面の傍を通っているので、天候が恐ろしく移ろいやすい(^^ゞ。
が、今まで何度か通った中でも、この日の雨雲、空の暗さは、これまでとも違ってかなりの雨量を感じさせられた。

しかしこの時は、雨の心配より、もっと急な心配事が発生した。
それは、いきなり「ガリッ!」という口の中の音から始まった(苦笑)。

雨ながら実りの色豊かな平野部
磐梯山SA(地図C)で一旦休止

いつもなら、磐越に乗ってからSA休憩する事は滅多にないんだが、この時は実に急場であった。

歯の詰め物が取れた(爆)。眠気覚ましに噛んでたガムで(汗)。

ゆえにSAの駐車場に一時停車し、亭主がスマホから、会津若松や米沢(は翌日に着く予定)の歯科医を片っぱしから当たってくれた。
が、休日の夕方だったし、電話に出てくれても、当直の人だったりで用が運ばなかった。。

ただ歯は神経が抜けてて殆ど痛まないので、亭主は心配してくれたが、私は結局「宿に行ってから聞けばいいや(^^ゞ」と、放置するに決定した(爆)。



<会津若松「長門屋・会津駄菓子資料館(飯盛店)」>

会津若松で高速を降りた。ドシャ降り!(笑)
市街に入る。飯盛山が見えて来る

我々はインターから来てるので、いわゆる会津若松の城下町に入るまで少し車を走らせている。多分、左の写真が49号線で、右が64号線に入ったトコかと。

飯盛山は、会津若松インターや、会津若松駅(磐越西線・只見線)からは南東方面、鶴ヶ城(会津若松城)からは北東方面にあり、白虎隊で有名になった名所であるが、この飯盛山に近い「長門屋・資料館」というのに、前行きそびれたので今回来て見た(^^)。

地図D←長門屋・資料館(詳しくは拡大してね(^^ゞ)。やがて……

駅前通りに合流。改めて飯盛山を目指す
正面に「飯盛山」がぶつかって右折

飯盛山の写真がピンボケでごめん(^_^;)。山の所々見える建物は、どれが何の建物かまでは言えないが、会津若松と言えば有名なのが、鶴ヶ城(会津若松城)とこの飯盛山である。

と言っても、私は子供の頃に来たっきり(^^ゞ。亭主も行った事がない。
我々夫婦で行った(「たわごと」でも前にレポした)のは、この近くだと、「幽霊の足跡」や「小笠原長時の墓」のある「大龍寺」、「近藤勇の墓」のある「天寧寺」ぐらい(^^ゞ。
(会津若松の四方名所→2007年3月<鶴ヶ城、2(続き)><天寧寺><大龍寺>

ただ会津若松では、必ずどっかで貰える名所地図があって、飯盛山には「さざえ堂(旧正宗寺三匠堂)」という江戸期の建造物、「旧滝沢本陣」なる藩主の休憩所がある。

そして飯盛山と言えば、「白虎隊記念館」「白虎隊士の墓」「白虎隊自刃の地」「白虎隊奮戦の地(戸ノ口原古戦場跡)」と、何と言っても「白虎隊」の名所として、その名を轟かせる。
この麓を通る時も、飯盛山の駐車場に立っていた初老の男性が、車に向かってお辞儀をされたのが目に入った。ボランティアか何かで、ここの案内を務める人だろう。

その飯盛山にぶつかって右折後、しばらく行くと道の左に建っているのが……、

長門屋・会津駄菓子資料館
来た道を振り返ると、飯盛山が見える

当初の予定では、まずここを見学して、時間が上手く行ったら、前に行きそびれた「慧日寺」の「徳一の墓所」に行きたい、なんて思っていたが、歯医者探しでロスした分どうなるかなぁ……といった所だった。

ところが……、この「会津駄菓子資料館」で思わぬ挫折。。

ワクワク近寄ってみると……
(玄関・拡大)ナント閉店!

玄関に貼ってある「お知らせ」には……↓

飯盛店閉店のお知らせ
 平成23年3月28日
拝啓
平素は格別のご高配を賜り、厚く御礼申し上げます。

飯盛店は地震による店舗損傷の為、3月12日より営業を見合わせておりましたが、
この度、残念ながら閉店させて頂く事となりました。
お客様には、20年にわたる多大なご愛顧を賜り、誠に有難うございました。
心より御礼を申し上げます。

尚、本店・七日町は通常通り営業いたしております。
今後共変わらぬご愛顧下さいます様お願い申しあげます。 敬具

お問い合わせは
【本店】
〒965-0865 会津若松市川原町2-10 0242-27-1358
【七日町】
〒965-0044 会津若松市七日町3-30 0242-29-7070

むろん残念には違いないが、この春から一刻も早く確かめたいとジリジリしていた震災の爪跡を、逸早く確認できて、変な言い方にはなるが、「来て良かった」とも思った。

亭主も早速「ここにある“本店”ってトコに行ってみよう」と、住所をナビに仕込み、スグ車を廻してくれた。



<本家・長門屋(本店・川原町)>

今の資料館よりだいぶ西(鶴ヶ城も越えて)に戻る感じになるが、本店は……

地図E←本店、「本家・長門屋」。さっきの蔵作り風の建物に比べると、商家風ながら落ち着いた佇まい(^^)。
以前も、2007年5月<会津〜米沢のお土産(^。^)>内でも紹介した駄菓子屋の老舗で、今でも製造・販売を行なっている。

江戸時代は造り酒屋だったが、嘉永元年(1848)会津8代藩主・松平容敬に「庶民の菓子を作れ」と命を受け、佐平が初代となって取り組んだ。

時も幕末の頃だから、そろそろ新撰組とか白虎隊の時代に近く感じるけど、砂糖はまだまだ高級品で、「庶民に菓子」なんて、とんでもない時代。
しかし容敬は民衆を大事にした殿様だからと、佐平も応えて駄菓子作りに精を出し、数年後「会津五副対」という、会津藩発行の番付表に名が乗るほどの菓子屋に成長した。

……と、長門屋が始まった頃の話が、長門屋のパンフレットには書いてある(^^)。

実はこの松平容敬、元は水戸徳川氏の出身なんだね(^^ゞ。
会津松平氏の(保科正之から繋がる)系譜は、その前の7代で途絶えてしまったのだ(>_<)。。会津松平氏系図(2007年2月<会津藩主松平家墓所>内
それもあって、会津の民情にまで気を使ったのかなぁ(笑)。

ではお邪魔。「ごめんくださ〜い」(パノラマ縦5枚180度以上)

目茶目茶アンティークな空間の中央の方、こちらの奥さまと思うけど、資料館が閉鎖してたんで、こちらに来たと言ったら、「どちらがら〜? まぁ千葉から! まぁ座っていっぺぇ飲んでってぇ?」とササーッとお茶入れて、話し込む姿勢で、ドッシリ座って下さった。

大地震の後、テレビに映る様子だけでなく、早く東北の人に直に会いたいと思ってた……と、しみじみ思った(;_;)。。

今回はどこ行っても、帰省でもした親戚の子に会うみたいな感じに、地元の方が気さくに話しかけてくれる事、思わず長話になる事が凄く多かった(^^ゞ。
何か観光より話をしに来たみたいになるけど(笑)、地震の事もたくさん聞いた。

それにしても……うわ〜(*o*)! スゴイたくさんの駄菓子!(パノラマ2枚)

種類もいっぱい、ズラーーーーッ!と並んで壮観! これ全部、駄菓子!
上段、左から、かるめやき・(駄菓子セット袋)とり飴・だるま飴
中段、左から、すもうパン&うさぎパン・グローブパン・べっこう飴・源四郎飴・ハッカ飴・ごまぱん。(その右は駄菓子じゃない和菓子や羊羹)
下段、左から、生姜金花・あんこ玉・黄粉ねじり・黒ぱん・ちそパン・握おこし。

このうち、2007年5月<会津〜米沢のお土産(^。^)>内に、↑太字で書いた駄菓子が載ってる☆ミ
同じ取り合わせだけど、家に帰ってから撮った(笑)↓今回はハッカ飴も別に買った!

震災が無ければ、今年は東北には来なかったかもしれなかったが(^^ゞ、それでも会津に来たとしたら、ここで何が見たかったと言うと、既に示した通り、「駄菓子資料」というのが凄く見たかったの!!!

結局どういう資料館だったのか、今は入れないから判らないけど、修学旅行で来る高校生が、二階にいっぱい上がり過ぎて、かなり傷んでたみたい(^_^;)。。そこに地震も来て……という事なんだろうね。ああして建物は残っていても、そう簡単に復帰できるような感じじゃないらしい。

資料館からこの本店に来るまでの間、わりと商店や民家の多い辺りも通ったけど、道路も建物も、外観を見る限り、地震があった事が信じられないほど復旧していたと思う(^^ゞ。

地震についても、震源地より意外と遠いと感じてるようだった。
この時は、どこ行っても、震災の影響より、その後の洪水の影響がよく取り沙汰されていた。

ただし、むしろ例の風評被害の影響こそ甚大に思えた。

ここは名の通った古い老舗なので(とはお店の方は仰らなかったけど、そう思うよ(^^ゞ)、地域の御贔屓筋などとの遣り取りで、どうにかやっていけるようだけど、会津若松は、修学旅行客などで持ってる所もいっぱいあって、それがこの程の風評被害で、90%以上キャンセルされたと聞いた。地域としては大打撃だよねぇ。。

「長門屋」を出ると、程なく夕暮れ時に突入。

ずいぶん長居してしまったので(^_^;)ゞ、この後は一路、一泊目の宿のある小野川温泉を目指して北上した。
長門屋さんは、喜多方廻りで行く方が早いんじゃないかと教えて下さったが、この時間は、まだ「慧日寺、行けたら行こうか」とも言っていた。

「慧日寺」(地図F)は、2008年9月に行った(2009年1月<恵日寺>〜<金堂>が、徳一の墓所だけ行きそびれてたので、今回行けたら行こうと思っていたのだ(^^ゞ。
この会津若松からだと、慧日寺に近い磐梯河東まで、一区間ながら高速に乗ろうと行き掛けた。



<磐梯河東(あたり)〜桧原湖〜白布温泉>

この旅行から、携帯をスマートフォンに変えた(^^ゞ。
前の機種は、どうも圏外になってしまう事が多く、これは根本的に基地数の問題だから、どうせ変えるなら、今からまた携帯って事も無かろう……と(笑)。

ところが、まだ使い方に慣れてなかったのか、どうもこの旅行では、変な方向に連れて行かれる事が多く(^_^;)、この時は曲がりカドを間違えた事もあるが、高速に乗るでもなく、と言って慧日寺に近付くでもなく、ドンドン変な方に行ってしまうんだわ。
それでも迷走する内に、ようやく進路は桧原湖(地図G)方面を目指したようだった(笑)。

「会津村」観音像
(拡大)
だいぶ日暮れて来た。。

この「会津村」(地図H)の近くを通ったんだろう。巨大な大観音像が車窓から見えた(笑)。去年も神指城跡から見えた奴だ(そこだけ出すと、2011年7月<神指城跡>内

迷走してる間に、ドンドン時間も経ってしまい、「慧日寺(地図F)は無理だね〜(^^ゞ」と言いながら、それでも今さら喜多方方面は目指さず、山越えルートで行く事にした。


前に会津から米沢に出た時、途中に桧原湖を通る山越えルートを使って、白布温泉(地図I)に一泊した事がある。
その時は夜の到着だったので、翌朝、通ったルートを見に行って、スゴイ景色に感動したのだ(^^)。(2007年4月<3日目朝・福島県境(桧原湖)>

今回の宿も同じルート上の小野川温泉(白布温泉よりさらに米沢寄り)だったので、「前は夜道行きになっちゃったけど、今回は日のある内に桧原湖が見られるかも(^。^)?」なんて当初は言ってたのだ。

結局そんな時間でもなくなってしまったから、絶景を眺める事は叶わなかったが、「こんな道だった〜(*o*)」と言いながら、夜道を急いだ。

写真は夜空の明るい所だけね(^^ゞ。

この後はさらなる山越えコースで、森林の奥だから殆ど真っ暗だった。
ナビは途中で進路が止まってしまい、今回行った旅行の中でも、確かこの区間が一番反応しなかった気がする(^_^;)。

後に詳しく書くが、旅行に出る直前、洪水や大型台風に見舞われたが、道路状況など今イチ把握できず、実はこの会津若松から小野川までの道については、事前に宿に問い合わせていた。

その結果、少なくても不通とは聞いてなかったので、この夜はそう心配せずに走ったが、ナビが全く役に立たなくなり、「今どの辺にいるんだろうね(^_^;)」と、内心ちょっと焦りながらの夜ドライブだった。



<小野川温泉に到着(^_^A)。1泊目夜>

小野川温泉に来たのは、この「城主のたわごと」では初めて東北レポを始めた、2007年2〜4月(行ったのは2006年9月)の年で、小野川温泉はその最後に寄った。実に5年ぶり(^^ゞ。
(2007年4月<小野川温泉>←今回も夜の到着だから、5年前の方が到着時の雰囲気は近いかも(^^ゞ。

5年前はそのまま帰ったから、夜の写真しか撮れなかったので、今回は翌朝に撮った写真を交え、温泉街のムードをお届け(^^)。

温泉街の到達・目印は……
分岐点にある「共同浴場・尼湯

地図J←いつものサイズ(13)にしてあるので、拡大・縮小して周囲との位置関係を見て貰えれば(^^ゞ。
この「尼湯」の後方の路地には、5年前もレポしたけど……↓

小野小町・休み石」と、その案内板がある
(拡大)薬師堂の参道の始点でもある

小野小町・休み石」や「薬師堂」「滝の清水小野小町の霊水)」についても、5年前のレポをご覧下さい(^^)→(2007年4月<小野川温泉>
ちなみに、5年前レポの最後に出て来る、小野川温泉の同じ「米沢ラーメン」、今回も翌日のお昼に食べたっ(≧▽≦)。

この路地から見える、尼湯の脇やや後方にあるのが「五つの心の宿・高砂屋」→
これが一泊目のお宿(^^)。お疲れ!
早速、中に入ろう。お邪魔しますー♪

カメラ切り替え(笑)。中央のガラス戸から↓入った(パノラマ縦5枚180度以上)

入ってスグ頭上に見える「吊るし飾り」↓
玄関からスグ入れる四畳半の座敷→

最初に見えた「吊るし飾り」は、「吊るし雛」などで有名になったが、「日本三大吊るし飾り」というのがあるらしく、山形の酒田、伊豆(静岡)の稲取、福岡の柳川が相当するんだとか(゚.゚)。
ここ小野川温泉は山形県だから、酒田が近いよね(^^)。

そして、入ってスグ見える四畳半の座敷間は、食後や入浴後、出がけなどに、泊まり客がくつろいだり談笑してて、フロント前の待合所みたいな雰囲気だった(^^)。

ここは格安だったから選んだだけで、旅行や宿の情報サイトでは、パッと見が「居酒屋か寿司屋についてる宿(^^ゞ?」という具合に狭そうに見えたが、全然狭くは無く、シットリと落ち着いた佇まいで、内装も凝ってて良い宿だった☆ミ(地図K

千代紙で作られたような和風フロント
白と黒の絨毯廊下

宿に落ち着いた所で、ちょっと旅の前に遡らせて貰う(^^ゞ。
……実はこの旅行、ギリギリ前までキャンセルすべきか悩んだ。
その理由は、やはり大雨・洪水・土砂災害(^_^;)。。

震災に関しては、わりと早い段階から、温泉旅行に切り替えた話は前回した通り(^^ゞ。
で、旅行という事になるなら、東北は毎年行くので、ちょっとは知ってるつもりでいたのだが、それが今回はいろいろ難儀した(>_<)。。
毎年、早いと7月には予約とか取っちゃうんだが、今年は旅情報が非常に掴みにくかったのだ。

ギリギリまで問題だったのは、今も言った通り、7月から次々に来た大型台風と大雨(^_^;)。
前回も書いた「湿った空気」による大雨・洪水・土砂災害の影響が大いに出て、情報発信側も正確な情報を出しづらかったと思う。

和紙人形がいっぱい並ぶエレベーター前
部屋の前に置かれた木の椅子

台風が来る前も、宿泊地状況に重ねて、高速料金や放射能の影響なども、刻々と状況が変化して戸惑った(*o*)。。

でも、巨大津波による甚大な被害を出した沿岸部の宿泊情報は、7月末ごろまでには見当がついた。
放射能に関しては、見事にその区域とその外側に相当する箇所に、全く宿泊場が無くなってるのが観光関連のサイトなどで見てとれた。。

避難指定いがいの沿岸部の被災地では、早くも営業再開に踏み切る旅館などもあるにはあった。が、数は多くなかったような……。

沿岸部って(福島県も含め)元々、あまり宿泊施設など多くなかった気もする。
と言っても、沿岸部は温泉が殆ど無いので、毎年、温泉目当てで宿探しをしてた自分らには、津波の前と後の年の正確な比較は出来ないが……。

それと当然ながら、ボランティア(や復旧の仕事に来る人)向けの宿泊内容が多かった。
ちなみに、この宿も、被災者やボランティアを支援している宿の一つだったよ(^^ゞ。

←(拡大)宮沢賢治の童話に出て来そうな猫チャンが背もたれに(^^)。

被災地には5月のGWに、大勢のボランティア志望者が詰めかけ、多くが突き返されたと聞いた。ボランティアは条件も合わず難しいとしても、沿岸部の様子が気にならないと言えば嘘になる。

人づてながら、現地の人の案内を聞いて、石巻に津波の跡を見に行った人の話も聞いた。
人の気配がまるでしない、鳥一つ飛んでない、音の全くない世界で、居るのが怖い気がしたと聞いた。

地元の人の「見に来るだけでも来て欲しい」という声も聞けば、「面白半分に来て欲しくない」という声も聞いた。
「面白半分」というのは、どう見てもそういう風にしか見えない者がいたからだと思うが、ボランティアじゃないなら、沿岸部に行くのはやめた方がいいかな、と思う内に、今度は停滞する台風&大雨情報が出始めた(^_^;)。。

春に体調を崩して治療費もかかったので、遠い所は無理と思い、今年は福島や栃木メインで、宮城や山形は行けても南部かな〜と思い始めたら、7月には大雨・洪水・土砂災害で、福島西部や新潟が壊滅的な被害を受けた。。

海にも山にも行けない、と思った(^_^;)。。

「貯めた分を義援金に廻しちゃえばいっかー(当初の考えからは著しく遠のくが(^_^;))」と諦め気分になりかかる反面、「それなら、もっと早く出せた!\(>o<)/」と、悔しい思いも交差する内、8月は過ぎ、9月に入る頃になっても、本震・余震・降り続く雨による崩れやすい山への注意など呼び掛けるニュースが後を絶たない(^_^;)。。

「取り合えず、これまで行き漏れた史跡巡りなら、一応知ってる場所だし、そもそも目的の温泉宿に泊まる旅になる(^^)v」と方向性を定め、宿泊の手配に漕ぎ着いた(^_^A)。。

ところが、予約もキャンセルが効かない頃になってから、又ぞろ大型台風が近づいてきたのには気をもんだ(≧▽≦)。。。(前回も言ったが)神田明神の御籤で「危険な所に近付かない事」と忠告されたり(笑)。
これがさっきも書いた通り、間際になってキャンセルするか迷った理由(^_^;)。

で、結局、我々が「行く!」と腹を決めて家を出たのは、実は「台風は進行方向を変え、逸れて行く」という発表だったからなんだけどね(^_^;)。。

それでも余震やら不通やら(地震と大雨で道路の地盤とか緩んでるかと思い)も大丈夫なように、段ボール箱を2個潰して簡易トイレを作り、トランクに入れて持ってった(爆)。

段ボール簡易トイレの作り方@「災害トイレ情報ネットワーク」より
旅行でもまだ余震が頻発する中だから、同じぐらいの用心があった方がいいよね(^^ゞ。

夜の温泉。屋根が高くて、外には露天もあってイイお風呂だったわ〜(^_^A)→

お部屋っ(^O^)!夕飯もここに運んでくれたっ♪(パノラマ3枚ほぼ180度)

旅行の事であれこれ気を揉んだのは私だが、今年は亭主も震災後は物凄く大変で、この旅行に行く前から、既に腰を痛めて、これも「キャンセルする(^^;)?」と大いに気を揉んだ事の一つだったのー(TOT)。。。

だから温泉に入れ、美味いお料理が出て来て嬉しかったのーー(つД`;) <うわぁぁん。。。

お吸い物と米沢牛のステーキ(^。^)→

その右のは氷と小茄子の漬物→

ご飯( ^,_^)ф↓
芋煮、卵の作り、刺身、おひたし、岩魚と梅の甘露煮(^。^)→

何か色々と気を揉んだあげく、やっと辿り着いた、という思いがある分、お部屋もお庭も温泉もご馳走も、「良かったねっ(≧▽≦)」と夫婦でタップリ堪能した!(笑)

仲居さんが又お話し上手の気さくな女性で、「仲がイイですねー(≧▽≦)!」と何度も言ってくれた(笑)。
「歯医者はこの辺だと、みんな米沢まで行くようですよ〜」とか、「冬は雪が積もったら、ラーメンの出前を取って、ここの前でカマクラ祭りをやるんです!」と、土地情報を教えてくれた。

私らも「小野川温泉は、前に夜、日帰り風呂だけ入りに来て、その時から『一度泊まりたいね〜!』って言ってたんですー!」と、強く自己主張した(笑)。

お腹いっぱい食べて、庭の虫の声とせせらぎの音が心地よく、夜はグッスリ寝た(爆)。



<2日目・小野川温泉の朝(^O^)>

おはよーおはよー(^O^)/。今ココね→地図K

旅館のお部屋(2階)から見る朝のお庭(^^)(パノラマ5枚180度以上)

中央・奥に見える山(^^)
こちらは朝食の間から見えた

地図では、近くの地名に、月山・愛宕山などあるけど……月山(地図L)かな(^^ゞ。

ちなみに愛宕山は、ここ小野川温泉から米沢の城(があった頃)のちょうど中間あたり、米沢城からは南西方面にある。

米沢藩の窮乏を救って名を残した上杉鷹山(10代・治憲)が16歳で藩主になり、周囲の軋轢の中、大改革に乗り出し、18歳で米沢に国入りした。

そして20歳の明和8年(1771)、大旱魃となったため、鷹山が愛宕山に登って愛宕神社に祈願すると、大雨が降った、という話が残っている。

その「愛宕山」ではないかと(^^ゞ。地図M
小野川温泉は米沢に近いだけに、上杉鷹山(治憲)の話が、ちょっと出て来る。

朝食の間(1階)から見えるお庭がまた凝ってる(^^)

ここから福島との県境に近い山に戻る途中、前に泊まった白布温泉があり、そこには直江兼続が鉄砲鍛冶を営ませたという伝承など残る(2007年4月<白布温泉に戻る>内が、上杉氏では毎年、この鉄砲を藩主に披露する、「上覧鉄砲」という恒例行事があった。

これを馬廻組五十騎組が交替で勤めたが、米沢入りした鷹山に、昔は馬廻組が先勤めだったので、初入部(藩主の初の国入り)の時は元通り、自分らに勤めさせて頂きたい、と馬廻組が申し出た。

もちろん五十騎組も張り合って譲らず、相手の組に縁のある妻を離縁する者、果ては斬り合いの気配やら、脱藩する者まで出かかったが、鷹山が双方を説得して、結局、五十騎組が先勤めをする事で決着した(^_^A)。

そして2年後(1771)は今言った旱魃&祈願&降雨があって、3年後は安永元年(1772)、米沢は山国で塩が取れないからと、鷹山が、この小野川温泉塩焼場を設け、武芸や大筒の上覧も奨励する事とした。

ところがこの年、江戸で大火があって、上杉家の御殿も焼失したので、復興の協力を家中に頼んだ所、例の五十騎組与板組が、材木の伐採や運搬の手伝いを申し出た。

この材木を阿賀川から新潟港を経由して、江戸へ搬送したのをキッカケに、次々と諸士が自ら手伝いを申し出たため、城の内外や橋の修理などが出来た。

朝食のお部屋に入ると、奥にドン!と置かれているのは……飯釜(゚.゚)?↓
そして各々の朝食の乗った御膳(^O^)→
釜で炊いたお焦げ飯が入ったお椀もある☆ミ

五十騎組は、さらに小野川村の開墾の手伝いも申し出て、与板組も松川の水を汲み上げて、さっきのような旱魃の場合に備えた飲料水の確保を手伝った。

鷹山が藩主となり、大改革・大倹約に乗り出すと、家中には少なからず反発があったが(^_^;)、こうして改革に積極的に協力する者も出て来ると、逆に反発を強める者も出て、対立が深まり、やがて「七家騒動」なども起こってしまうんだけど、その初期の改革の頃の話に、小野川という地名が出て来るんだね(^^ゞ。
(2007年4月<米沢「上杉神社・松岬神社」「上杉博物館(伝国の社)」など>E

ちなみに、この「五十騎組」と同じかわからないけど(^^ゞ、上杉景勝が謙信の養子として、春日山城に入る時、景勝を取り巻く上田衆から五十騎が選ばれ、「五十騎組」と称したものがある。

景勝と直江兼続は、元は上田長尾氏の城、樺野沢城や坂戸城などで生まれ育ったが、景勝の実父・政景の怪死により、春日山城に迎え入れられた。
そんな彼らと共に在ったと思われるのが、上田衆と呼ばれる存在。

米沢は上杉藩の本拠とされる(関ヶ原敗戦の)前から、直江兼続の領地だったと言うから(2007年4月<米沢「上杉神社・松岬神社」「上杉博物館(伝国の社)」など>D「五十騎組」がその流れなら、上田衆の子孫かな……なんて思った(^^ゞ。

この朝食の間にも、『天地人』の大河ドラマ化決定を記念して、兼続が慶長3年(1598)に米沢30万石を領して以後、米沢にとっての大恩人である事が書かれ、額に入れられて顕彰されていた。

食後はユッタリと温泉〜(((つ^o^)つ
雨降ってたけど朝の露天は爽やか(^^A)

ここの温泉はラジウム湯だと書いてあった。
脱衣所の効能書きには、「泉質、含硫黄−ナトリウム・カルシウム・塩化物温泉」とあり、源泉温度はナント「80.3度」(゚.゚)。冷まして出してるんだろうけど、水で薄めるってわけじゃないみたい! 調整難しいんだろうね。。

こことは別に入浴室があって、着衣のまま入れる噴射水アクアスパ、岩盤浴、活性水素浴などが出来たり、還元水やフコイダン茶を飲んだり、キパワーソルトを舐めたりすると、元気回復、血液をサラサラにする効果があるらしい(゚.゚)。
我々は到着も遅かったし、朝はギリギリまで寝てて、温泉しか利用しなかったけど(^^ゞ。

ではでは、お世話になりました☆ミ 出発!(パノラマ2枚)

最後まで仲居さんが、「お二人はどうやって出会ったんですか?」なんて声をかけて(笑)、別れを惜しんで下さって、こたつはこたつで「憧れのカマクラの季節に来たいです!」と答えて、ほのぼのした思いのまま、宿を出た(#^.^#)。地図K

さっきはこの「高砂屋」の正面が見える路地から入ったが、今度はちょっとこの奥↑の道を行ってみる。



<小野川温泉から米沢へ>

すると、温泉街よりちょっと高台の裏山(とでもいうか)風景に行きあたる。地図N←この辺かな

おおおお〜!こんなトコだったよねー!(パノラマ2枚)

なんて5年前を懐かしがりながら、温泉街の奥の山間風景をグル〜ッと巡った後、また温泉街に戻って、泊まった「高砂屋」を通り過ぎ……↓

並びの「扇屋旅館」
さらに「ホテル山川」と温泉宿を巡り

ここが5年前に温泉に入らせて頂いた「旭屋旅館」(^^)(パノラマ2枚)

そうそう、到着時に書いた、「滝の清水小野小町の霊水)」も、この「旭屋旅館」の中にある(^^)→(2007年4月<小野川温泉>

↑真ん中の建物の左、肌色の建物が、米沢ラーメンの「弁天食堂」。まだあるーと喜んでたら、亭主が「昨日、仲居さんが言ってた、出前ラーメンってここかもよ!」と言うんで、「そうかも〜(≧▽≦)」なんてはしゃいだ。この「弁天食堂」だけ、またお昼に出すね(笑)。

「旭屋旅館」上部、拡大。手前の山が、たぶん「山の神神社」の丘陵の並びで、奥のが、たぶんさっきも見えた「月山」じゃないかと(^^ゞ。この辺りで一つポン!と小高い山→

では、とりあえず小野川温泉を出発(地図O
行き先は……ここ!(爆)

米沢っ(≧▽≦)!これも2006年9月(レポは2007年1〜4月)に来た時、時間切れで行きそびれた上杉家の歴代墓所を参拝するためである!

……ところで、このポスター、てっきりとっくに終わった祭りのポスターを記念に貼ってあると思ってたんだけど、自分で撮った写真なのに、ちゃんと見てなかったようだ。

実は今見て「え(゚.゚)、9/17〜9/25?」とか驚いてる(爆)。

小野川温泉に泊まったのが9/19、この日は翌9/20である。恒例の「川中島合戦」が行なわれたのは、どうも来る前日の9/18だったらしい。 μ(。。)m<検索

遠い昔、米沢に一人で来た時、5月3日だった覚えがある。
毎年それぐらいの季節にやるもんだと思ってたし、今より10年ぐらい前、まだ石和の合戦とか出てた頃(これも随分昔になったねぇ(^^ゞ)、米沢の川中島合戦にも出る人達は、確かGWに向けてどうのこうの言ってた覚えがあるんだが……。

と思って、さらに検索してみたら……え(・・;)、今年だけ9月なの? 延期して……?
もしかして……あの震災後の自粛ムードの頃、中止はしかねて、延期になったとか……かな? うん、どうも、そのようだね μ(。。)m<検索。うわ〜じゃあやってたんだなー!ちょうど!(知らなかったー!)

何しろ、そんな事とは露知らず
その米沢に向かっている!(笑)

ワイパー入っちゃってゴメン(^_^;)。この旅行こういう写真が多いと思うけど、勘弁してネ。。

古風な街中を通り
実り色の田園を横切り

秋の風情が豊かな山形南部(^^)
米坂線の踏切を渡る(地図P

この踏切を渡ると、もう米沢市街。
踏切の脇の道に「ふみきり横丁」という飲食店通りがあって、そのうちの一軒が「謙信」とあったよ(^。^)v。



<上杉家御廟所>

そして……いよいよ
道行く先に見えて来たー!

ちなみに右の写真、門の手前、左にも「毘」や「龍」の旗が見えるが、ここは「法音寺」といって、この時は何の寺か知らなくてお参りしなかったんだが(^^ゞ、聖武天皇の命で諸国を巡視中に越後で病死した、藤原政照を弔うため、勅命によって737年、行基が建立した法相宗の寺だそうだ。

その後に越後国の真言宗・国分寺との兼務になり、1197年から源頼朝の祈願所になり、天正年間(1573〜91)に上杉家の帰依を得て、越後の春日山城内に移された。
上杉家が会津米沢と移転するにつれ移され、米沢城の二ノ丸に在ったが、明治の1870年ここに移された。

大日如来が本尊で、上杉歴代藩主の位牌、謙信の帰依した泥足毘沙門天菅谷不動尊、そして謙信が第二回川中島合戦(1555年)の時、長野善光寺から持ち帰った仏像(如来像)・仏具(鎌倉時代の年号がある)を蔵している。
他に、幸寿丸、矢尾板三印、景勝への殉死者、池田成章などの墓が境内にある。

そして突き当たり、「上杉家御廟所」(地図Qパノラマ3枚ほぼ180度

ここも5年前、小野川温泉に行く直前まで米沢に居て、最後に来た所なんだわぁ(TOT)。。その前に見てた「林泉寺」(上杉家菩提寺)で、すっかり日が暮れちゃって、ここに来た時は真っ暗だったんで、この門構えだけ撮影して、あとは小野川に行ったなぁ。 *しみじみ*(2007年4月<春日山林泉寺>内

じゃあ、入ろうかと、駐車場に停めた車から出掛かった時、実家から電話が入り、「スゴイ台風が来てるけど、大丈夫?」と言われた(笑)。

「え(^^;)」。この時はこんな感じだった。
東北には親戚もいるので、台風の事にかこつけて、何か伝言とかしたいんだろうな、と思い、「今年はそこまで廻れそうにな〜い!」とか答えて、「今は米沢〜うん雨は大丈夫そう」とか言って、電話を切った。

「じゃ行こうか(^^)」と、車を出ようとしたら……今度は、旅館の部屋の鍵を持って来てる事に気付く(爆)。
慌てて電話して、「今いる所を見終わったら、そっちに行きます〜」と告げて、やっと車を出て、門を潜ったのである(笑)。

なぜ毎度、ここに来る時は、目の前まで来ながら、中に入れなくなるんだろう(^_^;)。。。

今日こそ入るぉ!\(>o<)/

と言っても、実は子供の頃には来た事あるらしい(^^ゞ。6歳の頃『天と地と』(1969年NHK大河)以来のファンだったから、墓前で大騒ぎしたのかも(笑)。
↑門の脇はこんな堀。小さい橋を渡る感じ。

門を潜ると、スグ左に拝観所(上杉家廟所・上杉家管理事務所)があって、初老の男性が受付して下さった(大人300円)。

震災の時の事を聞いたら、
「この米沢は、後で被災地の状況を聞いて比べれば、殆ど被害が無かった、と言っていいぐらい被害が小さかったです」
と、被災地に気を使った表現をされるので、御苦労もあったのでは……と思い、電力などの問題は大丈夫だったかという話になって、
「ここは新潟県から送電されたんです(^^)。だから大丈夫でした!」
と、なぜかニコニコ顔なのだ。

そこで、私も「あ!(^。^)σ」と気付き、「それは、謙信公のご縁でしょうね」と言ってみたら、
「そうなんです(^^)! 上杉家は新潟県から来ましたから。その誼です!」
とすこぶる嬉しそう(笑)。
「じゃきっと、地震からも謙信公が守って下さったんですね(≧▽≦)」と言ってみたら、
「そうです! 謙信公が守って下さいました!!」と満面の笑顔で仰った!!(笑)

今思えば、ちょうど祭りの期間だったわけで、観光客サービスも勿論あるだろうが(笑)、それでも謙信の遺徳を慕って、当たり前のように大勢の人が来るだろうに、常に新鮮で溌剌とした敬慕の念を持ち続けて、この墓所を守っておられるんだな〜と感動した(^O^)!

白石城(宮城県)でも、伊達氏と片倉氏が時代を越えて、今でも仲良しだと嬉しそうに述べておられる方がおられたし、白河小峰城(福島県)でも、やはり初老ぐらいの男性が案内して下さって、東北の城は、殿様は今は居ないけど、相変わらず良い家臣・領民に守られてるな〜と嬉しくなる事が多い(^^)。

さてさて、↑こんな深い森林の奥地に参道が導かれ、到達すると……↓

ズラー!と横一列に廟が連なっている。壮観!(パノラマ4枚180度以上)

門前の駐車場にあった、墓所配置図

字が小さいんで、書くと、向かって左から……
K斉定/(世子・顕孝)/I治憲(鷹山)/G宗房/E吉憲/C綱勝/M茂憲/A景勝

中央に……初代・謙信

そのさらに右に続いて……
B定勝/D綱憲/F宗憲/H重定/J治広

※ 上杉藩では、通常の藩なら「初代」にあたる景勝を「二代」と数えるため、その後に続く歴代藩主も、一代づつ代番が多い(^_^;)。これ、前も言った事あるね(笑)。→(2007年4月<米沢「上杉神社・松岬神社」「上杉博物館(伝国の社)」など>内A

まずは中央、謙信の廟から参拝(^∧^)。門が開かれ、さらに奥の壁に囲まれた廟所の前には墓石が置かれているのが見える。
ここが上杉家の歴代廟所となったのは、二代景勝の埋葬以後と思われる。

それまでこの地は、謙信の遺骸の「避難所」とされていたそうだ(゚.゚)。
では、謙信の遺体はどうなっていたかと言うと、謙信が死んだのは、まだ上杉家が越後にいた頃(1578年)だから、その居城であり、また謙信が死去した城でもある春日山城の「不識庵」に、遺骸に甲冑をつけ、甕の中に納めて埋葬された。
(ちなみに、この廟所でも、屋根の下にちゃんと「不識庵」と表札が書かれていたよ(^^))

(拡大)「上杉輝●公之関宮」とある→
(●は梵字のような……「虎」ではない)

その後、秀吉の命で会津に転封となった時も、関ヶ原敗戦を受けて米沢に移った時も、都度、謙信の遺骸は掘り出され、城内に祠(御堂)を建てて祀られたのである。(詳しくは、2007年4月<米沢「上杉神社・松岬神社」「上杉博物館(伝国の社)」など>内B

だから会津でも、こういう「避難所」的な所があったかもね(^^ゞ。

絶やされる事のない香華。特に焼香の煙が薫り続けている様子が、素晴らしかった(^∧^)。
謙信の廟所(中央奥)から振り返る。さっき通った門のある辺りまで素通し(#^.^#)→

その後の景勝はじめ、歴代藩主の遺体も、当初からここに納められたわけではないようだ(^^ゞ。
1623年に景勝が逝去すると、まずはこの「避難所」的な場所で火葬し、灰燼・冠服を葬り、廟を建てたが、納めたのは位牌のみで、遺骨は紀州の高野山に納めたそうだ。

これが8代宗房まで続き、9代重定の葬儀において、それを執り行った10代治憲(鷹山)が、細井平洲の薫陶を受け、親を火葬するのは儒教に反するとして、土葬に切り替え、以後、高野山納骨の記録もないので、ここに納められたのだろう。

一番左端まで来て、居並ぶ廟を撮影(パノラマ2枚)

江戸期の廟所は、1817年に古図によると、南の正面門を入ると、東西に参道があり、各々の廟所に向かって、各々参道が北行していたという。
参道には、家臣たちから奉納される石灯籠が並び(図面には800基確認でき、江戸末期には1500に増えたという)、また、廟の前に拝殿も作られ、威容を誇っていた。

ただ、2代から8代までは、社造りで、欅(ケヤキ)を用い、丸柱であったが、9代から12代までは、これも鷹山の考案により、宝形造りに変わり、材質も杉や桧に、柱も角柱に変わった所に、藩の財政事情によって簡素化した事がうかがい知れるそうだ(^_^;)。
(2007年4月<米沢「上杉神社・松岬神社」「上杉博物館(伝国の社)」など>E

元々上杉家は古来より質実剛健を家風としたため、どれも装飾は施されておらず、米沢では「御廟」「おたまや」と呼ばれ、市民にまで親しまれていたというから、わりと庶民的だね(^^ゞ。

←やや後方に奥まった廟「世子・顕孝」は、10代・鷹山(は右前の廟)の子。次期藩主とされながら、19歳で急死。これを契機に火葬から土葬に改められた。
↑5代・7代が入母屋造り、9代・11代が宝形造り↑

明治5年(1872)、四民の希望により、謙信と鷹山を合祀する「上杉神社」(米沢城址)が創建され(2007年4月<米沢「上杉神社・松岬神社」「上杉博物館(伝国の社)」など>、明治9年(1876)に、改めて謙信の遺骸が米沢城から、この上杉家廟所の今ある位置に移される事となり、廟所の形式も現在の形に改変された。

だから、さっきの謙信廟には、ちゃんと謙信が眠っているの(^^)。米沢のみんなを守ってるんだね(笑)。

ちなみに「上杉神社」は、その後、明治36年(1903)、上杉景勝、上杉鷹山、細井平洲(鷹山の師)、直江兼続、竹俣当綱、莅戸善政(二人とも鷹山と米沢藩の復興を志した功臣)の6柱を摂社として、「松岬神社」が創建され、その社殿も、大正元年(1912)に営まれた。(2007年4月<米沢「上杉神社・松岬神社」「上杉博物館(伝国の社)」など>C

一方こちら「上杉家廟所」は、戦中戦後にかけて社の巨木が伐採され、江戸期の面影は薄れたものの、江戸初期から後期までの歴代藩主の廟が、一つの場所に並置されるのは珍しく、近世大名家墓所の代表例とされ、昭和59年(1984)、全国の大名家墓所としては5番目に国指定史跡に登録された。

最近では1994年〜2008年にかけて、保存修理工事が施されている。

「(梵字)有縁無縁三界萬霊塔」
拝観所に戻る。北村一輝と常盤貴子の写真(^^ゞ

↑「萬霊塔」は意味は無くて(^_^;)、これが一番左端って事ね。
ただ、最近施された工事では、保存修理の他に、「環境整備」と「防炎施設」というのがあって、この辺りに「超水槽ポンプ室」が作られたようだから、この敷地は消火の時に必要なんだろうね。防炎は木造建築を保護する上で大事だよね。
「環境」というのも、もしかしてあの巨きく高い杉木立の森林を保全したのかな……。

つづいて右の写真は、大河「天地人」の時のだろう。
北村一輝は「上杉景勝」、常盤貴子は「お船(直江兼続夫人)」だったよね(^^ゞ。ここに参拝に来た時のツーショットだね。

小冊子を二冊ほど買ったので、この先を行く道々に話そう(^^ゞ。



<小野川温泉「弁天食堂」に行く(笑)>

↑旅館に鍵を返しに行く(^_^;)。「上杉家御廟所」(地図Q)から「五つの心の宿・高砂屋」(地図K)へ再び。
この旅行、出る直前まで気を揉まされたので、いざ出発すると、緊張が底を突いたかわりとポカが多かったかも(^_^;)。。

ただ、この後、喜多方方面に出る予定だったので、まるで違う方向でも無くて良かった(笑)。
それと、米沢を出る時はまだお昼を食べるには早い感じがしたから、小野川に着いた頃が丁度良かった☆ミ

山々が霧に煙る233号線
米沢からの南下ルート

上り下りの道なんか良いんだわぁ(#^.^#)

だいぶ小野川温泉の近くまで来た
上杉籍田味噌」の看板

向こうの山と田畑の景色を写そうとして、偶然写ったのが、この「上杉籍田味噌」の大きい看板なんだけど、これは多分、「籍田の礼」にちなんだ商品名じゃないかな……(^^ゞ。

「籍田の礼」は、上杉鷹山が米沢に国入りして3年経った頃、さっき話した、小野川温泉に塩焼き場を設けた初期の改革の頃(^^ゞ、豊穣を祈願して行なったと伝えられる、中国伝来の農業祭祀。

まず、上杉鷹山が3度、次に執政が9度、郷村次頭取と郡奉行が27度……と3の倍数づつ、代官や村長まで加わって、次々と土に鍬を入れる行事だ。

これは鷹山の師、細井平洲が、「耳で聞いた事は残らないが、目で見た事は忘れない」と、何事も藩主が自ら模範を示す事だと教えたので、鷹山が働く者を奨励する制度を軌道に乗せるため、自分が働く姿を見せた例の一つなんだね(^^)。
(2007年4月<米沢「上杉神社・松岬神社」「上杉博物館(伝国の社)」など>E

そろそろ小野川温泉に……
到着〜(^O^)!

「上杉籍田味噌」の看板の写真から後、デジカメのレンズに湿気が入って、小野川温泉まで、かなりモヤッた写真が続いたんで、随分コントラストを調整した(^^ゞ。
ずいぶん色が鮮やかな写真だけど、実際にはずっと曇り空よ(^_^;)。。

そして温泉街に入って、まずは鍵を返して(掃除中だったわ:笑)、お昼ご飯を食べる事とした。

さっき見た「旭屋旅館」の左の並び
(拡大)「弁天食堂」(^O^)!

米沢ラーメン(^O^)!(地図R
これも2006年の旅行で、最後の食事として載せた(笑)。
(2007年4月<小野川温泉>

シンプルな懐かしい味。
( ^,3^)ф´<ズズー!

ん。ごっつぉさん(^nn^)<フキフキ

ここで初めてテレビの台風情報を見た……と思うんだけど、海の方は強く警戒を呼び掛けていた気がするけど、この時点では、まだそれほど大騒ぎになってなかったと思う(^_^;)。

それより驚いたのは、亭主が「この店で前は方言の手拭か何かを見た」と言った事!
確かにその時の「たわごと」にそう書いてあるっ(≧▽≦)!(答は「のれん」。もう一回→2007年4月<小野川温泉>
凄い記憶力と言うか、書いた本人がすっかり忘れてるのがイカン気もする!(笑)



<小野川から喜多方へ>

さてさて、これよりさっきも言った通り、喜多方方面へ向かう。
道路地図が通常サイズ(13)だと出ないので、ちょっと大きめで、@地図S(サイズ15)←小野川温泉から北西方面に道行き、通常サイズ(13)に戻して、A地図T←米沢から西回りの121号線に出る。南下すると喜多方に到達する。

米沢・小野川とはこれでお別れ(;_;)/~ なのと、この先の移動期間がちょっとあるので、米沢上杉藩の話などしながら行きたい。

間道を抜けて121号線に出た辺りかなと(^^ゞ

上杉鷹山の話となると、その前段階の「貧する一方」となった理由を、必ず「謙信以来の家というプライドが邪魔して」「鷹山が改革に着手すると、旧家臣たちが家格を持ち出して抵抗」という話になる。
正直自分も、戦国期の頃はともかく、江戸期もだいぶ行くと、「昔日の威光にしがみつく」「頭カチンコチンの家来たち」というイメージが少なからずあった(スイマセン(^_^;))。

しかし家来たちが連名で申し入れをした内容とか読むと、彼らが疑心暗鬼になるもっともな背景が読み取れる。

まず、上杉家は断絶の危機に晒された事がある。詳しくはこれを読んでね(^^ゞ→(2007年4月<赤穂事件と上杉氏>
今のリンクにも書いた通り、上杉家の家来たちは、吉良上野介)義央の子で、4代藩主となった綱憲(母2代定勝の娘・三姫))ではなく、保科正之の子の「東市正」を4代藩主に望んでいた。

あ、今書いてる「●代」は、「マイナス1」ね(^^ゞ。
米沢では景勝を「2代」としてるから、さっきの廟所では、「B定勝」「D綱憲」になってるの(^_^;)。。でも一般的には、景勝を「初代」で数えるので、「A定勝」「C綱憲」なの(笑)。上杉氏系図

これが多分、長門屋さんが教えてくれた喜多方経由の道だね(^^ゞ

結局、保科正之じしんが筋目を言い出して、4代藩主は、吉良(上野介)義央の子・綱憲になっちゃったけど、どうも上杉家中は、「B綱勝」が吉良邸で接待を受けた直後に急死したので、吉良に毒殺されたと疑ってたようだし、吉良の贅沢癖にも困り果てた様子が伺えるので、家風・家格がどうこう言うのも、「貧乏人にタカられたくない」みたいな苦しい本音もあったのかもね(^_^;)。

その後、C綱憲−D吉憲−E宗憲と、順調に父から子へ継がれたけど、F宗房とG重定は、E宗憲の弟で、特にF宗房なども「毒殺された」と言われている(^_^;)。上杉氏系図

それは、G重定を藩主の座に据えるため、側近(元は小姓)だった森平右衛門の仕業と言われる。
森はG重定と家臣の取次を一手に引き受けて、自分の思い通りに藩政を動かし、私腹を肥やし、重定が逆らうと、毒殺を仄めかしたり、重定が若い養子を取ろうとすると、もっと幼い鷹山を養子に据えようとした。

結局、鷹山を養子にする事に決定したものの、森は鷹山の廃嫡を計画し、本当に重定を暗殺して、重定の落胤として自分の子を藩主にしようとした。

結局、後に鷹山を支えた家臣たちが密議の上、森を惨殺したのだが、その後、秋月家から養子に入った鷹山が藩政改革に着手すると、鷹山に深く信頼され重用されていた竹俣当綱などは、「第二の」と目されて、周囲から突き上げを食らっている。
この辺り、鷹山や竹俣当綱への抗議状とか読むと、実に真剣な訴状が多い(^^ゞ。

いい道路だったなぁ。走りやすそうで。又通りたい(#^.^#)

今の日本も、政権党が変わっても変化が無いとか、疑心暗鬼が蠢いて似た感じがあるが、実際事情もよく似てる(^_^;)。
上杉家は120万石から関ヶ原に負けて、30万石に落ち、さらに断絶の危機に晒された時、半分の15万石となってしまい、経済的な閉塞状態が続いていた。

それでも、藩士を減らそうとはしなかった。プライドや見栄もあろうが、反面、美談とも言えなくはない。今で言ったら、一人もリストラしなかったというのに等しい。

勿論その影で、農民は大変な苦しみを味わった。土地を放り出し、出て行く者が後を絶たなかったと言うから、何とかしなきゃならなかったには違いないし、G重定などは、幕府に藩を返上しようとまでした(^_^;)。。

貧乏と借金に苦しむ日々は、ただでさえ精神衛生上よくない。
その上、ヨソから藩主が来たり、その親族とか側近とか得体の知れない連中に、内部を引っ掻き回されたり、藩政を独占されれば、同じような事が又起きてるのではないかと、疑心暗鬼になるのも無理はない(^_^;)。。

それでも米沢藩は、莫大な借金を完済し、余剰の蓄えまで出来て、後の飢饉は余裕で乗り越えたんだから、上杉鷹山の名が轟くのは当然だが(^^ゞ、疑心を乗り越え、苦心を重ねて一致協力した家臣・領民もエライと思う。

細井平洲は鷹山の求めに応じて米沢に足を運び、身分の低い民人にまで講義を施した。
故に、細井平洲や上杉鷹山に対して、身分を越えた国の隅々にまで、感謝の念が広がったという。

平洲が来た時、お世話をするのに豪商(寺島)が自宅を旅館とした様子など書かれ、また米沢藩じゅうが、狭い敷地でもせっせといじって、何か役立つ植物を植えた話など、何か小野川温泉の宿の風情を思い出す(笑)。
(2007年4月<米沢「上杉神社・松岬神社」「上杉博物館(伝国の社)」など>E



次回は第三弾、2日目午後は、さらに喜多方方面を目指して「佐原義連の墓」「青山城跡」、喜多方よりさらに南下し、会津坂下方面を目指して、「新宮城跡」「熊野神社・長床」までは確実……もう一個「陣ヶ峯城跡」辺りまで行けたらー!

以上、関連事項は(大まかね(^^ゞ)、
2007年2月<会津藩主松平家墓所>内
2007年3月<鶴ヶ城、2(続き)><天寧寺><大龍寺>
2007年4月全文
2007年5月<会津〜米沢のお土産(^。^)>内
2009年1月<恵日寺>〜<金堂>
2011年7月<神指城跡>


<つづく>

2012年02月22日
 
     






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