<2002年・城主のたわごと8月>




愛しい信州は遠のき、後は課題が残るのみ(汗)。

課題それは……これまた前から引きずってる房総ルート開拓。




     
  信州旅行でお金も使っちゃったし、あとは(例によって)旅行の余韻を懐かしむしか手段の無い私にとって唯一の慰めは、「車があれば思いつきで旅行(に近い)気分が味わえる(ハズ)」だった。

亭主に「松戸には城跡が無い」と思われているのも、松戸出身(でもないけど、そこに実家がある以上とりあえず)の私にとっても悔しい。(特に彼が城跡マニアなワケでは決して無いのだが)

亭主には北小金にある大谷口城跡は見せた事がある。そこは北条氏と同盟関係にあった高城一族の城があり、町名には城跡を思わせる名も残っているが、実際城の遺構が残っているのは本丸のほんの一隅であり、公園の奥地の畝掘り以外は、僅かな土塁が残されているのみである。近所の町民ですら「余った土地にでも作った公園だろう」ぐらいにしか思われてない気がする。

これと大して違わないと言えばそれまでだが、私はここに住み始めた時に目ざとく見付けて行ってみた城跡がもう1箇所ある。ここには実は両親と行った。父に「カタクリの花を見に行こう」と誘われたからである。

花は田園の広がる田舎風の道の斜面に咲いていた。私は「ふむふむ」と眺めるや、引き返そうとする父の背にすかさず「この辺りに城跡がある」と主張。
父は「そんな話は聞いた事がない」とすぐ反論。しかし「あるある!」とウルサク騒いで車を走らせ、ようやく到着した所、父にやっと「何十年も住んでたのに知らなかった」と唸らせる事に成功したのである。

亭主だけがそこを知らない。これは気の毒な気もした。それでとある日曜日、亭主をせかして連れていった。



<増尾城跡(柏市)>

増尾城跡という。公園になっている。案内板によると、
「相馬氏の居城と伝承される。平将門の子将国は信田(しのだ)小次郎と称し、以後八代にわたり信田に居たらしい。次の師国になって頼朝に仕え、下総国相馬郡を所領とし、後代々相馬氏を称し、子孫は現在に至っている。千葉常胤の次男師常は師国の養子となり、相馬小次郎と称し、元久二年(1025)卒し、長子義胤後を継ぎ相馬五郎と称し、次子常家・矢木六郎、三子行常・戸張八郎と、各々在地名を称した。このようにして、柏市及び其の周辺では、相馬氏の直系・支流が蟠居し、それぞれ大小の城館を造営した。ここ増尾城はそれらの本城で、正嘉(1257)の頃、相馬胤村が居城したと伝えられるが定かではない。その子師胤は文永九年(1272)奥州行方郡を領し、元弘三年(1333)子重胤封を継ぎ、岩城中村に城館を造っているので、宗家は既に下総国を去っていて、後奥州相馬郡になった。相馬宗家が下総相馬郡には氏の守本尊として妙見様を祀ったことを踏まえて、この城址をみると、中世の少なくとも関東平野の他の鎌倉時代の土城と型式を同じくしていること、妙見社が存在することから、相馬氏の城館であったことはたしかである。城は、戦いの方法型式、戦略、地形、武将の人物等が要素となって築かれるので、決定的には言い切れないが、戦闘の時だけ使用する古代の城=山砦と、鉄砲伝来後の庶民経済力と武力が総合された近世城郭と、その中間の中世のものと三つに大別される。山=高地のもつ要素の価値は近代戦にまで受け継がれるが、中世のものは丘陵=凹出台地の凹出部は前後二段に土塁、堀で区画し、三方は懸崖と水を巡らし、後方は庶民と交渉できる形で、いわば戦いが弓矢の槍の力だけでなく、次第に民力を借りなければならなくなって来たことを表している。これが後の大阪城とか江戸城の平地城へと展開する。この城址の現状は、後郭の西側中頃から前方へかけて、外縁が崩されているが、後郭の基底中央から直角に前郭の先端へ直線を引き、これを中心線として、東側を折り返して欠損を補えば原形が求められる。東北約3kmの戸張城址とは近似形である。
昭和57年 柏市 柏市教育委員会」

後半の城郭説明になると、ほとんど意味不明の感も無いではないが(爆)、まあ何しろ、相馬氏発祥の地として歩いてみると、それはそれで何となく感慨深い。

「松戸(実際には柏市だが)にも城跡はある」と、得意な気分になってる私を乗せて帰り道を急いだ亭主が、この時何を考えていたのかはわからない。
が、この後11月23〜25の三連休になると、いきなり「富浦か館山に行ってみようか」と言い出す(笑)。

彼の頭の中には地元の史跡だとか城跡だとかいうのとは全く別に、「たわごと2001年6月・7月」辺りに書いた通り、「いつか富浦に行かなくては」という"宿題"のみがド〜ンと置かれているのは確かなようだ。どこか彼も「千葉県からも何か出し物が無くてはマズイのでは……」という焦り(笑)が続行されているのかもしれない。

と言う事は……、これから赴く場所には、これまでに行った大多喜城よりも……少なくても「松戸にある(爆)大谷口城とか増尾城以上」の"何か"が無くてはならないのである。

責任重大である。しかも突然言われても何処に行けばそんな所に出会えるのか、全く準備も追い付かない。

だいたい「行こうか」と言われたのが三連休の中日(なかび)、しかも昼ごろになってからである。
「この時間から出ても……(^_^;)」。まずはコレが最大の心配事である。千葉県とは北は埼玉から南は神奈川まで入るほどの縦長県である。

しかし休みであろうが無かろうが、仕事があったり、無くても前日の真夜中、終電がすっかり終わってから帰って来るような亭主を持つ限り、昼頃まで寝て、午後から出発するような休日の過ごし方ってのは今後もありそうでもある。

そこでだいたい「スゴイかどうかはおいといて、行けそうでありつつ、しかも前から行きたかった城跡」あたりに私は焦点を合わせる事となる。後は野となれ山となれ(爆)。

富浦とか館山とかいう土地になると、遠すぎて宿泊せずに行ける自信が無い。しかし信州で金を使い果たした我々に宿泊の余裕があるはずもない。
そうなると無難なのは……久留里城あたりかな。

上記の如くアタリをつけた私は、以後、問答無用で車を久留里に誘導した。



<久留里城>

前に大多喜城に行った時と同じコース(は、「たわごと2001年12月」下段辺りをご覧下され)、木更津北インターで下り、国道409号線に入る。以前は間違って来た道であるが、今度は間違った通りに進む。
案外スンナリと久留里城に到着(笑)。

「あらら(^_^;)、ホントに来ちゃった」
意外と楽勝(笑)。

ちなみにこの城が何かと言うと、私の知る限り、戦国期、武田信長という武将が割拠した地域であるらしい、ぐらいの事である。

武田信長……テストで答案に書いたら教師に笑われそうな名前だが、この人物は実在である(念のため:笑)。甲州の武田家から信玄にいたる六代前の信満の子の代から分派した流れである。

しかし駐車場から城跡(実はココには天守も立っている。昭和52年(1977)着工の復元だが)に向かう道がかなりの坂であった(汗)。
日頃の運動不足が祟って、閉館まで時間も無いのに、ゼェゼェ行って足が進まない。

亭主は先に資料館に到着し、よく電車に先に間に合った人が後から来る仲間のためにやる、ドアに足を引っ掛けて電車を停める(犯罪)行為に近い事をやらかす。

「スイマセン。後一人来ますので、それまでやってて下さい」
↑コレである(笑)。

資料館の人はえらく親切な人で、ニコニコと待ってくれてただけでなく、追いついて来た私に「無料ですからどうぞお入り下さい」と優しく声をかけてくれたのである!

カンドー。
……しかし体力を使い果たした私からは笑顔一つ出て来ない。
ばかりか、何とか息を整えて中に入ったものの、最初の展示物は何となく意識が朦朧としてあまりちゃんと見れてなかったような気もする(爆)。

展示される最初のコーナーには「黒田」という名の藩主らしき人の油絵が飾ってあった。恐らく廃藩されるまで存続したこの城の持主なのだろう。

次に「久留里」の地名の由来など書かれている。
ナニナニ……ん? 将門の三男? 誰それ。何しろそうした人が……? ナニ? 妙見菩薩の神託によって? は? 夢のお告げで名付けた地名?

?????

何となく初めて聞いた感じのする謂れに思える。
この時点で私は間違いなくハマッていた感じも今はする(爆)。

二階の展示場にはこの地域に伝わる祭りの、神輿やら太鼓やらが展示してある。
太鼓は叩いて良い、とある。
子供がポンポコ叩いて遊んでいる。
マネをしてドンドコ叩いてみる。

さらに武具甲冑の類、殿様の使っていた江戸期の器類や衣類。
うむ……この黒田藩って、なかなかの家だったのではなかろうか。

こんな風に思った私は、集中しきれなかった分だけ、返って未練も残り、しかしそうは言っても閉館間際であるから、ましてや親切な人が仕切ってる場所と思えばますますこれ以上粘るのも悪い気がして(人のモラルとはそうしたものだろう)、一階に戻ると、既に閉まっている売店コーナーで「スイマセン、この本欲しいんですけど」なんて、どこが「悪い気がした」人の言うことだろうと思える図々しさに及んだ。

久留里城資料館、繰り返すが親切である。売り物の上に被せたカバーをどけ、見付からなかったので、さらに奥に入って頼んだ本を取ってきてくれた。

1000円。安い。買う。

あとは閉館に関係なく城跡など見れば良い(^^)。まず資料館の側近くから順々に見るが、そろそろ日が暮れているので、立て看板などが見づらい。
その上……残念な事に、この辺りの歴史に疎いと、パッとは頭に入りにくいいろんな豪族の名など書かれてある。
「せっかく本を買った事だし、後で読もっ♪」
こう気を取り直すと、後はジャンジャン天守に上る。

資料館から天守に続く道がなかなか風情がある。ちょっとした庭園のような石組みの沿道に小さな灯りが点々と灯され、また足場は決して悪くもない。

やがて……天守が見えて来た!
「おおっ(・・;)! ライトアップされてる!」
これにはマジで驚いた。
「大多喜城よりスゴイ!」
と主人も思わず誉める(笑)。

ここで写真を撮った覚えがあるのだが、どういうわけか家じゅう探しても見付からない!(このために一日アップを遅らせただけって気もする:汗)



さてさて、ドップリ日も暮れてしまった事だし、後は帰るだけだのぅ。
いつもなら「もう帰るの〜」とグズり始める私だが、この日は思ってたより良い(しかも手軽に)お城を見られたので満足し、イソイソと車に乗り込んだりしたのだが、車を運転しはじめた亭主が思わぬ反応を示す。

「ここに来る途中で養老渓谷って標識があったんだよね」

それは……ナビ係の私は地図を見る事、亭主の目の行き届かない周囲の看板やら標識やらを見る事が勤めであるからして、しかも見てすぐに「何々だ」などと言おうものなら、運転の気が散ると言われるもので、だいたい通り過ぎてから運転の余裕のありそうな時を見計らって「さっき何々があったよ」と言う始末となるのだが、亭主はこの時、私のこういった一言について発言している。

「確かあったよ」答える私。
「行ってみようか」言い出す亭主。

そこは、まだ若かった二人が(笑)行った事のある観光地であった。そう。大多喜城に行ったのと同じ頃であった。亭主は時折この時の事を懐かしがる。

夜も更け、行ってみた所で何かが見られるとも思えなかったが、車は養老渓谷に向かって滑り出していた!

<つづく>

2002年08月21日
 
     




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