<2002年・城主のたわごと3月>



さてさて今回も信濃旅行記の続き。

各地に宿題を残しつつ、城主は(その場の勢いで)なおも暴走中!




     
  信州房総旅行編のつづき。


<まずは松代荘>

さてさて! 信州の旅も2日目を迎えると、そろそろエンジンがかかってくるのは前回と同じであるっ!(爆)

朝起きた時から幸福は始まる。
まず朝風呂(#^.^#)。夜に冷え切った体をもう一度温め直す。

そして朝ご飯。ナント豪勢にもバイキングである! 和食洋食お好きなコースを……と薦められ、「では(^^)」と進み出た我々は、納豆とパン、佃煮とコーヒー、筑前煮とオレンジジュースという、異常な取り合わせをどんどん皿に盛って行く。

食う。
なぜか旅行の朝に限って、食欲旺盛が絶好調なのは、今回に始まった事ではない。

さて、部屋で荷物の整理などしていると、支配人が挨拶に来られた。
「今日はこれからお祭りなんで、私もあちこち出掛けねばならないんですよ〜。でもどうぞ楽しんで行って下さいね」
おお(#^.^#)、何やら嬉しそうなご様子。そうそう、今日はこれより年に一度の松代の祭りの日がスタートするのである。

しかし本日の所は町内のイベントで、メインは翌日の「真田家大名行列まつり」←コレである。これがため、松代じゅうの宿は満員状態。我々は長野に移動せねばならないほどである。

「今日の所は、ちょっとその辺りの“懐かしいシリーズ”でも廻ろうか」
主人は早速、初めて買った車を松代で乗り回してみたがっている(笑)。

荷物を調え、ロビーにやって来ると、今度は宿の探検ごっこなんかが始まる。

以前、ここの宿泊施設には各部屋にぶっとびの部屋名がついていたものだが、改装以来それはやめたようで、今では全てが部屋番号で統一されている。

ちなみに今は無き「ぶっとびの部屋名」とは……。

「朝霧」「せせらぎ」「松風」。
ふむふむ(゚.゚)。旅情を誘う美しい名付けである。

大部屋「清滝」「尼飾」「皆神」。
おおっ、それぞれ地名である。清滝には山頂に観音堂があり、尼飾も皆神も山の名である。なかなかに現地ならではの部屋名、よきかなよきかな(^^)。

以下、家族単位で泊まれる小部屋「狗ヶ瀬」「候可(そろべく)」「妻女」「千曲」「海津」。
これまた地名(^^)。妻女は謙信が布陣したと伝えられる山、千曲は千曲川、海津は武田軍が布陣し、かつ高坂弾正が守った砦をひきつぎ、以後真田家が入って江戸期は松代城となった。さてさて……。

「きつつき」。
ん(゚.゚)? この辺りに多い鳥?

「鶴翼」「車懸」「魚麟」。
え……(・・;)。。

「鞭声」「暁」「千兵」「大牙」「一剣「流星」「光底」。
はぁ(*O*)?!

なんちゅうのが、以前はあり、どの部屋が当たるかが毎回楽しみだったりしたものだ(笑)。
ちょいと補足すると、これらは全て、川中島合戦に関係する名である。

「きつつき」は高坂弾正だったり山本勘介だったりの武田家家臣たちが、上杉軍を戦場におびき寄せるために信玄に薦めたと言われる作戦名。鶴翼、車懸、魚麟は布陣の陣容。

その後については、頼山陽の以下の漢詩を書いておけば良いだろう(笑)。

「鞭声」粛々夜渡河
「暁」見「千兵」擁「大牙」
遺恨十年磨「一剣」
「流星」「光底」逸長蛇
(鞭声粛々夜河を渡る、暁に見る千兵の大牙を擁するを、遺恨なり十年一剣を磨く、流星光底、長蛇を逸す)

改装の前、私は現地の職員に「部屋名を書いてある各表札を下さい」なんておねだりしたものだったが、そういやアレはどうなったんだろ。残念ながら今回は宿の皆々祭りの準備で忙しく、話してる暇もなかったが……。



<お次は松代毎度懐かしのコース>


宿を出ると、主人は一目散に皆神山に車を走らせる。ココは彼のお気に入りの場所である。
「え〜と、地図によると、まず……」
と私がナビを努めようとしているにも関わらず、主人のハンドルさばきは妙にスイスイと軽く、「今どこ走ってるんだろ」とヤバくなりはじめた私などお構いナシにどんどん山道に分け入って行く(笑)。

山頂でもこの時期だから祭りを催しているものと見えて、参拝客らしき車が狭い山道で上り下りで行き交いあい、急な坂をバックさせられたりわりと大変だったが、何とか無事に到着。急場にしつらえられた駐車場に停車させると、あとは徒歩で神社参拝。

ナント、神前相撲が行われていた(゚.゚)。ここは合祀された各社が多いから、山のあちこちを参拝して廻るのだが、どこに行っても相撲への歓声が聞こえて来て、日頃侘しい山の佇まいにも賑わいが感じられるのは珍しい。

ここを下りて行ってみた明徳寺が、意外と皆神山に近かった。高坂弾正の墓があるので、ファンには近年、それなり有名な場所となった感がある。とは申せ、我々が明徳寺を初めて訪れたのは、かれこれ15年近く前で(^_^;)、その頃からこの高坂弾正の墓は霊験があると言われていたものである。

この寺は町の中心部からは遠いため、前に来た時は松代バスターミナルの周辺からタクシーで行ったものだが、やっぱり車は便利である。スイスイと到着して今度はお寺参拝。

その後は、松代を囲むように配置された周囲の山の麓を順番に周り、途中信濃三十三観音巡りの一つ、虫謳観音堂にも上って、「前は雪道を大変な思いをしながら歩いたものだよね〜」なんてしみじみ言いあって、一しきり喜んでみる。




<そろそろ本番、出浦氏を訪ねて>

さてお昼時、これまた毎度行くのが楽しみな、定食屋丸新で食事(^^)。あっと言う間に午前中終了。
「そろそろ本腰を上げないと」とばかり、予定の行動にようやく乗り出す。

予定の行動とは……。

今回、今までも何回も来ている松代に又してもやってきた最大の理由は、去年の「たわごと」を読まれた方や、時折掲示板に来られる方、あるいはここの「戦国武将一覧」の欄外に時折議事録を晒している「村上義清の子孫の謎」をご存知の方なら、うっすらとぐらいは想像がつくかもしれない。

「出浦氏の墓参り」←コレである。実はこれこそが、今回、私の最大の目的であった。

これが松代町内、竜泉寺という寺にあると伝え聞いた。情報を寄せて下さった方によると、寺でも未だ不案内な状態との事なので、何しろイキナリでもある事だし、おそるおそる寺の玄関にブザーなど押してみる。

出て来られたのは、住職さまご妻女。予想通り、
「判らないんですよ」との回答だった。何でもこの寺は何度も火災に遭い、そのたびに墓石など破損したり無くなったりを繰り返したとの事。さらに住職一家は近年来たばかりとの事だった。

しかし千葉から来たと聞いて気の毒がって下さり、「何か判ったら連絡します」と私達の住所を預かってくれ、「今は祭りの最中だし、何か知っている方が真田宝物館に来ておられるかもしれないから、ぜひ行ってみなさい」と薦めてくれた。

それで、閉館時間ギリギリになったが、街中中心部をやや駅に近い真田宝物館に行ってみる。

受付で「すいません。実は真田家に仕えていたという出浦氏の事をちょっと調べているんですが、代々の墓があると聞いた竜泉寺に行った所、こちらに聞いた方が良いと薦められたものですから……」とダメモト覚悟で聞いてはみた。

ところが意外にも、「そのことなら……」と、中から学術員さんが出て来られた。

坂城でもこれをやって、そして要領を得ないまま帰ったものだから、私も若干用心深くなり、もう一度同じセリフから切り出す。

「真田家に出浦という名の家臣がいたようでして」

「はいはい。居たようです」と学術員さん。
ふむふむ、これは好反応である(゚.゚)。

しかし実はこれ、去年坂城に行って以来、ほうぼうから寄せて頂いた情報を元に発言している。何と言っても滅んでしまった村上氏関連を模索するより、江戸期も継続された松代真田家の方が情報が充実しているのは、当然と言えば当然の事である。

松代真田家には、出浦氏から出た人物が戦国期から仕え、どうもその系譜は忍者的な活躍をした家系でもあるようで、これは手持ちの本でも確認済みである。しかもこれは坂城の村上氏とは関連があったハズでもある。

ただし、この出浦と、坂城で見付けた供養塔に名を出す「出浦」が直接繋がっているかどうかは判らない。先祖には繋がりがあったろうが、同じ苗字が地元に多いのはよくある事だから、直接の繋がりを求めてしまうと期待はずれに終わる可能性も強い。

そこで、そろそろと、
「坂城に村上義清のものと思われる供養塔が立っていたのですが、これの建立に関わったのが、かつて一族だかの関係にあった出浦氏との事で……」
なんて切り出しみる。

すると学術員さん、これにもすぐに反応。
「はいはい、松代の出浦氏と関係があったようです(^^)」

「ホントですか!(゚.゚)」
これには正直、驚いてしまった。

「はい(^^)。私も特にそれについて調べていた、というワケではないのですが、たまたま私の知り合いが調べておりました。まずは松代の出浦氏に関わる資料を幾つかお見せしましょうか」

と、何ともラッキーな落とし所にハマッたのであった(笑)。

学術員さん、そのまま私と主人を資料室に通してくれ、次々と資料を繰り出す。目を見張ってそれらを読もうとする私に、
「コピーを取りましょう(^^)」
と、にこやかに先回り。何ともよく出来た話になってきたではないかっ!(爆)

しかしやはり松代の資料館だから、このようにしてすぐに整う情報は、やはり松代真田家の出浦氏のものばかりである。とりあえずここでも私は図々しく、自分の連絡先なんかを書いて渡してみたりするわけだ(笑)。

出浦氏については後日また書こうか(笑)。何しろ私は意外と大目に頂いてしまった資料を確保するや、すぐに話題は、

「あの〜、出浦氏とは全然関係なくて実に恐縮ですが」
と気も大きくなり、図々しくも始めてしまう(笑)。
「この辺りにある城跡で、霞城ってのがあるやに聞きまして、これをどうしても見ておきたいんですが、詳しい場所がわかりません」

全くもって図々しい限りであるが、これまた学術員さんが近くの職員さんを呼び止めて聞き出してくれたりなんかして、スイスイと居所を確認。

ちなみに霞城とは、松代からはやや外れた地域にあたる大室古墳跡にその痕跡をとどめる、中世期の城跡である。城の持主などについてはあまりよく判っていないが、古墳跡にそのまま城を築く例は、そんなに多くもないので、前から興味しんしんの場所だったのである。

かくして以後、信濃の城廻を(こんな時間から)スタートさせた我々であった。

<つづく>

2002年03月05日
 
     







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