■高坂弾正忠昌信■

石和の豪農・春日大隈の子。源助、源五郎。のち虎綱。
16歳で信玄の奥近習になり、信玄の誓詞文から、寵童だったとも言われている。

天文21年(1552)、騎馬100騎の侍隊将ののち、春日弾正忠と改称して150騎持ちの重臣に昇格。
信州・小諸城代として佐久地方を担当した後は、海津城将として北越を監視。信玄に、敵情報告、合戦時期の進言し、先陣では先鋒として確実な戦果をあげ、越後上杉攻略後も北信濃方面の経営に努めた。

やがて武田の四名臣として、作戦用兵の軍団随一と謳われ、特にその思慮遠謀が知られる逸話として、三方ヶ原の合戦があげられる。
大勝利に乗じた武田軍が、浜松城に逃げ込んだ家康を一気に揉み潰そうしたのを、昌信だけが、徳川と同盟を結ぶ上杉に背後を突かれ、北条の動きを誘う恐れを唱えて、深入りを避けるよう進言し、信玄の了承を得た。

永禄4年(1561)、信州の高坂(香坂)の名称を継ぎ、晩年は春日に復す。
天正3年(1575)、長篠合戦で、1万の大軍を擁して信州に滞陣し、武田が敗れて帰国中、八千の兵と武具や衣服を用意して途中に出迎え、国内への勝頼の威信を保った。

武田滅亡前の天正6年(1578)5月7日、52歳で病没。
昌信の著と伝わる『甲陽軍鑑』には、「戦国三弾正」として、保科の槍弾正、真田の攻め弾正、高坂の逃げ弾正と描かれるとともに、甲州流、武田流とよばれる軍学理論、兵制、軍団編成、機構、兵器の解説、訴訟公事、その他の逸話も綴られ、江戸時代、武家の軍事教科書として広く愛読された。
 
     

     
  ■松本山大蔵経寺■

 当山は、養老年間行基菩薩の創建になると伝えられ、青獅山松本寺と称した。
 応永三年(1370)甲斐国守護武田信成が伽藍を修造し、足利義満の庶子観道上人を講じて中興開山とし、真言宗に改め、その後松本山大蔵経寺と改称した。
 天正年間以降徳川氏の祈願所となり、明治維新まで甲府城代をして毎月17日に武運の祈願を行わしめたといわれる。
 新義真言宗檀林七ヶ寺の一つである。
 伽藍は元禄年間(1690年代)及び文化年間(1810年前後)に焼失、今日の建造物は天保(1830年前後)から安政年間(1850年代)にかけて再建されたものである。
 旧寺領 29石5斗9升(御朱印)
 境内地 1737坪
 山林 10町と17町
 寺宝
 一、 伝霊彩筆 絹本着色仏涅槃図一幅(国重要文化財)
 一、 唐本大般若経全巻(甲斐守柳沢吉里寄進)
 一、 本尊不動明王(腹籠り−胎内仏)
 境内墓地には、明治初年税制改正に、反対の大小切騒動の際、責任者になって斬罪に処せられた義民名主島田富重郎の墓がある。



■物部神社・御由緒■

物部十社明神といい、物部氏の御先祖である饒速日命その子可美真手命より十神をお祀りする神社です。饒速日命は神武天皇が大和国平定の折勲功を立てそれ以来代々朝廷にお仕えし垂仁天皇の御代に物部(朝廷を警護し武事を掌りし部族の総称)の姓を賜り、大連(朝廷の政務を補佐し国務大臣に相当する職)として国政に参与し、一家一門はこの地を中心に繁栄し隆昌をきわめた。又、物部神社は延喜式神名帳、三代実録等の古典に記録されており、それによると清和天皇の貞観5年6月8日に甲斐国従五位下勲十二等。同8年3月28日正五位下。同年閏3月18日従四位下。同18年7月12日従四位上を更に陽成天皇の元慶3年2月8日正四位上、物部神従三位の位と田34町歩を賜る。
往古は山梨の郷御室山に鎮座したが後世此の地に遷し祀る。現在御室山に旧蹟があり古今集にも「神垣の御室の山の榊葉は神の御前に茂り合いけり」と詠じてある。又、醍醐天皇が延喜の制度を施行された折、一の宮として国幣に預り本国屈指の名社のみならず此の地方の鎮守神として古来より上、下の信仰厚く文化発展の中心となり、古代の石器土器類が発掘された後世、徳川家より黒印2石4斗5升を賜る。旧社殿は明治22年2月12日夜拝殿より出火焼失。真言宗大蔵寺は当社の宮寺であった。 御本殿は「流造桧皮葺」拝殿「入母屋瓦葺」である。

奉納の和歌
甲斐がねに咲にけらしな足引の山梨岡の山なしの花 能因法師
足引の山梨岡に行く水のたたすぞ君を恋わたるべき 従古今和歌集詠み人知らず
外よりも光久しくさやけきは月のかかるる山梨の岡 従古今和歌集詠み人知らず
世の中をうしと言ひてもいつくにか身をはかくさん山梨の岡 従古今和歌集詠み人知らず
物部の神のみいつぞいや高く栄え行くなり松本の里 賀茂住人