<掲示板・議事録>

「城主のたわごと」2012-03(山形〜福島〜栃木編3)、1

     
  <こたつ城主 2012/03/23(Fri) 20:21>

題名:「城主のたわごと」2012年3月

↑更新しました。宜しくお願いします(^o^)〜♪

※ 過去更新状況
02/23「城主のたわごと」2012年2月
他、「今週のご挨拶とお知らせ」「議事録」など〜詳しくは「更新歴」を



<林六郎光明さま 2012/03/25(Sun) 19:10>

2012年2月のたわごと拝見しました。
上杉家御廟所、綺麗に整備されてるんですね、吃驚しました。さすがに金をとるだけあるなあ…って感じです。
金沢の前田家墓所なんかは石の柵と土饅頭があるぐらいで、最近になって墓域の周囲を発掘調査した程度ですから、全然違います。ちょっとうらやましい(笑)

それから2007年4月のたわごとへジャンプ。
上杉博物館にある洛中洛外図屏風!
数ある洛中洛外図屏風の中でも屈指の上杉本ですね。
京都の国立博物館に来た時に見に行ったのですが、あまりの人出の多さに早々に退却してしまって、以来、ずっと憧れの屏風です。
私だったら単眼鏡覗きながら半日居つきそうです(笑)

そして2012年3月のたわごとへ。
新宮熊野神社宝物館の文殊菩薩騎獅像、是非見てみたいです!
像立時期も興味深いですけれど、すごい迫力がありそうで、東北は関西とは違う仏像がいっぱいありますね。



<こたつ城主 2012/03/26(Mon) 17:38>

>林六郎光明さま

「城主のたわごと」ありがとうございます〜。

先月たわごとの「上杉家御廟所」は、あの整然とした並びに加え、朝の雨の中で行ったから尚更、すこぶる爽やかに洗練された印象でした(^^)。
歴代藩主の墓所は近年では、仙台伊達、白石片倉、米沢上杉、会津松平、松代や真田など行きましたが、国や県の指定評価の決め手みたいのがあって、上杉家のはまとまった一箇所に並ぶ点など特にって感じです(^^ゞ。整備もしやすいでしょうし、拝観料金も、あちこちに点在する墓所より取りやすいかな〜と(笑)。

2007年4月のも読んで下さってm(__)m。
洛中洛外図屏風は、確か体感アニメコーナーみたいのもあって、入ると四面の壁に、図屏風にある各々の街角の絵が、動画で出没して、街のさんざめく音や声も入って、なかなか凝ってました。

そして「城主のたわごと3月」早速ありがとうございます(^O^)!
新宮熊野神社のは、レポにも書いた通り、自分は仏像類への興味が薄いんで、入ってもスグ出ると思ってた(やっぱ金取られると入らなかった(^_^;)ゞ)のですが、入って自分ながら意外でした!
「あれ? 自分って意外と仏像見るの好き? それともこの頃あまり見てないせい? こういうのが年取ったって事?」
とか思いながら、ただ見入って時間も経って、途中で亭主が出ちゃっても自分は出ない!と思ってたら、亭主も二度見を始めちゃったりして、出てからああいう感想(見た事無い物ばかり!)でした(笑)。
やっぱスゴイ変わってると思います(^^ゞ。日本の仏像ってこうだっけ?と。
時代については藤原時代とか、藤原以前と推定されてる物もあったような……。鎌倉時代になってから集めた物かもしれませんし、鎌倉仏教芸術が奈良回帰的という点もあるでしょうか。



<畠山義綱さま 2012/03/31(Sat) 07:57>

>こたつ城主様
たわごと読みました〜!
前にも話したかもしれませんが、福島県は中世の史跡や展示が少ないと思います。その中で、蘆名諸族の史跡はちらほらとあるんだな〜って思いました。
 会津もやはり松平容保など会津藩関係が多いです。私佐幕派なので好きなのでそれはそれでいいのですが(笑)蘆名関係の展示や研究ももっと進んでいるとイイナって思います。
 佐原氏の墓なんてのも保存されているんですね。このような一帯を見ると地元の方から大切にされているのがよくわかりますね。村上義清もこんな風に墓が残っていたんですが、戦国マニア好きとしては結構うれしいです!!


 米沢藩の祖が上杉謙信…というのは私も違和感がありました。「御館の乱」をきっかけに謙信以来の正当性をアピールするため…というはそうだな〜って思います。江戸時代は血族というのを重視しましたし、謙信由来にすれば、徳川家康と同世代になり歴史や伝統を語れますし。ある意味ではそんな感じで幕府に対抗しようとしたのかもしれません。上杉治憲(鷹山)が入嗣した時も、「謙信以来の伝統が崩れる…」などと重臣が嘆いていたので、戦国時代から続いていることが誇りだったのかもしれませんね。

青山城跡、会津新宮城跡と石碑がありますね。福島はせっかくたくさんの城郭があるんで、発掘調査や復元CGの内容を展示する資料館があるといいのですが…。どこの県もそうですが、なかなか中世の史跡や展示に力を入れてくれる自治体がないのが残念です(一乗谷は中世のオンパレードですが!)



<こたつ城主 2012/04/02(Mon) 13:54>

>畠山義綱さま

「城主のたわごと3月」ありがとうございました(^O^)!
いつも土日はレス出来なくてスイマセ〜ン!(^∧^)
はいはい、前にお聞きしました(^^)。東北は旅行ガイド書籍類でも取り扱いが少なく、他は県や市、町単位ですら一冊出るのが、「東北」で一冊だったりしますよね(^_^;)。

そんな中では福島県は会津を中心に、有名な観光地が多い方と思いますが、歴史関連だと、白虎隊(戊辰戦争)がらみの観光案内が多く、「今後の展開に期待」といった向きがストレートに書かれてる文章も見た事もあります(^_^;)。
今回ちょっと書きましたが、歴史として追い掛けると、福島県の南半分ほどが自由民権運動の話がずいぶん出て来る一方で、今回わりと地元の方と話す機会が多かったんですが、わりと古代……それもかなり古く、徳一の名を出す人が多い気がしました。
いずれの観点からも中世は、大きく意識されてないな〜と思いました(笑)。

私も芦名氏(及び芦名諸族)に関しては、もうちょっと整備する必要は正直感じます。
ただ、どうも、ウッスラ感じる限り、芦名は凄く評判がいいという感じではないですね(^^ゞ。
圧政を行ったような話も散見しますが、後から来た蒲生氏による近江の木地師、上杉は越後や北信濃、保科も南信濃から、各々多くの領民ごと連れて来てる事も原因でしょうか。
もっと物理的(経済的と言うか)な理由で……芦名氏の城跡(恐らく戦国期の)になると、道も無い山奥で人が入らないような事が書いてあり(^_^;)、史跡保存的にも難しい所があるのかな……と思ったりしました。

私自身、芦名や佐原が元を辿れば三浦氏というのは知ってましたが、今回、城跡に行くまで、「新宮氏」と書かれる氏族を、三浦一族とは認識しておりませんでした(^_^;)。
さらに佐原義連の墓は……そうそう! 村上義清の墓! こたつもちょうど同じ事を思いました(゚.゚)。それ書こうかと思ったんですが、江戸期に地域領主の命令で石碑とか慰霊塔とか建てられるのって、全国的に多いのかな〜とも思って躊躇してしまい(笑)。

>謙信由来にすれば、徳川家康と同世代になり
なるほど。そうかそうか(^^ゞ。今見るとたった一代の差ですが、江戸期の感覚だとそうですね。会津松平氏も初代・保科正之に戦功が無い事を、随分気にしてた感じがします。それで無理をした所もあった、と言うか……。
しかし思えば、小田原征伐で上杉氏が積極的勢力だったのも、御館の乱以後の北条氏との対立が底流には当然あったんでしょうね。
謙信の遺志が隠匿・改竄された、と書きましたが、景勝を極端に無口という事にしてる創作物もあり、まぁ史料を見てそう感じるのだとしたら、景勝も……(笑)?
 
     

     
  <Syoさま 2012/04/03(Tue) 23:57>

こたつ城主さま、こんばんは〜
爆弾低気圧の影響で大荒れな天気でした。(@_@;)
猛烈な向かい風に登城が遅れました〜(^^ゞ
冗談はさておき、台風のような雨風、大丈夫でしたか?

「城主のたわごと3月」拝読させていただきました。
しかし、1月のたわごと以降、見事な雨模様
デジ亀くんの調子もよろしくないようで大変でしたね。

山形県〜福島県
>会津地方は、京、奈良、鎌倉、平泉とともに「日本五仏都」・・平安期の寺ばかり八寺ある(中でも初期の寺が多い)中で、五寺までが「徳一」に由来するからだ。
そうなんですか・・勉強になりました!!(^^)!

出ました!初代藩主・上杉景勝と直江兼続
謙信亡き後の景勝×景虎の後継者争いについて「御館の乱」
単なる後継者争いではなく、諸事情が複雑に絡み合っているようでレポを読みながら、な〜ると頷くことしきり(^^ゞ

景勝・兼続主従と秀吉・三成主従の関係も面白い。
ただ、三成は こたつ殿の漫画「加藤君と石田君」のイメージが強すぎて(^^ゞ爆

後継者争いも然ることながら、関が原敗退組みの上杉に対しての家康の処遇も こたつ殿のレポにふむふむと納得しました。

佐原氏、三浦氏の家系図もわかりやすいです。
平氏、源氏・・将軍家など武家の棟梁 たる武将を多く輩出していますが、桓武平氏、清和源氏(八幡太郎義家)が本流でしょうね。

新宮氏の発掘調査によって判明した遺構と、出土した「象の横顔」は面白いです。
青白磁のようなので食器か何かの器?何に使用されたのか興味があります。
寺院の門柱の梁に象のような夢を食らうというバクは見かけますが、象の横顔は初めて見ました。(*_*)

新宮熊野神社
今回のレポで一番目が点になったのは鳥居でございます。
鳥居に大注連縄が釣り下がってるのはほんとに珍しい。
鳥居にナマケモノがぶら下がっているような・・
結界と浄化パワーはかなりのものかと思われます!(^▽^;)爆

長床という拝殿も建築意匠も珍しく立派ですし本殿はお書きのように鳥のようですね。(@_@)
京都には熊野神社が三社あります。
八咫烏はサッカー日本代表のシンボルですのでサッカー関係の祈願、絵馬奉納などが多いです。

会津まほろば街道
まほろばと聞くと真っ先に奈良をイメージしてしまいますが
会津まほろば街道とは、いいネーミングですね。
会津の素晴らしい街道ってことですね。(*^-^*)

しかし、出土品に中国産の白磁四耳壺・水柱、高麗青磁などの奢侈品が多いですね。
これも奥州藤原氏の影響でしょうか・・
またゆっくりと拝読させていただきます。

ミッキーの笠地蔵の恩返しを期待されている?ご亭主殿にもよろしくお伝えください。恩返しがありますよう・・(^▽^;)



<こたつ城主 2012/04/04(Wed) 18:48>

>Syoさま

ご心配ありがとうございます!
私は予定をキャンセル出来て室内に居ました。亭主も電車満員には会いつつ、最大暴風雨の前に帰って来られました(^_^A)。

「城主のたわごと3月」ありがとうございます(^O^)。
この旅行はず〜っと雨で(>_<)。。デジカメもジワジワ不調が忍び入ってますが、今回あたりは、まだ順調な方なんです(笑)。この後が……。。。

徳一がらみの(というか平安の頃を由緒とする)寺は、今回旅行のは次回レポになりますが、北緯がだいたい横一列に並んで点在してるのが、ちょっと不思議な一帯です(^_^A)。 ご存知のように、桓武天皇の平安遷都と蝦夷征伐は、ちょうど時期を同じくします。 桓武主導体制の元に立宗した天台宗の教線は、やはり蝦夷征伐後の陸奥に強い影響力を及ぼしますが、最澄ら一派が広まって来る所に、会津にいた徳一が立ちはだかって、「三一権実論争」をぶっ放すのです(笑)。慧日寺レポに書いたものですが↓
http://kotatu.jp/hyo/tawagoto/2009/01.htm#i

「御館の乱」については、まさに
>単なる後継者争いではなく、諸事情が複雑に絡み合っているようで
って感じです。三成は、「加藤君と石田君」の絵で想像すると、地方大名の饗応や配置換えも、アレコレ電卓たたいて決めたんかな、と思えて笑いますっ(爆)。
まぁ関ヶ原後の仕置については一端に偏らず、大局的に見る必要もあるんでしょうね。越後にせよ会津にせよ、上杉のいる場所が微妙というのもあるでしょうし(^^;)。
あと、余談ながら関東管領の上杉氏は、宗尊親王について京から来たのですよ(^^)。

で、今回メインの三浦・佐原・芦名、お読み下さり、ありがとうございます(^O^)!
桓武平氏はその殆どが関東で武家となり、頼朝が幕府を開いたり平家と戦った頃は、平家方にも源氏(鎌倉)方にも居て、各々相争いましたが、大まか頼朝の御家人として、ドッと平安末ごろに登場する家がすこぶる多いです(^^)。
三浦氏はその中では、重代の重臣の代表格と言って良く、前九年・後三年の役の頃から、源氏の家来として名が登場する一族のようです。

源氏ですが……「平忠常の乱」の頃に、頼光(兄)と頼信(弟)に分かれ、将軍家となるのは後者の流れですが、平安末の源三位頼政などは前者の出ですね(^^ゞ。
http://kotatu.jp/hyo/tawagoto/2009/08.htm#f
その後は仰せの通り、(八幡太郎)義家の河内流から各時代の将軍を輩出します。



<こたつ城主 2012/04/04(Wed) 18:49>

>Syoさま、2(続き)

新宮城から発掘・出土された物のパネル写真は、青磁も白磁も綺麗で、特に「象だ〜ホントだ〜(゚.゚)」と驚いたので、ソレをアップで載せました(笑)。
何か西洋あたりの食器みたいでしょ? 何とも洒落てますよね、デザインが。象部分は取っ手かな〜と思うんですけど(^^ゞ。
かなりの高級品でしょうから、実際お食事に使ったかどうか……飾り物か特別なお客様にだけお見せしたか。

鳥居に大注連縄……云われてみれば、珍しいかもしれませんね(゚.゚)。
拝殿とか、あとお寺でしょうか仁王門みたいな建物チックな入口(人が入る頭上)に大きくぶら下がったり、横一文字に貫かれてたりするのは見た事ありますが……。

八咫烏のお守りは東京や千葉でも、サッカー日本代表の応援と一緒に売られてますが、長床は本当に珍しかったです(^^ゞ。
予めガイドの写真を見てから行ったんですが、イザ目の前に……そして実際上がり込んでみると、写真で見た感じとは大違いで、外気に直接触れているにも関わらず、何となく室内にいる安堵感に満たされてます。
思えば障子とか襖なんか、外気との遮断が無いのに等しいですもんね(笑)。

会津まほろば、とされてる地図では、だいたい喜多方から会津坂下の間のエリアが書かれてましたが、その東西にも古そうな痕跡が広がってるのは、多くは鎌倉時代以降かと思われますが、遡れば蝦夷征伐より前から中央文化がもたらされてるからなんでしょう。天台宗が入って来るより前……やはり徳一のような南都仏教系の布石もあったのでしょうね。

最後の「陣が峯城跡」は、私は背後勢力として、当然のように奥州藤原氏を感じ取るのですが(奥州藤原氏は初代・清衡の頃から摂関家に馬を届けたりしてます)、ここでは「摂関藤原氏の荘園地」という事しか書いてなかったです(^^ゞ。
そちらでも話の出た、藤原忠実の頃に名の出る荘園ですね。
ただ、この城は、城氏という、平家勢力(これも出は坂東の桓武平氏です(^^ゞ)の伝説も孕むので、頼朝の奥州征伐の頃の勢力図は、正確には何とも言えませんが(^_^;)。

>ミッキーの笠地蔵の恩返し
「SYOさんに話したよ」と言ったら、「言っちゃったのー?!」と言ってました(笑)。
でも昨日みたいに天気が大荒れで、早く家に帰りたい時なんかは、ミッキーさんに手を振るように、会社や仕事に「バイバイ(^^)/」と言って貰わないと帰れないので、案外アタリな効能だったのかも(爆)。



<北畠具顕さま 2012/04/05(Thu) 18:39>

こんばんわ。
たわごと読了。

今回も長旅お疲れ様でした。

「滅んだ」って言葉は本当に難しいですよね。
後から出てきたとき「じゃぁ、あの滅んだはなんだったの?」
とおもうことしばしば。



<こたつ城主 2012/04/05(Thu) 20:11>

>北畠具顕さま

「城主のたわごと3月」ありがとうございます!
旅気分をスルメのように長く味わうのが、貧乏所帯の籠城ですっ(≧▽≦)!

>後から出てきたとき「じゃぁ、あの滅んだはなんだったの?」
北条とかね(^^;)。。「前」はともかく「後」は微妙と言うか……(笑)。

そういや後北条氏が北条を名乗ったのは、早雲の頃、まだ三浦の名が残ってた事なんかも関係あるんですかね。
そう思うと、三浦姓の復活って、ちょっと反則な感じもしますね(^^;)。。
私は戦国期の三浦氏を先に知り、後日改めて遡り宝治合戦を知った時、「どう考えても滅亡でしょ(^^;)」と冷や汗が出ました(笑)。

でも、それ言うと畠山なんて……(爆)。
 
     



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