<掲示板・議事録>


     
  「城主のたわごと」2012-03(山形〜福島〜栃木編3)、2


<畠山義綱さま 2012/04/07(Sat) 07:26>

>こたつ城主様
なるほど…芦名が有名ではないのは、次の領主の影響もあるんですね…。
>芦名は凄く評判がいいという感じではないですね(^^ゞ。
>圧政を行ったような話も散見しますが
すごく知りたいです、どんなことがあったのか…
どんな資料に書いてありましたか?
ご教授いただけたら幸いです。

>江戸期に地域領主の命令で石碑とか慰霊塔とか建てら
>れるのって、全国的に多いのかな〜とも思って躊躇し
>てしまい(笑)。
なるほど〜江戸時期に大切に守られていると、開発から逃れるケースも多いですものね。佐原の墓は周辺もきれいに残っていて地域に大切にされている感じが出ていていいですね!!
こたつ様の旅行記は知見が広がるだけでなく、その後の会話(掲示板)で復習もできるのでメチャ活用させてもらってます(^^)



<こたつ城主 2012/04/08(Sun) 10:40>

>畠山義綱さま

前回の私のレスへの畠山様の反応ごもっともと思うんですが、「凄く評判が良いという感じでもない」というのは、直接「悪い」を意味する程のつもりはないです(^_^;)。
また、畠山さまも仰せの通り、後から来た保科(会津松平)氏も、佐原義連の墓に大きな碑まで建てて大切に保存し、土地の歴史を丹念に調べた様子から、自分らを良く見せるため前任者の痕跡を消したとか、悪者に仕立て上げた、って感じも無さそうですよね(^^ゞ。

ただ鶴ヶ城に入ると、1384〜1589年=芦名(205年)、1589年=伊達(1年)、1590年=蒲生(8年)、1598年=上杉(3年)、1601年=蒲生(26年)、1627年=加藤(16年)、1643〜1868年=保科(会津松平・225年)と、芦名は二番目に長いのに、展示内容には全く現われて来ません(^_^;)。これも畠山様が最初に仰った通りですよね(笑)。

後世に来た人々から馴染みが薄い点や、城跡地が山深く道が整備されてない点も原因しましょうが、一番の原因は史料が少ない事だと思います。そのさらに原因は、今回の新宮熊野神社でも、河東の慧日寺でも、「戦乱の荒廃が原因」とされてます。
通常、東北の寺社で物証(仏像や宝物など)が乏しい原因は、廃仏毀釈による散逸が多いんですが、その点、賊軍の会津だから一番の原因に上がって当然に思われる所、江戸期に入る前、既に亡失してた、という話です。伊達政宗に焼かれた、とかね(^^ゞ。
2009年1月<まずは会津磐梯を目指す>以降 http://kotatu.jp/hyo/tawagoto/2009/01.htm#i

今回のたわごと(3月)でも、1589年に新宮熊野神社の社士が、「神社の重要書類を盗んで伊達政宗に降った」という辺りに、何とも人心の荒廃する様を見る思いがあります(^_^;)。。

資料については、私が見るのは博物館のプリント、寺社やホテルなどに置かれるパンフの地域の伝承や、売店の民話や昔話の本などですが、元は県史・市史・町史などからの抜粋と想像します(^^ゞ。あと土地の案内板でよく見る史料に「新編会津風土記」があります。

たわごとに載せた芦名の話だと、尼ヶ淵の伝説(芦名直盛に言い寄られて身投げ)があります。会津の東山温泉で見付けました。
2007年2月<東山温泉の朝>内:http://kotatu.jp/hyo/tawagoto/2007/tawagoto-02.htm#g
ただし悲恋や身投げの伝説は、栃木県の北部や福島県の南部でも見掛けます(^_^;)。

今手元に無いですが、昔話の触りに、税の取り立てが厳しくて云々と見掛けた事もあり、時代が明確でないながら、後に保科や伊達政宗がどうこうあって、芦名時代かな、と思った事はありました。こちらに芦名盛氏の課税の事が書かれてます。この事でしょうかね↓
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/asina_k.html
 
     



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