<2002年・城主のたわごと4月>




だいぶ時期外れだが、信州房総旅行編の続き(^_^;)。

さてさて、課題の「霞城」を探し当てたぞよ。





     
  こたつ城主を取り巻く世間は、このところ石和川中島合戦祭りのレポート作成に苦しんでいる(笑)。私も他人事とは決して言わない(汗)。

しかし写真の整理をしていて気付いた事は、「そうだ、松代に行った時の写真もアップしなきゃ」。←コレである。

そういうワケで、今回は霞城を訪れた際写した写真など初公開してしまおうと思っている。

ここで何かに気付いた方は、大変な「こたつ城マニア」(そんなもんのマニアになっても、自慢できる事は何一つない:笑)と言っていいかもしれない。

そう、このHPは、現在トップページに「戦国旅行記」という、いつまで経っても「工事中」を晒した幽霊コーナーがある。

幽霊と言うよりは、ほとんど詐欺である。
あれは何を隠そう、「余ったんで、何か字を入れてあるだけ」なのである(爆)。では「旅行記」を、どうしてやらないか……それは、まず旅行がいつでも出来る金と時間がナイからであり、「一度始めたら大変そう」という、あこぎな抑制本能に未だ打ち勝てないからでもある。

だから「たわごと」。
ここでやれば冗談で済まされる、と、かように私の神サマは(誰?)仰せになられたのである。

実は写真はたくさん撮った。しかしまず、石和に行った折、カメラを破損してしまった(詳しくは「石和川中島合戦戦国絵巻」、2001年レポートをご覧あれ)のと、松代の各名所……特に皆神山なんちゅうのは、歴史関連でないサイトでもかなり扱っておるので、そゆのは他で見て貰うのが合理性(別名、貧乏性)にかなうような気もして、ここではあまりやらない。



<霞城(かじょう)跡>

ちなみにこの霞城、「名前だけ書いてある」サイトには検索すればよく出会う。しかしよく見ると、「どうやら騒いでいるのはアタシだけ」という事もままあり(爆)、こたび小さな写真を載せてる所も見付けたのだが、正直小さすぎて何だか判らない(汗)。

ここは城跡巡りサイトでは決してないし、容量不足というのもあって(爆)、画像は他ではあんまし見た事も聞いた事もナイ物に限定させて貰おうか。

松代方面から大室古墳に向って行く道の右壁に城の石塁がある↓

近付くと右側に見えて来る↓

ちょっと近付いてみる↓

皿を何枚も重ねて作ったような、かなり緻密でスキの無い作りである↓

松代方面に向うと左側に見える↓

これを見てお判りの通り、そう、通り過ぎてしまえば「何だろうあれ」状態なのだが、このように露出している。
そして、これよりもっと大室寄り(最初の写真で言うとその先の道)に行くと、山の奥の鬱蒼とした森林地帯が道からも見えるのだが、そこに入るには車から降り、山に分け入らないと上記のような撮影はかなわないが、そうした森林の奥地に、こうした石垣が段々になって露出し、かなり規模のデカイ城跡だった事がよくわかる。

謎の城跡である。明らかにここは大室古墳の跡地(しかもど真ん中)であるから、つまりは「古墳の上に立てた城」なのである。大室古墳自体がかなりの規模なので、その何処までを城として使用し、何処までが純粋な古代の古墳なのか、その辺りは判らない。

どぉ? そそられた人は行ってみてネ(^。^)。
道は、長野線の金井山駅から大室駅に行く途中、線路より山より、山の脇を上の通りクネクネと囲んだ道です。

郷土出版社『北信濃の城』によると、戦国末期の築造と推定。謎であるのは、本郭から北の三つの郭にだけこうした石垣が無く、南方面の敵にそなえ、石垣の補強を施す必要にかられたのではないか……と推測されている。

また、その南側には古墳の石室が二ヶ所が残っていて、かように古墳跡に、ある意味無節操な築城をしながらも、よく近世にあるごとく、橋などに古墳の天井石を使ったというワケでもない点が不思議な感じがする。

城主は大室氏と伝えられ、武田滅亡以後はこの土地を支配した森氏に仕え、上杉景勝の時代になると上杉に仕えて海津城代をつとめた後、上杉について会津まで行っている。



<ここで軍師、梵天丸氏から電話(笑)>


梵「今長野に着いた所です〜。宿探してました〜」
こ「お疲れさま〜。夕飯どうします?」
梵「今どこにいるんですか?」

上手く説明の出来ない情況とも言える(笑)。
(梵天丸さま、アナタ達が到着した時、我々はこんな事をやってました)←今ごろ報告(笑)

とりあえず長野で一緒に飯を食おうという話になり、電話を切ると、「もう一ッ飛びしておくれ」と馬(亭主)を急かし、次の城に向う。



<高梨氏館跡>

写真はあるんだが、まるで心霊ツアーのごとく出来である。
場所は中野。車を飛ばしたが到着は7時近くになっていた。

ここはやっぱ城跡の中でも、かなり珍しいだろうと思える、「庭園跡」のクッキリ残る城跡である。
そう聞いては居たのだが、見て驚いたのは、「跡と言うよりそのまんまやんけ!」だったからである。

石がマンマ残っている。滝の演出でもしたのだろうか。よく禅宗の寺などに残る枯山水系の石積みとそれを囲む石が点々。そしてそこは市民公園のように整地されていたので、そんな時間でも平気で入り込めるし、トイレなんかもついている。

それより驚くのは、まるで我々の到着時間を読んでいたかのごとく、庭園跡にはライトアップが施されていた。

スイマセンね。こんな時間にライトアップまでして頂いて。私が来ると、一体どなたが連絡してくれたのでしょう(^_^;)。←こういう勘違いの出来る自分って、結構スゴイと思う

こうしてここで待っていると、そのうち宴など始まって、次から次へと料理なんか運ばれて、綺麗なお姉さんがお酌してくれたりなんかして……最後は足抜け出来なくなって、体じゅうにお経なんか書かれて、耳だけ切り取られたりするのかな(それは『耳なし芳一』)。

なんちゅうトコまで想像したら、流石にこのままここで夜を明かしてはならぬと思えたし、現世から梵天丸氏が呼び戻したような気もしたので、そのまま車に乗り込み長野に戻ったのであった。

ちなみにこの城跡は高梨氏のものであったが、武田に攻め込まれて、村上義清などと同じで謙信を頼って越後に逃れた。その後を武田についた小島氏が引き継いだものの、これも武田が滅んだために、小島氏は高梨氏にここを返している。
で、やっぱ高梨氏も上記の大室氏と同じで、上杉にくっついて会津に行ったワケである。



こうして長野に向った我々は高速の乗り口を間違えて逆方面に行っちゃったりしたものの(汗)、どうにかこうにか長野に戻れ、遅れながらも梵天丸夫妻と合流。蕎麦屋で楽しく会食(#^.^#)。

この折、夏に東北旅行にいらした梵天丸サマは、牛タンかーるをお土産に下さったりして(一方の私は先週渡すつもりだった神田明神の甘酒がもぉ古くなったりして、申し訳なかったりしたが:爆)、何しろ前週に行き違ったまま会えなかった無念を、互いに晴らしあったのであった。

この日は二夫婦ともに長野泊。松代で合流する約束をしてそれぞれの宿に引き上げたのであった。

<つづく>

2001年4月23日
 
     






ホーム