<2006年・城主のたわごと5月>




2005年6月〜9月まで、一気にお届け〜(^O^)。

6月。千葉県大原の小浜城跡と紋次郎隊バーベキューパーティ。

9月。志賀高原シリーズ(連載)第一弾!




     
  この「たわごと」のおいて、およそ壁紙の示す季節(や雰囲気)と掛け離れたレポは、既に不思議でなくなりつつあるが(笑)、それにしても今回のは如何なものかと思えて来る。

というのも、今回は大きく分けて二つネタがあるが、全く掛け離れた時間&場所&ネタの割に、どういうわけか共通するのは「天候不順」という点だからだ(^_^;)。。来月あたり梅雨の時期なら丁度よかったのかもね(笑)。

ってなわけで、まず一つ目は2005年6月。
千葉県の大原、小浜城跡めぐりと、紋次郎。さま隊(石和)の戦勝祝賀パーティにお呼ばれ(#^.^#)。

そして途中経過。(ここで一気に時間がワープする:笑)

二つ目が2005年9月。(つまりワープ後)
「志賀高原」3回シリーズの第一弾。

以上三本立てでお届け〜っ。



■6月・千葉県
<九十九里〜大原(外房)>


大原には1986年の春に初めて行った。
ついで、2001年の11月に15年ぶりにまた行った。その事は、2002年「城主のたわごと10月〜11月」でも書いている(^^ゞ。

そして2002年の5〜6月ごろ。大原にお誘いを頂きながら行けなかった事があった。

当時のこたつ城主にとって、「海の家で食う食べ物」は、海が欲しくて拡張した武田信玄の征服欲に勝るとも劣らぬ勢力を誇っていたが、この時お誘いを頂いたバーベキューでは、まるでその心の内を言い当てるが如くに「ハマグリの炭火焼き」というメニューが後で発表された。
さらに、ちょうどその頃に実家にメロンをくれる知人がいて、これを持って行く気でいたのである。

それが……行けなくなった(-_-;)。。
メロンは1人で食った。その寂しい味は今でも忘れる事ができない。

このように「食い気が絡んだ催し」を断念させられた時の私の失意は異様にデカイ。失意を通り越して怒りにすら発展する(爆)。

そういうわけで、実に4年ぶりの2005年6月。再びお誘いに乗じて大原行きは敢行された。

4年前は、帰りを「波乗り道路」に乗った事が、2002年11月の「たわごと」に記されているが、それ以外についてはさすがに4年前の記憶となると怪しい(^_^;)。。

それが今回明確なのは、紋次郎。さまから矢文で「具体的な道順が指示」されたからである。
地図を示して頂けたばかりか、道順まで実に細やかなお心遣いに、この場を借りて御礼。ありがとうございましたm(__)m。

実はお誘い頂いたのは、これ以外にも何回かあった気がする(^_^;)。それでも行かないのは、「行き方が判らないから」と思われていたのかもしれない。(「100%違う」とも言い切れないが:爆)

で、「ただ言われた通りに行った」と思う(笑)。
すなわち「(松戸からは)京葉道路に乗り、宮野木JCT(地図@-@)から東金道路に入り、終点の東金地図@-A)から国道を暫し直進し、九十九里有料道路へ経て(地図A-@)、終点(一宮)から又、国道128号に合流(ここまで地図A-Aいすみ(大原)」まで)」。

↑こう(^_^;)。

この@の段階でイキナリ亭主が「おっ、この道路けっこういいな〜」と喜んだ(笑)。
と言うのも、前は帰りで多少急いでいたし、しかも夜道で殆ど周囲の風景は見えなかったからである(^^ゞ。

さらにAに入った「九十九里町真亀」という所で、1度運転休憩を取る。

実はこの時、亭主はあまり体調が思わしくなかった。それは毎年この時期の多忙による所が大きい。
亭主が休憩を取る隣で、言葉だけは「優しい妻」を演じながら、私は始終車の座席の下で貧乏ゆすりを繰り返した。
あたかもそれは、「他の誰かが、私の海の幸を取って食う」と言わんばかりの焦りであった(爆)。

ここ九十九里では、そんな心境とあわせてレポを開始する(笑)。

真亀。高村光太郎夫妻の像
そしていよいよ外房に達する。海だっ!

↑お気付きだろうか。ほんの僅かな間に、どことなく天候が「風雲急を告げ始めた」気配に(爆)。

高村光太郎夫妻の像は、光太郎の妻、智恵子が精神分裂症の保養のために、ここ九十九里に滞在した事に由来。光太郎の「智恵子抄」で有名になった舞台でもある。

と書かれていたのを読んで、不肖こたつ城主は「浜辺のある保養地で暮らした話は、ドラマか国文学あたりで見聞きした覚えがあるけど、いや〜てっきり静岡県あたりだと思ってましたぁ(^^ゞ」と、又々「灯台下暗し」ぶりを露呈(爆)。

隣にしばしば海を見ながら、九十九里有料道路を終点「一宮」まで直行。

↑この時点で「台風が来てるよね(^_^;)」という話は出た(笑)。

さて、お呼ばれの会場に行く前に、我々は城跡巡りを予定していた。
前述「2002年城主のたわごと10〜11月」にもレポした、「小浜城跡」に行くためである。

一宮から入った128号線は、西にJR外房線と夷隅鉄道の「大原」駅、東に目指す小浜城跡のある「八幡岬」、その間地図B)に分け入って来る。
そのちょっと手前辺りから、出来るだけ海沿いを走っていると「八幡岬」と標識のある道路に出る。

城跡が見えて来る
山頂を目印に進行方向を取る
到着

この山頂を目指して来ると、実はちょっと入り口に迷う(^^ゞ。かなり海にせり出した岬だから、立ち入り禁止の入口もあるようだ。
しかしこの山である事は確かなので、周囲のカドを一個一個入り口を探してる内に鳥居に出会える。

海岸に停泊している沢山の船
路地に入って鳥居を発見

この鳥居が岬の名にもある「八幡社」で、これを潜って入ると小浜城跡にも辿り着く。



<大原・小浜城跡(八幡社)>

最初の鳥居をくぐる(^^)
階段のぼって右に花壇(^^)
左にさらなる階段と鳥居

パノラマ3枚。この一帯が海にせり出している城跡ってわけっ♪ こっちが海→

↑右側の広場には後で来る。
←先に奥の鳥居をさらに潜ってお堂に行く。
お堂の左側には海が見える。↓
↑折しも白アジサイが花を開き掛けていた(#^.^#)。

ちょっと近付いて眼下の海と港町を撮影〜♪(パノラマ2枚)

←お堂の右手には、さらに上に登って行く階段があるが、この上には後で合流するから、先に神社のお話を(^^ゞ。

この神社は城山区、根方区、坂東区と氏子惣代の方々が建設委員となられ、「大原はだか祭り」の歴史についても書かれていた。

寛政2年(1790年、11代将軍家斉の時代)に「地侍や百姓は農業に精を出し、年貢を滞りなく上納させるのが国体の基」という覚書が出され、藩主からも「祭礼を結構にしてはいけない」という触書が出た、とある。

この時代背景を想像するに、1787年にあの有名な松平定信が老中筆頭となり、即座に倹約令を発布した事と関連があるんじゃないかな、と思った。

これに対して、「大原は漁民の村であり、素朴な漁民にとって祭礼を行う事は、大漁だけを唯一で最高の願望とした現われ」と書かれる一方、「代官所や陣屋に神輿を担ぎ入れて、年貢の減免を申し立てた記録も残っている」ともある。

これって……ますます「そういう事をしでかすから、祭礼はやめろ」って向きになるようにも思えるんだが(^_^;)、まぁ確かに「倹約令」に対してなら、「祭りは華美や贅沢ではない」と主張するのは筋が通ってる気もする一方、「要するに出された法令に片っ端から反抗しただけ」って気もしなくはない(笑)。

何しろこれが今日の「大原はだか祭り」の所以とされ、右のポスターの通り、大勢の裸の衆が神輿を担いで海にザンブザンブと入って行く、実に豪快な祭りのようだ。→

さてさて、先ほども言った、お堂の横手にある広場に出てみる。↓

パノラマ4枚(180度)。左の岩の合間から入って来る。

こっちの階段を登ると、先程のお堂横の階段の上↑に合流する。後で行くね(^^ゞ。

今度は逆側、パノラマ4枚(180度)。進むと前面に海原が一望。

近付いてみよう。どうだい。なかなか「アッパレ」な近さでしょお〜(^。^)。

まずは2001年の秋、ここまでは来た。殆ど夜で「ザンブザンブ」という勇壮な音の他は、黒々した海原がうねる様子しか見えなかった(^^ゞ。

で、そうそう(笑)、その頃のレポを読んでくれた人ならご存知「心中夫婦と見咎められた一件(爆)」はコレ→(2002年「城主のたわごと10月」より)


拡大(笑)→

1度目(1986年)は春だったのに、物凄い暴風雨だった。
2度目(2001年)は月光に照らし出される程の夜。

そして3度目の小浜城も……やっぱり台風の時に来た(爆)、というこのオチ(^^;)。。

もはや決定的にここは、我々夫婦にとって「神秘と驚異の城跡」になった(笑)。

2001年のレポでは、記憶に残る限りの事を伝えたが、今回は正確に案内板の記述を書く。

「名勝八幡岬は、その形が帽子や鳶に似ているので帽山または鳶崎と呼ばれている。
 房総治乱記によると、戦国時代ここに小浜城があり、城主は槍田美濃守であった。天正17年(1588)2月、美濃守が相州三浦に軍をすすめて北條氏と戦った時、その虚に乗じて、勝浦城主、正木左近大夫は小浜城を奪いこれを攻めとった。
 房州里見氏は援軍を送って小浜城の奪回を図ったが、攻め落とすことはできなかった。無念に思っていた美濃守は天正17年3月、夜陰に乗じて激しく城を攻め、ついに奪還に成功した。しかし天正18年(1589)、本多忠勝が大多喜城主になった頃、小浜城は本多氏に攻略されその姿を消した。

 この八幡岬には江戸時代より数多くの文人墨客が訪れた。儒者の安積良斎、作家の江見水蔭、山本有三、歌人の佐々木信綱、矢代東村、画家の黒田清輝、竹久夢二など多彩な文化人が、この地を舞台にすぐれた作品を残している。
 ことに明治末期から終戦直後までこの地にあった帆万千館は文化人に愛され、若山牧水や鈴木信太郎などの諸家は好んでここに宿泊し景観をめでながら、この地の自然や風物を活写し創作にふけった」

ちなみに↑江見水蔭についてはこちらを→2002年「城主のたわごと11月」より

2001年には地元の方の強い牽制もあって(笑)、ここまでしか来られなかったが、最初に来た1986年にはこの先のコースも行った。今回はそこまで行ってみる。

階段をさらに登る
右手奥さらに鳥居がある
途中左手、洞穴にお稲荷さん

鳥居をくぐる
本殿に到着っ!(^O^)

本殿脇に錨(いかり)が!
社には火が灯っていた
最後の鳥居を振り返る

このイカリ、きっと漁船から奉納されたのではないかと(^^)。すごく大きくて、いかにも漁村ならではの信仰スタイルに思え、何だか感動してしまった〜!
また、こんな雨の日でも本殿には電気や火がともされ、ここに来るまでに幾重もの鳥居があったり、地元では篤い崇拝を受けている、という感じがまた素晴らしかった♪

ちなみに、このお社を囲む風景をパノラマ状で振り返ると、こんな具合(^^)。↓

パノラマ4枚(180度)。左に市街、真ん中にお宮、右に広がる海原。

お社から海寄りの一帯までは徒歩で少し近付ける。

樹林のトンネルを潜り
狭い通路を行くと
ホラホラ(^^)、もう海だよっ

1986年、つまりこれより19年前(今から20年前(^_^;))には、この通路あたりでエライ暴風雨に見舞われ、ゼェゼェ言いながら岩壁に張り付いて行った覚えがある。

突風の具合では吹き飛ばされて、間違いなく海に落ちる(爆)。
途中あちこちにロープが張られ「これより立ち入り禁止」と書いてある箇所もあるから、道に迷ったとか天候が悪いとかの時は、絶対に無理して行かない方がいいと思う(笑)。

あ、あと夜ね(笑)。確かに闇では絶対ヤバイわ(^_^;)。

ところで、この「樹林のトンネル」は、どのように出来ているかと言うと……、

←こんな感じ。ご覧の通り、途中登りやすく石段もついてるから、通路自体で息切れするコトはないよ(笑)。
↑上からも撮ってみた。なかなか綺麗でしょ(^^)。

どうもジャスミンだね(^^ゞ。

亭主、落ちてるのを拾ってくれる(笑)
そして恐らく本丸跡か何かの石碑

もう……物凄い樹林に覆われていて(^_^;)、容易に近付けないし、その気にすらなれない(笑)。
どうしてここの木々はこれほど頑丈なのかな。ビッシリと濃く生えて、最初に来た時に驚いた「まるでジャングル」って印象は、全てこの一番奥の城跡(だと思うよ、不自然議なほど各所が狭い)から来ている。

←さて戻る。
↑いくぶん戻って来た所で振り返る。

「昔こんなロープあったっけ」
「無かったよね(^^ゞ」←なのに来たのかっ、暴風雨の中を?!

そう。20年前は確か、反対側の岩壁に身をこすりつけながら歩いた覚えがある(爆)。何やらホントに狭い所もあって、「ダメ! これ以上は無理っ」「がんばれ!」なんて言いながら行った(^_^;)。。 *昔は若かったのよ*

パノラマ3枚。そして道は広い場所に出て来る。

パノラマ3枚。逆側。海に面して眺めがイイ(^^)。

↓拡大。
雨露で水々しい青アジサイと、向こうに広がる海(^^)。
そして神社に戻って行く→



<大原「紋次郎。隊バーベキューパーティ」(^。^)>

←大原の町。

漁船の名(〇〇丸とか)のついた民宿なんかもあり、20年前はそういう所に泊まった事など懐かしく思い出しながら、一路パーティ会場を目指す。

亭主が途中何度か休憩を取ったりで、だいぶ遅れたが、到着するとまだ皆さん表でバーベキューをやっておられた。

間に合った( ̄∇ ̄)。<ニヘ

ちょうど炭が足りなくなって来た頃合だったらしく、頼まれて近くのスーパーに木炭を買いに行った。

亭主はどれがいいか店の人に聞きながら、「俺たちがアウトドアする時の参考になるよね」と喜んだ(笑)。
そして会場に戻る。

キャーキャー! こたつの海産物!(爆)
ホタテじゃっ( ̄∇ ̄)
(写真:碧雲斎さま)

何しろ念願の貝類の炭火焼きには、こうしてありついた( ̄∇ ̄)。ジュージューとイイ音なんだわっこれが又!

しかし幾ら何でも、まず最初に食い物の写真を出す、ってのも思えば失礼よね〜(爆)。

こたつ(オレンジ色)を真ん中に入れて下さり
賑やかな飲み食い大会!(笑)
(写真:ひー様)

参加者の皆さんは、いずれも紋次郎。隊の方々(^^)。毎年これぐらいの時期に、石和の戦勝祝賀会が催されいるようで、実はこれまでも何度かお誘い頂いている(^^ゞ。

会場をご用意下さったのは禅想さまっ。お料理人でいらっしゃるので、腕によりをふるった美味しいメニューの数々とともに、来られなかった方からも沢山のご馳走が届いて(さっきの貝類、ホタテは沼田面松斎祐光さまから(#^.^#))、みんなで楽しく頂きましたっ☆ミ *美味しかったよ〜!*

禅想さまお手製・カツオのたたき
高級シャンパンやワインのお届けもっ♪
(↑写真:紋次郎。さま)

ところで書き忘れてるけど……、このパーティ。この暴風雨の中で敢行されていた(笑)。
時代は移ったものの、少なくても紋次郎。さまや禅想さまには、こたつがかつて無念の涙を飲んだ事を覚えておられるだろう。今回の台風は「こたつ城主が招き寄せたのでは」と思っておられるに違いない(^^;)。 *否定はしない(爆)*

しかし夜になって来たし、その後どなたも現われなかった所を見ると、どうもこたつ達が最後の訪問者であったらしく(遅くなってスイマセン(^_^;))、風も強まって来たから中に入ろうという事になって、みんな室内に引き上げる。

パノラマ2枚。ドヤドヤと引き上げる皆様

禅想さまはせっせとお料理を作られ、お姫様衆はお手伝いなどかいがいしくされて、実に統制の取れた軍、さすがじゃっ、と唸っておった所、「炭火係も決めないと」という話になり、ジャンケンで決める段に(^^)v。

確か、男女1人づつ出そうという事だったかな。男と女の二つのグループに分かれてやったんだっけ(^^ゞ。

何しろ亭主と私は別のグループでやったんだが、結果は……男性からはこたつ亭主が、そして女性からはこたつ城主が、そう! つまり夫婦揃ってバツ・ゲーム……じゃなくて「火の番係」に決定したのだっ!

これってスゴイ確率だと思うんだけど(笑)、決まった時は、皆さんから「仲がいいですね〜!」とビックリされた(笑)。こたつ達もビックリした(ちょっと嬉しかった:笑)。

仲良く火の番を務めるこたつ夫婦(笑)
焼きおにぎりと味噌つけ焼肉を担当
(写真:くないきょう家基さま)
(写真:紋次郎。さま)

右のちょっと焦ってる感じの写真(笑)は、風の具合でイキナリ火力が大きくなったり、今にも消えそうな時があって、あと、おにぎりの並べた場所によって、全然火が通らない所と、もう焦げてる所があったり、どれをどこに並べたか判らなくなったり(笑)、文字通りホントに「ちょっと焦ってる」時のじゃないかと(^^ゞ。

こたつ達はこの日、「ゲスト扱い」という事になっていた(^^ゞ。
最初それを聞いた時「何か芸をするとか、特別な話をみんなにするとか(金メダルを取るまでの苦労話とか?:笑)、そういう運びになるのかな(^_^;)」と緊張したんだが、そうじゃなくて、「ただ来て飲み食いをすればいい」という実にイイ立場であった事を後で知った(笑)。

みんな口々に「ゲストなのに申し訳ないですね〜」と言って下さったが、ゲストの意味をよく判ってなかった私は、実は内心「でも金メダルを取るまでの苦労話よりはマシ」と思っていた(爆)。

さらに亭主は、この時期アウトドアに心が傾いていたから、この役目は楽しかったらしい(笑)。

焼いた肉を渡す亭主→

どことなく生き生きしてる(爆)。
(写真:くないきょう家基さま)

「やっぱりゲストだからこれではイカン」という事だったか(構わないよ別に(^^ゞ)、それともそういう決まりか、途中で他の方が係を変わって下さり、こたつ達も中に入って……。

頂き物の高級シャンパンも封を解かれ(怪しく酔いしれる禅想さま:笑)、賑やかな歓談の内に、そろそろ帰る時間になり、最後の記念撮影〜! カシャッ→

この後も皆様は翌日まで楽しまれたご様子(^^)。こたつ達は夜道を家路に着いた(途中でごめんなさい(^^ゞ)。

紋次郎。さま、禅想さま、お呼び&ご歓待下さって、本当にありがとうございましたm(__)m。
また温かく迎えて下さった皆様(大魔王さま、如月さま、くないきょう家基さま、マコさま、碧雲斎さま、格さん様、上杉播磨守定景さま、ひー様、紗霧さま、哲坊さま、飯綱武蔵守法達さま)も、ありがとうございましたm(__)m。

レポ今ごろでスイマセン(爆)。



■9月(ごろ)
<夕焼け>


↑を撮った。
パノラマ4枚(180度)

パノラマ4枚

これは、この後に行く志賀高原旅行の前だった事だけは覚えている。旅立ったのが9月末に近かったから、9月ではあろうかと(^^ゞ。
カーテン越しに「今日は夕焼けがスゴイ」とわかった。
かなり分厚いカーテンなんだが、それでも透けて眩しかったばかりか、この縞模様に波打ってる様子までハッキリ伝わって来たので、外に出た。

最初は1〜2枚写すだけのつもりだったが、時々刻々と様変わりするので、時間を置いてはこうして何枚も撮ってしまった(笑)。暇な日でもなかったんだけどね(^^ゞ。



<大阪菓子>

出張の帰りに亭主が買って来た(笑)。

大阪土産「たこやん」
10個入り
まんま「たこ焼き」!(笑)

饅頭。よって中身は餡子。
なのに外皮が見事にソース味なんだなぁ(^^ゞ。上に振りかけてあるのも、てっきり本物の青海苔かと思ったが、中の案内には「青海苔を表現した物」とあった。

そのくせ食べても、不思議と違和感はない。
ただ「美味しいか」と聞かれると、「そういう目的で食べる物ではない」としか答えようがない(笑)。

販売元は大阪吹田の「三和山本」さん。
このタコには物語りがあって、明石でタコツボに捕らわれ、大阪に来てタコ焼きになりかけたが饅頭になれと言われた、とある(笑)。



■9月・志賀高原(長野県)
<沼田〜岩櫃(群馬)>


前述の大原オフで、亭主がアウトドア・レジャーに目覚めた事を書いたが、実はその終着点(今のとこ)が、この志賀高原旅行だと思う(^^ゞ。

と言うのも、前月のレポで終わった箱根旅行、長いこと言ってた「森林浴」じたいは満たされたんだが、疲労を溜めてはならぬと思う余り、極力体力を使うコースを避け、のんびり温泉巡りコースにした。

が、どうも亭主、その後「ハイキングに行きたかった」と言い始め、あと「ちょくちょく運転せずに」とも言った。それだけ「よりドップリと森林浴に浸かりたい」という事でもあろう。

「犬もどっかから先は、やっぱ野生動物なんだろうな〜…m(。。)m」とかワケわからん事を言いながら、私は取りそびれた夏休みに行けそうな所を見繕った。

運転が長時間に及ばずに済むとなると、あんがい銚子なんて近くていいかな、と思ってたら、亭主が「志賀高原どうかな」と言い始める。

「だいぶ遠いよ(゚.゚)」
「着くまでの長距離運転は構わない」

ってわけで、行き先は急遽、志賀高原に決定〜!
通常どおり、まずは「安宿」の選定に入る。

調べてみて再認識したんだが、9月という時期は、夏休みは既に終わり、かと言ってまだスキーシーズンも訪れてないので、これは前に片品に行った時もそうだったが、「スキー場」ってトコに安い所があると知った(笑)。

志賀高原周辺でも特に安かった“熊の湯”にスポットが当たる(^^)v。

ここも箱根と並んで、子供の頃に何度か来た所で、自分的にも懐かしい。
それともう一つ、まだ大学生だった亭主と私が、クラブの夏合宿で利用した場所が志賀高原だったから、二重に「懐かしい旅」になりそうだった(^^)。

さて、行き方をどうするか検討する。
通常ウチ(松戸)から志賀高原(長野北部)に行こうとすると、高速は上信越道になる。ところが、それまで人任せ気味だった亭主(笑)、いきなり道順を自ら決める。

「関越自動車道で行く」と言う。
「行ったっきりドップリ」という時間を作るには、2泊は必要になる。2泊となると、安宿とは言え金がかかる。そういう時、手っ取り早くケチろうと思うと、勢い発想は交通費削減……つまり「高速代を浮かせよう」という話になる(^_^;)。。

しかしあまり知らない道では迷ったり、時間を測れなかったりで、返って時間のロスになるだろうから、亭主は前に「上州・信州ツアー」等で訪れた、日本ロマンチック街道を使おうとした。

そう、真田ロードである(笑)。

関越自動車道を沼田で降り、岩櫃(ここまで群馬)を通り越して、真田(長野)に向う前で北上して、草津を通る。つまり群馬の北部をさらに北に出れば志賀高原。これからこんなルートを通る。

いつもは沼田インターで降りるのだが、この時は「どうせ降りてからバックするし、一個手前で降りてみようか」という事になり、昭和インターで降りた。

実際はこれがために、その後ウロウロ迷うハメになり(^_^;)、「失敗〜。沼田で降りた方が判りやすかったね」と言う事になったんだけど、それでも近くに城跡があるのを発見し、また町並みが古めかしくて風情もあったので、「今度また来ようね」と言うだけの雰囲気ではあった(^^)。

地図を見ながらも撮影はする(笑)
雰囲気イイのでまた来たい(^^)

結局、このあと沼田まで行き、無難にロマンチック街道(145号線)に進路を取り直す(^^ゞ。

途中、黄金色の稲の実り
山の向こうは厚い雲の様相

曇りがちな日ではあったが、この辺りまではまだこんな感じ(^^ゞ。

145号線は突き当たりを右に
分岐点をそのまま直行

145号線は途中でT字に突き当たる↑。右折すれば145号線を直行。左は353号線に行ってしまう(^^ゞ。この左右(145号線・353号線)どちらも「長野街道」と呼ぶから、ちょっとややこしい(笑)。
で、地図ではこの分岐点に「伊勢町下」と書いてあるが、写真には「長岡」と書いてあるような?

またその後も、地図では「伊勢町上」とあるが、写真では「中之〇〇(読めない(^_^;)」とある分岐点があって、一瞬どっちに行くのか迷うが、これは直行(左側に)。

岩櫃では、右側に「岩櫃温泉」の城郭風の建物が先に見える(笑)。写真は→2005年「城主のたわごと6月」<岩櫃温泉>

「岩櫃温泉」を過ぎ、道路は「岩櫃城跡」に向かう

まだ暮れ時には早いが、かなり雲が厚くなってきて、周囲は少し暗かった。

そして岩櫃城跡の山が見えて来る。岩櫃城跡→

↑2005年「城主のたわごと6月」では、岩櫃城跡にイキナリ入って行って外観を示せなかったので、今度は走りながら撮ってみた(^^ゞ。
ご覧の通り、この時点で雨が既に降り出している(笑)。



<草津〜熊の湯(志賀高原)の霧模様>

さて長野街道145号線……と呼ぶとややこしいので(笑)、「真田ロード」を、岩櫃を過ぎ、川原湯温泉を過ぎ、「長野原草津口」を過ぎると右折、北上する。

……つもりだったが、曲がり口の「須川橋」を曲がり損ねる。と言うか、見落としたかもしれない(^^ゞ。
北上ルートはもう一本あるので、ナビの私も、「間違った?」と慌てる亭主に「次は大津ってトコがある」と落ち着いて指示(笑)。

無事に右折すると、わりとすぐ草津が近付いて来る。……につれ、雨模様がだんだん濃くなった。

草津に到着。↓
草津ではこの通り、かなり暗くなって「こりゃ完璧に雨だな〜(^^ゞ」と言ってたのだが、↑突き当たりを左折するや、いきなりドッと霧に見舞われる。→

最初は前方車のライトも見えたが……
ドンドン霧は深くなり……

やがて一寸先の車のライトすら、全く見えなくなる(^_^;)。速度は50kから40kへ。やがて、30kに、最後は20kまで減速。

スグ前を行く車のライトすら見えなくなる(汗)
20k走行でも写真がブレる(笑)

窓から手を出してみると、手の先がオボロにしか見えなくなる。車は前後ともに全く無くなった(^_^;)。1度停めて外に出てみたが、何歩か歩いただけで自分の乗ってた車も全く見えなくなる(笑)。
これほどの濃霧になると、亭主はもちろん初めてだし、私も子供の頃以来かな〜。

「右、右、あ、今度は左、左」
と車線を二人でじっと見ては少しづつ進むという、何しろすごいノロノロ運転で、僅かな距離なのに、あっと言う間に時間が過ぎる(^_^;)。

こうしてる間に「草津白根山」と「万座山」の横を過ぎる。
ようやく少し霧が薄まり、ずいぶん日が暮れてるのがわかった頃、「渋峠」に着く。

←ドライブインがあったが、閉まっていて、しかし県境が示される(ここから長野に入る事をハッキリ示している)面白い建物だった(^^ゞ。

ここで降りてトイレに行き、地元の地図を見た。

ドライブインの横から撮影。パノラマ3枚

志賀高原のホテル地図
右下部分拡大

地図の右欄外「草津」からやって来て、右端「現在地」が「渋峠」。そこから中央までの黄色いウネウネ道を「横手山」を抜けて、「硯川」「熊の湯温泉」「ほたる温泉」と並ぶ、いわゆる「熊の湯」に行く。
今日はこれだけだが、この地図の左側上下に広がる一帯が「志賀高原」で、その上部分が「奥志賀」になる。

で、熊の湯に近付いて来て、「のぞき」辺りで降りて、写してみた。

パノラマ2枚

もう6時は近付いてたと思うが、この時間になって、ようやく少〜し日が見えたトコ(^^ゞ。でも、ほんの少しね(笑)。

こっちは上とは逆側「横手山」方面(たぶん)。パノラマ2枚

このあと熊の湯にはすぐ着いたが、ホテルが見付からず、エンエン探して6時半ごろだったかな、着いたのは(^^ゞ。
ホテルの泊まり客は殆ど全員夕食を終わっていて、「早いね〜みんな(^_^;)」と焦って荷物を置き、食堂にいってテーブルに着く。

晩ご飯!(^O^)
美味しいキノコづくし料理と鍋♪

パッと見、大した量とは思わなかったが、食えども食えども余る量で、こたつはすぐ諦めて撤退したが、亭主は頑張って食ってた(笑)。

この夜、二人とも腹いっぱいすぎて、すぐ風呂には入れず(^_^;)、グゥグゥ寝て夜中に温泉に入り、夜中じゅう酒盛り&お喋りして起きてた(爆)。

次回は「志賀高原」編の第2弾、2日目〜3日目、いよいよ本格的な旅行レポっ!(^O^)

<つづく>

2006年05月07日
 
     






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