「猫天地伝」
作/こたつむり


〈9章〉59p

これには理由が二つある。一つは、皇帝から軍を預かったと称しながら、軍を私する軍人がこの乱世に横行したためである。二柳毛がそれに当たらないとは限らない。あるいは自分達は、東南族に売り飛ばされるのではないかと思う者すら居た。
  もう一つは、ここに来る前から、西国(岱泰)の動きが不穏であるという風評を道々に聞くのである。兵士たちは日に日に動揺を増している。
「兵站の補給も、いつまでも保つわけではありますまい。蘭季島の東南族に逆に攻めかけられ、火矢でも放たれようものなら、危ういのはこの兵糧部隊です。敵も、あのように偵察しきって、その一番弱いところをつけば良いとわかってしまったでしょう」
  なぜ動かないのか、と園慕は夫に迫り、せめてその理由を、内に秘めた作戦なりと聞かせてほしいと頼みこんだ。これには、彼女がなんとか夫を信じようとありとあらゆる夫の手の内を思いめぐらせた結果、夫のなせる沈黙が、どうにも作戦らしき深謀には思いがたくなってきたからなのである。
  しかし、なんと食い下がられても、二柳毛は答えなかったし攻撃の指示もださない。かと言って、和睦の段取りを見せるでもない。皇城からは、明日には攻めよ、あるいは撤退せよ、と日によって異なる、明らかに混乱ぎみの、しかし矢のような催促が連日のように訪れるが、二柳毛はやはり沈黙するだけである。
  肩をおとして園慕は二柳毛のもとを離れた。夜営の幕舎にもどり、悶々と考えこむうちに、外から騒々しい人馬の声が聞こえてきた。あわてて外にとび出て、
「何ごとです」
  と、兵士の一人に問いかけると、兵士はふて腐れたような顔つきで、脱走兵が出たのだと答えた。
  園慕の顔からは血の気がひいていった。おこるべくして起こることだったとあらためて思い、すぐさま二柳毛の副官に会いにいった。
  副官は明らかに動揺した。即座に兵糧に損傷はないかを調べるよう兵士に命じ、園慕とともに二柳毛に指示を仰ぎにでかけた。
  岬の突端に高台がある。夜更けになお篝火が焚かれて、いつでも攻めて来いといった風体で二柳毛の陣屋が組み立てられているのが、園慕に見えた。
  副官は言葉を重ねて、撤退か行軍かの指令が欲しいと、もはや嘆願しはじめた。が、二柳毛は何も言わない。
  無駄だ。
  園慕(えんぼ)は首をふり、ため息をついて、副官に後で自分の幕舎に来るようにだけ言い、そのまま騒ぎのまだ静まらぬ夜営にもどり、幕舎の内に入った。
  夜は更けてゆく。

  目をさますや二柳毛は異変を知った。
  まず、仰向けのまま目を開ければ真っ先に見えるべき天幕の天井はなく、かわりに広大な青空が、どこまでも高くそびえて在った。
  日は高くのぼり、いや、もはや翳りゆく時間帯に突入していると見てとれる。
  それより何より、彼を秋の冷気と外界の脅威から庇ってくれていた何もかも……天幕を張りめぐらせていた獣の革も、組み立てられていた木材も、敷き詰められていた布も、その外を取り巻いていた夜営の軍団すら……今、彼が身を起こした寝台ひとつを残したきり、すっからかんに無くなっていたのだ。ここでよくぞ熟睡していたと言えるほど、辺りにはボウボウと潮風が吹き荒れている。
  二柳毛は、覚めきらぬ頭を少しふってみた。
  耳の奥には、深い眠りにあったころからボンヤリと感じていた、鈍い波音がまださんざめいている。
「一服、もられたか」
  ため息をついて頭をかかえたものの、二柳毛にはことさらに、怒りも焦躁も驚きの感情すら芽生えてこない。
  起こるべくして起こったことだ。
  二柳毛はそう思い、おもむろに寝台を降りると、その下に踏まれている土を掘りおこしはじめた。素手ではとても無理なので、懐から短刀を出す。
「うん。よくぞ殺されなかったものだ」
  あらためて彼は言った。誰がこうした事態をひきおこしたのかは定かでないが、『その者』は、自分からありとあらゆるものを取り上げて裸同然の目にあわせておきながらも、生命だけは奪うつもりがなかったようだ。
  なぜなら、直接手を下さないまでも、死んでしまえと思っている相手ならば護身にたずさえているこの懐刀をとりあげただろう。何しろ、あれほどによく組み立てられていた物のほとんどを壊して持ち去られても、なお目が覚めないほどに、二柳毛は深く眠りこんでいた。身につけた衣服ごと、この刀を取り上げられても抵抗できなかったにちがいない。
  地面を掘りおこしてゆくうちに、彼が埋めて隠した物が姿をあらわした。
  骨壷である。
  これをゆずり与えてくれた散鬼は、麻亜、霙和とともに、二柳毛に馬を借り、都にもどっていった。彼らを見送ったその夜から、二柳毛は戦争を行う気がまったく無くなった。しかし、だからといって都に帰るわけにもいかない。
  いや、帰るわけにいかないというのは半ばたてまえであり、二柳毛は都になど戻りたくなかった。東北の彼の家において、猫天地とともに夜空の散歩にでかけたとき、彼が言った言葉そのままに、彼にとっては『政治がどうとかいうことは、どうでもよい』ことだったからだ。
  骨壷についた土ぼこりを袖で拭ってやると、二柳毛は立ち上がり、まだ残っている何らかの薬の後遺症に頭の芯をグラつかされながらも歩きだした。
「東南族だな。彼らの使う麻酔薬のたぐいだろう」
  歩きつつ、二柳毛は昔ながらの医師のカンでそうつぶやいた。
「……ということは……」
  ボンヤリしがちの頭を再度ふって、二柳毛は岬の上からあらためて地形を見渡し、海を見下ろして、目的のものを発見した。
  舟が四艘、足下の海岸に堂々とのりあげている。積み荷の最中であるらしく、大勢の人が出入りし、次々と器材や食糧らしきものを運んでゆく。
  東南族の舟だ。その、先端を急に反りあげさせた特異な造りは、一目でそうと認識させる。
  二柳毛は身を岩場にふせながら岬を下りてゆき、現場に近付いた。
  人々の動きは急速度だった。一刻も早くここをひきあげようと焦ってさえいる。その様子をボンヤリ眺めているうちに、二柳毛は、とつぜん背後から二人の男にとびかかられ、抵抗する間もなく腕をねじあげられてしまった。かろうじて二柳毛は声をふりしぼり、
「縛るな。止めだてする気はない」
  と、命じるように言ってから、
「いや、縛らないでくれ。妻に会いたいだけだ」
  あらためて頼みこんだ。
  頼まれた相手二人は、さすがに躊躇したように顔を見合わせてから、
「柳先生、もはやこれまでです。どうかこのままお引き取りください」
  と丁重な口調で、むしろ頼み返してきた。
  兵士である。二柳毛が率いてきた部隊にいた者たちで、顔に見覚えがあった。そこで二柳毛はいそいで二人の名を思いだし、名を呼んでから再度たのみこんだが、二人は、
「名をおぼえていただいて光栄です」
  と、まずは低姿勢で礼をしたものの、やはり再度おなじことを頼み返して、ますます腕をねじあげてくる。二柳毛はうつむき、
「なぜ殺さない」
  と聞いた。兵士はすかさず、
「園慕様のご配慮です」
  と答えた。


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