「猫天地伝」
作/こたつむり


【第3部】


〈9章〉55p

  はじめ、蚊でも飛んでいるのかと思った。
  耳元に近寄ってきたかと思えば遠ざかる。何ともうっとおしい。かすかとは言え、しつこく付きまとう騒音であった。
「うるさいなあ」
  猫天地はついに手で耳のそばを払ったが、その手に、空を切った感触がない。
  あれ……と思い、そっと耳に触れてみたが、
「耳がない!」
  ガバと、慌ててとび起きると、さらに驚くのは、
「カラダがない!」
  それなら、カラダがない、と思っている自分はいったい……。
「そうだ。死んだんだ」
  即座に思いだすのは、息ひとつできず気も狂わんばかりに熱かった、あの業火である。
  不思議なことに、凄まじく熱かった感触は、体が無くなってしまった今でも生々しくおぼえている。そして、耳が無くなってしまった今でも聞こえてくる、先刻から彼の眠りを妨げているあの騒音をあらためて聞いてみると……。
  おおー魔神よ。おおー魔神よ。
「東南族だ!」
  蚊なんかではなかった。彼ら、東南族がまた何か始めてしまったにちがいない。そう気付くと猫天地は、のんびり寝ていた自分に腹が立った。
  そして、こうしてはいられない、と思ったとたん、どういうわけか彼の目の前に、ズラリと東南族たちのひれ伏す姿が並んだのである。
  真夜中に思えた。今まで自分がどこに居たのかも判らなかったが、何しろ今は洞窟のような所にいる。あたりには篝火が焚かれ、東南族たちは地にこうべを垂れ、自分にむかって何やら必死に祈祷をささげている。
  が、彼らに自分が見えないのか、あるいは祈祷に没頭してるためか、自分の存在など無視してるように見える。
  あっけにとられ、何か言おうとした猫天地の背後から、おもむろに、
「このおろか者。慌てるでない」
  と、猫天地をひっぱりあげるような声が響いた。
「あれ。東南族たちは」
  猫天地が言ったとき、周囲は真っ白になった。
  激変する環境に、猫天地はキョロキョロする。たった今、篝火に香をふりかけながら、怪しいばかりに祈り声を叫びあげていた東南族たちの目の前に居たと思ったのに、もう、雲の中に居る。むんむんとした熱気も、颯爽たる冷気に変わった。
「そうか。体がないということは、思った所にどこでも行けるということなんだ」
  猫天地にも、ようやくこの事がわかってきた。なんだかうれしい気分だった。前から行ってみたいと思っていた場所を、ワクワクと思い描いてみる内に、ふと、
「誰だよ。私を呼んだのは」
  と気付き、改めて自分を呼び止めた声の主に振り返ってみる。そこには、なんと……。
「天戒師!」
  猫天地は仰天した。
「ようやく気付きおったな」と、天戒師。
「じゃ、ここは仙山なのかい?」
  と、見渡すかぎり、雲、雲、雲である。天戒師(てんかいし)は首をふり、
「『あの世』とでも言うのが正しかろう」
「じゃ、天戒師も、いつのまにか死んでたのか」
  猫天地が、びっくりして聞くと、天戒師は、バカめ、と笑い、
「死ぬような仙人は本物ではないわ。美青蘭、張蒙師、都の妖術使い。どれも殺されて死んだ。つまり仙を果した甲斐のない連中だったというわけだ」
「じゃあ、天戒師は……」
「生きたまま天仙を果したのだ。もはやこの宇宙に行けない所はない。この世もあの世も出入り自由なのだ」
「そんな風になれるんだ」
  あのまま仙山で、がんばって修行していれば……。そう思いはじめる猫天地に、師は、
「よいか、猫天地。おまえは死んだのだ。だがそれを、すんなり許さぬ状況がおまえを取り巻いている」
「あれかい?」
  猫天地がそう言って指を向けると、雲の遠く向こうに東南族たちの祈祷する様子がうつしだされた。
「そうだ」と、天戒師。
「私を心配してきてくれたんだね」
  感激して猫天地は礼を言いかけたが、師は、
「別におまえを心配してきたのではない」
  と以前と変わらず、冷淡に言い、
「放っておけないのは、あの者たちだ。彼らは、彼らが築いた祭壇に死者の遺体をおき、それを拝み、呪術をこらして死者を復活させ、あらたなる魔神を作りだそうとしているのだ」
「『シシャのイタイ』ってのは、何だい?」
「おまえの焼死体だ」
  天戒師は、東南族の面前に建てられた祭壇をゆびさした。祭壇の上には小さな箱がおいてある。棺桶だろう。
「冗談じゃないよ」
  猫天地は思い出した。魔神退治をしたとき、太陽光を浴びた魔神の体からは黒焦げの燃えカスが風に飛び散っていったのだ。あれは元々、自分の死体のような物質でできたものだったのか。
「いやだよ。魔神になんかなってたまるか」
  そう憤ったとたん、猫天地は再び燃えあがりはじめた。
  カラダが無くなったのに、まだ炎を吹き上げる自分に猫天地は驚いた。しかし、もっとおどろいたのは、ふきあげる炎が雲の中に跳ね返るうちに、雲のかなたからさらなる炎が吹き付けてきたことである。それは招きよせるように、
「猫天地。くやしい」
  と、声を放った。
「楽阜! 楽阜だ」
  猫天地はさけび、
「天戒師。楽阜に会わせておくれ。楽阜は私に会いたがっている」
  しかし頼むまでもなく、猫天地は雲をぬけて、燃え広がる火炎の中に居た。
「楽阜。この中に居るのかい」
「そうだ。猫天地」
「すごい火の海だ。どこに居るのかわからないよ」
「この炎は、俺がつくるものらしい。俺は悔しくて憤ろしくて、この炎を鎮めることができないのだ」
「炎を鎮めたいのか」
「いや。鎮めたくない。鎮めてしまうと、俺は成仏する。成仏したくない」
  猫天地は愕然とした。そしてなぜか、どうしようもなく哀しくなってきた。
「楽阜。とてもじゃないけど、このまま放ってはおけないよ。見てくれよ、この火の海を。楽阜(がくふ)はこんな所に、いつまでもずっと居るつもりなのか!」


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