「猫天地伝」
作/こたつむり

〈8章〉52p

「あれは仙力の持主の命をも断てる武器ですから、ひとたまりもありません。その後、意識がうすれ最期に耳にしたのは、布を切り裂く音でした」
  美青蘭は猫天地の小指を、おのが指でさして、
「今、あなたが指に付けている、その布」
  猫天地が仰天しつつ自分の小指を見詰めると、美青蘭(みしゅらん)は、
「猫天地。あなたはすっかり騙されたのです。彼が命からがら抱虎山に戻ったように見せ掛けていた芝居を、私は残らず彼の耳元から見ていました。張蒙師の目的は、妖怪の魔力を利用して、この私を殺すことだったのです」
  猫天地は喉がかれきるほど口を開いておどろき、
「毛の言ったとおりだった」
  かろうじて言った。ひきついで散鬼も、
「そんな悪いことをしでかすのは、一体何のためなんだ!」
  怒りをあらわにする。
「目的などあるのでしょうか。私にもわかりません」
  と、美青蘭もさすがに首をかしげ、
「彼はただ、強い者と強い者を戦わせ、そのときに放出された力を吸い取って自分のものにするのです。もっとも得意とするのは蠱術です。虫や獣にはじまって、人間をも無用に死物狂いにさせて、勝ち残った者から、その油断をついて何もかも頂戴するだけです。私も楽阜も精力を保存していた髪の毛を抜かれました。それを自分の髪の毛に結びつけて、相手の力を自分のものとする。そんな光景を彼の髪に結わえつけられたまま、何度も見てきました」
  美青蘭は首をかしげるのを止めて、猫天地に向き直り、
「楽阜が髪をぬきとられ、張蒙師がそれを自分のものにしようとする、そのほんのわずかな瞬間、張蒙師の封印がほどけたのです。封印を解かなければ、楽阜のあらたな精力を加えることができないからでしょう。それまでにそうした光景を見て来たので、この瞬間しかないのがわかって来た所でした。だから楽阜の時、その瞬間をとらえて張蒙師から脱出しました」
  そう告白し、しばらく悲痛をこらえるように黙ってから、最後に見てきた光景……楽阜の壮絶な最期を、ことこまかに語った。
  語り終えられると、散鬼は涙をあたりにとばしながら、
「じゃあ、兄貴の力は張蒙師に利用されちまう」
  と叫んだ。美青蘭はうなずき、
「同じことを、猫天地、言うことを聞かないあなたに対しても行うでしょう」
「誰が聞くもんか!」
  猫天地も叫んだ。
  皆はいっせいに、楽阜の名を叫んで泣きわめき、ついに全員が張蒙師打倒を決意したのだ。

  美青蘭の予測ははずれた。張蒙師はいっこうに現れなかったのである。
  猫天地の一行は、美青蘭の指図どおり大いそぎで抱虎山を離れたが、張蒙師の力量をもってすれば、猫天地の居所をつきとめ、急襲をかけるぐらい造作もなかったにちがいない。
  訝しがりつつも一行は、やがて関所をおとずれる。煕王子が西国軍をひきつれて攻め通った例の関門である。あのとき元皇帝に味方してここを固守した頑固者の一族はとうにおらず、今はなんと、あの李幹がここの守将を補佐している。
  李幹は猫天地の顔を見ると、ハラハラと涙をおとしながら、
「よくぞ、おいで下されました」
  と、ひざまづいた。
「なんで、あんたがここに居るのさ」と、猫天地。
  李幹(りかん)は、二柳毛(にりゅうもう)と同じぐらい功績のあった男である。どころか、もともとは宰相の地位にまでのぼりつめた人物なのだ。二柳毛でさえ皇帝のそば近くに出入りをゆるされている。
  しかし李幹は、空しく首をふり、
「昔日のはたらきなど、今やどこでも取り沙汰されません。私は岱泰との橋渡しの役目を担っていましたが、今は双方から疑われるだけの存在となりはてました。もっと辺境の地へとばされる所を、とりあえず保たれている和平の手前、こうした場に置いてもらえているのみです。いつ、どうなるか知れたものではないでしょう」
「やっぱり岱泰王は、皇帝にとってかわろうとしているのか」
  猫天地が聞いてみると、李幹は、はい、とはっきり答え、
「その危機を回避しようと働いているのは、二柳毛どのだけでしょう。皇帝陛下と私と二柳毛どののうちたてた二国分立の平和論など、結局は夢物語だったのです」
  ひどく絶望的な予測を述べて、こんどは猫天地の用件を聞き、
「この人数で西国の塔まで行かれるのは無謀です。どうか、馬をお使いください」
「あんたの迷惑になるんじゃないのか」
「これは……と思える人の役に立てるのも、これが最後になるかもしれません」
  李幹はそう言って、すぐさま人数分の馬を用立ててくれ、門を開いた。
「西国はつねに異民族に侵攻されつづけたために、中原を奪取して安定したいという思いは大変に強いものがあります。おそらく張蒙師は、そこに付け入ったのでしょう。しかし西国の道士たちが、黙って張蒙師の言いなりになっているとは、私には到底信じられません」
「張蒙師が猫天地を襲ってこられないのは、道士たちに阻まれているせいだろうか」
  散鬼が真剣に言った。
「将軍がつれておられる東南族を恐れてのことかもしれません。しかし将軍。たとえそうだとしても、それは張蒙師だけのことでしょう。なぜなら西国の道士たちは、古来より東南族の呪術をうわまわる仙術をもっているからです」
  李幹はここで、声を強めて、
「魔神を失った東南族は、西国の道士たちの敵ではありません。張蒙師(ちょうもうし)を打倒したのち、東南族をひきつれて彼らの故郷に連れかえることです」
  と言い、猫天地(ねこてんち)をじっと見据えて、
「これが私にできる、最後の忠告と思ってください」
  そう付け足すと、一行が立ち去るのも待たずに門の中に入ってゆき、姿を消した。

  岱泰に入り塔に近付くほどに、東南族たちが魔神への祈りを開始した。
  塔に到着した夜、彼らのうち一人が気も狂わんばかりに泣きさけんで手もつけられなくなった。
  猫天地はあたりに美青蘭を探した。夜になれば彼女は暗闇に姿をあらわせるからである。
「猫天地。今です」
  現れるや、美青蘭は声を放った。同時に猫天地の体は夜空に舞い上がる。
  猫天地は雲間の風を切るように飛翔しながら、初めて美青蘭に会った夜を思い出した。
  散鬼や麻亜、霙和、東南族たちが、美青蘭と猫天地のあとを慕って馬を走らせる。
  とつぜん稲妻が黒天を切り裂いた。
「来たな。不肖の弟子よ」
  下界から、張蒙師の声がたちのぼってくるのを猫天地は、はっきりと聞いた。猫天地は美青蘭とともに雲をぬけて塔の一隅に降りたち、
「張蒙師! 美青蘭と楽阜の敵討ちだ。出てこい!」
  しかし張蒙師は、姿などあらわさない。ただ声だけが、
「行け! 大鷲よ」
  夜空にひびく。


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