「猫天地伝」
作/こたつむり

〈8章〉51p

「おのれ!」
  楽阜は無我夢中で、相手を弾きとばし、そして撥ねとばされた。囲まれた鏡の中で、いつしか彼の体は勝手に跳ね返りあい、自分で自分を強打し傷付けつづけて、衣服はズタズタに破れ、顔も腕も腹も背も足も、すべてが青黒く打撲をおい、皮膚は炸裂して血だらけになり、骨まで砕ける音が凄まじく鏡に反響した。
  やがて、その動きはピタリと止まり、同時に鏡も静止した。
「哀れな奴」
  声とともに、ようやく張蒙師は姿をあらわした。
  血糊でべったりと汚れた壁の片すみに、ただ血を流すだけの肉の塊と化した楽阜がころがっている。そのそばへ屈み、張蒙師は楽阜の髪の毛を指で抜きとりはじめた。
  数本の髪の毛を手にいれると、それを両手にはさみ、なにやら呪文をとなえはじめる。張蒙師の体からかげろうが起こり、手に挟まれた髪の毛から青い光がほのかに放たれる。
  その瞬間だった。
  張蒙師の耳のうしろで何かが動いた。
  張蒙師はまったくそれに気付かない。それは彼の髪の中から渦巻くようにうごめき、スウッと天井に吸いよせられるかのように糸をひいて伸びていった。やがて張蒙師を離れ、天井をぬけてのぼり、塔の上空にまで達すると、
「猫天地!」
  と人の声を放って、猛烈な勢いで都の方角へ飛んでいった。

  猫天地は一行をひきつれて抱虎山にむかっていた。
  一行とは、岱泰に旅立った楽阜に結局追い付けなかった麻亜(まあ)と霙和をはじめ、散鬼とその部下たち、そして再び妖怪退治(ではなかったが、この時はこの言葉が使われていた)と聞いて、町の東南族たちも勝手に猫天地についてきた。
  岱泰にむかう前に抱虎山に拠ろうと言ったのは、麻亜と霙和、そして散鬼であった。彼らは二柳毛への反発から、
「二柳毛が『怪しい』と決めつける張蒙師は、実は正しいのだ」
  と主張した。そこで、張蒙師の本拠である抱虎山において祈祷をし、その霊力にあやかるために、武器などを洞窟から借りてもっていこうということになった。
  東南族たちは逆に、二柳毛びいきである。二柳毛のおかげで自分たちの生活は良くなったという実感がある上、二柳毛の説によれば、張蒙師は美青蘭を殺したのであるから、
「二柳毛が『怪しい』と決めつける張蒙師は」
  ここまでは同じだが、この先が、
「実は悪の根本なのだ。ゆえに抱虎山の洞窟から張蒙師の武器を盗みだし、彼の力をそいでやろう」
  とひそかに思い、そして、自分達が崇めた美青蘭の敵討ちをしなくてはならないという意識を持っていた。
  はからずして目的と目的地が一致している一行は、あいかわらず利害が一致せぬままに、仲良く抱虎山の根本に夜営を張った。この妙な一行は、少なくても皇軍からいつ追っ手がかかっても仕方ない行動を取っており、しかも遠い旅路に出る以上、何らか手を携えた方が利便がはかれるという理由だけで、ともに商人に身をやつして行動していた。
  その夜空をユラユラと白いもやのような人影があらわれる。
「幽霊だ」
  人々はみな怖くて身をすくませたが、猫天地は一人仰天し、叫んだのである。
「美青蘭!」
  言うや駆け出して、空へ両手をつきだした。
「猫天地!」
  猫天地のさしだした手をにぎろうとでもするように、やがて白いもやからは女の手があらわれ、
「猫天地。みんなの言うとおり、私は幽霊になってしまいました」
  もやから現れ出た顔は、うっすらと美青蘭の面影をたたえながら言った。
「いいよ。幽霊でもなんでも、なんで今まで会いに来てくれなかったんだ」
「張蒙師にとじこめられていたのです」
「なんだって!」
  猫天地より先に、散鬼が叫んでいた。
「張蒙師はやっぱり敵なのか」
「今やそう断言できるでしょう」
  と美青蘭はうなずき、
「猫天地。楽阜は張蒙師(ちょうもうし)に殺されました」
  と、教えた。
「楽阜が!」と、猫天地。
「兄貴が!」と、散鬼。
  麻亜と霙和(えいわ)は、真っ青になって声もでない。
「抱虎山に向かうのは危険です。こんな所で寝泊りしているうちに、張蒙師はもどってくるでしょう。一刻もはやく他へ場所を移動するのです」
「美青蘭。美青蘭が張蒙師に殺されたっていうのは本当なのか」
  猫天地はまず聞いた。
「その前に、猫天地。私もあなたに一つ聞きたいことがあります」
  美青蘭も質問してきた。
「あなたは西国の塔を脱出するとき、どうして私の方を振り向いたのですか」
  あのとき美青蘭は、決して振り向いてはいけないと言ったのだ。
  猫天地はこのことをひどく気に病んでいたので、いったん答えあぐねたが、美青蘭は真相を確かめたいのであって、自分を責めているわけではないと思い、
「騙されたんだ」
  と、答えた。
「誰に?」
「妖怪だと思うよ。美青蘭が、助けてって言ってる声が聞こえたんだ」
  すると美青蘭は、今やっと納得がいったという具合に深くうなずき、
「それは妖怪ではありません。それこそ張蒙師のしわざです」
  と言い、なぜなら、と続けた。
「あのとき、桧に守られていた私の存在を、妖怪はすっかり見落としていました。その妖怪に、私の声をマネてあなたを振り返らせることなど出来るはずがありません。それができるのは、あの桧の根にいた張蒙師だけです」
  妖怪は、猫天地が振り返ったことによって、はじめて美青蘭の存在に気付いた。しかし桧が彼女を守っている。そこで妖怪は猫天地を囮につかい、美青蘭を地にひきずりこむことに成功した。美青蘭はそう説明づけた。
「妖怪の目的は紅賈王(煕王子)でしたから、私を殺している暇なんかありません。妖怪は、ただ邪魔な私を封じ込めただけです。私は土の中にとじこめられて、なんとか脱出しようと祈祷を念じていました」
  そこへ張蒙師があらわれた。助けにきてくれたのだと思った美青蘭は油断をした。張蒙師は祈祷をつづけるように言い、言われたとおりに祈祷をつづけていたら、
「その間にいきなり胸を刺されました」
  武器は宝剣であった。おそらく、猫天地が妖術使いを撃ったものと同じだろう。


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