「猫天地伝」
作/こたつむり

〈8章〉50p

「猫天地を? 皇帝陛下は?」と、張蒙師。
「はい。太上皇に手紙でも書いていただければ、それをまず皇帝陛下に届けます。皇帝陛下には都に居ていただき、太上皇は、師と私と猫天地、そしてさきほどの三人の騎士たちが力をあわせれば、救出できるのではありませんか」
「ふむ」
「それならば戦にもならず、太上皇の身に危険も及ばないでしょう」
「なるほど」
  と行ったきり、しばらく黙っていた張蒙師は、
「わかった。太上皇にお筆を執っていただこう」
  と同意した。そこで楽阜はすかさず、
「太上皇にお目通り願いませぬか。そのご様子をお伝えすれば、皇帝陛下もいっそう信じてお父上を案じてくださいましょう」
  と申し出た。
「良かろう」
  張蒙師は軽く承諾し、楽阜をつれだって通路に出た。

  通された部屋は、驚いたことに四面が鏡貼りされ、楽阜の目に、おのが姿が幾つも映る。
「寒いな」
  楽阜はつぶやいた。すると、
「腐りやすいものが置いてあるからな」
  返ってきた張蒙師の声は、すぐ近くに聞こえるのだが、師自身の姿が部屋のどこにも無かった。
「腐りやすいもの?」
  楽阜は張蒙師の姿をさがすのを中断し、言われた『物』に目標をきりかえた。そして、おのが姿と同様に鏡に幾つも映っている大きな箱を見付ける。
  棺だろう。その周囲を冷気が覆っているのは、棺の下に敷き詰められた氷のなせる現象にちがいない。
  楽阜は棺の蓋をあけて、
「あっ!」
  と声をあげた。
  横たわっている遺体は、すでに腐りはじめてはいるものの、間違いなく太上皇のものだった。楽阜が皇城の兵士だった時には、直接顔をあわせる程の近距離でのお目もじは適わなかったが、猫天地が魔神と戦ったその前、二柳毛と忍び込んだ皇城おいて、楽阜は皇帝であったときの太上皇を見たことがあった。
「これは、一体」
  目を見張っていると、
「楽阜。屁理屈をコネすぎたな。おまえはいつからそんなに頭を働かせるようになったのだ」
  張蒙師の声が、どこからともなく響いた。
「師……師よ。張蒙師!」
  楽阜は四面の鏡にむかって叫んだが、あいかわらず張蒙師の姿はどこにも見えない。声だけが、にわかに優しい調子を帯びはじめた。
「わかっているぞ。おまえは無い知恵をはたらかせて、それでも何とか理を通そうとしただけだ。師に逆らうほどの意志があってのことではなかったのだな」
「逆らうなどと……ただ、私は……」
「そうか。わかってくれたな」
  楽阜は、うんとも、いいえとも言えず、ただ呆然と太上皇の亡骸を見詰めつづけた。
「わかったら、黙って都にかえし、猫天地に皇帝を連れて来るように言うのだ」
「何のために、それほどまでに皇帝を……」
「その遺体を見て、わからぬか」
  楽阜はあわてて首をふった。
「何のことやら、さっぱりわかりません」
「そうだ、楽阜。おまえはそれでいい」
  張蒙師(ちょうもうし)は、あいかわらず優しい声音でそう言い、
「しかし今後のこともある。わしの腹のうちを明かしておこうか」
  と、前置きして、
「わしが、その男をかばったのは、そやつが印綬のありかを心に秘めていると見込んだからなのだ。ところがその男は、さいごまで印綬のありかを教えなかった。あるいはそやつすら知らない所に隠されているのかもしれぬ。だとしたら、妖術使い(蘇由殊)の仕業だろう。そうとわかっていれば、猫天地に殺させるのではなかった。しかし後の祭りだ。印綬をもたぬその男が、楠打王を擁するのも無理なら、自らが皇帝の座に返り咲く日とて永遠に来ないだろう。生かしておいても意味はない」
「なんということを」
  楽阜は息を飲み、
「それでは、皇帝陛下をここにお連れすれば、師は……」
「よいか、楽阜」と、張蒙師は言う。
「皇帝とは少なからず、道士たちの意見を聴き入れながら政治を行うものだ。岱泰王とて同様だ。しかし、力で皇帝の座にのしあがった今の皇帝は、印綬がなくても、道士がいなくても皇帝でありつづけるだろう。そうした皇帝など無用なのだ。……であるばかりか、むしろ障害でしかない。軍隊をひきつれて来るなどというのが、その障害のひとつだ。その死体が皇帝だったときには、ありえない事態だった。その男は常に道士……つまり妖術使いの言いなりだったからだ」
  楽阜は太上皇の亡骸の上から、静かに蓋をかけて、蓋の上から涙をおとした。
「術をさずけ、自衛団を組織させ、その答えがこれなのか」
  叫ぶ楽阜に、張蒙師はさらに言う。
「楽阜。わしはおまえの、何かのために死んでもよいとまで思う情熱をこそ認めた。猫天地とて同様。あのころの純粋なおまえに戻れ。そして、猫天地に皇帝を連れて来るように言うのだ」
「猫天地は聞き入れないだろう」
「そのときは、即座に殺すのだ」
「こ……殺す?」
「毒ならばあの体術をもってしても抗しきれまい。毒をもるのだ」
「そういう事だったのか」
「そういう事だ。承諾をせねば、おまえにも同じ目にあってもらう。今やわしには、おまえや猫天地の他にも使える弟子ができた。何も、くどくど説明や説得をせねば動かぬ者の機嫌をとる必要などなくなった」
  この言葉が終わらぬうちに、四面の鏡が鈍い音をたてて楽阜にせまってきた。
「楽阜。最後だ」
  張蒙師の声は、近付いてくる鏡に反響して、楽阜の耳にせまった。
「死んでもよい。そういう気になれ。わしは人々の必死の思いに乗って、ここまでやって来たのだ」
「おのれ! 張蒙師!」
  突然、鏡の中から、楽阜(がくふ)の影のひとつが抜け出た。
「楽阜。俺が相手だ。さあ来い!」
  影はさけんだ。応じて楽阜は、影の『楽阜』に発勁をくらわした。
  すると自身の体がポーンと撥ねて、うしろの鏡に背がたたきつけられる。楽阜は目をまわしながら影の『楽阜』をさがしたが、その姿はもう無く、かわって左右から二人の『楽阜』が飛び出した。
  発勁を撃つ。しかし、跳ね飛ばされるのは自分だった。
「俺は俺と闘っているのだ」
  ようやくそうわかって来た時には、四面の鏡はますますせまって、その中から、
「楽阜。さあ来い。楽阜、さあ来い」
  という声が重なりあった。


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