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「猫天地伝」
作/こたつむり
〈8章〉49p
かつて紅賈王が閉じ込められていた塔は、今も岱泰にある。当時のように周囲を嵐で取り巻かれてはいなかったが、かと言って周囲に栄えた都市があるわけでもなく、また主要な道筋から外れていたため、閑散として人通りも殆どない。
楽阜は岱泰に入り、かつての郷友を訪ねた後、すぐさまこの塔を目指した。張蒙師がこの塔に押し込められているという噂を郷友に聞いたからだ。そして今、塔の裏門の足下をゆるやかに流れる川のへりに潜んでいる。
塔はかつてに比べ、その周囲を頑丈にして高い壁が覆い、要塞堅固になっていた。妖術にかわって人工的に人を寄せ付けない作りになったと言うべきかもしれない。むろんそれは戦などにそなえてのものであろうし、楽阜(がくふ)にとって関係のある事柄ではなかったが、要塞堅固な建築物とは、それだけで人を威圧し萎縮させ、警戒心をもよおさせる。
楽阜は塔の正門を本能的によけ、裏門にやってきたものの、やはり中に入るには相当の用件か何らかの身分が必要であるように思えた。しかも一度追い払われたら、二度と中には入れない事への用心も起こったのである。それでここまで急行したものの、ここに来てふと慎重になり、さっきから川のへりから下手に動けないでいるのだ。
ところで楽阜のこうした不審な行動は、塔からは意外と丸見えだったようである。
唐突に裏門がひらき、何騎かの者たちがパカリパカリと川にむかって下りてきたな……と思いきや、予期せぬことに彼らはいきなり馬をおり、草むらにわけいってきて、めいめいその姿を見せた。
騎馬武者は三人いた。驚いて身構える楽阜に全く余裕をあたえずに近寄ると、三人が互いに声を掛け合う事もなく、つまり計画ずみの動き方で楽阜の体をおさえこんだ。
声も失うほどに、楽阜は驚愕している。
何故、体術が効かないのか。
三人の男たちは、一人として楽阜に弾きとばされなかったのだ。この事は、彼らが自分に何の用があるのかという事よりも重大に思えた。
楽阜は生まれてはじめて捕縛され馬に相乗りさせられると、塔内に連れ込まれ拘束される。
すっかり動転し、自信を失いかけた楽阜が、成す術もなく一人きょろきょろと閉じ込められた室内を見渡していると、
「楽阜よ」
と聞き覚えのある声にふりかえらされた。
「あっ。張蒙師!」
まちがいなく張蒙師が背後に立っている。戸が開いた気配はなかった。もっともそれが張蒙師がお手のものとしている術の一つであることは、楽阜も了解ずみではある。
「手荒なことをさせて悪かったな」
と、まず張蒙師は謝り、みずからの手で楽阜の身をしめつけている縄を解いてやりながら、
「わしがこの塔に幽閉されていると聞いてやってきたのだな」
と言い当てた。
「その通りです。しかし、こうして無事におられるという事は、あれは流言だったのですか」
「まんざら流言でもない。現にわしは今、岱泰王とは険悪な状態だ」
「太上皇(元皇帝・飯聞帝)を庇いだてなさったためと聞き及びますが」
縄を解きおわると、張蒙師(ちょうもうし)は正面から楽阜を見て、
「その通りだ」
「先程のあの者たちは、一体……」
楽阜の言うのは、楽阜をここまで連れてきた三人の騎馬武者たちだ。
「あれはわしの弟子たちだ」
「弟子?」
それで……と、楽阜は納得がいった。
体術のことである。楽阜や猫天地と同等の体術をもった者たちならば、自分を弾きとばせないのも道理だった。
納得はいったが、楽阜には不満が残った。
「この術をもたらされたのは、私と猫天地だけだと思っておりました」
と、真っすぐに不満を口にしたが、張蒙師は楽阜の意がわかっているのかいないのか、
「あの者たちこそ、このわしを護衛する者たちなのだ。彼らがおるゆえ、わしはこうしてこの塔の中にあって、誰にも無礼を働かれずにすんでいるのだ」
と話の矛先を変えた。不満ははぐらかされたが、こう説明されると楽阜はさらに納得がいき、
「我が師を守ってくださるということは、彼らは太上皇の処遇に関して、師と同じ意見をもっているわけですね」
ところが張蒙師は、それには答えずに、
「楽阜よ。これより都にもどり、猫天地を介して皇帝をここに連れ出させるのだ」
せかせかと命令してきた。
楽阜は何のことかわからずにポカンと口をあけたが、張蒙師はそんな楽阜におかまいなく、
「早く行くのだ。この部屋からつづいている通路を出ると、そこに大鷲がおる。あれを使えば一足飛びに都まで行けるはずだ」
と手だてを与えた。
「ちょっと待ってください」
楽阜はそう言ってから腕をくみ、
「もう少し何か説明して下さい。猫天地ならともかく皇帝ともなれば、ちょっと来てくれ、というわけにはいかないでしょう」
「もっともだ」
張蒙師はそう答え、照れるように頭髪をかいた。張蒙師らしい愛嬌のある仕草だった。
「今の皇帝は南下策をとっている。岱泰王はそれを良いことに、弟王である楠打王を押し立て、都をのっとり王朝を滅ぼしたあげく皇帝にとってかわろうとしているのだ。これを知った太上皇が確帝(現皇帝)にこのたくらみを知らせようとしたために、逆に察知され、岱泰王に幽閉されてしまった、というわけだ」
ところが、と張蒙師は太い溜息をついた。続けて、
「悪いことに皇帝は、むしろ岱泰王からもたらされた『太上皇、再起の動きあり、楠打王謀反』の報告を信じて、父太上皇の幽閉に賛同してしまったのだ」
なにしろ現皇帝から見れば、実父とはいえ太上皇は、いぜん紅賈王(煕皇子)であったころの自分を西国の塔におしこめた張本人だ。しかも弟の楠打王は父帝をたぶらかした妖術使い、蘇由殊の孫にあたる。この父子が言う、岱泰王に謀反の企てあり、という報より、自分を擁護してくれ兵まで貸してくれた岱泰王の言うことを信じるのも無理はない。
「太上皇は、わしがここを離れればこんどは殺されるかもしれない。それに皇帝陛下は、わしが言っても太上皇の陰謀と疑うだろう。この役目は、皇帝と義兄弟のちぎりをかわした猫天地でなくてはならないのだ」
「なるほど、そういう事なら」
楽阜(がくふ)はようやくすべて飲み込めたという顔になり、
「仰せのとおり、これより大鷲に乗って都に行き、私が猫天地にこの事実を伝ましょう。猫天地の言うことなら、確かに皇帝陛下は信じてくださるでしょう。猫天地に軍をひきいてきてもらい……」
「また戦か、楽阜」
張蒙師はイヤな顔をして、
「よいか。太上皇は人質なのだ。軍隊など連れこまれては、真っ先に命を断たれるだろう」
と、否やを問うた。
楽阜はナルホドと思いながらも、何か変だという気がしてならない。しかし彼の性分で、それを口にして説明しきれる自信が足りなかった。そこを張蒙師が、
「よいか、楽阜。皇帝に一人でお出まし願わなくては、根本の解決にはならない。結局、親子がいつまでも疑いあっている限り、この三つどもえの複雑な状況は回避できないのだ」
と言葉をつぎたしたので、楽阜はひとまず素直に、
「わかりました。それならこれより猫天地(ねこてんち)を呼びに参ります」
とだけ応じた。