「猫天地伝」
作/こたつむり


〈6章〉41p

「美青蘭!」
  気付いたとき、猫天地の体は空に舞い上がっていた。
  大鷲がともに羽ばたき、不安定な空中の猫天地をもちあげるように背にのせてやる。
「どっかに妖怪がいる! 美青蘭はそれを私に教えたいんだ」
  猫天地は確信した。行く手には虹の橋がかかっている。

  暗闇の中にいる。
  おおー魔神よ。おおー魔神よ。
  遠くから人々の呼び声が聞こえてきて、猫天地はハッと跳び起きた。
「あれっ。一体どうしたんだ。眠っていたとでもいうのか」
  信じられないことだったが、猫天地は暗い洞窟のようなところに寝ていたのである。
「ここは抱虎山か。いや、ちがうな。なんだか変な匂いがする」
  犬のように鼻をクンクンさせるうちに、猫天地は寒気に襲われてゆく。
「いやな匂いだ。どっかで嗅いだことがある」
  首をかしげ、遠くから聞こえる魔神への祈祷を聞くうちに、
「思い出した。都の西門で、東南族や魔神と戦ったときに嗅いだ匂いだ」
  と、いうことは、近くに東南族がいるにちがいない。猫天地はそう思い、手探りで歩きだした。
  嗅いでいるうちに、東南族たちが用いる香草の匂いだということがわかってきた。呪詛調伏するおりに使われるもので、美青蘭は町民の迷惑を気にしてその使用を禁じていた。
  いやな匂いにはちがいなかった。人を恐怖におとしいれる作用でもあるのだろう。しかし今、猫天地はむしろ、この奇妙な匂いに励まされているように感じ始めていた。
  匂いを頼りに行く先を決めて歩いていたが、それはしばしば風に妨げられて遠のいた。風が吹くたびに闇は深まる。
「来るな。猫天地」
  ふいに風にのって声が聞こえてきた。前方からである。間近い。
「行け。猫天地」
  今度は後方から、遠く、しかもたち上ってくる声がする。
「行け!」
  声とともに、いきなり目の前に剣が現れた。びっくりして手にとるや猫天地は叫んだ。
「張蒙師だ! 張蒙師の宝剣だ」
  握りしめ前にかざすと、風は止み、ほのかに明かりがさして、
「虹だ!」
  やっと探していた目的を見付けることができた。
「来るな、来るな、来るな」
  前方の声はまちがいなく虹の方向からやってくるのに、その姿が見えない。
  猫天地は宝剣の切っ先を額にあて、目をこらして虹を見た。
  見えないと思うと何も見えなかったが、見えると念じると、かすかに虹の彩りにまぎれてユラユラとうごめく影のようなものが見えた。
「行け!」
  三たび声がのぼってくる。同時に猫天地の背後から、ビュッと音をたて闇を切って、数本の宝剣が猫天地を通りこし、虹にむかって飛んでいった。
「逃がすものか。妖怪!」
  猫天地は飛んでくるうちの一本を右手にとり、はじめに手にしたものを左手にもちかえて、突進した。
  すると、今まで猫天地も虹もつつんできた闇が、いっきに晴れた。
「あっ」
  猫天地は驚く。彼の周囲を、昏倒したはずの東南族たちがびっしりと取り巻いていたからだ。彼らは両手から幾本もの糸をのばし、その先はすべて虹にむかっている。
  おおー魔神よ。
  足下から聞こえてくる声が、その糸を震わせて虹に振動を与えている。
「猫天地。この上を亙れ」
  東南族の一人が言った。
  猫天地はうなずき、無数の糸のうえに躍り上がった。いっきに駆け抜けて虹に到達すると、急に人影があらわれた。
「ちきしょう! 来やがった」
  虹の光に溶けて姿を隠していた小柄な男が、そう叫んで正体をあらわしたのだ。
「お前が妖術使いだな」
「待ってくれ」
  男はその両足を、東南族たちが放つ無数の糸に縛られて、逃げるに逃げられない状態なのであった。
「あがいても無駄だ」
  と猫天地ははじめて妖術使いらしき男の顔を見て、あっと驚いた。
  見た覚えがあるのだ。確か皇城で見たのだろうが、そのどこでいつ頃見たかまでは思い出せなかった。しかし、今の皇帝に取りまいていた連中の一人である事は間違いなかった。
「お前が蘇由殊か」
  猫天地にはこの男が諸悪の根源だったと思え、いよいよ宝剣の切っ先を向けた。
「そうだ。が、待ってくれ。おまえが猫天地か」
  恐怖のあまりか、男の口からは泡がとびでている。糸に引っ張られてズルズルと虹からすべり落ち、それを辛うじてこらえて再びよじのぼっては猫天地をふりかえる。
「欲しいものは何でもやる。望みもかなえてやる。殺すな。皇城にも皇帝にも未練はない。望みを言ってくれ」
  そのぶざまな姿に猫天地は怒りを爆発させた。
「望みはおまえを殺すことだ。美青蘭のかたきを討つ!」
  すると、もっている宝剣が二本の合間に共鳴して声をはなった。
「そうだ。猫天地。その者と口をきくな。口をきけば頭をやられるぞ。皇帝のようにな」
「張蒙師! 来てくれてたんだね」
「猫天地。東南族のおかげだ。彼らの所業を無駄にするな。美青蘭の死を無駄にするな。行け! 奴を刺すのだ」
  猫天地は蘇由殊を追って虹を這いあがったが、蘇由殊は呪文をとなえて虹の距離を延ばした。上がっても上がっても敵との距離は縮まらなかった。
「えい!」
  猫天地(ねこてんち)はすべりやすい虹の一箇所に宝剣をつきさして、その上に足をかけた。すると援護射撃が飛んでくる。
  張蒙師の宝剣だ。
「よし!」
  猫天地は一本をとらえ、さらに刺し、また一本をとらえて刺し、虹の上には階段がつくられていき、猫天地はそれをいっきに駆け上がり、ついに蘇由殊に到達した。狙いを定めて発勁をくらわし、虹からつきおとす。
「待ってくれ」
「黙れ!」
  ともに虹をとびおり、猫天地は宝剣を投げる。
  蘇由殊の絶叫が響いた。その胸には見事に宝剣が貫かれている。
  猫天地は天にむかってさけんだ。
「美青蘭! かたきを討ったよ」
  自分の声だけがこだまして返ってくる。猫天地は捨てられた赤子のように、雲間で独り、しゃくりあげて泣いた。


40p

戻る

42p

進む