「猫天地伝」
作/こたつむり


〈6章〉38p

  猫天地は、ふるえる手で泥にまみれた遺品を撫でた。その小さな布きれに美青蘭自身を確かめようとでもするように何度もくりかえし撫でた。ついに涙がこみあげ、目の前が見えなくなってくる。オオッと猫天地の口から咆哮があがった。彼は師の体にとりすがって泣きわめき、身をはなすと渡された布きれを顔にこすりつけて、またオオッと叫んでは泣いた。
「許せ、猫天地」
  散鬼が水を汲んできた。猫天地は慌てて涙を拭くと、それを師の口にあてがった。張蒙師はもどかしそうに唇をわななかせて体内に流しこみ、
「妖怪は思った以上に強い。さいごまで正体を掴む事すら、いや姿を見る事すら出来なかった。恐らくその正体が塔には居なかったからだろう。わずかに地を伝って妖怪の思考が読み取れたが、どうやら皇帝を操っているのは彼、あるいは彼らだろう」
「確か煕皇子も牢屋でそんな事を言ってた。蘇由殊(そゆこと)って奴らしい」
  猫天地は、紅賈王と二柳毛の問答を思い出し、張蒙師に伝えた。
「やはりそうか。奴らの正体は皇城に居るのだ。そして奴らは皇太子(紅賈王)が皇帝に会い、父子が直に話し合う事態を何より恐れているだろう。わしはなんとか脱出できたが、脱出した時、妖気は少しも衰えずに、最後の一撃をわしに食らわせてあの塔から出ていった。紅賈王は妖怪一派に取り戻されるかもしれぬ」
「あんまりだ! それじゃ美青蘭がかわいそうだ。かわいそうすぎる!」
「そうだ、猫天地。美青蘭の死を無駄にしてはならぬ」
「ちきしょう!」
  猫天地は立ち上がり、
「かたきをとってやる。妖怪をぶっ殺してやる」
  にぎりしめた布きれを見ると、またもやとめどなく涙があふれでた。猫天地は妻の形見をおのれの小指に結びつけ、美青蘭、とつぶやいた。
「妖怪を倒して、煕皇子を皇帝にして、東南族のみんなが住めるような国をつくるよ。だから……だから……」
  妻の形見をおのれの小指に結びつけて、頬につけると、猫天地は、
「私が死ぬまで、どっかで待ってておくれ」
  洞窟じゅうに響きわたる声でさけんだ。
  小指の布きれが、猫天地の涙を吸いとってくれた。それは、初めて会った日からいつも自分を励ましてくれた美青蘭の心の一部のように猫天地には思えた。

  張蒙師の傷はなかなか癒えなかった。
  散鬼は張蒙師の助言にしたがい、都にもどって、混乱しがちな町の人々に、一番悪いのは「妖怪」なのだと教えに行った。蘇由殊という具体名は避けるよう張蒙師は指示を与えた。
「いま皇帝側に暴動や反乱を起こす者どもと思われるのは良策ではない」
  との配慮からだったが、東南族の人たちはそれを聞いて何をおもったか、大きな人形をこしらえ、昼も夜も拝みはじめた。散鬼はその人形がどことなく美青蘭に似ていると言い、又それを言いまわって、東南族に悪意のないことを町の人に印象づけなければならなかった。
  猫天地は張蒙師のそばをはなれず看病した。師は、
「猫天地。おまえが美青蘭にかわって東南族をまとめるのだ」
  と、よく言ったが、猫天地はやや放心した表情で、
「教祖ったって、あの人たちが美青蘭にささげてたお祈りは、魔神にやってたのとおんなじだったよ。それを美青蘭は、いつもため息ついて見てたんだ」
  などと答えた。
「仕方ないだろう。彼らはそれしか知らぬのだから」
  張蒙師(ちょうもうし)は以前とは打ってかわって、東南族への対策に積極的になってくれた。それが美青蘭の遺志をつぐ事とわかっていながら、猫天地(ねこてんち)は困難を前に肩をおとし、首をふるばかりだった。
  妖怪は憎かったし、東南族に肩入れする気も変わってはいなかった。しかし何を変えても、もう美青蘭がいないのだと思うと、猫天地は自分でも不思議なほど無気力になる。いつもの何倍も気力をふりしぼらなくてはすぐに憂鬱にとらわれた。

  翌日、猫天地がやはり都の人々の様子を見て張蒙師の洞窟に戻って来ると、洞窟に続く道で、何やら“わけあり”な一行と出くわした。猫天地は訝しそうにその一団を通り越しながら、一団の殆どが女性で、しかも大変な美人揃いである事におどろいた。やがて猫天地が洞窟内に入るのを止め立てするように、
「お忍びで参ったのです」
  と、一人が進み出て口をきいた。
「誰に“ないしょ”で来たって言うのさ」
  猫天地には「お忍び」の意味がよく判らない。
  ブスッとした顔で無礼な口をきく猫天地に、その女性は、
「あちらは、おそれ多くも皇后さまであらせられるのですよ」
  と、ひっそり声を沈めながら扇を廻して、まだ洞窟にまで到達せぬ一行を指し示した。
  一行はどれも質素な身なりをしていて、確かにお忍びである様子だったが、その中から一人、とても小さな体の人形のように美しい色白な女がでて、しずしずと土を踏みしめつつやって来た。
  その女……皇后は、猫天地に軽く会釈をして通り越し、一人洞窟に入るとおもむろに声を発した。
「皇帝陛下は天命をさとられ、退位のご決意をおもちです」
  誰に言っているのだろうと猫天地は首を傾げたが、この言葉の重さがわかる者なら、その声が悲しみと緊張に震えていることを見逃さなかっただろう。果たして皇后の声に呼応するかのごとく、闇の中から張蒙師がスッと姿を現す。
  皇后は張蒙師を目に認めると、はじめてその方向に向かって静かに跪き、うやうやしく頭を下げて続けた。
「仙人さま。いま都に、紅賈王(煕皇子)が西国の塔を出られた話が広がっております。皇帝陛下はこれを聞かれ、退位のご決意をぜひ紅賈(こうか)王に伝えしたいと仰せになられました。が、陛下をとりまく悪官に邪魔をされ、使者を出すのも思うにまかせません。また使者を出せたところで途中を岱泰王にはばまれるやもしれませぬ。皇帝陛下は紅賈王の元に正しくご自分のお心が伝わりにくい事を案じておられます」
  そこで、と皇后は一度息をつぎ、
「どうか仙人さま。こうした邪魔だてを一切加えられないあなたさまのお力をお借りしたいと、こうしてやって参りました」
  猫天地は、皇后の夫を思う心に揺り動かされた。そこで張蒙師が、よかろう、と返事するのを期待していたが、師はいつに似ずひどく堅い表情で、
「紅賈王は、もはや西国にはおらぬだろう。時すでに失したのだ」
  意外な返答をした。猫天地は驚き、
「じゃあ何処に行ったのさ」
  と大声を出した。張蒙師の答は意外であった。
「つい先ほど、二柳毛から知らせが来た。思った通りだ、猫天地。岱泰王は紅賈王を先頭に押し立て、軍を発して都に迫っている」
  皇后の小さな顔はみるみる青ざめ、
「なれど、紅賈王とて、人倫の道にそむいて父君であらせられる皇帝陛下の御意をたしかめもせず、自国に人馬を踏みいらせるなどという道をとろうはずがございません」
「道など選びようもない。皇帝の周囲には妖術使いがおるではないか。奴は紅賈王の命を狙っている。なぜだ。奴は、相手が紅賈王では自分たちの言いなりにはできないとわかっておるからだ。そもそも、この妖怪が不老長生など吹き込んで皇帝をそそのかし、皇帝が我が後継を遠国に遠ざけたあげく、園扁などと裏で結託してあの塔におしこめたときから、こうなる運命だったとしか言いようがない」
  これを聞いて、声も出なくなっている猫天地だったが、その彼を見ながら張蒙師は、
「猫天地。おまえの嫌いな親子げんかだが、これが国を決する者のやるケンカなのだ」
  と言い、あらためて皇后にむかって、
「今ごろ退位のご決意を持たれたところで、遅きにすぎると、そうお伝え下され」
  見放すように言いきった。


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