「猫天地伝」
作/こたつむり


〈6章〉37p

「助けて。猫天地、助けて!」
「美青蘭!」
  もはや振り返らずにはいられない。と、思ったその目に映ったものは、
「だめ! だめ! こっちを向いてはいけない」
  と、顔面を真っ青にしながら首をふる桧の上の美青蘭だった。
「しまった。ワナだ」
  幻聴にひっかかった、と気付いたときには遅かったのである。
「土が!」
  二柳毛がさけんだ。彼の足下から土がめくれあがり、海面のようにぶかぶかと揺れ動いては波を発して、猫天地に襲いかかってゆくではないか。
「猫天地!」
  思わず二柳毛(にりゅうもう)は飛び付いて猫天地の足にくみついたが、猫天地の体術に弾きとばされ、もんどりうって地に投げだされた。
「猫天地(ねこてんち)!」
  おなじく美青蘭も、猫天地を助けようと桧の枝の一本をグーと伸長させ、猫天地の手元にとどけた。
  猫天地はとどいた枝の先端をにぎりそれを伝って、桧のほうへ行こうともがくが、次々と土の波に覆われてむしろ地下に引き込まれてゆく。彼を丸ごと飲み込んだ土は枝を握る彼の手だけを残し、さらにその手を伝って、手にぎられた桧の枝を這って上り詰め、ついに見付けたとばかり、美青蘭の体にまで到着した。
  そのとたんである。美青蘭を抱いていた桧の木はメリメリッと音を発て、立て割れにヒビを入れられ凄まじく八方に裂けて、樹上の美青蘭を軽々と放りだしてしまったのである。
  猫天地を覆ってきた波より、さらに大きな土の波が地下から盛り上がり、真二つに口をあけるや、美青蘭の体を一飲みに吸い込む。
  気付くと猫天地は地上に放りだされていた。まるで土が美青蘭を得たかわりに猫天地を吐き出したかのようであった。
  暴風のみを残して、激しい震動はピタリとおさまった。
「美青蘭。美青蘭」
  彼女を飲み込んだ土がどのあたりなのか、すぐには見当がつかなかった。それほどに地の一面が掘り起こされてデコボコに荒れ果てている。
  猫天地は美青蘭の名をさけびながら、半狂乱になって地面をたたいた。が、何ひとつ返ってこない。二柳毛や紅賈王まで夢中になって土を素手でほじくり返しはじめたが、反応はなかった。そこへ、
「待て、猫天地」
  という声とともに土の中から、ズボリと姿をあらわしたのは張蒙師である。
  彼は全身土まみれのまま呪文をとなえはじめ、終わるや、
「このまま行け。美青蘭はわしが救いだす!」
  と、大声で告げると、ふたたび見る見る足から土の中にズブズブともぐりこんで姿を消しかけ、その頭が地に隠れる寸前、さらに、
「行け! 皇子を守れ」
  と叫んだ。
  張蒙師が土にもぐりきった瞬間から、また凄まじい風圧が押しよせてきて、紅賈(こうか)王と二柳毛と猫天地を、あっという間に引き離した。
「猫天地! 風を……」
  二柳毛は草をつかんで風圧に逆らい、さけんだ。
「美青蘭! 張蒙師!」
  泣きながら猫天地は風にむかって発勁を撃つ。
「美青蘭! 張蒙師!」
  風はさいごの猛威をはねのけられ、三人の男はついに魔界を脱して草むらにたおれこんだ。
「王! よくぞご無事で」
  李幹が走りよって、紅賈王の体をかかえこむ。
  振り返ると、あいかわらず暴風の逆巻く風景がある。 ただそこには、美青蘭の拠っていた桧の大木が、一本まるごと無くなっていた。

  救出された紅賈王は、李幹(りかん)にともなわれ二柳毛とともに岱泰王のもとへむかった。李幹はこのときのために、かねてより塔付近の村に頼み、岱泰から借りた警備の軍を隠しておいたのだ。
  猫天地は大鷲にのって一人で抱虎山にもどってきた。一刻も早く、美青蘭と張蒙師(ちょうもうし)の消息を知りたかったからだ。
  抱虎山に到着すると、そこにはなんと、散鬼がいた。一人でのぼりつめて猫天地を待っていたという。
「困ったことになった」と、散鬼。つづけて、
「やっぱり美青蘭がいないと東南族はおかしなことになる。美青蘭(みしゅらん)は戻ってないのか」
  と、猫天地に迫った。
  猫天地が暗い顔をして経過をのべると、散鬼は頭をかかえた。
「今、都の外にまた東南族が侵入してきている。どうも俺らと一緒に暮らしてきた東南族の人たちが招きよせているようなんだ」
「招きよせる? どうやって」
「呪術だよ。やっぱりあいつらは魔神と切っても切れないんだな。魔神はまだいるような事を言っている」
「もういないじゃないか」
「そこがどうもよくわからない。とにかくそう信じているんだ。なにしろそう信じていれば、遠くにいる同朋と連絡がとれるんだから、わけがわからんよ。町の人たちはすっかり気味悪がって、やっぱり東南族は追い出すしかないと言い出す者がいる。それで困っているんだ」
  猫天地は、はあっと溜息をついた。猫天地にしてみれば、今はそれどころじゃなかったのだが、かといって見過ごしにはできない。美青蘭がもどってきたら、こんな話を嘆くだろう。
  そこへ大鷲の激しい奇声が聞こえてきた。
「美青蘭と張蒙師だ」
  そう叫んで洞窟をとび出ると、猫天地は仰天した。
「どうしたんだ! 張蒙師」
  張蒙師は傷だらけだった。大鷲の体にくず折れて息をあえがせ、生きているのがやっとというように疲れ果てているではないか。彼のまとっている着物はズタズタに切り裂かれ、いつも黒光りしていた頭には白髪がまじっている。
  猫天地に抱きかかえられるように洞窟に入ると、入り口で、ここで座らせてくれ、とでもいうように首をふって自ら倒れこんだ。
「張蒙師。美青蘭は……」
  師の手をにぎって猫天地が聞くと、張蒙師はにぎり返しながら息も切れ切れに、
「美青蘭は……死んだ」
「えっ!」
「許してくれ、猫天地。わしは美青蘭を……す、救えなかった」
  そう言って、張蒙師はもう片方の握りしめていた手のひらを開いた。
「これは、美青蘭の……」
  うけとったのは小さな布きれだった。まぎれもなく美青蘭のまとっていた衣の切れ端だった。
  信じないわけにはいかなかった。いや、これを持って来たのが張蒙師で無ければ、猫天地は美青蘭の生存に望みを繋いだかもしれない。が、張蒙師は苦しそうな息で語った。
「美青蘭は土の中で、もはや事切れていたのだ。仙女は遺体をのこさぬものだから、やがて彼女は土に溶けて消えた。この布きれをつかみとるのがやっとだった」
  張蒙師は途切れとぎれに、美青蘭の最期を告げた。


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