「猫天地伝」
作/こたつむり


〈5章〉31p

「お父様が生きておられるころに、こうした使いがおとずれてくれれば」
  妻の園慕はそう言ってうれし涙をながしたものだし、二柳毛にも義父、園珪にたいしては同じ思いがあったのだが、実際それが自分のもとを訪れる段になると、なにか躊躇をおぼえて断ってしまうことが多かった。
  園慕もそうした二柳毛を咎めはせず、むしろ夫が使いを追い返すたびに胸をなでおろしている様子でさえあった。
  彼女が、二柳毛の長きにわたる留守を守ってこられ、また貧乏ではあったものの衣食に事欠かずに済んだのも、すべて園珪が残してくれた財産のおかげであった。しかし園慕はその事実より、園珪にほどこされた医術と柳女に教わった機織りによって、家計を成り立たせてこられたのだと思いたがった。また、夫婦は二人とも、亡くなった父をいまだに尊敬してはいるものの、園珪が領主の館をおとずれては繰り返していた遊興ざんまいには、今もってなお同意しかねる気分が拭えなかった。さらに思い出すなら、亡き父が領主の館から帰宅するや、その口をついて次々と吐き出した、まるで取ってつけたような政治思想という奴にも、なにか違和感をおぼえて眉をひそめたものである。
  園慕は、父が酒を食らってはとたんに雄弁になる様を嫌い、二柳毛としては、父が持ち帰る理想論ゆえに自分の不利な立場が決定づけられ、また不思議とそれを覆してはならなくなる様相がいやであったのだ。
  二人は暗黙のうちに、政治の世界にかかわるとロクなことにはならないと了解しあって暮らしてきた。
  それゆえに、猫天地が自分をたずねてきたと聞いたとき、二柳毛は今までの使者にたいしてとった態度と同じこととして、しかし、面会そのものすら妻に言い含めて断らせたのである。
  園慕は首をかしげる。これまでは、最終的にはことわることになったとしても、それにいたる過程において、夫は自身の力で片付けてくれたからである。
  仕方なく園慕は猫天地に対面をした。そして、相手のいかにも貧しそうな身なりを見ると、言い含められたことを口にするより前に、つい、帰りの旅費を持ち合わせているのかを聞いてしまった。
  猫天地(ねこてんち)がしょぼんとして、うつむいたまま黙るので、園慕は重ねて何処から旅してきたのかを質問する。そして都から来たのだと知り、そのあまりの遠路に憐憫をおぼえた。また、今まで夫をたずねてきた使者たちとは、人間の種類がどこかちがうようにも思えた。
  そこで、まったく余計なこととは知りながら、たずねてきた用件と事情をうちあけてほしいと頼みこんで、話をすべて聞き出した。
  終わるや園慕は目を潤ませて深くうなずき、しかしひとまず夫の命令にしたがって、ひきとりを願った。
  猫天地が力なく肩をおとして、元来た道をあともどりして行くのを見届けるや、園慕(えんぼ)は、その姿が遠ざかりきらぬ内にと、夫の居室にいそいだ。言葉に勢いをつけてまくしたてる。
「あなたは、なぜあの方に会わないのです。聞けば、あなたが仙山にとどめおかれて以来の友人というではありませんか。昔から、友の窮地を助けない者はろくな生涯をおくらない、と言われていることをご存じないのですか」
  二柳毛は眉をひそめ、これが一見、友だち甲斐のないふるまいであることは、じゅうじゅう承知の上だ、とまず言った。
「ただ、助けてやろうにも、前々から猫天地に施してきた事柄は何もかもが、彼にとっても自分にとっても裏目に出ることばかりであったのだ」
  自分はもう彼にかかわりあいたくない。彼の方はもっとそうした気持ちだろうと思ってきたが、こうして訪ねてきたところを見ると、どうやら懲りてはいないらしい。そこでお前に謝絶の役目をたのんだのだ。長い目でみればこの方がよかったということが、彼にもお前にも、やがてわかってもらえよう。
  ところが園慕は、いつになく強情に首をふり、
「それこそ短慮というものです」
  と、決め付ける。つづけて言う。
  まず、あなたは私に、これまでの例と同様に拒絶したいと仰せでした。が、あの方は今までの、言葉たくみに誘いかけをもってきた使者たちとは随分ちがいます。初対面のこの自分にすら、美々しいニセモノ臭い言葉を何ひとつ言いませんでした。これからが復興の好機だとか、活躍の場が増えて名を残せるとか、そうした夢物語はいっさいあの方の口からは出ませんでした。つまりは正直者ということです。
「正直者の言うことだから、きっと事実をありのままに言ったのでしょう。その事実によると、今、都において、どれほど悲惨な現実があることか」
  旅姿の猫天地が、今どのあたりまで遠くへ行ってしまったかと、園慕はヤキモキしながら、たったいま伝え聞いた都のありさまをそのまま語り、猫天地が夫の詩に心うごかされてここまで重ねてきた、つらい旅の道のりにまで言及する。
「亡くなったお父様も、戦いにつぐ戦いの中で、この世にたえることのないみにくい争いを憎みながらも、その中で傷付き、死んでゆく人々を最後まで見捨てませんでした。家の中で自分たちだけが幸せならそれでよいと、外を見ようともしないのは自分勝手ではありませんか」
  ついに二柳毛も、妻と同じ心配を胸にいたした。
「彼は今、どこまで行ってしまっただろう」
  一度その気になれば、さすがに男の足であるから、園慕が追い掛けようと戸口をとびだすのを追い越して、ほどなく、とぼとぼ歩く猫天地の姿を見付けた。
  背から名を呼びとめられて猫天地はふりむき、息をきらしてやってくる二柳毛を見るや、うれしさのあまり顔をしわくちゃにして、
「毛!」
  と、とびついていった。
「待ってくれ、猫天地」
  と言うのも遅い。二柳毛の体はポーンと弾きとび、道に尻餅をつく。猫天地は驚き、
「毛は仙人じゃなくなったのか」
「ああ、仙人はやめたが……」
  と、二柳毛(にりゅうもう)は尻をさすり、
「詩をやめないでいて良かったよ」
  そもそも彼の詩によって、ここまで来たことを思い出すと、猫天地はニカッと笑い、そおっと手をさしのべて二柳毛をひきおこした。

  園慕がととのえてくれた夕餉を空腹にまかせてたいらげると、猫天地は二柳毛につれられて星空のおもてを歩いた。そして、どうすれば都のみんなが仲良くできるのかを問う。
  二柳毛は言う。
  おまえの理想はよくわかった。しかし人は理想や正義だけで生きてゆくものではない。まして己一人を生かそうというのではなく、今は他の多くの人を生かそうとしているのだ。おまえが真に勇者なら、今は東南族のことはひとまずおき、まずは再び王宮に仕え国政を担って勢力を従え、少しづつ力をたくわえながら、まずはこの争乱を収めていくべきではないのか。
「東南族ではなく、皇帝とかの軍の大将になれってことか」と猫天地。
  二柳毛は、うむと頷く。
「猫天地。人の力は大きいぞ。ましてや人々が束になったとき、初めて天は、どうしても動かしがたい運命を動かす仕組みを我々に与えてくれるのだ」
  自分もかつてその力の誤用でたいへんなまちがいを犯した。それは自分一人の力だけで事を成そうと焦ったからだ。この世には多くの人がいる。おまえのように多くの人の考えをうけいれられる器があるのなら、それをもう少し広げて、さらに多くの人を視野に入れてみるといい。そこには民族の利害というものが必ず横たわっている。
「故郷に帰れず、都とその周辺に居残っている東南族の数は、数千とも数万とも言われている。が、悲しいかな、彼らは各地に散らばるのみで、拠るべき土地でまとまっているわけではない。一つのまとまった機能の元に行動しているわけでない上に、呼応して何らかの襲撃をなせば被害は僅少ではすまされないから敵視される。そうした人たちに肩入れしている限り、おまえも美青蘭も都にいる者たちから敵視されるをまぬがれない」
  猫天地は悩みながら答える。
  なるほど軍隊を確実に味方につけなければ、いつまでも争いの芽がたえないのはよくわかっている。一時一時ごとに、ただおしよせる賊を退治するだけでは、かえって人の被害は増すばかりだと、散鬼(さんき)をはじめ、いろんな人によく言われる。
  しかしそのために、東南族のような力のない人たちを見殺しにはできない。せっかく助力にきてくれた人たちが、それがために自分を離れてゆくというのなら仕方がないのだ。


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