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「猫天地伝」
作/こたつむり
〈4章〉28p
二柳毛は歩いた。
こうも長い距離を歩くのは久し振りであったが、一足はこぶごとに体は重くなり、歩きなれないというより、地にひきよせられているのではないかとすら思えた。
検問所を通りたくはなかった。自分を尊敬するあまたの下級修行者たちに、なぜここを通らねばならないのかを聞かれたくなかったのだ。
そこで足をひきずりながらも、二柳毛(にりゅうもう)はわざわざ表の検問所を避けて遠回りをし、裏手に生い茂る草木に身をふせて、息をあえがせ、身体が休まるのを待ってよじのぼり始めた。
やがて、のぼりつめた先が、鉱物の採掘所である。はじめて来たおりに、囚われの身となったのがここである。
当時のようなヘマはなかった。今でも気をととのえるだけで、めったに他の修行者などに見付かりはしないだけの技能を持ち得ているからだ。
しかし、そこまでであった。
捕まった当初はまったく気付かなかった岩戸がここにはある。砂地に埋もれて、はた目にはつかない秘密の通路だ。仙を果して以来、この岩戸を、彼はまばたき一つで自在に開閉できたものだった。
それが今の彼には、まるで動かせない。夕陽に背を焦がされ、やがて夜のとばりが下りてもなお、二柳毛はひたすら気をととのえ、疲れが少しでも癒えると立ちあがって気功をおこない、なんとか岩戸を開けようとしてそこを離れなかった。
いつのまにか砂地に眠りこけ、凍てつく夜中に目をさますと、老人に見られていることを知った。老人は、岩戸の頭上をおさえつけている重い岩盤に腰をかけ、膝にほおづえをついていた。
「天戒師……」
寒さに歯を鳴らしながらも、二柳毛は平伏する。師は、
「二柳毛よ。よく魔神を退けた」
と、静かに声を返した。
「しかしお前は、お前の力だけでそれを成したのではない。又、仙道にふさわしい力の保持を誤った」
今、見よ。お前の体からは、すべての力が抜けおち、もはや岩戸ひとつ動かす力は残っていない。
おまえは正しいことを成そうとして、まちがったやり方をした。よこしまな力への過信が、お前にこうした事態を招いたのだ。
「おまえが再び仙術を身につけることは無いだろう。それを身につけたとき、どのようなことをしでかすかを、天はぬかりなく見届けた」
ひたすらに師の声をあおっていた二柳毛が顔をあげたとき、すでに天戒師の姿はそこになかった。かわりに岩戸の手前に、ひとかかえの袋と一本の杖が置かれてあるのみである。
二柳毛は、まず岩戸にすりよって、かじかむ手に息をはきかけ、おそるおそる袋の中をあらためた。
水をたくわえた竹筒。わずかな食糧。そして銭が入っていた。
日ものぼらぬうちから、二柳毛は仙山を下りはじめた。
朝日のころ、杖をつきながらふり返ると、ようやく仙山のふもとをやや離れ、背に負う琴をとりだして見てみる気になった。
弦はのこらず切れていた。
師や深山幽谷に別れをつげる歌は一ぺんも思いうかばず、二柳毛はひたすらに食をもとめて仙山を遠ざかった。修行によって食を絶つことには慣れていたが、それがすでに仙に結びつかないと思うと、急激に飢えが恐ろしくなった。
詩情らしきものが漸くよみがえったのは、故郷にちかい地を踏みしめた時からであった。仙山から実に、三ヶ月を歩きつくした。
はじめて園珪親子に出会った渓流の湿地に足を踏み入れ、彼らを案内しながらたどった、幼いころより熟知の近道をぬけ、いよいよ家に帰り着くと、二柳毛はなんのためらいもなく戸をたたき、むこうから開くのもまたずにグイと開けた。
中に入って、はじめに目にとびこんできたのは、二つにならぶ位牌だった。そのうちの片方が義父、園珪(えんけい)のものであることを確認すると、ついで義父の死亡年月日に目をやった。
そして、はじめて、どうして妻が仙山まで自分を慕ってやって来られなかったのかを知ったのである。妻が旅にうつつをぬかしていては、夫である自分からあずかったこの家を、空にしなくてはならなかっただろう。
ふり返ると、そこに立つ妻は手に大きな斧をにぎりしめ、不法侵入者にそなえて身構えていた。今でも独り身かと問うと、彼女は斧をゴトリと落とし、やにわに顔じゅうを涙でぬらして、何度も何度もうなずいた。
故郷をはなれた日から、すでに五年の歳月がすぎていた。
ふたたび妻をわが腕に抱きしめてやりながら、二柳毛は、琴も弾くまい、医薬も手に入れるまいと、おのれに強く言い聞かせて、はじめて激しい嗚咽をもらした。