「猫天地伝」
作/こたつむり


〈4章〉27p

「毛。大丈夫なんだろうな。東南族の人は痛い目にあわないのか」
「大丈夫だ。東南族も元は人だ。気を失うぐらいのことはあっても、太陽光で死ぬ人はまずいない。これが人を生かし、魔神のみを片付ける一番よい方法なのだ」
  そう言うと、早くも猫天地の体をのぼらせはじめた。二柳毛は、
「怖くはないぞ、猫天地。私もついてゆく。死ぬときは一緒だ」
  と叫んだが、猫天地がそれにも増して、
「美青蘭! 美青蘭! 美青蘭ー!」
  大声で呼ばわって、ついにその勢いが二柳毛を引っぱりあげるまでに達したのには、二柳毛もおどろいた。
  猫天地はそのとき、本当に天空を飛翔する美青蘭の姿を見たような気がした。
「美青蘭!」
  すると、
「猫天地!」
  と、声が返ってきたのだ。
  しかしそれは、あっという間に地上に落ちていった(ように猫天地は感じた)。驚いて猫天地が地上をかえりみたとき、彼の背後の黒天が布のように真一文字にきり裂かれ、カアッと黄金の光がいっせいに降り注いで、猫天地の背から、熱をおびて覆いかぶさってきたのだ。
  二柳毛と猫天地は初めて見た。楡の大木の上に青ぐろく翼をひろげて、おのが巨体を覆い隠さんと、もがき暴れる魔神の本体を、である。
  いかに闇に安心しきっていたものか。全身に陽光を浴び、やがて、その翼はあえなく溶かされ、筋ばった羽根の隙間から、焦げついて膨れる燃えかすのような物が風にとばされて四方に飛び散り、少しづつ本体を減らしていくのだ。それでもなお、魔神の根城に光線は雨のごとく降りしきり、暗雲はことごとく去った。
  魔神が、はじめはどういう形をしていたのかわからずじまいで、しかもその消滅にいたるまで見届けることはできなかった。久方ぶりに降り注がれる陽光はあくまでも健やかで、世界はまばゆいほどの光に満ちて広がったため、生気をとりもどした何もかもが、人の目をつぶさんばかりにさまざまな色を放ち始めたからだ。
「美青蘭は下だ! 下にいる」
  猫天地(ねこてんち)は一人さけんだ。光に慣れない目をこすりこすり必死になって、落ちて地に溶けた(と、彼が思っている)声をさがした。
「危ない! 落ちるぞ、猫天地」
  二柳毛はあわてて猫天地をとらえ、
「美青蘭は、すでに楽阜(がくふ)のものだ。あきらめろ、猫天地」
  と、さけんだ。
「なんだって!」
  と、猫天地の視点は、ついに地上のある一点に定まったのだ。
  馬が一騎。今まさに皇城の大手門から、大橋をわたって表へ駆け出し、その身に二人の男女をのせて走ってゆく。
「楽阜だ。楽阜と……あれは、美青蘭!」
「やめろ、猫天地。追うんじゃない。おまえにはもう、美青蘭(みしゅらん)など不要だ」
「なんでだよ!」
「おまえの力は並の人間のものではない。見ただろう、自分で。私は初めておまえに会ったときから、今日のことを予感していたのかもしれない。このさき修行をつめば、必ずや仙を果すだろう」
「そんなことが何なんだよ」
「まだ、わからないのか。こうして私と力をあわせれば、天戒師にも成せない術をもてると言っているのだ。これで誰一人、おまえを認めない仙人などいなくなったのだ」
「嘘だったのか、毛」
  猫天地は気付いたのだ。さっきの美青蘭の声は、はじめから地上で自分にむけて発せられていたのだと。
「そういうことだったのか。ちきしょう。よくも騙したな」
  そのとき、信じられないことに、二柳毛は弾きとばされて天空に独りとりのこされたのだ。彼は激しいめまいに襲われ、手足を泳がせるように低空を舞いながら、その場を去らざるを得なくなった。
  猫天地は無我夢中で大鷲にとび乗ると、すぐに地を駆ける馬上の二人に追いついた。
  美青蘭も、すぐさま猫天地の存在に気付いた。馬から身をおどらせて天空に舞いあがり、
「猫天地。生きていたのですね」
  顔面を涙におおわれながら空中をよろめいて、猫天地に抱きとめられた。
  馬を走らせていた楽阜は二人を宙に認め、かなり行き過ぎてから、どうどう、と興奮ぎみの馬を止め、反転させると、ちょうど大鷲にのった猫天地と美青蘭が着地するあたりまでやってきた。
  三人の男女は、はじめは少々気まずく顔をあわせたものだったが、すぐに楽阜は、
「猫天地。美青蘭は、俺よりお前を好んでいるようだ」
  と、カラリと持ち出したのである。猫天地も、
「私は美青蘭と結婚したいんだ」
  やはり悪びれずに言い出た。
  二人の豪傑は二人とも、こんどは美青蘭が発言をする番とばかりに、仙女の顔にまともに目をむけた。すると美青蘭は、楽阜と猫天地のあいだに立ち、双方の手をとりあげて握らせると、いささか厳粛な顔をして、
「お二人の間に、溝が生まれないと約束して下さるのであれば、そのように」
  と言った。
  そこでまず猫天地が、
「もちろんだとも、美青蘭。楽阜、これからも頼むよ」
「俺もだ、猫天地」
  と、楽阜も、まずがっしりと握手をかわしたものの、
「さっそく祝宴……と言いたいところだが、俺もこれからは忙しい。二人でやるべきことに、いつまでももう一人加わっているわけにもいくまいから、俺はもう行く」
  すぐさま踵をかえして馬に乗った。
「どこへ行くんだ」と、猫天地。
「魔神はどうやら退散したようだから、仇討ちは終わりだ。これからは都も少しは平和になるだろう。のこる問題は、俺の仲間をさがしだすことだけだ」
「私も行きたいが」
「そんなことより、散鬼によろしく伝えてくれ」
「散鬼のところへも、戻らないのか」
  すると楽阜は、うん、と言い、
「猫天地。やっとつかんだ幸せだ。大事にしろ」
  低い声でしめくくると、いきなり鞭をあてて馬を走らせ、見る見る土ぼこりをあげて遠ざかった。

  猫天地に弾きとばされ、空中になげだされた時から、二柳毛は体調の変化を感じていた。
  天戒師とのいきさつを振り返ると仙山にもどるのは気鬱であったが、他に行くあてもなく、雲間をさまよううちに脱力感は露骨にあらわれはじめた。
  仙山までつづく道をようやく地上に見出せるあたりまでやってくると、もはや宙を行くのはどうにも辛くなり、ついに地に足をおくと、背に負う琴から、ビチリと鈍く体にひびく音が伝わってきた。


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