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「猫天地伝」
作/こたつむり
〈4章〉22p
闇が少しづつ薄らいでいっても、依然、視界には何も入ってこない。
ただ、ぼんやりとあたりが白いもやに包まれているのみだ。
「毛。目を開けちゃったよ」
猫天地は、もうとっくにわかっている相手に向かってそう言った。相変わらず羽交い絞めにされていたから、手足をばたつかせて、
「でも、なにも見えないよ。いつまでこうしてればいいのさ」
「もうじき仙山に着く」
「目が見えなくなったんだ。真っ白だよ」
「目が見えないのではない。雲の中にいるのだ。やがて下界が見えてくる」
二柳毛はそう答え、ほらごらん、と猫天地の耳元でささやいた。
言葉どおりに、雲の切れ目から下界が見えてきた。何と真っ昼間である。都の西門にいたときは、永遠に夜がつづくような錯覚をもよおしていたものだったが、いま雲の下の光景は日の光を反射して目が覚めるほど眩しい。群がる人家の小さな屋根が見下ろせ、やがて空ほどに広い草原が後に続く。
予告されたとおりに、山の頂上付近に猫天地はおろされたが、修行中のころの彼(彼女)は、こんな高所に足をふみいれたことはなかったから、ここも仙山なのかと思うばかりであった。
大気から地上におろされて、体じゅうの力が抜けたようにグタリとくず折れ、猫天地は、二柳毛にかかえこまれるように彼の住まう庵にたどりついた。
二柳毛が使用しているのであろう寝台の上に横たわるや、猫天地は息もたえだえに、
「目は見えたよ。でも、術は効かなくなった」
と悲しく言った。つづけて弱音を吐くように、
「変だと思っていたのさ。味方の兵士たちは、将軍でさえ私の術を知っていて、誰もさわらないからわからなかったけど、美青蘭に会ったときからだ。そうだよ、あのときからきっと、術が効かなくなっていたんだ。美青蘭(みしゅらん)も弾かなかったし、あの変な奴ら……美青蘭の仲間なんだろうけど、東南族の奴らもぜんぜん弾き飛ばせなかったんだ。ひょっとしたら……」
猫天地(ねこてんち)は、おそるおそる手を股間にのばしてみたが、依然、男のままではある。
二柳毛は笑い、
「術はかかったままだ。私にはそれがわかっていたので下手におまえの前に立たなかったのだ」
「どういうことだ」
「我々仙人にはその術は通用しにくい。胎息(呼吸法)によってかわす心得がある」
猫天地は首をかしげ、
「東南族も仙人なのか」
と問うと、二柳毛は首をふり、
「全くちがう。……が、俗人にとっては似たようなものだろう。あの連中は気を操る魔神によって動かされている。魂がないも同然だから、魔神がおまえの体術を前もって見抜けば、逆に弾きとばされない暗示をあの者たちにかけることなど自在だろう」
魔神という言葉を聞いたとたん、猫天地は耳を両手でふさいだ。あの闇からの声を思い出すだけで、心の臓が凍り付くような思いがよみがえってくる。
「安心しろ、猫天地。ここは結界を張っているから大丈夫だ。おまえは魂を抜かれるところだったのだが、身につけた術によって守られたのだ。まだそれが、その身にのこっている証拠だ。その脱力感は単なる疲労だ。養生していれば元にもどる」
そう言って二柳毛はさわやかな笑顔をのこし、部屋から出てゆこうとした。そこへ急に猫天地が、
「仙人にこの術が通用しないってのは本当か」
と、すっとんきょうな声で呼びとめる。二柳毛(にりゅうもう)がふりかえるより早く、
「それなら私は、美青蘭となら結婚できるのだな」
さけぶように猫天地は喜びの声をあげた。
自分に弾かれずにすむ女がこの世に存在するのなら、しかもそれが、あの美青蘭なら、猫天地の孤独は解消されたようなものである。ともに抱擁しあいともに暮らすという、よくある幸福を手にいれられるではないか。
しかし二柳毛は、今までになく険しい顔をして、
「それはならん」
と怒鳴りつけたのである。
「かの仙女は東南族の出身ときく。仙を果した者にあるまじく同郷に思いをよせ、東南族をかばいだてしているともきいている。猫天地。おまえは楽阜とともに東南族と戦っていた。楽阜と同じ術をさずかったことは都ではもっぱら有名だ。おまえは兄弟弟子である楽阜を裏切るつもりなのか」
「楽阜は、話せばきっとわかってくれるよ」
「それはどうかな」
「わかってくれるさ。私は美青蘭が好きなんだ!」
猫天地の告白に、二柳毛は顔をやや青ざめさせて、
「楽阜に聞いてみるんだな」
捨てぜりふを吐いて猫天地をつっぱね、冷たく一瞥をくれると、仙人の態度としてはずいぶんと荒々しく戸をしめて去っていった。
楽阜に問うてみる機会は、意外と早くおとずれた。
なんと、楽阜自身が仙山にやってきたのである。彼は張蒙師に借りた大鷲にのって、忽然と天戒師の居室近く舞いおりたのである。
常人なら健脚であっても、都から仙山まで半年はかかる。それを楽阜は張蒙師の霊気をやどした大鷲にのり、数日のうちに果した。それでも楽阜には仙人ほどには鷲をうまくは乗りこなせていない。仙人なら、二日ほどで来られるからだ。
大師の居室に近付くとは無礼な行為だったが、着地を果すや、楽阜はひどくあわててじかに、
「師よ。天戒師さま。楽阜です」
と、大声で呼ばわったのである。
弟子たちはこれに慌てたが、もともと仙山において楽阜は好意をもたれていたので、すぐに許されて、天戒師との対面がとりはかられた。
顔をあわせるや、天戒師は、
「山をおりるとしよう」
と、なにもかも悟っているように、楽阜の言をまたずに決断を述べた。つづけて、
「東南族の魔力は仙術をもってせねば鎮まるまい」
すると、汗だくだくの楽阜は大いにうなずき、ついで感動にうちふるえ、その場につっぷして男泣きをした。そうした楽阜の肩に手をおいて天戒師は、
「楽阜(がくふ)よ。本来なら仙道はこうした余燼に関与するものではない。これが皇帝の命令であっても、このわしは決して動かなかっただろう。そなたの要請ゆえに力を貸すのだ。そなたは仙道を降りたとはいえ、人のためにおのれを生かし、身を犠牲にして敵と戦っておる。そうしたそなたを、遠いここからも頼もしく思って見守ってきた」
張りのある凛々たる声で言った。
すぐさま天戒師とその弟子たちの一行は下山の支度にかかることとなり、二柳毛には留守居が命じられた。
楽阜は、二柳毛が天戒師の座に近くはべっているのをみて驚き、
「先輩は、仙を果したのですか」
と、問うた。二柳毛は静かにうなずき、
「そなたが居なくなってから、医薬の調剤と楽の稽古にはげんできたが、あるときを境に悟るところを得て、師に免許皆伝をいただいた」
と、まず言い、ついで、
「一行下山までの間、私の庵で休憩するとよい」
都からの使者をもてなすがごとく体裁をとりつくろって、猫天地にひきあわせる段取りとした。