「猫天地伝」
作/こたつむり


〈3章〉21p

  西門は人の背丈の三倍はあり、幅もとてつもなく大きい。これが燃えて飛び散るとは、たいへんな事態なのである。あたりは真っ黒な煙りに包まれ、あっという間に目もあけられない様相となったが、何を思ったか、このとき猫天地はこのあたり目掛けて突進したのである。
「猫天地! だめだ」と、楽阜。
「もどれ、もどれ、師の仰せに従うのだ」と、将軍。
  しかし、猫天地が飛び出て行ったのは、大きく崩れ落ちた門の破片が人家にまで到ったのを目にしたからであった。猫天地は逃げ惑う人々が体に当たるたびに弾き飛ばして、道をひた走った。
「助けて!」
  彼がようやく足を止めた時、その周囲には火が放たれ、人々の群れは既に遠のいていた。声のする方を振り返ると、建物の下敷になった人が、火の手のまわる中から助けを呼び求めるのが見えた。
「こっちを向くなよ。顔をふせて。今、助けてやるよ」
  うんしょ、と熱い壁土をどかせて、猫天地はようやく人ひとり助けだしたが、ふと振り返るとそこには、皇城にまでつづくべき今まで来たはずの路は無く、楽阜も張蒙師(ちょうもうし)も兵たちも、逃げまどう人々すら一切いなくなってしまった。
  そしてさらに驚くべきは、今、助けだしてやったと思った人まで消えてなくなってしまったことだ。
「どういうことだ」
  思わずボンヤリすると、ふいに闇のかなたから、
「助けて」
  と、又しても叫ぶ女が現れた。両手に赤子を抱いている。あっと思ったのは、その女の背後から風体の変わった者たちが追い掛けてくる。
「あれが東南族か」
  どう見ても猫天地の目に、美青蘭と同じふるさとをもつ人間には見えなかった。大勢で棍棒をふりまわし体じゅうから凶暴さを剥き出しにして、今まさに女子供を手にかけようとしているのだ。
「大丈夫だよ、美青蘭。殺しはしないさ」
  そうつぶやいてから、猫天地は女と暴徒の間に駆け入った。
  連中は口々に何かをわめきちらすが、猫天地には言葉が理解できない。とにかく襲ってくる者を、例によって弾きとばしにかかったが、
「あれ」
  と思うのは、相手の体に触れても何も感じないからだ。手応えがない。それでは弾きとばすこともできない。
  暴徒は猫天地をおいこしてゆき、遠ざかる女にせまり、棍棒をふるって頭に一撃をくらわした。女はさけぶ間もなく、脳天をかち割られてのけ反り、倒れた。
  即死である。母親の下敷になって赤ん坊が死物狂いに泣き叫ぶ。
「やめろ! 子供に手を出すな」
  追い掛けようとすると、次々と敵は背後の黒煙から姿をあらわし増してゆき、猫天地を八方からとりかこんで阻む。
  どいつもこいつも顔がよく見えず目鼻もわからず、体当りをくらわしてもどこか手応えにとぼしい。
  やがて猫天地は、ヘトヘトになってきた。そこへ、
「疲れたか、小僧」
  上天より、血も凍りつくような、耳にとって嫌な声がふってきた。それが地に反響し、猫天地は、術をさずかって以来はじめて、恐ろしいという意識をもった。
  すると、
「怖がるな。こわいと思うと殺られるぞ」
  ドキリとしたことに、猫天地を背から覆うようにして、何者かが羽交い締めにしているではないか。これも信じられないことに弾きとばせない相手であった。
「猫天地。もがくな。私だ」
「だれだよ」
「誰でもよい。行くぞ。目をつむれ」
  相手は背を覆いながらも、暴れる馬でもなだめすかすように、猫天地の目に手のひらをそおっと当てたのである。
  猫天地は信じた。相手が敵なら、このままあの世に行かされるかもしれなかったのだが、信じて目をつむるしか方途はなかった。


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