「猫天地伝」
作/こたつむり


〈3章〉18p

  が、それも長くは続かなかった。そうした金持ちは物騒つづきの都から、少しでも安心できる他所に避難していった。むろん、富豪がいざ家財をかかえて旅する光景は盗賊どもの恰好の標的だったし、大勢の使用人は返って邪魔だったから、むしろ用心棒のアテならあった。が、これに雇われると都を長く離れることになる、という点が厄介でもあった。
「その仙女を捜してつれてくれば、皇帝は金をくれるにちがいない」
  という見解におちつくと、猫天地はおもむろに軍人をふりかえり、
「その仙女の名前はなんて言うんだい?」
「そうだ。人捜しは、まず名前からだ」と楽阜もうなずく。
  軍人は二人の積極性にたいへん満足して、仙女の名を明かしてくれた。
「なんだって!」
  猫天地(ねこてんち)が庭じゅうにとどろく大声をあげたのも無理はない。
  弥勒菩薩の再来というその仙女の名は、かつて海に入水しかけた猫天地を救ってくれた、あの美青蘭だというではないか。

  ほどなく楽の宴が催された。
  仙女が何処からどのようにやって来るのかわかっている者は誰も居なく、こうした事に詳しいとされる賢人の類がひっきりなしに皇城の王宮内を出入りしたものの、誰一人として確定的な言葉を避けたため、何となく仙女とは美しい調べや雅な空気に、ふと心を寄せて現れるといった憶測だけで、諸国の王や貴族、文人軍人楽人や歌姫などが次々と招かれおとずれた。が、かんじんの美青蘭(みしゅらん)はいっこうにあらわれない。
  一日二日と宴はつづけられ、ついに日を費やすこと一月あまりがすぎてゆく。その間、楽阜と猫天地は、このあまりにも不明確な命令系統に従わされて、寝る時を交替し、朝も夕も真夜中ですら、広い広い皇城の敷地じゅうを捜しまわらされた。
  特に猫天地が美青蘭をすでに見知っていると判明してからは、彼の睡眠時間は激減した。美青蘭が何を好み、何を頼りに猫天地が自殺をはかって沈みかかった海にあらわれたのかについて毎夜質問責めにされ、その結果、皇城内のあらゆる庭には大掛かりな工事が行われて、大きな湖を作ったり、小さな庭にまで水を引き、それらに舟を浮かべては、海のごとくさざなみを起こすために、実に多くの人手が費やされるにまで到った。
  二人は次第に苛立ちはじめたのである。こんなことをやっている内に、またぞろ盗賊どもが都を荒らし、飢えた人々はどんどんと死んでしまう。そう思うと気が気ではなかった。
「俺はばかばかしくなってきたぞ、猫天地」
「美青蘭はきっと、こんな所になんか来ないよ」
「それより散鬼(さんき)はどうしているだろうか」
  ついに我慢も限界を越え、明日は帰ろうと決めたある夜であった。さいごの望みをかけて探索に出た猫天地の耳に、聞き覚えのある調べが聞こえてきた。
  それは、城内のあちらこちらで始終ながれる賑やかで柔らかな楽とはまったくちがった音色であり、いらだつ猫天地の胸を静めてくれるような冷たく寂しい調べであった。
  独り猫天地は、数ある庭の一つに誘われ導かれて菩提樹の木陰に足をふみいれると、
「俗人に仙人を捜し当てられるものではない」
  と沈着に戒める声がどこからともなく放たれ、同時に猫天地の足元がほのかな光につつまれた。
  その光りは道をつくって伸びてゆき、行き着く先には、もう一本の菩提樹がそびえて、やがてその木陰から背の高い人影があらわれた。
「に……二柳毛(にりゅうもう)?」
  猫天地の声がうわずったのも無理はない。一つには、二柳毛は都からはるか遠くの仙山に居るはずであり、二つめには、以前の彼からは想像もつかないほど、こんにちの二柳毛のいでたちは端麗をきわめて目を見張らせたからであった。
「仙人にでもなったのか」と猫天地。
「おまえもずいぶんと変わったな」
  そう言いつつも、二柳毛のほうはたいして驚いたようでもなかった。手にもっていた琴を菩提樹の幹に静かに立て掛けると、
「未だ地仙ではあるが、ついに仙を果したのだ」
  と語る声すら、どことなく神々しい。
  二柳毛によると、もはや仙山の上り下りは彼の自在であり、こうして世上で楽の宴などがあれば、ときおりやってくるのだという。
「おまえの方は男になったのだな。そのほうが向いていたかもしれない。お互い別れたときには気付かなかったそれぞれの天性に目覚めたというわけだ」
  えらく淡々と述べるではないか。
  猫天地は首をかしげ、なぜ妻の元に帰らないのかと問うと、二柳毛は笑い、神仙の道とは不思議なもので、極めはじめるとキリがない。実は、医薬の類いはすでに手に入れ、調合の必要のあるものもすべて作りおえた。しかし、そのような傍ら修行を行っていくうちに、そのさらに奥にある世界に足をふみ入れてみたくなり、そのようにしてまだ故郷には帰らないのだという。
「それじゃあ、毛の奥さんは、毛が仙人になったことも知らないんだね」
「そうさ」
「知らせてあげないの? こんな所に来られるんだから、奥さんのところにだって、もう行けるんだろう?」
  すると二柳毛は、ほほ笑んで琴を奏で、やがて歌いはじめる。

  鳥は鳥かごにこめられて、心まで篭に囚われる。
  篭をはずされれば、心はそも自由であったのか。
  大空を高く舞い上がることこそ、鳥の本性ではないのか。
  元の古巣は、翼を広げるには狭すぎる。

「私はもはや、誰の虜でもないのだ。私の妻も同様だ」
  二柳毛はしめくくるようにそう言い、そのまま琴だけを弾きついだ。彼の胸には偽りを述べた苦しさがまったく無かったから、琴の音は朗々とあたり一面をやわらかく包んで、自然と一体に調和した。
  母柳女(りゅうじょ)が死んだ夫に操をたてず、また生活のために園珪親子をうけいれたように、園慕とて仕送りの一つもせず、また生死すら明らかでない自分を待っているとは思えない。恐らくはとうに再婚し、子をもうけているに違いない。成人するまで育て医術を教えこんでくれた園珪の恩を、娘の園慕と沿いとげ子孫をのこす形で返そうと思っていた二柳毛ではあったが、それが果して自分や園慕にとって幸せといえたのかどうかと首をかしげることも多くなった。恩返しは、母の遺産であるあの家を園珪親子に進呈し、自分はむしろこうして去ってきたほうが良かったのではなかろうか。
  園珪親子があの家の他に、何か二柳毛自身に求めることがあったとすれば、それは園珪が家を空けて領主にまねかれ、豪遊ざんまいのつきあいにうつつを抜かす合間、夜中をたたき起こされ急患を診にいかねばならぬ損をひきうけてくれる身代わりの役だったのではないだろうか。
  元はといえば母のように病に伏せる人を助けたいがため、医薬をもとめての入山だったが、こうして長年、家を空けた自分の子としてさえ不義理な行動を、血のつながらぬ園珪がそうそう許してくれようか。下山を許されなかったのだといくら言葉をつくしたところで、結局こうして帰ってきたではないかと言われてしまえば、迎え入れられたところでそれまでである。結果、以前よりもっと不利な仕事や立場を負わされるだけとわかっていて、どうしてウキウキと帰る気になれようか。妻に子でも出来ようものなら、さらにがんじがらめにされるだろう。
  だいたい、もしも園慕が別の男を家に引き入れ、その子供を産んでいたりすれば、園慕(えんぼ)とて自分にたいしてもその男にたいしても、さぞかしいたたまれないだろう。
「元々、仙人とは俗世界とは無縁であるべきで、自分も仙人になった以上、ときおりこのように人とまじわる以外は、元のような生活に身を染め直す気持ちはなくなった」
  すべてを飲みつくしたような二柳毛の言葉に、そんなものかと、猫天地もついに納得しかかっていたら、
「それはまちがっています」
  という声が辺りに響いた。女の声である。
「月がしゃべったぞ」
  と、猫天地が仰天して叫ぶと、二柳毛が、
「いや猫天地。月ではない。お待ち兼ねのご到来だ」
  そう言って静かにほほ笑んだまま、ゆっくりと天に舞い上がる。


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