「猫天地伝」
作/こたつむり


〈3章〉15p

  散鬼は言うのだ。兄貴みたいにめっぽう強くなってしまえば、おまえを悪い奴らから守ってやり、感謝されることもなくなるし、自分のほうが投げ飛ばされるのではないかと恐ろしくて変な気もおこせない。まわりじゅうの男がおまえを敬遠するだろう。それでもいいのか。そんなに兄貴がいいのか。兄貴ばかりがなぜモテる。
  猫天地は仏頂面をかまえて、黙々と抱虎山をのぼりはじめた。ごねていた散鬼も、やがてしぶしぶと後につづいた。
  標高はさほどにないのに、不思議なことに一筋にもうけられた山道をのぼりつめるにつれ、あたりは霧が増し、雲の奥にすいこまれ、生きている心地もせぬような冷気と静けさの果てに、ようやくたどりついたのが人の背丈の五倍は天井の高さがある洞窟であった。
  張蒙師はその奥に独りきりで座していた。
  猫天地たちが中に入って、楽阜の手紙をわたすと張蒙師は、
「楽阜は弟子の中でも一番の弟子だ」
  と言っておおらかに笑い、楽阜の近況を知りたがった。
  これでも天戒師と同じ仙人の種類なのだろうが、弟子をつれているでもなく、頭髪は黒光りして若々しく、どことなく人懐っこい。屋台で飲茶でも営んでいる人のように見える。
  ところが、いざ楽阜からの手紙に目を通すや、
「気の毒だが、この願いはかなえにくい」
  と難色をしめし、女は特にだめだ、と厳しく指摘した点、やはり仙人はどれも同じかと猫天地をガッカリさせた。
「よいか。猫天地とやら」
  弟子にでも教え諭すように、張蒙師は猫天地の肩におのが手をおいて説いた。
  自分が今まで弟子に与えてきた術の中でも、楽阜にさずけたのは最大のものだ。誰にでも与えられるものではない。その人間の品性に応じてでなくてはならない。心根の悪い者にさずけ、その者がその術を犯罪にでも用いれば取り返しがつかない。
「その点、楽阜は心根のすぐれた若者だ。それゆえ術を授け、さらに都にのぼって自衛団を作るように、このわしが薦めたのだ。困ったときには、いつでも楽阜はこのわしに知恵を借りにくる。決して短慮や軽挙に走らぬよう、彼が自らを戒めている良い証拠だ」
  その楽阜が、猫天地に術をさずけてほしいという。手紙によると、その理由は妻にするためとある。一番弟子の楽阜が、妻にしたいとまで思う女性ならば、術を授けてやりたいとは思う。
「また、わしの知るところ、男より女のほうが、得た術を悪用することが少ない」
  ただし術をさずけるには、その者の力量に応じてでなくてはならない。なぜならその身に耐えうる力でなくては、その人間の身が保てないからだ。
「元々、女は男より力が弱く、陽気が小さい。月が太陽になろうとしても決してなり得ないように、男が得ようとして難しい術を女が得るのは、星が月をとびこえていっきに太陽になろうとしているようなものだ。そのような事をおこなって、命の危険がないかどうかは、保証の限りではない」
「死んじまうってことですか」
  驚きの声をあげたのは、散鬼だった。ところが猫天地(ねこてんち)は、
「いいよ。死んじまっても」
  あっさりと答えるではないか。
「もともと死ぬ気でいたんだからさ。そこを天女に助けられちまった。助けてもらったってどうしようもない所を、楽阜が旅につれだしてくれたんだ」
  仙山にゆき、楽阜が自分をおいて去ってゆくと、今度は二柳毛に助けられた。ところが仙人になる器じゃないと先輩たちに非難され追い出された。長くつらい一人旅の果てに、今ようやく楽阜(がくふ)に再会できた。
「もう楽阜と離れるのはイヤだよ。それで楽阜がいいって言ってくれるんなら、私はどんな体になったって、それで死んだってかまやしない」
「ちっきしょう。そうだったのか」
  散鬼は声をふるわせて猫天地をあわれみ、
「兄貴のお師匠さま。こいつの望みを適えてやってくれ」
  と張蒙師(ちょうもうし)の前に両手をつくと、頭をさげるまえにボトボト涙を落とし、ついで号泣した。
  そこで、ようやく張蒙師は、
「死んでも悔いはないのだな」
  と、念をおしたあげく、猫天地を洞窟の奥へといざなったのだ。

  夢はまったく見なかったが、眠っていたことがわかった。
  どこからか水がしたたり落ちる音が聞こえてきて、猫天地は目覚めた。
  眠っているあいだ、始終していた耳鳴りが今止んでいることが、洞窟じゅうを微かにひびきわたる水滴の音によって確認できた。
  死んでいない。生きている。
  そう言おうと思ったが、不思議と声が出ない。
  首をめぐらせて辺りを見たが、張蒙師もいないし散鬼もいない。
  しかしここは、さっき入ってきた洞窟の奥の間だった。
  さっき、という気がするが、その後、妙な匂いを嗅がされて気が遠くなってからというもの、実際にはどれぐらい時間が経ったのかわからない。
  しかし生きている、という気分は、どんどん強く体じゅうを駆け回りはじめた。
  体がどことなく重く、皮膚が全体的に一枚多くかさばっているような、脇の下などは何かもたついた感じもする。
  何やら節ぶしをムキムキと力がみなぎって熱く、手のひらを握りしめて拳をつくれば、ちょうど二の腕あたりがブウンと盛りあがって瘤のようなものが出来る。
  さらに手をあてがいつつ胸をなで腹をなで、おや……と思うのは、股間のあたりに妙なものが生えているのが確認できた。それは生まれ出たこの世界に驚き叫ぶように、仰向けの猫天地から天井に向かって、垂直に突き立っている。
「これ……は……」
  と、吐き出されたおのが声に、ガバと跳び起きておどろいた。
「あ……あ……」
  なんというガサツな声音だろう。寝ているうちに風邪でもひいたのかと溜息をつくと、それにつられて、なんとも低い、今まで出したおぼえのない野太い音が口からとびでたのである。
  ぴしゃり、と音をたてて、猫天地は両手のひらで喉をおさえ、さらに驚愕した。
「の……のどに、何か……」
  あるのである。外からもはっきりわかる飛び出た肉のかたまりを押してみると、とたんにゲホゲホとむせて苦しい。
「散鬼」
  あたりに同朋を求めたが、返ってくるべき声が無い。
「この体を見て逃げたんだな」
  舌打ちしたって始まらない。かわいい女の子しか守ってあげたくないあの髭面男に、猫天地の変身ぶりは耐えられなかったに違いない。
「いいさ。これでもう、守ってもらわなくたって済むんだ」
  そう思い、とにかくこれには困ったと、飛び出す股間のいちぶつがなんとか人目にわからぬ程度に興奮を静めてくれるまで、しばし時間を費やした。

  帰りの道中、猫天地はうーむと腕をくむ。
  考えてみれば、楽阜ほどの男と同等の力をそなえた女など、この世にいるわけがない。それを無心すれば、無理が生じて死ぬかもしれなかったところ、なんとか命をつなぎとめたのだから、むしろこの変身には感謝すべきだろう。
  自分としては生まれ変わった自分が、だんだん気に入りはじめてしまいそうだ。一度でいいからやってみたいものだと、幼いころから思わぬでもなかった、立ったまま用を足せる少々下品な儀礼を、彼女……いや、彼はまず喜び勇んでやってみた。


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