「猫天地伝」
作/こたつむり


〈2章〉12p

 つづけて上級者たちは、
「猫天地を追い出せ」
「これで、はっきりした。悪いのは猫天地だ」
「そうだ。二柳毛とちがって彼女は秘密など何も知らないのだから、ここに留めておく必要などない」
  今ごろにして、これらの裁定を口々にさけんだ。
  ところが二柳毛には、先輩たちの自分への贔屓があまり有り難くない気持ちになっていたのである。
「師よ」
  と、ほとんど泣きつかんばかりの迫力をともなって天戒師に駆けより、そのひざもとにひれ伏すと、
「猫天地を正しく指導できなかった責任を、私にとらせてください」
  と叫ぶばかりに訴えた。
「ほお、どう責任をとる」
  それまで黙していた天戒師が、はじめて口を開いてうながした。
「かくなる上は、この私も仙をめざすなどという大それた望みを捨てます」
「ふむ……それで?」
「つまりは猫天地をつれて修行場をもっと離れ、ともに畑を耕して、修行する方々のお口にもっと適うものを作らせていただきます。むろん、採れた作物すべてを皆様に献上いたしましょう。さきほど忠告をうけたご迷惑の数々も、かならずや改めます」
「猫天地とともに……と申したが」
「はい」
「二柳毛、そなたは男であろう」
「はい」
「……に反して、猫天地は女」
  天戒師(てんかいし)はゆっくりと座を立ち、仙人にも仙女にもならぬとは、つまりは俗人にもどったということだ、と言った。
「俗人の二柳毛と猫天地には、元々妻がおり夫がいたではないか」
  師のこの言葉で、二柳毛も猫天地も、冷水を浴びせかけられたかのごとく顔面を青ざめさせたのである。
  猫天地は、自分に対して乱暴な仕打ちが多かった夫を思い出した。そこで高らかに、
「あんな奴のところに帰るのは厭だよ」
  と声を響かせたのだが、二柳毛(にりゅうもう)は決してそうではなかったのである。鬱々とこうべを垂れたまま押し黙っている。
  天戒師はそうした二柳毛に言った。
「二柳毛よ。そもそもおまえは、妻の園慕がおまえを慕ってここまでやってきたとき、その妻を入山させてやりたいがため、女といえども仙を果すに足るを証明しようとしたのだ。忘れてはおるまい」
  これを聞いて、猫天地は驚いた。
「毛。それは本当か」
  と、二柳毛につめよった。
  二柳毛はこの問い掛けに、ギクリとして振り返り、その通りである部分とそれだけではなくなってきた部分を説明したいと口を開きかけたが、猫天地(ねこてんち)は急に肩を落としてうつむき、
「いいさ、こっから出てゆくよ」
  ポツッと小さな声で決意をのべるや、弱々しく立ち上がった。

  猫天地は失意のうちに下山する。
  これを中下級の修行者たちが、ひいきの歌姫でももてはやすがごとく周りをとりまき、口々に別れを惜しみつつ見送った。
  彼らに言わせると、二柳毛は女を弄んだ人非人なのであり、一方の猫天地は同情されるべき境遇の渦中にあるから、せめて自分たちがこれからの旅の支度をととのえ、彼女の安全を祈ってやろう、ということになる。
  さて、これに対して上級者たちは、未だ修行の足りぬ輩に張り合うがごとく二柳毛をとりまき、猫天地のような恩知らずを見送る義務などない、とやかましく言い立てたあげく、気の毒な被害者である二柳毛に、天戒師との語らいの場を与えてやろうという配慮をもちだしたため、二柳毛は、めったに弟子が入れない天戒師の居室に導かれたのである。
  天戒師の居室は山の頂に近い南の斜面にもうけられ、開け放した大きな出窓からは、検問所が足下に見おろせる。検問所からえんえんと遠ざかった道の果てに広がる大きな湖まで一望のもとであった。
  師はその風景を前に、入ってきた二柳毛に背をむけたまま、
「長い間、おまえを見てきたが……」
  と、声を放った。
「おまえは義理も口も堅く、かんたんに秘密を漏らしたりしない男だということだけは、よくわかった」
  そこで天戒師はうしろにくんでいた手をほどき、ゆっくりと振り返って憔悴しきった二柳毛と面した。つづけて、
「このうえはこの山をおり、妻のもとに帰ってもよい」
  と、意外な申し出をする。
  二柳毛が驚き、どう答えたらよいかわからず立ち尽くしていると、天戒師は、
「俗人を恥じる必要などない。仙を果すのみが人の道ではない」
  と、力強く言い放ったのである。そして二柳毛に向かって歩み寄り、ただし、と追加した。
「ここまでやってきて、しかも長くとどまったからには、そもそも目的であった医薬を手に入れねばなるまい。病に効く薬をさがしたり作ったりするのも人間としての修行と心得て、これよりは先程おまえが言ったとおり、弟子たちの妨げにならぬよう多少はともに修行をしながら、しばらく山にとどまるがよい」
「それでは……私がここにきたおりのことは」
  ふるえる声で二柳毛が言い出すと、師は、
「盗みを働こうとした罪は罪だ。それゆえ長い奉仕と忍耐によってつぐなってもらったのだ。よいか二柳毛。人の命を救おうと志す者は盗みを働いてはならない。またあのような短慮は害をなすのみで、人の役にはたたない。さらに、薬というものは少しでも使いかたを誤れば、人にとって取り返しがきかぬ毒にもなりうる。これよりは、おのれの短慮をつつしみ、よくよく注意しながら精進するがよい」
「師よ」
  二柳毛の両眼からは涙があふれでた。彼はひざまづいて師の温情に感謝し、床に頭をすりつけて謝意を述べる。
  そうしたところへ、天戒師が今、背にしている出窓から大勢の歌声がのぼってきた。

  海にあっては波に消されて永らえない。
  山にあっては燃え広がって大禍をなす。
  火は、旅にあって燃えつづけるしか方途がない。
  旅に行きおくれた私は、旅をもとめて山をおりる。

「猫天地!」
  二柳毛は叫ぶや、出窓にむかって飛び出していった。そして多くの修行者たちに見送られながら、まさに検問所を出てゆく猫天地の小さな旅姿を見付けるや、体にくくりつけた帯をもどかしそうに解いて背におってある琴をとりだした。

  海辺にあってこそ人は火を焚きおこす。
  大火があればこそ山は生まれ変わる。
  旅にあってはあまたの危険をはねかえす。
  ましてや人の心にともされた火はいつまでも消えない。

  検問所で猫天地を見送っている修行者たちは、夕暮れの山頂をふりあおいでこの歌声をうけとった。仙山を去ってゆく猫天地の耳にもとどいて、彼女もやはりふりかえった。
  しばらく立ち止まっていた旅姿の猫天地は、しかし歌声が鳴りやまぬうちに歩みはじめた。冬枯れて早い夕日をあびる並木道に、琴の音が空高く響きわたってはふりつづけた。その行く先までとどいていた音色はやがて旅人の歩みに追い越され、取り残されたままいつまでもいつまでも流れて時に過ごされていった。


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