「猫天地伝」
作/こたつむり


〈2章〉9p

  すると北国の園扁が怒って攻めて来た。曹鴨は連れてきた軍隊をもって応戦したが北国軍を押し返せず、のみならず援軍にきた笛唐の鳥会図帝の甥が園扁軍に囚われた。
  その後、笛唐と園扁とは一時和睦となったので、曹鴨は人質交換のために自分が北国に追い返され、あげく処刑される事態を恐れ、「君側の奸を除く」と旗印した上で、こともあろうに笛唐の都と皇帝の宮城を襲った。
  噂に詳しい商人は、この曹鴨を予め手引きする勢力がいたとか、夥しい金品がばら撒かれ、これに多くの失業者が呼応して兵士となったとか、見聞きした話をふんだんに話していったが、楽阜にわかったことは、首都がこれらの不満をかかえた暴徒の掠奪を、戦の名目をもって公認する場と化した事、死体は道を覆い、宮城に逃げ込んだ者達をもついに飢えが襲い、篭城すること数ヶ月で宮城もろとも首都陥落、皇帝の鳥会図が殺された事だけだった。
  こうした恐るべき事態に、楽阜の故郷からも人が無理やり連れていかれたり、逆に暴徒や難民がなだれ入ったりで、無事では済まされなかったようである。
「この話を聞いて以来、故郷のことばかりが気になって、我ながら何事にも上の空だ」
「どうすれば『上の空』にならずに済むだろうか」
  楽阜は腕をくみ、実はそれを今も考えていたのだと悩みを述べ、
「気になるものは気になる。気にならなくなるには、一度故郷にもどって知り合いの消息を確かめてくるしか方法が思いつかない。それから又、ここに戻ってくればよいのだ」
「夜盗に襲われる旅になるかもしれないな」
「いや、猫天地」
  と、楽阜は猫天地の両肩に手をかけて、その場にすわらせた。
「俺は口で人にわからせるのが下手だから、うまくわからせる自信がないが、夜盗に襲われなくなるだけがここに来た目的ではなかったようなのだ」
  楽阜の故郷は都のすぐそばにある。都は治安が悪く、物盗りがはびこって物騒つづきだから、近隣に住む者たちは不安このうえない。楽阜の両親兄弟は彼の幼いころ、このような事態にたびかさなって巻き込まれ、次々と命を落とした。それゆえに故郷が気になるといっても、それは家族への心配というものではない。
  みなし子となった楽阜が成人するこんにちまで生き延びてこられたのも、彼の故郷は、彼と似たような境遇のみなし子だらけであり、それらが助けあい励ましあってこられたからである。それゆえ、故郷に戦火がおよんだなどという噂が聞こえてくると、家族と同じぐらい多くの仲間の状態が気になる心のしくみが身についた。
  そもそも夜盗に襲われなくてすむ身になれても、そのまま仙人になろうという気概などさらさら無かった。何か技術のようなものを身にそなえることによって、故郷に住まう仲間の危機を救ってやれるか、同じ技術を仲間に教えてやれるか、何か故郷の仲間にとって良い手だてになりうる直感のようなものを抱いてここに来た。
「そうだったのか」
  猫天地にとってもこれらの事情はたいへんに難しく、頭の中は整理がつかないのだが、胸の中では何かがやたらに熱く燃えたぎり、気付くと目には涙がのぼっていた。
  夜盗に襲われないために修行をするのも立派なことだが、誰かのために我身を役立てたいなどという気分になれるものなら、一度でいいからなってみたいと猫天地には心底思えてきて、ふと、
「二柳毛に相談してみたらどうか」
  と、提案した。
「今日の朝、二柳毛からも、ここに来る前、医者をやっていたという話をきいたのだ。あれも人のために技術を生かす仕事だから、そういう事をしていたあいつなら、こんなときのうまい考えをもっているかもしれない」
  すると楽阜は、やっと愁眉を開いて、そうかと膝をたたいた。二人はさっそく翌早朝、相談におよぶことに決めたのである。
  夜明け前。秋を迎えようとする峰に、虫の音がさんざめく。しつこい薮蚊を追い払うために作られた特殊な薫りをかもしだす粉末を焚火にふりかけながら、二柳毛は二人の話に聴き入った。彼は、修行前にもちこむべきではない世俗の話であるにもかかわらず、はじめから眉間に皺ひとつよせず、熱心に耳をかたむけてくれた。
  しかも終わるや、ひどく感じいり、
「よくぞ打ち明けてくれた」
  と、むしろ礼を申しでたのである。そしてまず、
「師には自分が執り成してやろう」
  楽阜の下山に、積極的な口添えを約束してくれた。
「自分はかつて鉱物の有りかをうろついたために、一生下山をゆるされない身のうえだが、楽阜はそうした秘密を知らないから師もここから出してくれるだろう」
  という二柳毛の言葉のとおり、午後には天戒師より下山の許可がおりたのである。
  楽阜と猫天地(ねこてんち)はよろこび、さっそく支度をととのえて検問所に向かった。ところが待ちかまえていた二柳毛が、
「猫天地には許可がおりてはおらぬ」
  と、今さらに止めた。
  二人はポカンと二柳毛を見詰めたが、すぐに気をとり直して、許可を取り寄せてくれるよう嘆願した。すると二柳毛は、
「猫天地は下山の根拠がはっきりしないし、修行を禁じられているわけでもない。許可の求めようがない」
  と、きっぱり二人の間に差をつけた。
  そう言われてみればその通りだと、楽阜も気がつき、
「都はなにしろ内戦状態と聞いた。敵が、夜盗よりももっと恐ろしい不満兵士や暴行軍人になる場合だってありうるのだから、おまえはここに残るほうが安全だ」
  と一人合点をして、検問所から出ていった。
「もう会えないということはないだろうな」
  二人をへだてる門の内側から猫天地が問いかけると、楽阜は、
「必ず生きて会えるだろう。そのためにもお互い身を鍛えよう」
  とあいかわらず明るい調子で声をもどし、おもむろに背をむけて去った。
  猫天地の脳裏に、旅立ったままこの世を去った父の面影がよぎった。朝霧にすっかり姿を消すまで、猫天地は遠ざかる楽阜(がくふ)の背をいつまでも食いつくように見守るのだった。

  猫天地はひどく消沈した。仙山のいたるところが、まるで見知らぬ土地に思えた。それまでは待ち遠しかった朝、夕の食事がほとんどのどを通らぬまでになった。夜はねむれず、朝の静功では立ちながら涙を流すしまつであった。
  これを見て二柳毛は、我が胸にどっと重いものをおぼえ、慌てたのである。太陽のなくなった世界で、ただ一人月を照らそうとするかのごとく、残された猫天地の世話を陰ながらつとめる羽目におちいった。
  静功中に猫天地が泣きだせば、あやすかのように慰め、畑でひざをかかえだすや、小屋を放りだし駆け付けて彼女の分まで刈り入れに精を出す。猫天地が仕入の計算をおこたりはすまいかと心配で、楽の音を何度もまちがえて師の叱声をあびる。猫天地が痩せおとろえるや、炊事場をしきる先輩たちにたのみこみ粥をつくってひそかに届けてやるまでに奔走した。あげく、ついに過労と寝不足がたたって重い風邪を病み、日がのぼっても床から起きられぬ状態におちいった。
  いよいよ夜明けどきのおそくなった晩秋の東の峰に立ちながら、猫天地は独りしょんぼりと待ったが二柳毛があらわれない。首をかしげながら、やはりしょんぼりと修行場にいく途中で先輩の一人をつかまえて、二柳毛を見なかったかと問うてみると、寝込んでいると教えられる。
  楽阜のいなくなった今、修行など、もはや猫天地にとってはどうでもよくなっている。禁を侵してその日は怠けることにし、そのままひきかえして二柳毛の部屋に行ってみると、なるほど聞いたとおり、彼は粗末な床敷の上で、苦しそうに息をあえがせて横たわっているではないか。それでも彼は、入ってきた猫天地(ねこてんち)の姿を認めるやとびおきて、
「修行場に行け。こんなことをすれば破門されるぞ」
  ところが猫天地はといえば、
「されてもいいよ。そうしたら晴れて都に行ける」


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